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孔雀のいる庭

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■ 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の執筆状況について
長く更新できずにいた『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の執筆経過と、その後の進展について書かせていただきます。
『河内本源氏物語』写本に生涯をかけた源光行を追うこの原稿は、源氏物語千年紀記念年の2008年刊行に向けて書いていました。
が、途中で間に合わないと悟り、急遽、下に記した写真展に切り替えました。すると、写真によって、それまで文字でしか捉えて
いなかった「時代」「文化」というものが、空間という立体的なものとして浮かびあがり、何故、藤原定家と源光行が生涯をかけてまで
『源氏物語』写本に労力を費やしたかが、実感として理解されたのです。そこには彼らの平家の人々との親密な交流がありました。
これは原稿を書き始めた当初には予測していなかった事柄です。写真という、文字を離れた世界から見てはじめて見えた世界です。
それで、そのままだったら一面的にしか書けなかった光行を、平家との係わりを持った人物として書きなおすことにしました。
それが、上梓の遅れている理由でした。が、それだけなら書きすすめれば順調に完成するはずだったのですが、
大詰めになってまたどうしても筆が進まなくなり、このサイトの更新も滞ったままになっていました。
が、ここにきて、突如として、その理由がわかりました。それは、目下連載中の小説【花の蹴鞠】を書く中で開けてきました。
驚くべき世界が開示されたのです。『紫文幻想』執筆当時に光行の行動に複数の不可解がありました。どうしてそんなことになったのか
それが解明されないと、光行の人間性にまでちょっと首をかしげたくなるくらいの、それは明らかな謎でした。例えば、何故慕ってくる
実朝の懇願を振り切ってまで強引に帰洛したか、何故承久の乱のとき、恩になった鎌倉を裏切って後鳥羽院方についたか・・・などです。
【花の蹴鞠】は光行や定家と同時代に生きた飛鳥井雅経の生涯を追う内容です。物語は今、『新古今和歌集』成立に向けて
世が動きだすあたりを書いています。雅経は定家らとともに『新古今和歌集』の寄人になっています。そこには慈円もいます。
それでふっと思いついて、そういえば『平家物語』編纂の舞台となった慈円の大懺法院の建立はいつだったのだろう・・・と調べました。
するとそれは思いもよらなかったことに、『新古今和歌集』とほぼ軌を同じくしていたのです。
今まで私は漠然と『平家物語』の編纂は『新古今和歌集』が終わったからはじめられたとばかり思っていました。そうではなく、
後鳥羽院は、一方で定家らに『新古今和歌集』の撰集を命じながら、一方では慈円らと『平家物語』の編纂を推進していたのでした。
光行の帰洛はそれに合わせてだったのでしょう。光行は以後、京都で『平家物語』編纂に携わります。後鳥羽院や慈円らとともに・・・。
そうであったからこそ、承久の乱のとき、後鳥羽院方について鎌倉を激怒させたのです。
これらのことが今私の中で生きた世界として蠢きはじめています。何故こんな明らかなことが今まで歴史の闇に埋もれてしまったか。
多くの学者さんが『平家物語』成立について研究されながら、このあたりのことをどなたも書かなかったか。それも自明です。
後鳥羽院が、鎌倉をはばかって、極秘裏に極秘裏に事を運んだからです。それが成功して『平家物語』の成立については、
延慶本が正しいとか、覚一本が先とか、論議がなされたまま混沌とし、確信へと結びつかないできたのです。
書いていていつも思うのですが、「?」と思う不可解の裏には、あえて当時者の隠蔽の意思が潜んでいます。
辻褄が合わないから「?」と思うのです。そこを解明していくと、思いがけない裏の歴史に突き当ります。
これらのことを入れて書けば『紫文幻想』も完成するのですが、あいにく【花の蹴鞠】は連載という形式をとっていますので、
休めません。ここは勢いで【花の蹴鞠】を仕上げてしまって、それからにしようと思います。ただ、雅経の生涯を追う小説ですが、
ここまで『平家物語』についての事実が浮かびあがったのなら、光行をも登場させて、『新古今和歌集』撰集と同時にあった『平家物語』
編纂状況も書いておこうと目下資料集めに入っています。予告しておきながら上梓が延びに延びている『紫文幻想』で恐縮ですが、
こういう事情ですので、まだ当分完成しそうにありません。(2009年10月30日記)
■ 写真展 「写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―」
会期: 2008年8月28日(木)~8月31日(日)
会場: 八王子市学園都市センター第2ギャラリーホール
鎌倉に雅な一級の源氏物語文化があったことはほとんど知られていません。
鎌倉を撮って歩いていた私は、写真を通してこの事に気づき、折にふれて書いては訴えてきました。でも、
《源氏物語は京都の文化》という通念はあまりに深く、
書くだけでは普及に力及びませんので写真展を致しました。
■Blog 【孔雀のいる庭】 に実現までの経緯を綴りました。展示風景も載せています。カテゴリー「写真展」をご覧下さい。
■小説・・・【花の蹴鞠】 藤原定家と並んで『新古今和歌集』で活躍した飛鳥井雅経の生涯を追います。(Blog に連載中)
雅経は蹴鞠の名人でした。鎌倉幕府の重鎮大江広元女と結婚した縁で、孫の飛鳥井雅有は北条実時の娘婿になっています。
何故、『新古今和歌集』撰者の孫が鄙びた東国の片隅の金沢北条氏の家系に? という疑問が私の探究のすべての原点です。
そういうなかで『尾州家河内本源氏物語』と巡り合い、闇に埋もれていた定家や光行らの平家との関係も窺うことができました。
■エッセイ・・・【寺院揺曳】中世鎌倉にあった幻の廃寺「佐々目遺身院」をめぐる歴史随想です。
後半では藤原定家の孫冷泉為相の鎌倉における夢窓疎石・高峰顕日ら禅僧や称名寺当主との交流を書きました。
■Photo Gallary・・・【古典と風景】 【中世の遺跡と史跡】 【2008年春 桜】 【孔雀】
『青表紙本源氏物語』と『河内本源氏物語』成立の背景を探る!!
校訂者【藤原定家】と【源光行】の平家文化圏との関係
『紫文幻想 ―源氏物語写本に生きた人々―』
【はじめに】 【あとがき】
2008年8月に開いた写真展で、『源氏物語』ができてからの「京都→鎌倉」という流布の経緯を写真で並べたとき、
如何に藤原定家と源光行の文学的環境が平家文化圏で育まれたかを空間的に実感しました。
二人が成した『源氏物語』写本の背景には、王朝文化の具現といわれた平家の公達との交流があったのです。
当初は源氏物語千年紀記念の今年上梓する予定でしたが、写真展での経験を加えて書き直しています。(2008年12月4日記)
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