寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
Ⅵ
鎌倉中期の鎌倉には、鎌倉五山とは別に少なからず密教寺院が各地に点在し、活動していた。一つの流れは、
(中略)京都の醍醐寺系三宝院流・報恩院流であるが、(中略)もう一つの大きな流れは、長谷大仏周辺の
甘縄付近から、東のいわゆる佐々目谷付近の寺々である。その中心をなすのが「佐々目遺身院」である。この寺の
法流は、前者とは異なり京都の御室・仁和寺の御流を主軸とするものである。その源は北院御室守覚にまで
さかのぼるが、活動が明確になるのは、佐々目僧正頼助(一二四六~一二九七)の頃である。
(真鍋俊照・金沢文庫図録『空海とマンダラ・鎌倉で栄えた密教とマンダラ』より)
と、いわゆる佐々目遺身院が佐々目遺身院としての性格を明確にしはじめるころの鎌倉の旧仏教系の宗教事情を抜き書き
してみた。仁和寺御流の法流をいうと、守覚法親王→道法→道助→道深→法助→頼助→益助→益性法親王となり、
このあと称名寺の釼阿につづく。
経時の息頼助によって佐々目遺身院の性格がかたまったとみていいのだろう。
法助が頼助の師で、九条道家の息、十代御室の方です。
この間を時代でいうと、源平の争乱から鎌倉幕府滅亡まで。文学上でいうと、『平家物語』から、『新古今和歌集』『とはずがたり』
『玉葉和歌集』を経て、『徒然草』の成立までということになる。『とはずがたり』二条の恋人「有明の月」といわれる性助法親王は、
法助のつぎの十一代御室でいられます。頼助が佐々目遺身院にはいったのは、正応五年(1292)以降晩年のことらしいが、
佐々目における活動はもっと以前からおこなわれている。頼助の生涯でわかっていることを。
寛元4(1246) 1歳 誕生
文永6(1269)24歳 法助より聖教を伝授さる
文永8(1271)26歳 法助より聖教を伝授さる
文永12(1275)30歳 法助より聖教を伝授さる・鎌倉に帰る
弘安4(1281)36歳 弘安の役の為の祈祷を明王院にて行う
弘安6(1283)38歳 鶴岡八幡宮別当につく
弘安8(1285)40歳 益助に聖教を伝授する
弘安10(1287)42歳 東寺長者職につく
正応3(1290)45歳 将軍久明親王病気平癒に大北斗法修す
正応5(1292)47歳 東寺長者職を辞・この頃佐々目遺身院にはいる
永仁1(1293)48歳 鎌倉大地震に際し大北斗法修すなど、晩年は執権北条貞時邸での修法に終始
永仁2(1294)49歳 東大寺別当につく
永仁5(1297)52歳 二月二十八日死去(永仁4年の説も)
頼助が生まれたのは、父経時が亡くなり佐々目の山麓に葬られたまさにその年だった。いつ仏門にはいったのかわから
ないが、二十四歳で聖教を伝授されるまでになっているからには、かなり若くしてはいったのだろう。源頼朝が大進局に
生ませた男児貞暁は、政子の怒りをおそれて上洛させられ、仁和寺の子院にはいっている。七歳だった。二十一歳で
七代御室道法法親王から受法し、そののち高野山へはいった。政子はその高野山に貞暁を訪ね、還俗して将軍になる野心
がないかたしかめたという。貞暁は即座に短刀で左目をえぐりとって、武士になる意志がないことを示した。根拠があるわけ
ではないけれど、頼助が仏門にはいった契機には、こんなに不穏なものでないにしても、これに近い事情があったのではない
だろうか。頼助の「頼」は父経時でなく、時頼の一字からきているのだろうから、時頼がそうした手筈をととのえたのだろう。
二十四歳で最初に法助から受法した文永六年の前年には、鎌倉で時宗が執権職に就任している。経時の死さえはやすぎ
なければ、執権には頼助でなくともその兄弟がなっていたはず。時宗の執権就任の事実を頼助がどんな思いできいた
だろうとは、傍観者の勝手な思惑だろうか。
でも、頼助が執権職に執着していたとかそういうことでなく、ここに私はどうしても慈円を重ねてみてしまうのだが、従兄弟
の時宗が現世において着々と行動をつんでいるのにたいし、自分ひとりが親兄弟と離れ、僧職という聖域におしやられて、
それを好むと好まないとにかかわらず、その道で邁進するしかない人生にあるということを、何故何故何故と、日夜終始
おのれに問いつづけていたのではないかという気がする。人柄が真摯であればあるほど真剣に。
私がそう思うのには理由がある。この佐々目遺身院を書きはじめた当初はまだ佐々目遺身院に功あった人ていどにしか認識
がなかったから、頼助について頁数をついやすなど思ってもいなかった。
それが、もうすでにここまで筆を尽くして書くまでに
なったのは、東京国立博物館で開催された「国宝 醍醐寺展」で、はからずも頼助の肖像画に接したからだった。「醍醐寺
理性院祖師像」という一巻のなかにそれはあった。南北朝期のものである。勝覚以下九人の白描の祖師像がならんでいる
なかに、「頼助」の文字があった。
きれいな人……。というのが最初の印象だった。
それに、なんて優しそう……。と、つづけて思った。
滲みいるような悲しみ、とでもいうような感情がこころにひろがった。なにかその人のところだけ静寂に満ちているように
私には感じられた。胸からうえの法衣すがたなのだが、僧侶というよりすらりとした長身のお公家さんのようだった。読んだ
かぎりでは、頼助は仁和寺の人で、醍醐寺と関係ある記述はなかった。あの頼助かしら。それとも同名の別人……。と、
迷った。図録をみても、祖師像集についての説明はあるものの、個々の祖師への注釈はない。せめて写真図版でもあれば
と思うのに、そこにはべつの祖師の部分がのっていた。ひとまず帰って調べるしかないと、その日はそれで帰り、
手元にある資料を読み返した。醍醐寺には醍醐寺の資料が整理されているはずで、その系譜をみれば簡単なのだけれどと、
それをみる手だてのないのがもどかしかった。
櫛田良洪氏の著述のなかに、あきらかにそれと明示されているわけではないけれど、醍醐寺とも関係がないことはない
という感触をつかんで、再度「国宝 醍醐寺展」を訪れた。最初のときは興奮のほうがさきにたって、書きこまれている文字の
「頼助」以外目にはいらなかった。今回はそれをきちんと判読しなくてはと思っていた。「正應六年五月廿三 五十八/
頼助 二月廿八日」と読めた。正応年間なら、たしかにあの頼助、と思った。正応六年、頼助は四十八歳である。五十八
は四十八のまちがいではないだろうか。この年の五月二十三日に醍醐寺理性院主となったということだろう。二月二十八日に
頼助は亡くなっている。
頼助の図像に慈円のそれと重なるものをみるのは、私の思い過ごしかもしれないけれど、自分の
意志とは関係なく幼いうちに生きる道が決められてしまった場合、なにも悩まない人ならそれでもいいだろうし、ばねにして
たくましくその道でおのれの場所を確保してゆくことができるならそれもかまわない。ただ、物事にたいしてつねに何故と
いうことを深く考えるタイプの人間だったら……
慈円や頼助の場合、おのれが望もうと望むまいと、そして、歯をくいしばり血のにじむような努力をしようがしまいが、ひとりは
摂関家の血筋、ひとりは鎌倉幕府執権の子息という出であれば、位はおのずとそなわってくる。そういうとき、ふたりのこころに
きざすのは、懐疑──、自問以外のなにものでもないのではないか。しかも、ふたりともにみなしごで、僧院というおのれの
内部をみつめることをのみ日夜修する環境にいるのであればなおさら。
仏法に迷いをもつのではない。おのれの生きる道に仏法があることに迷いがあるわけでもない。ただ、ふたりは、おのれとは
なにか、おのれはなにをなすべきか、という根源的な問いにみずからを最初期から投げいれて生きることを余儀なくされて
しまったのだ。それは、解決できるものではないから、迷いは、おのれへの問いかけは、一生つづく。そういう人間に、人を
圧するつよさが生まれるわけがない。解決のつかないものを抱えて生きる人間は、とどまることを知らないから、とめどもなく
思慮が深くなる。決して一刀両断のもとで決断するなどという単純な思考ができなくなる。だから、ふたりの肖像画の眼差しは
共通して戸惑っているかのようにはかなげで、どこか遠くをみつめている。いつ、この問いは解決がつくのだろうとでもいう
ように。頼助は慈円のような本心を吐露する歌をのこしているわけではないから、ほんとうにそんなのは私の勘ぐりに
すぎないかもしれないけれど、肖像画のあの眼差しに接したとき、一瞬にしてこのようなことを感じてしまった。
頼助については、思いがけず最近もうひとつべつの事績に接した。江戸東京博物館でひらかれた「北条時宗とその時代展」
でのことだった。弘安四年、頼助は鎌倉の明王院で、蒙古降伏のための祈祷をした。「異国降伏御祈祷記」というその
紙本墨書の作品解説から。
弘安四年(一二八一)四月に、蒙古降伏のために行なわれた修法 の詳細な記録。
(中略)七日間の修法の後、頼助は、山ノ内の亭に 北条時宗を訪ね、修法第三日目の夜に
瑞夢を見たことを告げ、これに対して時宗は感嘆している。祈祷終了から約二ケ月後の
弘安四年六月に、第二回目の蒙古襲来があった。
と、こんなふうに幕府のために祈祷している。仁和寺をでて鎌倉での活動をはじめてから六年たっている。頼助が鎌倉に帰る
ことになった前年に最初の蒙古襲来・文永の役があったから、あるいは幕府の祈祷僧となるべくよび戻されたのではない
だろうか。法助からの伝授の際の、「広沢・小野の両流にわたる印明は、自身が末期を迎えるときに伝授するのが通例なのだが、
頼助は、鎌倉に帰ることとなり、京・鎌倉の距離から考えて伝授するのである」という奥書のあたりに、なにかただならない切迫
したものを感じるのでそう思うのだが。
弘安の役のあとは鶴岡八幡の別当職についたりして活躍していくわけだが、弘安八年、益助に聖教を伝授したとある。益助と
いう方がどういう方なのか今ひとつわからないのだけれど、上乗院岩蔵宮益助といわれる親王でいられます。この方が益性法親王
の師で、益性法親王は益助から伝授を受けるために鎌倉へ下向されます。そして、益助もまた、頼助から伝授を受けるために
仁和寺からはるばる鎌倉へ下向されたのでした。ここからみても、頼助が鎌倉にあってもなお仁和寺においていかに大切な
法流の師と崇められていたかは、容易に理解されるだろう。ちなみに、頼助が鎌倉にもどった翌年、自身が建てた称名寺に
おいて北条実時が亡くなっている。五十三歳だった。そして、頼助が鶴岡八幡別当となった翌年、時宗が三十四歳の若さで
亡くなり、さらにその翌年、霜月騒動で安達泰盛が亡くなった。五十五歳だった。
と、ここまで書いた段階で、『鎌倉』という雑誌の古い号に、湯山学氏の「頼助とその門流ー北条氏と真言宗(東寺)ー」
という論文がのっていることがわかり、また上野の資料館へ行ってコピーしてきました。そこから、訂正もまじえつつ補足を。
まず、頼助の経歴について。頼助がいつ仏門に帰したかはやはりわからないという。弘長三年十八歳のころは頼守
と号し、阿闍梨を称していた。文永二年二月守海から三宝院流を、同四年二月良瑜から安祥寺流を受法している。
法助からの仁和寺御流の伝授は同六年二月で、そのときに名を頼助と改めた。
守海という人は、経時が死して佐々目に仏堂がつくられたほぼ当初から、文永三年に亡くなるまで
鎌倉佐々目遺身院にいた人とある。その守海から法を伝授されたとあるからには、そのころはまだ頼助は鎌倉に
あったということになる。十八歳のころ号していた頼守の名は、守海の一字をいただいているわけだから、
頼助は最初時頼のはからいで佐々目遺身院の守海の門下にはいったとみるのが正しいのだろう。
良瑜も鎌倉の人だから、文永四年、二十二歳までは確実に頼助は鎌倉にいた。文永五年三月に北条時宗が
執権になり、その翌年頼守は仁和寺で伝法潅頂を受け、名を頼助とあらためる。受法には短くて半年、
たいていは一年とか一年半の準備期間を経るというから、文永六年二月に仁和寺で受法したということは、
その前年、時宗が執権になったのと時を同じくして頼助は上洛し、仁和寺にはいったことになる。
この間の事情について、湯山氏は論文でつぎのように記される。尊貴な身分の者に「唯授一人」とされる御流を、頼助が
受法できたのは時宗の計いによるものであった、と。湯山氏の論文でいちばんに感じたことは、こうした頼助にたいする
時宗の配慮だった。なにか救われるというか、ほのぼのしたものを覚えてうれしかった。時宗と頼助は従兄弟だから、あるい
はふたりは気心の合うかなり親密な間柄ではなかったか。時宗には頼助は優しく精神的に頼りになる兄と映っていたの
ではないでしょうか。それが蒙古降伏の際に、時宗が「宿老之仁」をさしおいてまで頼助を祈祷僧に抜擢するというふうな
事柄につながっていくと、そう読みとると辻褄が合う気がする。
そして、この論文には、頼助が醍醐寺理性院の院主であったことがしっかりと書かれてありました。
この間の年代にあたる弘安三年、京都に眼を転じると、かの京極為兼が、春宮でいられたころの伏見天皇に初出仕を
果たし、伏見天皇に仕えた女房の手になり為兼も登場する『中務内侍日記』はこの年のことから書きはじめられるなど、
時代は『玉葉和歌集』成立へ向けてうごきはじめている。
正応三年、頼助は将軍久明親王の病気平癒に大北斗法を修したとある。久明親王の鎌倉下向は、正応二年だった。
後深草天皇の皇子で、十四歳でいらした。『とはずがたり』の二条は、かつて自分を愛欲の淵に沈めた後深草天皇の
その皇子の下向を、出家した身でたまたま鎌倉に居合わせ複雑な思いで見守っている。
私がその立場だったらと思うだけでもせつないその場面を紹介させていただいて、今回は終わりにします。
すでに将軍御着きの日になりぬれば、若宮小路は、所もなくたち かさなりたり。御せきむかへの
人々、はや先陣はすすみたりとて、 二三十、四五十騎、ゆゆしげにてすぐるほどに、はやこれへとて、
召次などていなるすがたにひたたれきたる者、小舎人とぞいふなる 二十人ばかりはしりたり。
そののち大名ども、思ひ思ひのひたたれに、うちむれうちむれ、五六丁にもつづきぬとおぼえて過ぎぬるのち、
をみなえしの浮織物の御下ぎぬにやめして、御輿の御すだれあ げられたり。(中略)御馬ひかれなどする
儀式めでたく見ゆ。三日 にあたる日は、山の内といふ相模殿の山荘へ御入りなどとて、
めでたくきこゆることどもを見きくにも、雲井のむかしの御ことも思ひいでられて、あはれなり。
(岩波文庫 玉井幸助校訂『問はず語り』より)
・
《附記》「鎌倉佐々目遺身院 その六」の後半で、湯山学氏「頼助とその門流」という論文を入手し推論を展開しましたが、
その後よく読んでいるうちに考えが変わりましたので、ここに記させていただきます。まず、頼守の名を十八歳の頃号していた
ということは、師の守海のもと、佐々目遺身院に十八歳まではいたということ。頼守は時頼と守海の二人から一字ずつ
とった名前だということに気がついたのです。時頼によって守海のもとに預けられ、十八歳まですごしたのでしょう。
次の師の良瑜も鎌倉の人だから、文永四年二十二歳までは確実に鎌倉にいた。文永六年の仁和寺法助からの聖教伝授が
時宗のはからいによるとあるのは、前年に北条時宗が執権になって、その力で実現したとみることができるのではないか。
伝授には事前に短くて半年、通常一年か一年半の準備期間を要するというから、頼助が仁和寺へ向かったのは
文永五年二十三歳のときで、時宗の執権就任と機を同じくしてということになる。時宗と頼助は従兄弟だから、あるいは
二人は気心の合うかなり親密な間柄だったのではないか。時宗には頼助は優しく精神的に頼りになる兄と映っていたのでは
ないでしょうか。それが「宿老乃仁」をさしおいてもの蒙古降伏の重要な祈祷僧の抜擢につながったと、
そう読みとると辻褄が合う気がします。