寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―


 さて佐々目遺身院だけれども、「鎌倉廃寺地図」によるとその場所は佐々目ケ谷にあり、そこは甘縄神社をでてもどったところ
のもとの通り(この道は「吾妻鏡鎌倉地図」では長谷小路とある)をさらにすすみ、まがり角が二又になっている地点にさしかかっ
たら、手前のほうの道をまがって突きあたった奥にあたる。「鎌倉廃寺地図」では、長谷小路から北側へのびる道は、最初の
大仏方面の道と、この二又の道しか描かれていない。先刻の甘縄神社に行 った道も書かれていない。この二又になった道の
あるあたりが笹目で、じっさいに歩くととちゅう鎌倉文学館へはいっていく道があったりするから、佐々目遺身院
だけを目的にいくなら長谷までいく必要はなく、和田塚か由比ガ浜駅でおりればいい。

手前の道は佐々目ケ谷で尽きているが、もう一方の道はずっとのびて佐助ケ谷を尽きぬけ、さらに化粧坂へと至る。化粧坂
から亀ケ谷切通しをとおってぬければ、そこは建長寺や円覚寺がある山ノ内だから、佐々目遺身院の僧たちもひんぱんに
往来されたのではないだろうか。佐助ケ谷には松谷寺、蓮華寺、無量寺など廃寺が密集しており、金沢文庫と同じような武家
の文庫があったという松谷寺を探して一度歩いたことがある。が、松谷寺があったところは入口で住宅地と化していたから、
谷戸の面影はまるで感じられなかった。金沢文庫が現代までひきつがれてのこっているのに対し、松谷文庫が存在したこと
すら忘れられているほど消え失せてしまったのは、鎌倉の滅亡時に運命をともにしたからだろう。
朝比奈の峠をへだてた六浦や金沢までは戦火はとどかなかった。

鎌倉の中心部、鶴岡八幡宮のすぐ眼のまえに居をかまえていた実時は、一度ならず火災にあって大切な典籍類を失って
いる。当時の典籍といえば貴重なことこのうえもなく、所蔵している人を手を尽くして探しだし、信頼を得て借りることができた
あとはみずから、あるいは誰かに書写させて、そうして集めたものだった。そういうものの灰燼に伏すのを眼のあたりにした思い
はどんなだっただろう。その苦い経験から実時は文庫を鎌倉から離れた金沢の地、氏寺である称名寺に隣接して建てた。
しかもさらに念を入れて例え称名寺で火災がおきても類焼をまぬがれるように山一つを隔てて、あいだを隋道でむすんだ。
松谷文庫がのこっていたらどんな文庫だったのだろう。
ここには乗一というひとりの学僧がいたことがわかっているから、興味津々なのだけれど。

実時のような学問にいそしむ武士が鎌倉にはたくさんいた。鎌倉の武士たちは、頼朝もそうだったけれど、文化、教養の面
で京都に劣っていることを悲しいほどに自覚していたから、学ぼう、追いつこうと、摂取の気鋭に燃えていた。それが潔い
武士の精神とむすびついて禅宗を受けいれ、鎌倉特有の凛とした文化をつくりあげた。このあたりの動向をみると、歴史を動かし、
ときには人を悲劇におとしいれることも辞さなかった男たちの内面が、じつは涙ぐましいまでに切実だったということが感じられて、
いつも胸が熱くなる。いとおしさを覚えてしまう。松谷寺のあったあたりに迫る尾根があり、あのとき、今まさに沈まんとする夕陽の
最後に放つ光のまぶしさに眼のくらむ思いをしながらみつめた記憶があるが、その尾根の先がつづいて佐々目ケ谷をつくり、
甘縄神社の裏山の見輿ケ嶽となって尽きているのだった。佐助ケ谷は佐々目ケ谷よりずっと規模が大きいから、笹目から
山ノ内までとおして歩いてみたらおもしろいかもしれない。笹目に白磁の水注と皿、天目茶碗、銅製銚子が納められていた
めずらしい埋納遺構が検出されているのをきいていたから、松谷寺を訪ねながら笹目というのはこの奥かしらと、その方角を
それとなく気にして歩いた。あのとき未知だった領域が今こうしてすっきりする。こんなことが机上の学問でも、じっさいの探索でも 、
醍醐味ではまってしまうのだ。ほんとうにすべてがつながって円環をなすのは不可能にしても。

笹目にゆきつく道すがらに話をもどすと、長谷小路を歩いているあいだじゅう、ときに近づき、ときに離れ、左手に尾根がついて
きていた。谷戸の奥ということは尾根にかこまれるようにしてあるということだから、尾根が道筋まで迫ってきて、あ、近いかな、
あの下あたりが佐々目、と思ったとたんまた離れていったりした。横断歩道と信号のある笹目の地点にたどりついたときには、
すっかり遠のいていた。角をまがって奥まったところ、遠のいたと思った尾根に再び出会うその麓に佐々目遺身院はあった……

前回、佐々目遺身院は北条経時が佐々目の地に葬られたことを機縁として建立なったと書いたが、経時の墓所と遺身院が
関係あったことを直接記す資料はない。櫛田良洪氏『真言密教成立過程の研究』に、北条経時が没し寛元四年潤四月
二日佐々目山麓に墳墓が設けられ翌宝治元年四月に梵宇の供養が行われた。この佐々目の寺は従来直ちに長楽寺で
あると考えられたが、これは却つて遺身院ではなかつたろうかと考えられる位である。(中略)殊に経時の子息頼助がこの
遺身院に住して佐々目頼助と号したのは父経時以来の深い関係があつた為めであると思われる。とあり、また、金沢文庫特別
展図録『仁和寺御流の聖教―京・鎌倉の交流』には、頼助が、鎌倉で生活した場は佐々目遺身院であった。遺身院は、
由比ケ浜の北の佐々目の麓に経時の墓所に建立された寺であった。とある。

櫛田氏のご著書は昭和三十九年発行、金沢文庫の特別展は平成八年だから、そのあいだに推測から断定へと移行するに足る
どういういきさつがあったのか門外漢の私にはわからないけれど、ともかく子息が墓所近くの寺院に住したのなら、その寺院は
墓所の主と関係の深いものとみなしてまちがいないだろう。こういうきっかけでもなければ親身になって眼をとおすこともないだろう
からと、貴志正造氏訳注『全譯 吾妻鏡』をひもどいた。以下、その条項を抜き書きすると、

 寛元四年閏四月(1246)
  一日 今日、入道正五位下行武蔵守平朝臣經時卒す。
  二日 禪室を佐々目山麓に葬りたてまつると云々。
  寶治元年三月(1247)
  廿日 故武州禪室周?の佛事なり。かの墳墓の梵宇、今日供養を遂げらる。
宰相法印信助導師たり。左親衞・松下禪尼以下聴聞す。緇素群を成すと云々。
寶治元年五月
十三日 御臺所遷化す。(中略)左親衞の乙妹なり。
十四日 御臺所を佐々目谷の故武州禪室の墳墓の傍に送りたてまつるなり。
寶治二年三月(1248)
廿九日 左親衞、佐々目谷の堂において、故武州禪門の第三年の佛事を修せらる。
導師は般若房律師と云々。また千僧供ありと云々。
正嘉二年三月(1258)
廿三日 故武州十三年の佛事として、佐々目谷の塔婆を供養せらる。
導師は壽福寺の長老悲願房朗譽。

と、これらのことがある。経時はまえにも書いたように時の執権北条経時。享年三十三歳。梵宇は寺院のこと。左親衞は弟の時頼。
執権職を継いだこのとき二十歳。松下禅尼は兄弟の母。緇素というのは僧侶も俗人もという意味。御臺所は兄弟ふたりの妹で
将軍頼嗣に嫁していた。このとき経時に仕えていて、そのまま時頼に、そして幕府の重鎮として時宗を背後で支えることになる。
北条実時は二十三歳、安達泰盛は十六歳だった。時宗はまだ生まれていない。実時はこの翌年父実泰からゆずり受けて六浦荘
を継ぎ金沢氏を名のる。金沢北条氏のはじまりである。称名寺はこの金沢の地につくられるのだが、今の横浜市金沢区である。

  参列者のなかにいただろう実時や泰盛が、このときどういう立場でどういう動きをし、どういう心境でいたか、『吾妻鏡』は小説では
ないから描写しないが、想像するときっとこらえた表情の剛健かつさわやかな青年像が浮かぶ。佐々目遺身院の名が初出するのは
この『吾妻鏡』らしいけれど、おそらく宝治元年三月条の「かの墳墓の梵宇」がそうなのだろう。これは経時一周忌のときの記載
だから、一周忌に向けて堂宇を造ったと考えられる。前年の逝去のときは山麓に葬るだけで、堂宇らしきものはまだなかった。
一周忌にまにあうよう完成させたので落慶供養ができたと読んでいいのだろう。時頼以下僧俗合わせて大勢の人が参列したという。
千僧供がおこなわれたというからにはかなりの規模の構えだったのだろうか。
千僧供がそのまま千人の僧を意味するのではないにしても。

  櫛田良洪氏は著作のなかで、「遺身院の寺中には上乗院宮益助や、下河原宮益性法親王のような竹園の尊貴な宮さえ擁して
いたのを見ると、その寺構は余程大きな寺であつたろうし、御影堂・灌頂堂まで立派に具わっていた記録もある」といわれる。
『仁和寺御流の聖教』では、「遺身院の建物は、金沢文庫保管の指図から住宅風の建物に空海を祀る御影堂を付設していた」
と記される。この両者から佐々目遺身院の風貌はみえてこない。第一、「余程大きな寺構」と「住宅風の建物」ではイメージが一致
しない。では、佐々目遺身院はほんとうはどのような規模のどのような建物だったのだろうか。
それを探るには、指図に直接あたってみるしかない。『金沢文庫資料全書第九巻 寺院指図篇』にのせられている指図は四紙で、

 ●53 永仁六年十二月(1298)
    伝法灌頂図(三摩耶戒道場圖) 遺身院上乗院宮
 ●54 永仁六年十二月
    伝法灌頂図(初後夜道場圖) 遺身院上乗院宮
  ●55(推定)応長元年八月廿八日(1311)
    印明図 自上乗院宮返給了
  ●56 元亨三年五月八日(1323)
    伝法灌頂図(三昧耶戒作法圖) 佐々目御坊

である。(頭注の数字は資料全書のまま)。永仁六年銘の指図がもっとも早く、最後の元亨三年銘の指図とのあいだには
二十五年の開きがある。永仁六年にしても、経時の死去から五十年たっている。いずれも経時の供養にかかわるものでは
ないから、指図から創建当時の佐々目遺身院の面影をしのぶことはできない。だが、建物の規模は明示されているわけだから、
一応それを記すと、

3・54 東西六間南北六間、西南に三間二間の突出
55 東西七間南北三間、北に二間の突出が二個
56 八間三間(方位記入なし)となる。

  ばらばらにみえるが、56の八間がもし東西ならば、東西だけをみると53・54が九間、55が七間、56が八間となり、また、
南北は、53・54が六間、55が五間、56が三間と、すべて永仁六年の指図の規模の九間六間の内におさまることになる。
金沢文庫図録『鎌倉の寺院図』には遺身院の項に、「この図によって、明らかになったのは、従来、京都では確認されていた
邸宅風の寺院を鎌倉の地において指図という具体的な姿で確認できたことにある」とある。京都で確認されていた邸宅風の寺院
というのは、具体的にどの寺院をさしていうのか、いずれ知りたいと思うのだが、指図から知り得る佐々目遺身院はたとえば
建長寺とか円覚寺とかの、鎌倉を代表する立派な構えの寺院ではなく、邸宅風の造りの寺院なのである。けれど、甘縄には
永仁五年の閏十月に大きな火事があり、一帯が大焼亡という記録があるから、翌六年の十二月の指図はあるいは伽藍喪失後の
仮の建築ということも考えられる。だから、指図の寺構が立派でなくても、創建時からそうだったといい切ることはできない。
が、これについては『吾妻鏡』の記載のしかたにヒントがあると思う。建長寺と円覚寺は佐々目遺身院と時代を共にする寺院だが、
建長寺は経時の没年から七年後の建長五年(1253)十一月二十五日に落慶供養の記事がある。円覚寺は『吾妻鏡』の
叙述終了後の弘安五年(1282)の建立なので、建長寺の記載のしかたをみてみると、

  廿五日 建長寺の供養なり。丈六の地蔵菩薩をもつて中尊となし、また同像千體を安置す。
相州殊に精誠を凝さしめたまふ。去ぬる建長三年十一月八日事始あり。すでに造畢するの間、
今日梵席を展ぶ。願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は宋朝の僧道隆禪師。
また一日の内に五部の大乗經を寫し供養せらる。この作善の旨趣は、上は皇帝の萬歳、
將軍家および重臣の千秋、天下の太平を祈り、下は三代の上將、二位家ならびに
御一門の過去、數輩の没後を訪ひたまふと云々。

 長い引用になったが、佐々目遺身院の供養の記録、宝治元年三月「かの墳墓の梵宇、今日供養を遂げらるる……」と比べて
みると一目瞭然だろう。まず、佐々目遺身院は、「かの墳墓の……」なのだ。あくまでも経時の菩提を弔うための仏堂なのである。
そして、建長寺は、「この作善の旨趣は……」とはじめから国家規模、というか幕府の規模での造立が明記されている。また建長寺
の造立には二年前に事始がなされているが、佐々目遺身院にはそれがない。このことは、以前頼朝が鎌倉の地に建てた永福寺
の完成までの過程が『吾妻鏡』に詳細に記されているのを読んでいたので、佐々目遺身院の記述のあまりの簡素さに逆に
奇異な気がして気がついたのだった。経時は執権職について四年を待たずに亡くなっている。病に伏した時期も含めたらもっと
短期間しかついていなかったことになる。健康にめぐまれ、長期間施政をなすことのできた時頼が建長寺を、また、時宗が円覚寺
をなしたような視野をもつ時間もゆとりもなかっただろう。

寺院には、私的な規模の仏堂にはじまりそれが寺院に延長していったもの、そして、最初から国家規模で時の施政と密着して
造立されたものの、二通りの成りかたがある。佐々目遺身院の場合は前者ではないかと私は思う。

TOPへ戻る  寺院揺曳TOPへ戻る  寺院揺曳「Ⅱ」へ戻る  寺院揺曳「Ⅳ」へ進む