■はじめに■

書物というのは、それ自体光りかがやく知の遺産を有していながら、みずからの意志を放つ有機的
原動力をもちあわせていないので、
人が、誰かが、手にし、開いて、目を通し、価値を認めて、伝える、
あるいは広める、
そういう行為を経ないと、
どんなに素晴らしい
内容の存在であっても、忘れられ、時間に埋もれたまま、
薄埃をかぶって、朽ちて、失われていってしまいます。
あまり知られていませんが、『源氏物語』は、現在この世に、紫式部が書いた原本は存在しません。
それでも読むことができるのは、
累々と書き継がれてきた写本があるからです。印刷技術のない時代、書物は、
書写する人々の手になる、写本によって広まりました。
鎌倉時代初頭には、もう、紫式部の原文は
わからなくなっていたらしく、そこからいわゆる注釈などの『源氏物語』研究や、書写・校訂が
活発になり、
多くの写本がつくられていきます。
ですから、そこには当然、書き落としや写し違いなどのミスが生じ、また、読み違いからくる文章の変化・変遷、
さらには、
書写する人の意志や思惑まで入っての訂正・変革、省略や加筆までが加わって、幾通りもの本文が
できてしまいました。
私自身、容易に信じ難いことでしたが、それぞれの冊子で文章が違うというおかしな事実が、世界に誇る古典として親しみ、何の
疑いもなく読みふけっていた、『源氏物語』というテキストの裏側にあったのです。同じ一つの作品でありながら、異なる文章の
『源氏物語』が、この世のなかに存在していたのでした。
現在残されている『源氏物語』の写本には、大きく分けて三つの系統があるといいます。京都で成立した藤原定家校訂の
「青表紙本」と、鎌倉で成立した源光行・親行親子校訂による「河内本」と、
それ以外の別本系統とです。呼称の由来は、
「青表紙本」は、定家校訂の写本の表紙が青かったことから、「河内本」は、光行・親行親子がともに河内守だったことからだそうです。
鎌倉時代から室町時代中期に至るまで、『源氏物語』は河内本系統が主流でした。室町中期以降、定家の歌人としての評価が
あがるとともに、青表紙本系統にその座をとって替わられ、
以後、河内本系統の写本は影をひそめていきます。
江戸時代には、名のみで、実態を知る人はいなかったようです。
『河内本源氏物語』の発見は、大正十年(一九二一)、山脇毅氏によって成されました。その後、河内本系統でもっとも由緒正しい
写本とされる、『尾州家河内本源氏物語』の所在が確認されたのが、
昭和五年(一九三〇)。これを山岸徳平氏が調査され、
『尾州家河内本源氏物語開題』
として
刊行されたのが、
昭和十年(一九三五)です。そして、昭和二十年代に、
池田亀鑑氏の『源氏物語大成』が刊行され、河内本系統の本文についての詳細な研究も載せられました。
河内本系統の『源氏物語』が発見されたとき、国文学の世界では、一時的に熱狂が湧き起こったそうです。
というのも、
河内本
さえみつかれば、不明だった紫式部自身の手になる原文がわかるかもしれないという、
ひそかな望みがそこに託されていたから
です。が、河内本も、光行・親行親子による校訂の手が入って
いることが
わかると、急速にその熱は冷めていきました。
そして、現代、活字化され、印刷されて、一般に流布しているのが、青表紙本系統であるために、青表紙本系統の本文だけが
爆発的に広がり、今ではすっかり、河内本系統の本文に注意を払う人がいなくなってしまいました。
国文学の世界でも、研究の対象とする人がいないのが現実です。
おそらく、もう、絶対に、河内本系統の本文が、かつてのように青表紙本系統と並んで、一世を風靡する
ことはないでしょう。
ですけれど、『河内本源氏物語』の校訂に、光行はほぼその生涯をかけていますし、
それでも終わらずに、子息の親行が
引き継いで、それからまた二十年の歳月を費やして、五十四帖の
すべてを完成させています。
何故、光行は、それほどまでにして、『源氏物語』にこだわったのでしょう。何故、光行は、それほどまでの情熱を、
『源氏物語』の校訂という、大変な作業に降りそそぐことができたのでしょう。親行は、父親の何を見て、
それを継承したの
でしょう。歳月の長さが、たんに地位や栄誉を目指してのそれでなかったことを証明しています。
いったいに、書物が忘れ去られるということは、その書物が抱える文化、その書物を内包する時代の真実が、
忘れ去られて
いくことにほかなりません。光行の『河内本源氏物語』の価値が見失われようとしている今、
それに付随して、どういうことが
忘れ去られようとしているのでしょうか。そして、それは、果たして、
ほんとうに忘れ去ってしまっていいものなのでしょうか。
書物を見失うことで、現代の私たちが、
その時代のほんとうの姿を見失っているということは
ないでしょうか。見誤ったり、知らずに終わるということがないでしょうか。
最初に種明かしをしてしまいますが、『青表紙本源氏物語』も、『河内本源氏物語』も、『源氏物語』の二大写本といわれる双璧の
書は、滅亡した平家の方々を偲ぶ心から
生まれました。それが、今まで、闇に埋もれてしまっていたのは、平家の方々が
朝敵となっていたために、定家も、光行も、
口をつぐまざるを得なかったからです。何も語らずに、というより、誰にも何も察せられ
ない
よう
気を配って、
ひたすら校訂作業に没頭したために、外部からは、ただ学問のためにだけそうしているように見えた……。
それでよかったし、そうでなければならなかったわけですが、時代を経ていくあいだに、事実とまったくかけ離れた解釈が、
学問側からだけ見た解釈が、さも真実のように語られて定着しはじめた……。
でも、もうそろそろ、平家の方々ももう「朝敵」ではなくなっていますし、真実を明かしてもいいのではないか
と思います。
といっても、これが真実という確証はありませんが、時系列のなかで、人と人、事跡と事跡をつなげていくと、
「こうでしかない」
状況が浮かびあがってきます。この本の世界は、そうした作業によって見えてきました。
定家も、光行も、平家の方々と、非常に密接に暮らし、恩恵を受けて成長しました。そして、人として、
心から彼らを慕って
いました。口をつぐんだのは、保身もなかったわけではないでしょう。
けれど、
それ以上に、社会が、個人の力では、
もはやどうすることもできないうねりのなかにあったからです。
定家も、光行も、成す術もなく、ただ手をこまねいて、敬愛して
やまなかった平家の方々の滅亡して
ゆく様を、
見ているしかありませんでした。そのときの、そういう立場に立たされた人たちの、
思いというのは、どういうものでしょう。
おそらく、おのれの無力さにさいなまれつつ、おのれを責めて
責めて
責め抜いてなお、
悔恨の解消されることはなかったでしょう。
『青表紙本源氏物語』と『河内本源氏物語』は、そういう二人の手によって、成立しました。「第一部 『源氏物語』と『平家物語』
のあいだに」では、『平家物語』や『建礼門院右京大夫集』から、
平家の方々のエピソードを、たくさん引用させていただいて
います。それは、現代の私たちにとっては、
古典という文学作品のなかの一節に過ぎませんが、
定家や光行にとっては、それこそが生きた現実でした。
この本をお読みいただくにあたって、この引用部分を面倒と思わずに、
心を込めてたどっていただきたい
と思います。
定家と光行が直面した現実、体験した社会、それを追体験していただくために。そうしたら、おのずと、定家が、光行が、何故、
『源氏物語』写本に没頭しなければならなかったか、没頭しているとどういう心境だったかが、おわかりいただけると思います。
『青表紙本源氏物語』と『河内本源氏物語』という『源氏物語』写本の背景には、そうした哀切極まりない心の痛みがありました。
奇しくも、来年二〇〇八年は、『源氏物語』完成の千年紀。そして、『尾州家河内本源氏物語』の完成七五〇周年の記念の節目
の年です。『源氏物語』作者紫式部と、それを世に残すために心血を注いで止まなかった、『青表紙本源氏物語』校訂者
藤原定家、『河内本源氏物語』校訂者源光行・親行親子、そして、『尾州家河内本源氏物語』書写者北条実時に敬意を表しつつ、
心からの感謝の念を込めて、この本の上梓を決意しました。しばし、平安末期の乱世の世から、中世初頭を生きた人たちの、
心と心で結ばれた美しい世界に浸っていただけたらと思います。