寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
Ⅳ
やはり大事なことだった。前回、佐々目遺身院の指図によって、従来京都にしかないと思われていた。邸宅風の寺院が鎌倉
にもあったことが証明されたと書き、それがどういう寺院かいずれ知りたいものと思うと書いたけれど、そのままやりすごす気に
ならなくて調べてみた。最初は寺院建築の歴史というような著作を読めばすぐにわかるだろうといった軽い気持だった。
だから、上野の国立博物館の敷地内に平成館に隣接してたつ資料館へ行って、だいたい目星をつけていた建築関係の本を
資料請求してだしてもらって、いざ読みはじめた段になって、「邸宅風の」あるいは「住宅風の」寺院では寺院建築の範疇で
調べられないことがわかったとき、あわててしまった。寺院建築の様式ははっきりしていて、和様、禅宗様、大仏様、新和様、
折衷様の五つに分類される。以下、擯島正士監修『寺院建築』から簡単にそれらを説明すると、
●和様 七、八世紀にかけて中国から輸入された建築様式を基礎に、平安時代を通じて日本化が進んで成立した様式。
●禅宗様 鎌倉前期に禅宗とともに中国から導入された建築技術をもとにした様式。
●大仏様 鎌倉時代の初めに宋から新しく移入され、東大寺再建にあたって重源が採用した建築様式。
●新和様 在来からの和様に大仏様の手法を部分的に取り入れた様式。
●折衷様 鎌倉時代末から室町時代の和様の建物に、大仏様や禅宗様の細部技法が取り入れられている様式。
となる。ここに住宅風といった様式の入りこむ隙はない。ならば、どういう方法で探せばいいのか。専門外のことを調べるときは
勘がはたらかないから、ひとつ躓くと焦りが先にたって、もしかしたらこのまま駄目かもしれないと絶望的な気分になる。ひとまず
気を落ち着かせて、こういうことはよくあること、順々に糸をたぐりよせるようにしてたどっていけば、きっとなにかみつかると
自分にいいきかせ、歴史建築に関する著作や図版集を何冊か机まではこんで、ゆっくり一冊一冊をながめていった。あ、そうかな?
と曙光のみえた気がしたのが、至文堂刊のシリーズ「日本の美術」のなかの『室町建築』の号だった。そこにはじめて住宅風の
寺院について触れている文字を見出した。のみならず、佐々目遺身院のものとよく似た多くの指図までのせられている。途中は
省略することにして、そうしてたどりついた寺院が、私としては意外なことに金閣寺と銀閣寺だった。双方ともに二層以上からなる
楼閣建築で下層が住宅風、そして金閣寺は三層が、銀閣寺は二層が禅宗様の仏殿になっている。
が、ここまできてもどうも釈然としないのは、何故住宅様といった分類がなされないのかということだった。時代的にみて、折衷
様のつぎにならべられてもいい気がするのに。そんな思いをだきながら、資料館をあとにした。そして、開催中の醍醐寺展
をみたあと、本館地下のミュージアムショップへ行った。ここはちょっとした私の資料室で、いろいろな企画ものや冊子のバック
ナンバーがそろっているし、遠くて行かれないようなところの展覧会の図録まであって、立ち寄るとついつい時間のたつのも忘れて
みてしまう。が、この日は明確な目的があって、まっすぐにその棚へ向かった。先刻の『室町建築』を買おうと決めていた。
なのについてないというのか、その号はなかった。購入するつもりだったから必要な頁もコピーしてこなかったのにと、内心ふて
くされ気味にその他のコーナーをみてまわった。そして、なに気なく手にとった一冊、『朝日百科・国宝と歴史の旅2 仏堂の空間
と儀式』に、なんと住宅風の寺院建築について書かれた章があるのを発見した。この冊子ならもっているのに……。
住宅風の寺院は、建築技法から探るのではなく、空間論でみるべきだったのだ。帰ってさっそくひらいてみた。その一節を。
寺院建築は寺院建築だけで個別に歴史的に展開していくわけではないのですから、人間が
生活する空間をトータルに理解し、その中での寺院なら寺院、住宅なら住宅を理解していく、あるいは
相互関係を正しく把握していかないといけない。建築の歴史もジャンル別に理解しがちなのですが、
垣根を取り払って、トータルに日本の空間というものがどう展開したかを考えることも重要です。
と、これは「住宅風の空間をもつ真宗本堂」という章のなかの山岸常人氏の解説です。最初に、やはり大事だったと書いたのは、
これを読んで気づかされたことへの感慨です。佐々目遺身院の歴史をひもどこうと力むあまりに、指図がもっている空間、佐々目
遺身院が果たしていた機能空間への思いを危うく疎かにするところでした。山岸氏のこれは真宗寺院に関する文章のなかの一節
だが、同じようなことが、この真宗寺院と時代を同じくする中世後期から近世にかけての禅宗寺院においても書かれていた。
『禅宗寺院と庭園』(日本美術全集十一)にある井規男氏「禅宗建築の再考」から。
本来の方丈は禅宗様からなる堂建築だったのである。(中略)方丈すなわち寝堂は、仏殿・
法堂に続いて中枢伽藍の一翼をになう堂であった。(中略)だが、近世の禅寺では、寝堂が
果たしていた役割は寺院事務機構のある本坊の中に建つ大方丈に移り、寝堂は有形無実
の存在におちいっている。大方丈は寝殿造りの系統をひく純和様の住宅建築として形成
されているから、方丈の形は堂から住宅へと変わったことになる。(中略)その方丈はといえば、
それは「禅宗様」建築ではないけれども、禅宗建築であることは確かである。
寺院というものを建築の領域だけで考えることと、内部空間が有する機能で考えることを厳密に切りはなして考えなければ
いけないという、とても大切な教訓がここにはある気がするからながながとこだわってきた。それを考慮しながら指図にもどって、
住宅風の構えをもつ佐々目遺身院がどういう性格の寺院だったのか考えてみたい。まず、佐々目遺身院のどこが住宅風なのか。
それを知るために金閣寺、銀閣寺の建築から住宅風とされる特徴をあげると、淡交社刊「古寺巡礼 京都」シリーズ『金閣寺・
銀閣寺』のなかの金閣寺における初層、二層の説明には「方柱に蔀戸、それは平安時代からの貴族住宅、寝殿造の一部を
承け継ぐものであり」とあり、また、銀閣寺の初層については「一階はすべて住宅風に扱い、細い柱に長押、障子または板戸、
舞良戸に白壁、柱頭の組物は舟肘木で」とある。さらに秋山虔・小町谷照彦氏編『源氏物語図典』中の池浩三氏考証「寝殿の
室礼」からは、張台、壁代、屏風、畳、几帳、衝立障子、妻戸、蔀戸、簾などがあげられる。
佐々目遺身院の指図四紙のうち、室礼のようすがわかるのは三紙で、53・54が蔀戸や繧繝縁か高麗縁の立派な縁のある
畳が具体的に描きこまれ、56では文字でツマト、シトミ、ミスなどとある。以上のことから佐々目遺身院の内部空間は住宅風の調度
によって室礼がなされていることがわかり、よって住宅風の建築とみなしていいと思う。が、実をいうと、こうしたまわりくどいたどりかた
をしなくても、間取りを一見しただけで佐々目遺身院がいわゆるふつうの仏堂建築と違うことは察していた。仏堂はたいてい三間
四方あるいは三間四間といった正方形か長方形と決まっていて、柱列の並ぶ内部もきちんとしたシンメトリックな構造を呈す。
佐々目遺身院の指図にみる構造はそれとはまったくちがうようすをみせる。印象だけでいえば民家の座敷のようだった。ただ、
それを即座に住宅風と決めこんでいいのか私には自信がないので細部にこだわってみた。
けれど、これで一段落したと安心するのはまだはやく、逆に新たな問題点が浮かびあがった。それは、佐々目遺身院が鎌倉
時代中期の建立、そして、指図が描かれたのも鎌倉時代後期で鎌倉時代をでていないのにたいし、真宗寺院のことも、禅宗寺院
のことも、そして金閣寺、銀閣寺も、いずれもが室町時代に入ってからということだった。購入しそびれた『室町建築』にはじまって、
どういうわけかずうっと室町時代が背後に見え隠れしつづけている。それはあたかも佐々目遺身院がもつ文化が室町風とでも
いうかのようで、こだわっていたらだんだんここが鎌倉で時代も鎌倉時代ということを忘れてしまいそうな気がしてきた。
この頃の鎌倉における他の寺院の指図をみる必要があると思うが、鎌倉の滅亡時に近い時期に描かれた結界図にみる称名寺
は、六波羅探題としてながく京都に滞在した金沢貞顕が法勝寺を手本にして造ったというように、仁王門、金堂、講堂が中軸線上
にならぶ典型的な堂塔伽藍の建築様式だし、だいいち建長寺、円覚寺にしてからが、禅宗様建築の祖ともいうべき威容を誇っている。
そういうなかにあっての住宅風の寺院、鎌倉とは文化を異にする佐々目遺身院とは。この特殊性はいったいなにを意味するのだろう。
ひと口に住宅風といってもそこには寝殿造りの系統と、書院造りの系統があることがこれまでの経過のなかで理解できた。そして、
蔀戸、御簾といった室礼から佐々目遺身院は寝殿造りの系統の住宅建築であることがわかった。この時代に、しかも鎌倉で、
寝殿造りとは……。寝殿造りといえば公家の文化……。とたどってくれば思いあたることがあった。指図には上乗院宮という
宮さまの名が書きこまれていた。改めてその部分を思いおこすと、
53 永仁六年三摩耶戒道場図 遺身院上乗院宮
54 永仁六年初後夜道場図 遺身院上乗院宮
55 (推定)応長元年印明図 自上乗院宮返給了
である。『金沢文庫資料全書第九巻 寺院指図篇』の解説には、53・54の上乗院宮は仁和寺上乗院の益助僧正と考えられ、
55の上乗院宮は同じ仁和寺上乗院の益性法親王の可能性がある、とある。益性法親王は亀山天皇の皇子でいられます。
益性法親王という方については今後佐々目遺身院の歴史を追うなかで触れると思うが、嘉元、徳治、延慶、応長、正和
といった年間、1300年代初頭に二十代を佐々目遺身院ですごされました。佐々目遺身院が住宅風の寺院などというつきはなし
たいい方をするのはまるで無意味で、宮さまのお住まいになられる邸宅として御所風のしつらえ、雰囲気であって当然なのでした。
昨年の秋、はじめて仁和寺を訪ねた。このときはまだ佐々目遺身院について書くことになるなど思ってもいず、益性法親王という
方のことも読んだ記憶がすっかりうすれていて、仁和寺と関係ある方という認識はなかった。仁和寺には守覚法親王という方が
いらして、その方ののこされた膨大な量の真言密教の儀礼書、聖教類を、近年になって阿部泰郎先生が整理研究され、
その成果を守覚法親王の儀礼社会─仁和寺蔵紺表紙小双紙の研究』 等に刊行された。私はその世界に魅されていた。
昨年の秋、JR東海主催の仁和寺紹介のための講演会があり、阿部先生のお話をうかがうことができた。そのとき仁和寺
執行の沖田師のお話もあり、そこで「仁和寺は敷居が高いからと来られることを躊躇される方が多いのですが、どうぞお気軽に
いらしてください」といわれ、私もその一人だったので、それならと、嬉しくなってさっそくでかけたのだった。
守覚法親王は後白河院の皇子で、あの治承・寿永の源平の争乱のころ仁和寺の門跡でいらした。高倉天皇のご兄弟に
あたり、中宮徳子御産の折の祈祷をされている。『平家物語』の「経正の都落の事」のなかで御室として登場される方がこの
守覚法親王なのでした。
経正は幼少時仁和寺の稚児としてすごしたので、都落ちに際して最後の別れの挨拶をしに仁和寺を
訪れる。そして、以前賜ってもっていた青山(せいざん)という名器の琵琶を返上したのだった。その情景を『平家物語』から。
御室、やがて御出あッて、御簾たかくあげさせ、「是へ、これへ」と召されければ、大床へこそ
参られけれ。供に具せられたる藤兵衛有教を召す。赤地の錦の袋に入たる御琵琶持ッて参りたり。
経正、是をとりついで、御前にさしをき申されけるは、「先年下しあづかッて候し青山
持たせ参ッて候。
あまりに名残はおしう候へども、さしもの名物を田舎の塵になさん事、口惜う候。若不思議に運命ひらけて、
又都へ立帰る事候はば、其時こそ、猶下しあづかり候はめ」と、泣々申されければ、
御室哀におぼしめし……
ここには法親王の住まわれる仁和寺という御所での法親王の出御のされ方、人臣のお前におけるはべり方の実際が書かれ
ている。ご講演のなかで、安部先生は守覚法親王の『左記』をひかれ、守覚法親王ご自身がこのときのことを書きのこしていら
れると、そこにあたる部分を線で囲んだ漢文のレジュメと照合しつつ話された。『左記』は、平家とも後白河院とも密接な
つながりのあるお立場の法親王の書かれたものだから、非常におもしろい、のだそうです。『左記』には孔雀経御修法に関する
箇所もあり、仁和寺所蔵のあのえもいわれず美しい少年のような国宝の宋画、「孔雀明王像」に思わず思いが馳せるのだけれど、
きりがないので今回はここにとどめます。
今にして思うのだが、あのとき、仁和寺の御所建築の廊下をあるきながら、寝殿造りというものはこういうものだったのかと感慨
深かった。
佐々目遺身院も、規模こそちがえ雰囲気としてはあんな風に優美でかつ静謐な気の満ちたものであっただろう。
益性法親王は守覚法親王のひらかれた御流という法流を継承され、鎌倉にひろめられた方です。これはまったくの私の推測
だけれども、おそらく何回かあった甘縄地域の火事で、創建時の建物は焼失したのではないだろうか。創建時はまだ経時供養
の仏堂として、質実を旨とする仏堂建築であったことと思う。それが徒然草にもあるような質素を尊ぶ松下禅尼のかかわる仏堂
として自然だろう。経時の子息頼助が仁和寺に入り、鎌倉にもどって守覚法親王の御流を伝え、そうして仁和寺から親王という
お立場の方が下向され住されるようになったので、御所風の建築にあらためたとみていいのではないか。
火事は度々あったが、指図があらわれるのは永仁六年で、その一年前に甘縄宿坊焼失、於聖教出用半被出了」と
『見聞私記』に記載のある火事がおきているのは偶然かもしれないが、あながち偶然といい切る必要もないから、
佐々目遺身院が住宅風の寺院になったのはこの時期ではないかといいたい気がする。