寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―

 これまで金沢文庫保管の佐々目遺身院の指図は四紙と書いてきたが、もう一紙あることがわかった。『金沢文庫資料全書第9巻
寺院指図篇』にはすでにのっているのだが、寺院を特定できないとして別扱いされていたのである。それを論証された上野
勝久氏の「鎌倉佐々目遺身院の指図についてー永仁元年胤助伝法潅頂記の検討」と題する論文のコピーを、じつはすでに
もっていた。ただ、まさか佐々目遺身院について書くなどということが起きるとは夢にも思わず、いつか読むかも知れないけれど
当面は用のない資料の山に埋もれさせてしまっていた。みつけたのは、ほんの気まぐれにそれらの資料を整理していたときで、
前々々回の「その四」で佐々目遺身院の寺院空間についてながながこだわったあと、何回かあった甘縄地域の火事のいずれかで
創建当寺の経時の仏堂が焼失し、宮さまが住まわれる御所として住宅風の建物に造りかえられたのでは、と結論づけた直後だった。
  そのとき、「甘縄宿坊焼失、於聖教出用半被出了」と『見聞私記』にあるという永仁五年(1297)閏十月の火事
によるのではないかと推測して書いた。

  永仁五年といえば、二月に頼助が亡くなっている。そしてその翌年の永仁六年に、四紙のうちのいちばん早い年代の二紙が
描かれている。奇しくも、の思いがはたらいてそんなことを記してみた。 けれど、上野氏が新たに佐々目遺身院のものと位置
づけた指図は永仁元年の作成で、四紙にみたときと同様隅々まで完全に一致するわけでないが、おおまかなところで構造が
近似している。 ということは、永仁元年にはすでに住宅風の形態になっていたということになる。原稿は編集部に送ってしまって
あったので、急遽連絡をいれて推測の部分を削っていただいた。それで、あらためていつ佐々目遺身院が住宅風の建築に
なったのか、そのあたりのことにふたたびこだわってみたい。 頼助が仁和寺からもどる以前にはまず住宅風ということは起こりえない
と思うから、それ以降の事柄を列挙すると、

 建治元年(1275) 頼助鎌倉に帰る
  弘安四年(1281) 頼助、明王院にて蒙古降伏の祈祷
  弘安六年(1283) 頼助、鶴岡八幡宮別当に就任
  弘安八年(1285) 二月  頼助→益助に御流伝授
         三月  頼助→元瑜に御流伝授(佐々目御影堂)
         四月  「観助受潅頂記」(鶴岡八幡宮別当坊)
         十一月 霜月騒動(安達氏滅ぶ)
  弘安十年(1287) 頼助→益助に御流伝授
  永仁元年(1293) 元瑜→胤助への潅頂指図(佐々目御影堂)
  永仁五年(1297) 頼助、死去。甘縄宿坊焼失の記事
  永仁六年(1298) 阿闍梨益助潅頂指図

である。ここで遅ればせながら、佐々目遺身院の歴代長老を紹介すると、

 創建~文永三年(1266) 守海
      ~文永九年頃(1272) 経円
     ~元応元年(1319) 元瑜

となり、頼助が鎌倉にもどったときは元瑜の時代になっていた。弘安八年三月、頼助は元瑜に仁和寺御流を伝授している。
この元瑜が阿闍梨となって胤助に伝法潅頂をおこなった永仁元年の指図が、新たに佐々目遺身院と断定されたもので、
場所は「佐々目御影堂」だった。甘縄地域の火事はたびたびあったとされるが、頼助が鎌倉にもどってから永仁五年まで、
記録にのこるほどのものはなかった。ということは、火事が佐々目遺身院が住宅風の建築様式に切りかわる契機
となったわけではなかったことになる。では……

  上野氏の論文には佐々目遺身院における伝法潅頂の詳細な一覧表がのせられている。 それによると、「佐々目御影堂」
という名称が初出するのは、弘安八年の頼助が元瑜に伝法潅頂をおこなったときで、以後、永仁二年の頼助の最後の
伝法潅頂まで頻出する。佐々目、佐々目住房ともあるが、それは元瑜や他の阿闍梨の場合で、頼助がおこなうときは
一貫して「佐々目御影堂」となっている。鎌倉にもどってからの頼助は、佐々目遺身院を住房としていたらしいが、年譜をみて
もわかるように、弘安八年まで、佐々目遺身院をになう僧としての活動はしていない。蒙古降伏の祈祷も、惟康将軍の小御所
である明王院においてであった。上野氏の一覧表では、弘安八年以降、弘安十年、正応三年、正応五年、正応六年、
永仁元年、永仁二年と、十年間に頼助は計六回伝法潅頂をおこなった。弘安八年にはじめて「佐々目御影堂」があらわれ、
それを契機とするかのように頼助が精力的な活動を開始する。

  上野氏の一覧表には益助や益性法親王に関する伝授がはいっていないから、それを考慮にいれると、弘安八年は頼助
から益助への伝法潅頂があった年である。二月に頼助は益助に伝授をおこない、三月に元瑜におこなったということになる。
益助は、仁和寺御流の継承者として頼助から御流を授かるべく、京都から下向した人物である。 二月に儀式があったということ
は、前年にはすでに鎌倉におもむいていた。頼助は弘安十年にも益助に伝授をおこなっているから、すくなくともこの時期
益助は足かけ四年は鎌倉に滞在していた。このあと益助は京都にもどるのだが、頼助亡きあとの永仁六年、時の執権
貞時からよびよせられ、益性法親王の下向をまって伝授しつつ、嘉元三年(1305)鎌倉で亡くなる。これらのことから、
つぎのようなことがいえないだろうか。

  仁和寺では益助を御流の継承者となすべく鎌倉につかわした。いっぽう、受け入れる側の鎌倉では、これを機に佐々目遺身院
を鎌倉における仁和寺御流の拠点と定め、親王であられる益助にふさわしい住居として「佐々目御影堂」を建てた、と。元瑜への
伝授は、そうした背景があってのことだったのだろう。以後、佐々目遺身院の中心は、元瑜から頼助へと移行し、元瑜もまた頼助
から伝授された御流を生かし、さらに発展させて独自の流派をひらき、頼助亡きあとの佐々目遺身院でみごとな活動をくりひろ
げてゆく。こうしてみると、佐々目遺身院が佐々目遺身院たる性格を確立したのは、じつに弘安八年だったということが
できよう。その弘安八年に、霜月騒動が起きている。

  最初、年譜をつくったとき、火事が住宅風の寺院になったきっかけでないのなら、霜月騒動しかその機会はありえないと思い、
その論ですすめてみた。が、上野氏の一覧表をじっくりみているうちに、「佐々目御影堂」の初出のことが気になりはじめ、
考えが変わった。小説を書こうとするようなものは、どうしてもドラマティックなことに眼をうばわれやすく、獲物をみつけた猛獣
さながらめざとくみつけてすぐさま飛びつく。そこがおもしろいのだとも思うけれど、正確な叙述を旨とする考証にはとても危ない。

  私が歴史に興味をもつきっかけになったのが、松本清張氏の『清張通史』のシリーズだった。そこでは邪馬台国の
いわゆる卑弥呼の鏡をめぐってものすごくミステリアスな論が展開されていたりして、想像をかきたてられてやまなかった。
それに触発されて「青銅鏡物語」なる映画のシナリオを書き、第一回サンリオ映画脚本賞に応募して最終選考にのこった。
次の年は登呂遺跡を舞台にして書いて応募し、やはり最終選考にのこった。二年連続して最終選考にのこったご褒美にと、
特別に企画奨励賞なるものをもうけていただいた。サンリオ社長の辻信太郎氏の意向がつよくはたらいていたのだと思う。
  辻信太郎氏ご自身が非常なロマンティストでいられて、社長室に招いていただいたとき、
「ぼくは、『青銅鏡物語』のほうが好きだな」と、いわれた。

  それもそのはず、「青銅鏡物語」は舞台が邪馬台国で、卑弥呼の鏡が国産鏡かどうかをめぐってのロマンあふれる鏡工人
の話。登呂遺跡が舞台のほうは、稲作をめぐる堅実な村人の話だった。けれど、そのロマンこそが危険で、まず邪馬台国が
九州か大和かという問題、そして、卑弥呼の鏡が中国鏡か国産鏡かというふたつのおおきな問題が、学会においてまだ
決着がついていなかった。私としては邪馬台国九州説、卑弥呼の鏡は中国からきた工人がもたらした技術と材料で日本で
つくったという前提で物語を組みたてた。当初からそのことが気にかかっていた。もし将来、九州説が否定されて大和説が
正しいとなったら……、もし、銅の成分が分析されて私の前提がくつがえされたら……。映画化していただけないのは残念
だったけれど、負け惜しみでなく内心ほっとしていた部分があるのは事実です。最近になって、考古学の成果から大和説が
有力になったのをみるにつけ、やっぱり……と、当時のことをなつかしく思いだしつつ、ひとり胸をなでおろしたりしている。

  松本清張氏の通史は一般にはとても受け入れられたけれど、学者の方々からは、奔放な空想で歴史をかたる危うさがつねに
指摘されていた。この佐々目遺身院を書きながら、今私は、松本清張氏に浴びせられた非難を我がことのように肌身に感じ、
ほんとうのところ薄氷を踏む思いで書きすすめているのだけれど、興がのってきたり、この霜月騒動のようなものにでくわすと、
理性がひきとめたがっているのを熟知しながら、ついつい暴走してとどまるところを知らないまでになる。危ないなあと思う。
  慎重には慎重を期すつもりではいるのですが……

  そこで、安達泰盛にもどると、金沢文庫図録『仁和寺御流の聖教ー京・鎌倉の交流ー』には、安達泰盛が御流の保護者、
実質的なパトロンだったとある。弘安八年四月の「観助受潅頂記」は、観助が頼助らしき人物(水濡れと破損で解読困難な
ため、断定不可)から受法した際の記録だが、それによると、観助は最初安達泰盛に相談している。法会の儀式遂行の
相談役をつとめたのも泰盛だった。おこなわれた場所は、頼助が別当職についていた鶴岡八幡宮の別当坊である。参列者
には 「源氏以来の鎌倉将軍と連なる縁をもつ一族が濃厚であるのに対し、当時の執権・貞時の周辺の人はみえない」とある。

  こういうところに安達泰盛の名がでてくるとは思ってもいなかったからおどろいたのだが、考えてみれば泰盛は松下禅尼の
甥だし、安達一族の嫡流だから、佐々目遺身院かかわっていて当然だし、そもそも安達氏というのは、祖父の景盛が大連房
覚智と号し、三十年ものながきにわたって高野山に住したほどの篤信の家系である。覚智は、高野山において『大日経疏』の
刊行を発願、孫の泰盛とともに開版事業をすすめた。また、泰盛は、高野山の参道に参詣者がのぼる際の目印になる町石を
立てている。私もそうだったけれど、今は高野山にのぼる人はみなケーブルカーを利用して一気に山頂についてしまう
ところを、むかしの人は山道を逐一自分の足でたどってのぼった。

  町石について知ったのは、森敦著『マンダラ紀行』に書かれたのを読んだのがはじめてで、以下、それを引用させていた
だくと、「町石は正しくは町石卒都婆といい、石段を登り切るとすぐ右にあった。五輪を形どり、地輪を方形にして水輪、火輪、
風輪、空輪をいただいた石材である。高さ一丈一尺、幅一尺余、百八十町石と刻して、高野山頂根本大塔まで百八十町
あることを教え、毘沙門天の種子をもってすでに胎蔵界マンダラに一歩を印したことを語っている。」と、ある。山頂まで一町ごと
に石材をおく労力はともかく、のぼる人の慰労をかんがみてのこの行為のすごさは、いったい誰がこんな奇特なことをと、当時
から畏敬の念を抱いていた。町石ということばの感覚から他愛なく剛腕な江戸時代の富裕な商人とイメージしていたのだったが、
安達泰盛がそのうちのひとりと知ったとき、私の泰盛びいきは決定的になった。

その泰盛が、あっけなく霜月騒動で滅ぼされた。前年に時宗が急死し、子息の貞時が十四歳の若さにして執権に就任した
ため、貞時の乳父である平頼綱がみずからの覇権を確立すべく、幕府の重鎮泰盛を討ったのだった。パトロンを失った
佐々目遺身院はどうなったのか。 有力な檀越を失った寺院のありかたはさまざまである。一挙に廃絶に追いこまれた寺院、
継続はしても次第にさびれていってついには廃絶した寺院、あるいはほそぼそとでも継続している寺院、かつまた、
べつの有力者を得て変わらず栄えつづけた寺院……。称名寺は、金沢貞顕が幕府滅亡の際に高時らとともに東勝寺で
自害して果てたとき、当時の長老釼阿の機転で後醍醐天皇の勅願寺となり、以後も繁栄をつづけた……。

  さきにつくった年譜をみると、佐々目遺身院も泰盛を失ったからといって特別にさびれた感はない。では、称名寺のように
新しい後見をみつけたのか……。私はそうではないと思う。すでに二月と三月に佐々目遺身院で益助、元瑜への伝授が
おこなわれたというのに、泰盛が進行の相談役をつとめた観助の伝授が鶴岡八幡宮別当坊だったことが象徴するように、
泰盛が御流のパトロンのひとりではあったとしても、佐々目遺身院をまるごとかかえる有力な庇護者というのとはちがう
のではないか。佐々目遺身院のバックはもっとちがうところにある気がする。

  明確にいいきる根拠をつかんでいないから書いてしまうのは不安なのだけれど、久明将軍の病気平癒の祈祷といい、
蒙古降伏の祈祷が惟康将軍の小御所でおこなわれたことといい、頼助にはもっとつよい将軍家とのつながりがあるのでは
ないか。というか、佐々目遺身院が鎌倉における仁和寺の拠点になったこと自体すでに通常の有力者の氏寺の枠を越えた
ものがあるのではないか。このあたりのことや、「佐々目御影堂」は建てかえられてできたのかとか、「佐々目住房」とある
建物との関係や、何故頼助の生存中にだけ「佐々目御影堂」がつかわれているのかなど、まだまだこだわりたい問題は
あるけれど、きりがないのでやめにします。最後に、住宅風の寺院建築にこだわっていた私の四苦八苦ぶりをみかねた
読者の方から、京都東寺の御影堂が今にのこる寝殿造り系統の寺院建築ですと教えていただいたことを記して、次号から
は、この頼助が活躍した同じ時代に鎌倉に下向していたといわれる公家、冷泉為相卿について話をすすめたいと思います。


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