寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―

 とめどもなく興味が守覚法親王のほうにかたむいて、話がそれてしまいそうなので、ここは鎌倉を語るのだからと自重し、
しかつめらしくべつの叙述ではじめたのだけれど、とちゅうでなにか味気ない気がしてつまらなくなってしまった。守覚法
親王を書いていたならこんなふうにはならないのにと思ったとき、やはりここは最初の趣向どおり仁和寺の文化ではじめ
させていただこうと覚悟を決めた。

  守覚法親王は益性法親王の法燈の祖でいられ、益性法親王が佐々目遺身院でおこなわれた数々の修法、儀式は、
略式だったかもしれなくても守覚法親王のそれにほかならないわけだから、鎌倉にその詳細がのこっていない以上仁和寺
のほうを探って、そこから類推するというか、疑似体験するというのもひとつの手ではないだろうかと勝手な大義名分をたてて、
私の趣味にはしってしまうかもしれないこれからのことにご容赦を。まず、法親王というお立場に馴染みのない方が多い
と思うので、そのことから。

法親王は、ほっしんのう、とおよびします。親王は天皇のご兄弟もしくは皇子でいられます。でも、そういう方ならどなたでも
親王でいられるかというと、そうではなくて、親王宣下のあった方のみが親王と称することを許されるのだそうです。法親王は、
出家されているご身分でいられながら親王宣下を受けられた皇子のことで、白河院の皇子覚行法親王にはじまりました。
仁和寺御室相承記における三代の方です。御室初代は宇多天皇で、出家して仁和寺にはいられ(はじめての法皇となられ)、
ここを御所とされたので、御室御所とよぶようになったのだそうです。その名のとおり、金堂は内裏の紫宸殿を、御影堂は清涼殿
を移築するなど、境内は仏教寺院空間特有の森閑とした厳かさより、宮廷建築のかもしだす優美さの方が勝っていました。

御室という語(地名)はよほど地元の方に親しまれているらしく、前回書いたJR東海主催の講演会で、仁和寺執行沖田師が
「オムロンという会社がありますが、仁和寺のすぐ近くにあって、それで御室から社名をとってつけられたわけです」という
エピソードを語られ、会場に妙にうけていた。私も印象につよくのこって、仁和寺を訪ねた折の帰途、法金剛院へ向かう道を
歩きながら、オムロンの本社がひょっとしてみえないかしらと、ついついきょろきょろしてしまった。みつけられなかったけれど、
代わりに吉田兼好が居をかまえていた跡という碑があって、こんなところに兼好が? と虚をつかれ、それから兼好こそ
仁和寺ゆかりの人だったんだと思いだした。

兼好は鎌倉に下向したとき六浦に住んでいた。背後に鎌倉をひかえた朝比奈峠を遠くにのぞむ小高い丘のうえに庵を
あんでいたという。その跡を訪ね、感慨にふけった思いがあるから、京都でまた兼好の居住址に遭遇しておどろいたのだった。
兼好は称名寺金沢文庫で勉学を積み、自筆の文書ものこしている。ゆくゆく称名寺の長老釼阿が佐々目遺身院で
益性法親王から聖教を伝授されるのだけれど、仁和寺と兼好と称名寺の三者を直接むすぶ線というのがあったりするのだろうか。
高校のとき、『徒然草』に傾倒し、「飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば……」などと暗唱してひたっていた時期があったけれど、
こんなふうにして兼好がもどってくるなんて。あの頃は漠然とした憧れの世界で、いつか私も庵をかまえて隠遁するなどと思いつめて
いた。今はずっと現実的になって、隠遁のいの字もでないけれど、関心が『徒然草』から『源氏物語』に移行し、そして考古学を
知ってからそのすべてが文学でなく、生きた歴史として私の興味をかきたてている。おもしろいなあと思う。

オムロンはともかく、江戸中期の京焼の大家野々村仁清も門前に窯をかまえ仁和寺の一字をいただいて号したし、仁清の
陶法を受け継いだ尾形乾山も仁清の窯場近くに隠棲したところから作陶がはじまるなど、深くかかわる。たしか、裏山に
墓所があったと思う。篠山紀信が、乾山の作品は野にあってこそ生きるとの信念から、仁和寺あたりの裏山で大地に屏風
をじかにおき、そこに乾山の作品を配して写真を撮っていた。篠山紀信だからこそ許される撮影と、テレビでみながら思ったの
だった。そんなふうに芸術家をひきつけてやまない御室という文化、そのなかに後白河院の皇子守覚法親王の存在は
あります。六代御室でいられます。

守覚法親王の功績は、現在仁和寺所蔵となっている国宝「空海の三十帖冊子」をもとめられたようなところにあると、阿部
泰郎先生はいわれる。寺宝とするべきものを得ようというとき、いわゆる宝物とよべるようなきらびやかなものを選んでもおかしく
ないのに、このようなちいさな冊子におおきな権威を与えたところに守覚法親王の手腕があると。阿部先生は、守覚法親王は
書物をつくるという世界において文化を伝えようとしたといわれるけれど、それはもうほんとうに、守覚法親王の業績を整理された
阿部先生の一連の研究は、垣間みるだにものすごいものがあります。そこにはまってひたってしまったら、きっと当分
現世にもどってこられなくて、鎌倉について書くなどという気分は吹き飛んでしまうこと確実というほどに。

でも、私がここで守覚法親王に関連して書きたいのはそうした大変な本領のことではなく、そのなかのほんの一部分、守覚法
親王も修された孔雀経法についてです。前回、守覚法親王にふれて、「孔雀明王像」に思わず思いが馳せると書いたときから、
その画像がこころにひろがり消えなくなった。おおきく羽根をひろげた孔雀の背にのる妖しいまでに美しいその孔雀明王は、
興福寺の阿修羅像のようなすらりとした体躯の繊細そうな少年像でいられます。画像をここでおみせできたらいいのだけれど、
いくら文字で説明しても絶対にあの画像そのものの魅力をお伝えすることは不可能だから、是非是非どこかの美術書で
ご覧になってください。近くは去年東京国立博物館でひらかれた「日本国宝展」に出展されていましたから、
その図録をさがされたらいいと思います。

その画像が孔雀経法のご本尊で、守覚法親王が修されたときもその画像に向かわれたのでしょう。インドでは毒蛇が多い
から、その毒蛇を食べてしまう孔雀の力が神格化され、孔雀経法というもろもろの災いを除く秘法となったといいます。 阿部
先生のお話では、孔雀経法は御室の独占的修法だそうです。守覚法親王が弟君高倉天皇の中宮徳子の御産に際して修され
たのも、孔雀経法でした。安徳天皇が無事にお生まれになって、高倉天皇はそのお礼の意を守覚法親王にあててした
ためられました。十八歳という若さで亡くなられた高倉天皇の現存唯一のご真筆のその書状も、それにたいしてお返事された
守覚法親王の書状ともども「日本国宝展」に出展されていましたから、図録を手にされたら是非こちらもご覧になってください。
お二方ともにそれはみごとな筆跡で、若き藤原定家が高潔な高倉天皇をこころから仰いで慕っていらしたと
いうのもほんとうだったとすなおにうなずかれました。

その「孔雀明王像」は宋画です。図録によると北宋時代の作とある。北宋は九六〇年から一一二七年で、仁和寺の創建が
八八八年だから、創建当時から仁和寺にあったものではない。北宋と重なる藤原道長の時代の御室は二代性信親王で、
この方が孔雀経法で多大な効果をおさめられ、三代覚行法親王が伝統として継承されたというから、
このお二方のうちどちらかのあいだに仁和寺にもたらされたのだろう。

この画像の存在をはじめて知ったとき、守覚法親王も孔雀経法も知らなかった。だから、それが仁和寺所蔵と知ったとき、
仁和寺ってすてきなものをもってらっしゃるんだなあと惹かれながら、でも、何故こんなに雰囲気のある他の寺院とはちがう
このような画像が? と疑問がのこった。それから孔雀経法という修法が仁和寺でおこなわれていると知ったとき、だからなのだ、
とすとんと腑におち、そして、守覚法親王もそれを修されたときいて、やっとすべてがむすびついた。はじめてその画像を
知ったのは、じつは仁和寺所蔵のそのものではなく、木版画像だった。

十年ほどむかしになるが、丸善と富士フイルムという二企業合同のメセナの事業で、国立国会図書館所蔵の明治期の刊行
図書十六万冊全部のマイクロ化というプロジェクトチームが組まれた。酸性紙は百年たつと風化してぼろぼろになってしまうので、
閲覧不可能になるそのまえにという取り組みだった。たまたまそこに参加させていただいて、その作業の一部終始をつぶさに
みさせていただいた。二年に満たない期間だったが、前代未聞の事業に苦渋しつつも、摂取の気鋭に満ちた現場では、
毎日興味津々の情報が飛び交った。そのなかに「孔雀明王像」の木版画の件があった。

「こんなの、どう?」と、当時接していた富士フイルムの上司の人からわたされたのがその画像のことだった。たしか、新聞か
なにかのちいさなコピーで、それほど鮮明なものではなかった。進行中の作業と直接関係するものではなく、関連の企業
からの一種のお知らせだったのではないだろうか。「わあ、きれいですねえ」といったまま、絶句する思いでみつめた記憶がある。
読むと、版木ともどもの展示があるという。これは絶対いかなくてはとの思いでその日をまち、銀座のアート・ミュージアム・ギンザ
を訪ねた。そのときの図録をみると、平成三年とある。

この展示に至るまでには複雑ないきさつがあって、これだけでもうひとつの読物にはなるだろう。テレビでもドキュメントとして
再摺りが成功するまでの過程が放映されたけれど、ほんとうにこういうことに従事された方々の忍耐には頭がさがると同時に、
こんなすごい文化事業にたずさわられてうらやましいとも思う。

木版画の制作は明治三十六年のことだった。光村原色版印刷所の創業者光村利藻が、明治三十七年のアメリカ・セントルイス
市で開催された万国博覧会に、日本の木版芸術を世界へ紹介する目的で制作し、出品したのだった。「孔雀明王像」がえらば
れたのには、より難しいものに挑戦してこその効果とみたのだろう。木版画は原寸大で、天地一六一・七センチ、左右一〇二・
六センチのおおきなものです。けれど、おおきさもさることながら、画像そのものの精密さといったら、描線の繊細さもふくめて、
どうしてこんなものに決めたんだろうと、当事者でなくてもため息がでるくらいに大変なものです。版木は全部で二十二枚、摺り度数
一三〇三回の木版画はこうしてできあがりました。でも、その後版木は紛失し、木版画そのものの存在も忘れさられていました。

平成にはいって、版木一式が兵庫県立近代美術館に保存されていたことがわかり、再摺りがおこなわれ、その成果の展示が
銀座のミュージアムでのそれだったのです。いつか原画をみてみたいとの思いがかなったのが昨年の「日本国宝展」だった。
そして、今現在東京芸術大学大学美術館でひらかれている「よみがえる日本画展」で、再々摺りではあるがその木版画が展示
されている。先週、その展覧会にいって、木版画「孔雀明王像」と再会してきました。銀座で拝したときはたくさんの版木にかこま
れてにぎやかだったのに、今度は単独で、べつの知らない画像のなかにぽつんとあって、なんだかさびしそうな感じがしてしまいま
した。ずうっと忘れていたのに、「日本国宝展」で原画に接することができたと思ったら、佐々目遺身院を書くことになり、守覚法
親王に関連して「孔雀明王像」を思いだしたときに、芸大の美術館で木版画との再会をはたすことができた。
偶然かもしれないけれど、こういうご縁のつながりはうれしい。

益性法親王が鎌倉で孔雀経法を修されたかどうかわからない。称名寺にのこっている聖教類はみな文字の記録で、絵画は
ないようだから、どういう種類の修法が佐々目遺身院でおこなわれたのかは想像するしかない。伝法潅頂の指図には真言
八祖の図像がかけられているから、図像をかかげる修法がなされていたことは事実である。  ただ、そこに、孔雀経法が
あったかどうか。おこなわれていたとしたら、鎌倉にも孔雀明王像があったことになるのだけれど。

守覚法親王の『左記』には、後白河院による平家調伏の目的で孔雀経法を修したことが書かれている。これは、公式の記録には
ない蔭の御修法ですとは阿部先生のお話です。もろもろの病、害毒を除き、病気平癒、延命息災、請雨止雨などの効力に
加えて、調伏まで効き目がある修法を、益性法親王も修されていたと考えても許していただけるでしょう。あるいは、でも、孔雀経
法は仁和寺の門外不出なのかも知れないし、よほど秘法のようだから、修されたとしても記録にはのこっていないだろう。

それはともかく数ある密教図像のなかでも、孔雀明王像はあまりない。あっても、いわゆる和製で、仁和寺のような作風は皆無
ではないだろうか。ともかく線が繊細なんです。そして、色が優美。なのにどきっとするほど鋭くつよい。宋画特有なのでしょう。
鎌倉にもしもたらされていたとしたら、どのような画風だったのだろうと思いは馳せる。益性法親王が鎌倉に住されたのは二十歳の
御年から十年に満たないわずかな期間だから、修されなかった可能性のほうがつよいとは思うけれど。

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