寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
Ⅱ
その古い指図に出会ったのは、神奈川県立金沢文庫の「金沢文庫の名品50選」展の展示においてであった。指図という
のは、法要等儀礼の場における席次や室礼配置をあらかじめ描いた絵図のことで、現代の「さしずする」ということばの語源
にもなっている。北条実時創建の金沢文庫は、同じく実時建立の称名寺と隋道でむすばれた奥にあり、
称名寺には結界図とよばれる元亨三年の記載がある詳細な境内図がのこされている。
称名寺は今でこそ整備されて朱塗りの橋が苑池にかけられ、美しい浄土庭園を擁する寺院になっているけれど、昭和の
はじめのころはまだ樹木が生い茂り、池は水草に埋まって、その鬱蒼としたようすに、とてもかつて結界図に描かれたような
堂宇が建ちならぶ立派な寺院が存在したとは信じられなかったという。昭和五十年代からはじまった発掘調査で池の中央の
中島や橋脚が出土し、結界図の正しいことが証明された。遺跡の仕事に就いて、その遺跡が中世のものだったから中世という
時代に興味をもち、中世資料の宝庫である金沢文庫にはほぼ展示替えのたびに訪れていた。だから、その結界図にはかなり
なじんでいたが、それとならんで展示されていたそれより小ぶりの指図をみるのははじめてだった。「佐々目遺身院」とあり、
その伝法灌頂図であった。佐々目遺身院というのも初めてきく名で、寺院らしくない響きに、これがふつうの寺院の名前?と、
違和感を覚えた。けれど、それがあったから逆に佐々目遺身院が私のなかに特別のものとして印象づけられたのかもしれない。
ともかく私と佐々目遺身院とのかかわりはそんなふうにしてはじまった。というか、その程度のはじまりだった。
昨年暮れのある日の未明、ふと眼がさめてしまった私はそのまま起きて、書きのこしていた「白拍子の風」最終回の最後の部分
を書いてしまうことにした。数時間はたったと思う。書き終えて時計をみたら、まだ九時をちょっとまわったばかりのところだった。
外は気持がいいくらいに晴れていて、窓からいっぱいに神々しい朝の光がさしこんでいた。こういう日にはと、なにか記念になる
ことをしたくなり、思いついたのが佐々目を歩くことだった。廃寺散策というこの連載をはじめることをすでに決めていたから、その
第一回目にと考えたのだった。ほんとうはべつにもっと強烈に私にインパクトを与えた寺院があり、
初回はそれをとりあげるつもりだったのだけれど・・・
場所は、いつか訪ねてみたいと思っていたから、鎌倉をよく知る方にうかがってあった。鎌倉には貫達人氏編纂の『鎌倉廃寺
事典』があり、それに添付された地図が便利ということも教えていただいてコピーしてあったから、それをもってでた。佐々目は
今の地名では笹目になっていて、鎌倉中心部と長谷をむすぶ通りのほぼ中ほどに位置する。通りをはさんだ反対側が由比ガ浜
といったらわかりやすいだろうか。佐々目遺身院は佐々目谷の奥にあったとされ、廃寺事典の地図に記された場所も通りから
はいった道の尽きるあたりになっているが、じつはまだその位置は確定されていない。だから、訪ねたからといって、
たしかに佐々目遺身院にたどりついたという確証がもてるわけではないのだけれど……
江ノ島電鉄長谷駅でおり、大仏で有名な高徳院へむかって歩きだすとすぐのところに交差点がある。そこをわたって右へ
まがる。まがらずにまっすぐすすむと高徳院、左へいけば長谷寺である。数分で消防署のある角にさしかかった。その角を
まがったところに最初の目的地甘縄神社はあった。この甘縄神社のほうに佐々目遺身院よりも当初私の関心はあった。
というのも、中世を知るために集中して読んだ本の一冊に網野善彦先生の『蒙古襲来』があり、
そこに描かれた安達泰盛
という人物に惹かれてしまったからで、その後べつの解釈をした人間像を耳にしたりもするけれど、最初に焼きついた高尚な
イメージは今もって変わらない。網野先生は、実時と親しくともに時頼の信任のあつかった泰盛を評して「正統的な儒学と古典の
教養を身につけた好学の政治家」と書かれた。書道に堪能であったとも。そのような人物だから弘安の改革とよばれる徳政を
行い得たのであり、霜月騒動でほろんだあとも、彼を追憶する地方武士の人望はいっこうに絶えなかったと、章をあらためて
までしたためられた。そういう泰盛のゆかりの地、甘縄を、だから一度訪ねてみたいと思っていた。
神社は思っていたよりずっと明るくひらけていた。霜月騒動でほろぼされた一族の地というからには、どれほど不穏な気配に
満ちた地かと、訪ねるのが怖い気がしていたが、その思いはあっけなくくつがえされた。こじんまりした社殿が、樹木の茂る
見輿ケ嶽を背景に、石段をのぼりきったところにひっそりとみえていた。入口付近にある石碑には「足達盛長邸址」とあり、境内
には「時宗公産湯の井」との標識がたつ井戸があった。北条時宗の祖母は安達一族の女性で、泰盛の伯母にあたる人だから、
泰盛が幾度となくこの地を踏んだことはたしかだろう。甘縄における泰盛の邸宅は、遺跡地図によると神社の南東にあった
らしい。それで
みまわしても、周辺には民家が建ちならぶばかりで、とても往時をしのぶよすがなど見出せる状況ではなかった。
遺跡とかなにかのゆかりの地を訪ねて、思いきり雰囲気にひたりたいと思っても、だいたいにおいてそこには現代の殺伐とした
風景がかぶさってしまっているから、こんなことなら家にいて想像しているほうがよほどよかったと後悔するはめになる。最初の
ころはそれで疲れてだけ帰って、行っても無駄と何度も思った。それでもなおでていくのは、自然がのこっているからだ。この
場所に立つと山はあんなふうにみえるんだ!とか、資料を読んでいたときにはわからなかったけれど、ここに川があったんだ!
などの発見が行くとかならずある。それははっとする一瞬で、そこから
突然ものがみえてくる。
こんなふうだったから、ああいう歴史の流れになったんだというような。
地形は、そこに立ってみなければわからない。等高線をみただけで風のそよぎを感じとれる人がどれほどいるだろう。風の匂い、
光の色はほんとうにその土地その土地でちがう。行き慣れた場所にいくと、車窓からさしこむ光の感覚で、ああ、近づいている、
とわかってくる。現地に立ってはじめてそこに生きた人の息吹を実感することができる。泰盛が甘縄に居をかまえていたことは
読んでいたけれど、甘縄の地があんなふうに見輿ケ嶽に見守られるようにしてひろがっていることまではわからなかった。
見輿ケ嶽から鎌倉の中心部があんなふうにしてみはるかせるまではわからなかった。見輿ケ嶽の名前は、「見越す」に由来して
いるのだ。霜月騒動のとき、この地はすでに子息にゆずられていて、泰盛自身はべつの場所で騒動の勃発を知り、鎌倉へ
かけつけて討たれたのだけれど、ここにいた一族の人たち、参戦することもあたわずただ手をこまねいて心配することしかでき
なかった女たちは、どのような思いであの山から中心部を眺めやっていたのだろう。
泰盛の邸宅については、以前鎌倉の御成小学校の発掘で北条得宗家に近い有力御家人の家と思われる武士の館跡があら
われ、それが『蒙古襲来絵詞』に描かれた泰盛の邸宅かと推察する論文をとても興味深く読んだ。
龍泉窯青磁酒会壺や景徳鎮
窯青白磁梅瓶など、最高級の貿易陶磁がおどろくほど大量に出土したその発掘面は、十四世紀初頭に火災があって廃絶
したのだが、その火災は新田義貞による鎌倉攻めによるものとされていた。しかし、霜月騒動によるとの見方もできるのではない
かという問題提示の論旨だった。そうだとすると、安達泰盛の邸宅だったということができる。
『蒙古襲来絵詞』は別名『竹崎季長絵詞』といい、肥後国の地頭竹崎季長が、蒙古襲来の際にたてた戦功にたいする恩賞を
不服として鎌倉にのぼり、安達泰盛に直訴してみとめられる経過を描いた絵巻で、そこに泰盛邸で季長が泰盛と対面している
場面が描かれている。石井進先生は絵巻の末尾の永仁元年という記載に留意し、この絵巻の制作動機は季長の泰盛に
たいする追慕の念からだと推測された。日付の二月九日はまだ正応六年なのに、あえて永仁元年と
記したのは、それが泰盛を討った平頼綱がほろびた年だからと。泰盛の死から八年たっている。
蒙古軍のリアルな描写で有名なこの絵巻の成立にそんな事情があったなんて。歴史の遺物はたんに私たちに往時のようすを
垣間見させてくれるだけでなく、人の思いの深さをも知らしめてくる。泰盛の邸宅かもしれないその遺跡は今小路西遺跡と名づけ
られ、埋め戻されて、地下の遺構をこわさないよう配慮された位置に新しい校舎が建っている。発掘がまさに行われていた当時
私はまだ考古学の世界と無縁で、その遺跡について知識を得たときにはすでに終了していたから、遺構の上には一度も立って
いない。だから、未練がましく、鎌倉中央図書館の真向かいにあるその場所を、図書館を訪れるたびに、
生垣越しについつい首をのばしてなかをのぞいてしまう。ちょっと恥ずかしいのでこそこそと。
石段をのぼり、甘縄神社の社殿を拝して、崖の際まで行って立った。遠くに海がみわたせた。三浦半島がくっきりみえていた。
トンビの群れがふたつ、のんびりと旋回しているのがみえた。三浦半島は、宝治の乱とよばれる合戦で安達一族がほろぼした
三浦一族の根拠地である。三浦氏には私のすきな和田義盛という人物がいる。父は杉本義宗で、鎌倉と六浦をむすぶ街道
沿いの杉本城を居城としていた。十七才のとき義宗が戦死したため祖父の三浦義明のもとにひきとられ和田の地を与えられた。
義明が居住していたのは衣笠城で、それはちょうど三浦半島の東京湾側の横須賀と、相模湾側の葉山をむすぶ線上の中ほど
の位置にあたる。和田の地は葉山に近いところにあり、義盛は和田と衣笠を行き来して、義明から武将としての術と心構えを
教えこまれたという。長じて源頼朝の信任を得、幕府の初代侍所別当となった。
義盛については、若命又男氏の『和田義盛─浄楽寺仏像の願主』に詳しいが、この本は私家版でどこの図書館にもあると
いうわけでなく、探して、横須賀の図書館でやっとめぐりあうことができた。浄楽寺についてはまた触れることがあると思うから、
ここでは多くを語らないが、和田は今、秋谷という地名になって、その秋谷に隣接する芦名という場所にある寺院である。
明治生まれの若命又男氏はすでに故人となってしまわれたが、秋谷の郷土研究史家でいらした。
視界いっぱいに海をのぞむ国道百三十四号線沿いに今でもひっそりと建つ浄楽寺は、和田義盛が願主なのだが、それは
長いあいだ知られていなかった。浄楽寺には鎌倉時代初期の作の阿弥陀三尊、毘沙門天、不動明王等五躯の仏像がまつられ
ていて、昭和三十四年の調査で毘沙門天像の胎内から、願主和田義盛、仏師運慶と記された銘札が発見された。鎌倉に運慶
作の仏像はのこっておらず、浄楽寺の仏像は後世に補修がほどこされて、とうてい運慶の作とは思えない尊像になっていたから、
これは相当衝撃的な発見だったらしい。そのときの調査に立ち会われた久野健氏が、その感動とおどろきをどこかに書いて
いらしたのを読んだが、若命又男氏もまた、この感激によって、うすれかけていた和田義盛にたいする少年時代の敬慕の情を
よみがえらされ、『和田義盛─浄楽寺仏像の願主』の執筆にとりかかられたのだった。
私も、勇猛果敢でどちらかというと無骨な武人一辺倒でしかなかったはずの義盛に、このような文化の面での功績がのこされ
ているのは意外だったが、義盛にはたしかにこういう一面があって、鎌倉と峠をへだてた向こう、六浦にも、浄楽寺よりもっと
古く、和田義盛造立ではないかといわれる寺院(廃寺)がある。石井進先生によると、六浦に義盛の居館があったらしい。
和田の合戦で義盛がほろびたあと、実時の父の実泰がこの地を拝領し、それを実時が相続して称名寺を建てた。
話がそれてしまいそうなので六浦のことはこれだけにとどめるけれど、こんなふうに、義盛には寺院と関連の深い形跡が多い。
そして、ふしぎと女性とのかかわりのエピソードが眼をひく。ふしぎとというのは義盛にたいして失礼かもしれないけれど、背が低く、
美男だったわけでもなく、また物腰が洗練されていて女性の気をひくとか、そういったこととおよそ正反対の義盛なのに、なぜか
艶っぽい。遊女を母としているからだろうか。ととのった家庭に育っていないことからくる不安定感なのだろうか。永遠になにかを
求めてやまないのだ。欠けているものを埋めるために。慈円がそうだった。源頼朝もそうではないかと思う。
立派な家庭に育ち、それを継いでつとめあげた安達泰盛にはこういう揺らぎはない。
あるのは凛々しい安定感……
これはまったくの伝承らしいけれど、義盛の女性に関するエピソードをひとつ。巴御前という女性は木曽義仲の愛妾で、
義仲にしたがって参戦し、勇ましく戦ってきたが、いよいよ最後というときになって、義仲に女をともなって死んだと思われるのは
不名誉だからと説得され、泣く泣く別れて生きのびたという運命のひとなのだけれど、義盛がこの巴御前を妻にしたという。
理由はこういう強い女の血をひく子が欲しいからと。まだ歴史のなかの女の扱われかたに慣れていないときにこれを読んだ
からびっくりしてしまったけれど、伝承とはいえ、こういうことがあってもおかしくない人物として、和田義盛の存在がある。
義盛を考えるとき、私にはいつも義盛が馬に乗って和田から衣笠城へ、六浦から鎌倉へと馬を馳せる
すがたが思い浮かぶ。馬のひずめの音がきこえる気がする。
鎌倉へ行くのに横須賀線をつかわないであえて京浜急行に乗り、金沢八景駅から朝比奈の峠をとおり、杉本城があったあたり
の杉本観音のまえをとおって鎌倉へぬけるバスに乗る。峠にさしかかったあたりで、一瞬だけ、六浦の街と海がみえる地点が
ある。それをみるためだけのためにバスに乗っているようなところがあるから、いつも近づくと見逃さないよう緊張し、過ぎたあとは
ほっとして、背もたれにゆっくりくつろいで、義盛もあの景色をみただろうかという思いにひたる。佐々目遺身院は鎌倉時代中期
の建立だから、義盛の時代にはまだなかった。実時や泰盛がこれから執権北条時頼のもとで活躍してゆくことになるという年齢の
ころ創立なった。それは、佐々目遺身院が、時頼の兄経時が執権職にありながら早逝をとげ、
佐々目の地に葬られたことを契機としてできたからである。