寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて 鎌倉佐々目遺身院―
Ⅰ
寺院ということばに、なぜ、こうも惹かれるのだろう。
その疑問が解けたのは栗田勇氏の、【共同体の現実感の構造というものは、
ひとつの「空間」を占めるという行為、あるいは、住居を、共同体としては都市を形成するという行為の構造が、いかに外観上、
生物的な必要性や合理性、または経済上の必然にしばられてみえようとも、かつ、人類が生物として、必然に屈服して
いようとも、その内面において、共同体の自覚的意識において、言葉をかえれば、人間がまさに人間であるための意味と
価値づけにおいては、「空間」とはつねに、「世界」または「宇宙」にかかわる秩序づけを意味していて……】を読んだときだった。
『イスラム・スペイン建築への旅 薄明の空間体験』のなかの文章である。当時、私は絢爛豪華眼も綾なあの無限にのびる
アラベスク文様の世界、イスラーム文化に魅了されていて、そういう方面の著作や写真集にばかり読みふけり、見入っていた。
当然私の脳裡にある寺院はまっ青な空に外壁のタイルがまぶしくかがやくイスファハーンのモスクであり、高い天井のドーム
からさしこむ幾条もの光にこのうえもなく厳かに内部空間が侵食された聖ソフィヤであった。
よく友人と中世とか寺院というような抽象的なことを話題に長々と電話で話をするのだが、そういうとき、西洋美術専攻の
彼女は西洋の中世、ゴシック建築の聖堂を前提に話していて、イメージしている世界や具体的な建築様式がまるでちがうのに
話が通じていることに、ときどき気がついては笑い合う。こんなふうに同じひとつの寺院ということばにも、人によって想定する
建築、その建築のよって立つ宗教、ひいてはその宗教をつつむ文化圏がまるでちがう。でも、考えてみれば、建築という形象、
空間が、「世界または宇宙にかかわる秩序づけを意味」するとしたら、建築のなかでももっとも精神的基盤に由来して建つ寺院は、
その共同体、文化の、かたちの具現そのものといっていいだろう。だから、その人その人の思い浮かべる寺院が、
抱えている、あるいは組みこまれている文化によって、異なる建築様式になってこそ自然なのだ。
廃寺について書こうとして前置きがながくなってしまったけれど、さまざまある寺院の存在形態のなかでも、廃寺こそそうした
文化の中の、共同体のなかの寺院という性格をきわだたせてもっている存在ではないかと、ここのところ廃寺という存在に出会い、
考えさせられる機会が多かったからおのずと思うようになった。廃寺といってもそのありようはさまざまで、住む人、守る人が
いなくなって荒れ果ててはいても、堂宇がまだそこにある場合は立派に寺院として機能した日もあったことが想像できるし、
また堂宇さえあれば、人はそこに佇むときなんらかの敬虔な感興をよびさまされるもの
だから、私の中では廃寺の感覚はない。
ここでいう廃寺は、廃墟となって今は影もかたちもなく、その土地の人たちからかつて存在したことさえも忘れ去られている寺院
のことで、遺跡として確認されているものもあるが、文献にのみ名をとどめていてまだ場所も特定されていず、それどころかその
文献ですら埋もれていて、研究者とか一部の特定の人のほかにはめったに眼にとめられることもないというような寺院も数知れない。
そういう寺院の存在を知り、感興が湧いてというより、どこかよび寄せられるようにして訪ねたりすると、その地域が栄えていた
当時の文化、さらには歴史の消長、その寺院に帰依しこころの平安を願ってやまなかった人たちの切実な思いがつぶさに
思い起こさせられて哀しい。そして、せめて私だけでもその寺院の栄枯盛衰、その寺院にみずからのこころのありようを委ね
生涯を生き切った人たちを知ってあげたい、できるならひとりでも多くの人に知らしめるようにしてあげたいという気持になる。
ここ数年、小説を書くための取材に歩いて、執筆に直接役立つ情報を得るよりも、そうした周辺のもろもろの思いを重ねることの
ほうが多かった。とてもふくよかな重層的な経験をしたと思う。どこまでそれを再現できるかこころもとないけれど、「廃寺」のために、
できるかぎりのことを書いてのこせればと、この連載をはじめるにあたって思う。
廃寺ということばをはじめて実体ある存在としてとらえたのは、遺跡の仕事についていたとき、上司にあたる調査員の人が埋蔵
文化財の研修旅行から帰ってきて、休憩時間にお茶をのみながらその話をきいていたときだった。研修旅行は毎年開かれて
いて、
開催にあたった県ごとにプログラムが組まれ、一日目はシンポジウム、二日目にその県における遺跡の現地見学と決まっていた。
「おおちばとうげはいじ遺跡に行ってきたよ」
ぽんと投げだされた意味不明のことばに、
「え、どこへ行ってらしたんですか?」
と、思わず問いかえしてしまった。
そして説明されたのが大知波峠廃寺遺跡だった。
その年の担当は静岡県で、テーマが山岳寺院だった。大知波峠廃寺
は静岡県湖西市の眼下に浜名湖を一望する峠に
あった寺院で、文献がなにものこっていないので正式の名称はわからない。地名にちなんで大知波峠廃寺と仮によばれているの
だった。山岳寺院とは、字の意味するとおり平地にではなく山上に建てられた寺院であり、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺を
あげるまでもなく今でもそのような寺院は各地に存在する。が、ここで対象としたい山岳寺院は、廃寺でありしかもかつてそこに
存在したことすら忘れ去られているということが前提だから、おおむね古代寺院であるといっていいだろう。
廃寺、山岳寺院、古代寺院と、アトランダムにこう書いてきて、ひと口に寺院といっても括り方でずいぶんさまざまな種類の寺院が
生じるものと今にして思う。廃寺は存在形態、山岳寺院は立地のあり方、古代寺院は時代上からみた分類であり、専門分野を
異にするが、そういうことには関係なく、そのどれひとつをとっても私には興味をかきたてられる存在で、だから私の廃寺への
関心は最初から廃寺そのものにではなく、山岳寺院への憧れからはじまった。
大知波峠廃寺は、いただいたレジュメの年表によると、礎石建物跡より須恵器が出土しているから八世紀後半にはじまったことが
わかる。八世紀中葉、聖武天皇による国分寺建立の詔がだされてから二、三十年ののち、ちょうど最澄が比叡山に延暦寺を創建
した時期にあたる。礎石建物は十世紀中葉、後半、十一世紀前半、後半とつぎつぎと建てられているから、そのあいだに寺院
としての最盛期をむかえているのだろう。しかし、十二世紀にはいってすぐ廃絶したらしい。
八世紀中葉から十二世紀前半という
時代は、天台宗、真言宗の、い
わゆる俗世間を避け山間での厳しい修行を旨とする旧仏教の隆盛期であり、
それはとりもなおさず大知波峠廃寺も旧仏教系の寺院として建立されただろうことを意味する。
こんなふうに山岳寺院は厳しい修行にふさわしい立地条件をもつだ
けに、いくら憧憬をつのらせても簡単には訪れ難い恨み
があった。最初に知った大知波峠廃寺にしてすでに、「私でも行けるかしら」とその上司に問うと、「ちょっと大変かな」と、
まずは躊躇させる返事がかえってきた。レジュメには、「バスを降り、山道を一時間登ります。
革靴では登れません」とある。
だいたい山岳寺院の見学というとこういう注意事項が必ずつく。
平成九年の、南都の高僧徳一によって合津の地磐梯山をのぞむ山麓にひらかれた慧日寺のシンポジウムのときもそうだった。
パンフレットに「全コースとも徒歩になりますので、十キロメートル程度歩ける方」とあり、十キロなら歩けるかもと思いながら、
念のため訊くと、このときはちがう調査員だったが、やはり即座には私でもだいじょうぶと保証する答をしてはいただけなかった。
小説に必要なロケなら勇をふるってなどという気概もなく、危険などといっている暇もなく即行動にでるのだが、山岳寺院は
そういう切羽詰まった状況ではなくただ行ってみたいというにすぎなかったから結局どちらも行かないでしまった。
山岳寺院はそうして関係の資料、著作を渉猟するだけで通過してしまったが、そのなかで、ここから廃寺への関心がはじまった
と思う文章があるから紹介しておきたい。それは、古代・中世の山岳寺院を特集した『考古学ジャーナル』382号中の
「大知波峠廃寺跡について」という湖西市教育委員会後藤健一氏の文章である。
昔より池や礎石の一部が露出していたので、山仕事や境内を抜けて峠に至る「豊川道」
と
呼ばれる里道を利用する地元の人々には、建物跡があることは知られていたが、それが何で
あるのかは、古文書や伝承が残されていたわけではなかったので不明のままであった。
寺院といえば精神上の問題であり、それは堂宇や記録等かたちあるものにたよらなくとも、人が生きているかぎり普遍的に
継承できるものという他愛ない思いこみのなかにいた私は、なにかとても面食らった思いがしたのを今でもはっきり覚えている。
古代といっても何千年、何万年もさかのぼるわけでなく、おそらく廃絶したのは中世のある時期だろうから、そうしたら今から
たかだか数百年ちょっとの昔であるにすぎないのに、そんなにもはやくたやすく人はすべてを忘れうるのだろうか。今思い起こして
みるとそれはやはりショックだったのだと思う。大げさないい方かもしれないが、人類というものにたいして漠然といだいていた
信頼がそのときぐらっとゆらいだ気がしたのだった。が、それとはべつに私はこの一文にふしぎな魅了を覚えていた。人は忘れて
しまっているのに、地はしっかりと守りつづけていたのだ。池や礎石や、そしてかつてそこに寺院があった記憶を。
ふしぎな土地……。
それが私の胸をとらえた。そう、あきらかにそこはたんにどこにでもある、山があって、岩があって、土があって、木や草が
生えて風景をなしている土地とはちがうのだ。人がかつて造営し、置き去りにしたものをそのまま自然の一部として擁し、擁する
ことでそのときその場に人が生きた歴史を生活を生のままでとどめているのだ。おそらくそこはかつて人によって造作のなされた
ことがない土地と
はちがうはず。なぜなら、地には人の息吹がかかり、踏みしめた足のぬくもりがのこり、火が焚かれ、水が流され……、
そうしたものの余韻を今でもはぐくんでいるのだから。そんな思いがずうっと尾をひいて、廃寺というものを特別の感慨をもって
訪ね歩くようになった。第一回として鎌倉にあった佐々目遺身院を書くつもりだったがとうとうそこまでたどりつくことができず、
予定の紙数が尽きてしまった。だからそれは次回にまわすことにして、山岳寺院を語ったならこれだけは書いておきたいと
思う寺院があるので、そのことを。
滋賀県大津市の三井寺と京都をむすぶ山中に如意寺という山岳寺院があった。三井寺の別院で、平安時代に創建され、
応仁の乱のあと廃絶していったという。きわめて良好な遺構がのこっていたために、ここの発掘調査によって山岳寺院の
伽藍配置の全容がはじめてあきらかになったという遺跡である。三井寺(園城寺)には五幅の「園城寺境内古図」がのこされ
ており、 そのうちの一幅が如意寺である。京都の側からみた構図で、滝や石段等、
今もそのままの風景のなかの伽藍配置は、発掘調査の結果とまったく一致するという。
こうしたサスペンスの謎を解くようなわくわくする面白さとは別に、この寺院が私にとって忘れられない存在となったのは、
ここがかの俊寛僧都らが平家打倒の謀議をはかった鹿の谷の地だったから。このことは、山岳寺院の関係の著作を読みあさって
いるあいだにはどこにも触れられていなかったから、気がつかなかった。『平家物語』について調べていてみつけたのだった。
如意寺? どこかできいたことのある名前だけれど……、と気になった。山岳寺院として読んでいたのだった。
梶原正昭氏の『鹿の谷事件』には、
かつてはそこから如意が岳を越えて三井寺の北院に達する間道があり、〈如意越え〉と呼ばれて
いたが、如意寺の古図には、京都からの入り口に当たるところに鹿の谷門が描かれ、
その奥に談合の滝があり、そこが俊寛の山荘があった談合の地の跡と伝えている。
とある。改めて如意寺の資料をとりだしてみると、以前はただ山麓一帯にひろがる伽藍の規模におどろいてだけみていた
絵図が、思いがけないふくよかな有機的な感動をともなって眼にとびこんできた。古典は、歴史という背景をしっかり把握して
読むのと、ただ心象にひたってだけ読むのとでは奥行きの深さがまるでちがう。歴史学の世界では、文献学と考古学の双方の
情報を交換する必要を感じて、網野善彦先生をはじめとする方々のご尽力でもうだいぶまえから交流が盛んになっている。
何年かまえから文学と工学という異質の分野の先生方の交流を旨とする学会をのぞかせていただいているが、たとえば古代
道と高速道路の関係等、眼のさめるような発表がとても楽しい。願わくば文学と歴史学というようなフィールドでもそうした情報
交換の場があったらのぞかせていただけないかしらなどと、今度の経験でつくづく思ったのだった。