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孔雀のいる庭
■Blog【孔雀のいる庭】

INDEX
■ 【紫文幻想―『源氏物語』の写本に生きた人々―】執筆宣言!! ■
震災で知った藤原定家・源光行らの思い
―「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に―
東北地方太平洋沖地震で犠牲になられた方のご冥福を、
被害に遭われた方の一日も早いご復興を心よりお祈り申し上げます。
二〇一一年三月十一日、三陸沖を震源とするM9.0の巨大地震が起き、津波が発生して大変な被害をもたらし、
多くの方々が犠牲になられました。
惨状が次々と映し出されるテレビの画面を前に、私は「光行たちはこの思いを
体験していたのだ」と、そのことが重なって思われて
なりませんでした。何かをして助けられるものなら助けたい、
だが、事実はその範疇をはるかに超えている。愛する人が凄惨な壮絶な目に遭っているのに、
何もしてあげられない……
人は、そういうとき、どのような思いなのでしょう。想像を絶する現実が、今目の前に起きているとき、人はどのような
思いでそれを見、どのようにして耐えるのでしょう。
「青表紙本源氏物語」を作った藤原定家、「河内本源氏物語」
を作った源光行……、二人が直面した時代とはまさにこういう現実だったのです。それは、源平の争乱……
寿永元暦などのころの世の騒ぎは、夢ともまぼろしとも、あはれとも何とも、すべてすべて言ふべき際(きわ)にもなかり
しかば、よろづいかなりしとだに思ひ分かれず、なかなか思ひも出でじとのみぞ今までも覚ゆる。
見し人々の都別ると聞きし
秋ざまのこと、とかく言ひても思ひても、心も言葉も及ばれず。まことの際は、我も人も、かねていつとも知る人なかりしかば、
ただ言はむ方なき夢とのみぞ、近くも遠くも、見聞く人みな迷はれし。
これは『建礼門院右京大夫集』の一節です。愛する人、朝夕慣れ親しんだ平家一門の人たちが西海に都落ちしたとき、
都に残ってひたすら酷い現実を受け入れなければならなかった女性の、血を吐くような心の吐露です。
建礼門院右京大夫は細やかに思いをこうして日記に残しました。でも、残さなくても、一門の人たちと親しく接していた
人は誰も皆同じだったでしょう。とかく言ひても思ひても、心も言葉も及ばれず……、そのなかに定家と光行もいました。
定家が三歳だったころ、近所には平経盛邸があって、俊成と歌を交わす仲でした。俊成の娘の子で定家には姪にあたる
女性は平維盛の妻……
光行の家系は祖父の代から平家に仕えており、叔父は源判官大夫季貞という『平家物語』にも度々登場する平清盛
の側近中の側近、父は建礼門院徳子の安産祈願の奉幣使を務めるなどしています。
建礼門院徳子の入内の年、定家は十歳、光行は九歳。安徳天皇誕生の年、定家は十七歳、光行は十六歳でした。
つまり、定家と光行は幼少期から思春期にかけて平家一門の人たちと交わり、平家の王朝文化に染まって成長したのです。
この二人が作った「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」。ここに他の写本にない特別な意味があって当然です。
それは、源平の争乱を間近に見て生きた人の『源氏物語』という……
三月十五日に私は鎌倉で「鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで」という講演をすることになっていました。講演
といっても写真をパワーポイントでスライド編集し、上映しながらお話をするという形式です。スライドはタイトルも含めて
百十枚になりました。準備は万端整えて、後は当日を待つだけになっていました。そこに地震が起きたのです。そして私は
冒頭に書いた「これこそが光行たちが味わった現実」の思いに駆られたのでした。
すぐに私は黒地に白の文字で、① 二〇一一年三月十一日/東北地方太平洋沖地震M9.0発生
② 人がいくら心を痛めてもどうしようもないことがある/天変地異も動乱も容赦なく人を呑み込む/中世にあって源平の
争乱がそうだった。③ 「河内本源氏物語」は/源平の争乱で運命を狂わされて鎌倉に下向した源光行によって作られた/
光行は争乱で亡くなった人達への哀悼を込め/それによってみずからも救われた、
というスライドを三枚作ってタイトルの次に挿入しました。そして、この思いが届けられるよう講演が中止にならないことを
願いました。けれど、計画停電に至っては中止も止むを得ず決定しました。
節電で街の灯りが消え、暗い夜空の下で息をひそめている東京の光景をテレビの画面に見ながら、だんだん私に
わかってくるものがありました。
今この都会で原発の恐怖におののき、被災者の方々を思って途方にくれている私たちは、
そのまま、中世の都にあってひたすら戦禍の及ばないことを祈り、都落ちした平家の方々への痛恨の思いに耐えていた
定家や光行です。
現代はあまりに恵まれ過ぎて私たちはこの暗闇の心を失っていたと思います。暗闇のなかでこそ魂は安らぐのですよとは、
私が文学に挫折して
自信喪失に陥っていたときにある方に言っていただいた言葉です。以来、私の心には暗闇が棲みつき、
その心でもって文学を、古典をみるようになっています。
今まで私は文化の観点から鎌倉の源氏物語文化を訴えてきました。けれど、心の観点から訴えることが必要だったのです。
講演に来ていただいた方からは「思いが伝わってきました」との感想をいただいています。でも、講演にいらしていただく前に、
「何が『源氏物語』だ」と拒否されることが多かったのです。何故だろうとふしぎでなりませんでした。
私たちは現代の世があまりに明るく前ばかりを向き過ぎて、『源氏物語』の暗闇と真摯に向き合う姿勢を失っていたのでは
ないでしょうか。『源氏物語』は華やかな宮廷が舞台です。そこに繰り広げられる光源氏の恋愛遍歴の物語です。忙しい今の
時代、この概要だけで『源氏物語』をみて軽視している風潮がなきにしもあらずではなかったでしょうか。
『源氏物語』の註釈史は平安時代からありますが、定家も光行も、それから本居宣長も、研究はずっと真摯な真面目な
もの
でした。現代においても、作品論にはじまって、作者論、文体論、準拠論等々。『源氏物語』にはそれだけの深さがあります。
ここ数年、私は光行の生涯に託して「鎌倉の『源氏物語』」をまとめようと原稿に取り組んでいました。でも、何故か、
いつも
最終章にくると挫折して完成させられませんでした。けれど、こういうときにこそ文学なのです。
定家や光行はそれをしたのでした。この震災は改めて私にそれを教えてくれました。
今こそ書くべきの思いがふつふつと湧いてきています。(2011.3.20記)
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■上記記事は所属している短歌結社の同人誌『月光』に載せていただく原稿です。次号掲載の予定ですが、
緊急時ですので刊行を待たずにアップ
させていただきます。これを、今だからこその執筆宣言として、
以降、中断していた『紫文幻想 ―源氏物語の写本に生きた人々―』を書き進めつつ、
逐次ブログにアップしていきたいと思い、すでにはじめています。(2011.3.30記)
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■小説・・・【花の蹴鞠】 藤原定家と並んで『新古今和歌集』で活躍した飛鳥井雅経の生涯を追います。(Blog に連載中)
雅経は蹴鞠の名人でした。鎌倉幕府の重鎮大江広元女と結婚した縁で、孫の飛鳥井雅有は北条実時の娘婿に
なっています。何故、『新古今和歌集』撰者の孫が鄙びた東国の片隅の金沢北条氏の家系に? という疑問が
私の探究のすべての原点です。そういうなかで『尾州家河内本源氏物語』と巡り合い、闇に埋もれていた定家や光行ら
の平家との関係も窺うことができました。
■エッセイ・・・【寺院揺曳】中世鎌倉にあった幻の廃寺「佐々目遺身院」をめぐる歴史随想です。
後半では藤原定家の孫冷泉為相の鎌倉における夢窓疎石・高峰顕日ら禅僧や称名寺当主との交流を書きました。
■Photo Gallary・・・【古典と風景】 【中世の遺跡と史跡】 【2008年春 桜】 【孔雀】
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■鎌倉の講演「写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―」 は
「写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『尾州家河内本源氏物語』ができるまで―」と変更して
11月27日に無事終了しました。
これは講演内容を詰めていくなかでどんどん絞られてきて、
『尾州家河内本源氏物語』が
第六代将軍宗尊親王の制作によるものということが
見えてきての結果です。そのために、
鎌倉市街のどこに親王御所があったかも
調べて写真を撮ってきました。
鎌倉の若宮大路中ほどにある雪ノ下教会のあたり一帯が当時の御所でした。
ということは、
そこが『尾州家河内本源氏物語』の生誕地ということになるのです。
スライドを映写して語るという状況が、
このような具体的な場所を割り出させてくれました。
今は雅だった当日の余韻のなかで、その後の展開として
鎌倉の公家文化をもっと皆さまに知っていただくには今後どのようにしたら
・・・を考えています。
学会で発表してみてはとのお話もいただき、そのためのレジュメ作りに入るところです。
これは、五年前に書いた
「北条実時と『異本紫明抄』」と
今年の春に書いた「北条実時と『西本願寺本万葉集』」を重ね合わせて
時系列に並べようとするもので、
北条実時の属する幕府側と、第四代将軍頼経や第六代将軍宗尊親王方の将軍サロンの状況を語る
今までにない鎌倉の文化史を展開できるものになると思っています。(2010.12.19記)
■ 講演のお知らせ ■
「写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―」
を、秋に鎌倉で講演させていただくことになりました。
スライドを映写しながら、鎌倉でも優雅な源氏物語文化があったことをお伝え
させていただきます。
詳細はパンフレットができたときにいたしますが、源氏物語の紅葉の賀にちなんで紅葉たけなわの日程です。
湘南には風雅なお庭をもつ邸宅文化がありました。
近年、さまざまな事情でその邸苑文化が消え去ろうとしているのを惜しむ
方々が
プロジェクトを組んで、
そうした古い邸宅のなかで毎年文化祭を開かれてきました。
私はその鎌倉地域での今年のプログラム
の一環で
お話させていただきます。
鎌倉にも源氏物語という雅な文化があったことに、鎌倉に住む方々が感動して下さり、実現となりました。
当日は源氏物語にちなんで
私
の講演
の他に薩摩琵琶に創作和菓子とお茶のふるまい、
そして華道家の方による生け花・・・と、雅なひとときを過ごしていただく
ようになっています。
6月2日にそれらの方々との初顔合わせがあり、行ってきました。
華道家の方のお花を先ほどブログに載せさせていただきました。(2010.6.5記)
■ 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の執筆状況について
長く更新できずにいた『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の執筆経過と、その後の進展について書かせていただきます。
『河内本源氏物語』写本に生涯をかけた源光行を追うこの原稿は、源氏物語千年紀記念年の2008年刊行に向けて書いていました。
が、途中で間に合わないと悟り、急遽、下に記した写真展に切り替えました。すると、写真によって、それまで文字でしか捉えて
いなかった「時代」「文化」というものが、空間という立体的なものとして浮かびあがり、何故、藤原定家と源光行が生涯をかけてまで
『源氏物語』写本に労力を費やしたかが、実感として理解されたのです。そこには彼らの平家の人々との親密な交流がありました。
これは原稿を書き始めた当初には予測していなかった事柄です。写真という、文字を離れた世界から見てはじめて見えた世界です。
それで、そのままだったら一面的にしか書けなかった光行を、平家との係わりを持った人物として書きなおすことにしました。
それが、上梓の遅れている理由でした。が、それだけなら書きすすめれば順調に完成するはずだったのですが、
大詰めになってまたどうしても筆が進まなくなり、このサイトの更新も滞ったままになっていました。
が、ここにきて、突如として、その理由がわかりました。それは、目下連載中の小説【花の蹴鞠】を書く中で開けてきました。
驚くべき世界が開示されたのです。『紫文幻想』執筆当時に光行の行動に複数の不可解がありました。どうしてそんなことになったのか
それが解明されないと、光行の人間性にまでちょっと首をかしげたくなるくらいの、それは明らかな謎でした。例えば、何故慕ってくる
実朝の懇願を振り切ってまで強引に帰洛したか、何故承久の乱のとき、恩になった鎌倉を裏切って後鳥羽院方についたか・・・などです。
【花の蹴鞠】は光行や定家と同時代に生きた飛鳥井雅経の生涯を追う内容です。物語は今、『新古今和歌集』成立に向けて
世が動きだすあたりを書いています。雅経は定家らとともに『新古今和歌集』の寄人になっています。そこには慈円もいます。
それでふっと思いついて、そういえば『平家物語』編纂の舞台となった慈円の大懺法院の建立はいつだったのだろう・・・と調べました。
するとそれは思いもよらなかったことに、『新古今和歌集』とほぼ軌を同じくしていたのです。
今まで私は漠然と『平家物語』の編纂は『新古今和歌集』が終わったからはじめられたとばかり思っていました。そうではなく、
後鳥羽院は、一方で定家らに『新古今和歌集』の撰集を命じながら、一方では慈円らと『平家物語』の編纂を推進していたのでした。
光行の帰洛はそれに合わせてだったのでしょう。光行は以後、京都で『平家物語』編纂に携わります。後鳥羽院や慈円らとともに・・・。
そうであったからこそ、承久の乱のとき、後鳥羽院方について鎌倉を激怒させたのです。
これらのことが今私の中で生きた世界として蠢きはじめています。何故こんな明らかなことが今まで歴史の闇に埋もれてしまったか。
多くの学者さんが『平家物語』成立について研究されながら、このあたりのことをどなたも書かなかったか。それも自明です。
後鳥羽院が、鎌倉をはばかって、極秘裏に極秘裏に事を運んだからです。それが成功して『平家物語』の成立については、
延慶本が正しいとか、覚一本が先とか、論議がなされたまま混沌とし、確信へと結びつかないできたのです。
書いていていつも思うのですが、「?」と思う不可解の裏には、あえて当時者の隠蔽の意思が潜んでいます。
辻褄が合わないから「?」と思うのです。そこを解明していくと、思いがけない裏の歴史に突き当ります。
これらのことを入れて書けば『紫文幻想』も完成するのですが、あいにく【花の蹴鞠】は連載という形式をとっていますので、
休めません。ここは勢いで【花の蹴鞠】を仕上げてしまって、それからにしようと思います。ただ、雅経の生涯を追う小説ですが、
ここまで『平家物語』についての事実が浮かびあがったのなら、光行をも登場させて、『新古今和歌集』撰集と同時にあった『平家物語』
編纂状況も書いておこうと目下資料集めに入っています。予告しておきながら上梓が延びに延びている『紫文幻想』で恐縮ですが、
こういう事情ですので、まだ当分完成しそうにありません。(2009年10月30日記)
■ 写真展 「写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―」
会期: 2008年8月28日(木)~8月31日(日)
会場: 八王子市学園都市センター第2ギャラリーホール
鎌倉に雅な一級の源氏物語文化があったことはほとんど知られていません。
鎌倉を撮って歩いていた私は、写真を通してこの事に気づき、折にふれて書いては訴えてきました。でも、
《源氏物語は京都の文化》という通念はあまりに深く、
書くだけでは普及に力及びませんので写真展を致しました。
■Blog 【孔雀のいる庭】 に実現までの経緯を綴りました。展示風景も載せています。カテゴリー「写真展」をご覧下さい。
『青表紙本源氏物語』と『河内本源氏物語』成立の背景を探る!!
校訂者【藤原定家】と【源光行】の平家文化圏との関係
『紫文幻想 ―源氏物語写本に生きた人々―』
2008年8月に開いた写真展で、『源氏物語』ができてからの「京都→鎌倉」という流布の経緯を写真で並べたとき、
如何に藤原定家と源光行の文学的環境が平家文化圏で育まれたかを空間的に実感しました。
二人が成した『源氏物語』写本の背景には、王朝文化の具現といわれた平家の公達との交流があったのです。
当初は源氏物語千年紀記念の今年上梓する予定でしたが、写真展での経験を加えて書き直しています。(2008年12月4日記)
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