左の写真は Pakostaneから南へ70Kmの所にある港町 Spilitの様子です。 ここユーゴスラビア(1982年当時)は社会主義国の中では最も西寄りの国だった。1980年に亡くなったチトー元大統領が旧ソ連の体制に反発し社会主義国の中では独自路線を進んでいた。経済発展の為 ドイツやオーストリア等からの観光客を誘致し又国民はドイツ等に出稼ぎに行っていたのである。
ただ 社会主義国を感じさせる事も多々あった。先ず西側の物資は殆ど手に入らない。乾電池はたぶんチェコスロバキア産だったと思う、日本からウォークマンを持って行ったのだが 単三電池2本でテープが片面しか聞けない コレには本当にまいった。当時日本の一番安い電池でも3〜4時間は聞けたはずだ、それがたったの30分。お金を出しても買える所がないのだ。それと 国際電話事情の悪さは忘れる事が出来ない。 オフの日に町の郵便局から日本へ電話を入れるのに2〜3時間待つのは当たり前、3分ほどの電話をかけるのに4時間以上も待たされた事があった。
社会主義体制が崩壊した現在ではその様な事は無いだろうが。
町ではドイツ語は通じるが英語は殆ど通じない。 レストランのメニューもドイツ語表記はあっても英語版は無かった。 ここに来る観光客は殆どがドイツ語圏の人達だから英語が必要無いと言えばそれまでだが・・。
ここアドリア海の一押しの料理は何と言っても「ムール貝」である。オリーブオイルとニンニクで炒めたムール貝は忘れる事の出来ない味だった。
左から
アメリカ人のジェフ

イタリア人の ジョン ルッカ
フランス人のマリーン

Club内ではフランス語の解らない所を彼らに聞き、 Club の外では彼らにドイツ語の手助けをしていました。
 
スタッフ(G.O.)の集合写真 左上に当時の私の姿が

男も女もパレオを巻いています。パレオが我々の制服でした。
   
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