寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
Ⅷ
謡曲「六浦」は、鎌倉時代に称名寺を訪れたある公卿が、一本だけ紅葉している楓をみて、いかにしてこの一もとに時雨けむ
山にさきだつ庭のもみぢ葉詠った故事をもとにつくられています。謡曲では、ひとりの旅僧が、周囲の山々は紅葉している
のに、一本だけ青葉のままの楓があるのをみてふしぎに思っていると、楓の精があらわれ、問答のなかでこう語ります。
さきの詠歌に預りし時、この木心に思ふやう、かかるあづまの山里の、人も通はぬ古寺の庭に、
われ先立て紅葉せずば、いかで妙なる 御歌にも預るべき、功成り名遂げて身退くは、是天の道なり
といふ古き詞を深く信じ、今に紅葉を留めつつ、唯常盤木のごとく也 と。
以来、この楓は「青葉の楓」とよばれるようになりました。称名寺の庭園、阿字の池にかかる朱塗りの橋の際には、今も、
もう何代も植えかえられてはいるのでしょうけれど、その青葉の楓があり、立札に謡曲「六浦」が説明されています。楓は
立派なお公卿さまから歌を贈られたことを誇りに思って、以後紅葉することをやめたのです。
それほどまでに楓に栄誉を
覚えさせた公卿の名は冷泉為相、藤原定家の孫にあたる方です。母は『十六夜日記』の作者、阿仏尼。歌集の名を
『藤谷和歌集』といい、「いかにして」の歌もここに収められています。ただ、「題しらず」ですが。藤谷というのは鎌倉にある
ちいさな谷戸で、為相の鎌倉における邸宅はかつてそこにあったといいます。鶴岡八幡宮と寿福寺をむすぶ窟堂の道を
正三角形の底辺とすると、そのちょうど頂点にあたる位置の浄光明寺のあたりだそうです。裏山の、擦り減って今にもなくなって
しまいそうに危うい階段をのぼりきったところに、樹木にまもられるようにして、為相の墓といわれる宝篋印塔はありました。
宝篋印塔といえば高貴な身分の方にかかわる石塔として、五輪塔とはちがう威厳があるように今まで感じてきましたが、
そこはひっそりしたたたずまいに満ち、思いなし雅なお香の薫りさえただようふうに感じられ、やはりここはお公卿さまの
お墓なのだと妙に納得してしまいました。その墓所からは横須賀線の線路をへだてた向こうの英勝寺の近くにある阿仏尼の
墓が眺めやられ、それは為相の意向だったといいます。
佐々目遺身院についてのこの一文を書きはじめるまで、冷泉為相という人物への関心がこんなにも大きく私のなかで広がる
とは思ってもいなかった。佐々目遺身院に関する年表をつくり、探っているうちに、頼助が鎌倉にもどって活躍した時期と、
『十六夜日記』、そして『玉葉和歌集』が成立するまでの過程の時期がぴったり重なることに気づき、「青葉の楓」の故事は
知っていても、誰なのか興味をもったこともなかった公卿がほかならぬ冷泉為相だったことを知ったとき、俄然おもしろくなって
枝葉をひろげて調べはじめてしまった。
為相が鎌倉にいたのは周知の事実として、この時期京極為兼も下向しているし、そうしたら、もしかして、ふたりが佐々目
遺身院をたずねていることもありうる。寺院内に足を踏み入れていなくても、建物を眼にしたことはあるだろう。噂を耳にした
ことはあるだろう。あるいは、頼助と擦れちがったことも……。そう考えたら居ても立ってもいられなくなって、どこかにそれを
ほのめかす資料がのこっていたりはしないだろうかと。結果として、今のところまだそうした痕跡は見出せないでいるけれど……
あまりにも有名なことだけれど、定家の家系は孫の代になって二条家、京極家、冷泉家にわかれ、冷泉家の祖となったのが
為相だった。京極家は為教が早逝したためその任を為兼が果たすことになった。為相は為兼の叔父にあたるが、為相が
為家の晩年の子なのでかなり若く、為兼より九歳年下である。長兄の為氏は阿仏尼とほぼ同年齢だったという。頼助とは
十七歳もはなれているから、弘安六年(1283)に阿仏尼が鎌倉で亡くなり、おそらく下向しただろうこの年、為相がまだ二十一歳
の若輩であるのにたいし、頼助は三十八歳で、弘安の役を二年前に無事切りぬけ、鶴岡八幡宮別当職についている。
阿仏尼が『十六夜日記』に記すような下向をし、為相が終生鎌倉と深いかかわりをもつようになった発端は、為家の遺産相続
にからむ訴訟だった。為家は最初長子の為氏に細川庄をあたえる譲状を書いたが、その後阿仏尼とのあいだに為相をもうけた
ため、おのれ亡きあとの為相の行く末を心配して為氏からとりもどし、為相にあたえた。譲渡変更の形式が完全でなかった
ために、為家の死後、為氏が権利を主張して裁判へもつれこむことになった。当初は阿仏尼と為氏のあいだで争われていた
が、三年後に為氏も鎌倉で亡くなり、あとを為相と為世がひきつぐ。裁判はえんえんとつづき、たがいに譲らず勝訴、敗訴を
繰りかえし、為相の勝訴が確定したのは、阿仏尼が鎌倉に下向してから三十五年後の正和二年(1313)のことだった。
福田秀一氏『中世和歌史の研究』に「細川庄をめぐる二条冷泉両家の訴訟」という詳細な論文があって、この訴訟に関する
たくさんの文書が載せられている。それをみていたら、私にとっては大発見ともいうべき事柄があった。称名寺の檀越金沢北条氏
はこのころ実時の孫の貞顕の代になっていたが、貞顕は乾元元年(1302)から延慶元年(1308)まで六波羅探題南方の、
延慶三年(1310)から正和三年(1314)まで北方の任についている。京都で為相が訴訟をもちこんだのはその六波羅探題
だった。こういう係わりは思ってもみなかったから、当然といえば当然のことがみえなかったまでのことだけれど、福田氏が載せて
いられる文書に「六波羅探題北方貞顕」の文字を見出したときにはおどろいて、思わず声をあげてしまった。
鎌倉の武士は六波羅探題の任につくことを、幕府の中枢からはずれるかの不安をもって受けとめるようだけれど、事実そうした
意味で追いやられた人もあるらしいが、肌身に触れて文化を受容することができるのみならず、鎌倉にいれば家臣の一員として
平身低頭しているしかない身が、幕府を代表するものとして堂々と思いのほかの高貴な方々や高僧と身近に接し、自分を磨き
深めることができるのだから、これほど恵まれたいい機会はないと思う。
私は、どういうわけかむかしから『碧巖録』のような世界が好きで、師をもとめて禅僧が全国各地を転々とめぐりあるくすがた
に共感して、それを人生そのもののように感じてきた。真実の師と出逢うことが人生の究極のよろこびと思って生きてきた。
それで、そういう自覚もないままに、高校のときは今でいうミーハー的「追っかけ」さながら小林秀雄氏の講演があるときくと
もうわくわくして駆けつけて聴講していたし、(そのころ氏は『本居宣長』の執筆にとりかかってらして、講演内容はいつもその
ことだったが、今思うと、中江兆民とか、氏のいわれるところも師をもとめるすがた、というようなところがあった気がする)、
最近では自他ともにみとめる網野善彦先生の「追っかけ」をしています。
人は、ひとりでは自分を深めるのは無理だと思う。やはり、先人の智恵と蓄積、すばらしい人との係わり、導きがあってこそと
思います。小林秀雄氏も、網野善彦先生も、手がとどかない高みの方ではいられますが、同じ時代に生きて、同じ場に居合
わせ、しかも生身の声をきくことができただけで光栄で幸せなのです。
だから、この六波羅探題のような任を受けての上洛は、その人の人生におけるこのうえもない僥倖と私などは思っています。
貞顕も文化人実時の孫らしく、在京中は熱心に文化の摂取につとめ、書籍・典籍の収集おこたりなく金沢文庫の充実をはかった
し、法勝寺など庭園の美しい寺院をたずねては、鎌倉にもどった暁にはとこころに期している称名寺の景観整備のための参考
にした。どんなにか幅ひろいゆたかな教養人になって帰還したかは容易に想像される。
貞顕の六波羅探題在任中の行動については、以前もうひとつ眼にしている。そのときも、こんなところに貞顕が? と意外性に
眼をみはり、書状とか文字のうえでの名前でしかとらえたことのなかった貞顕が、突然生きた肉体をもつ人間として浮かびあがって
きて、ふうん、としばしたちどまってしまった。それは『増鏡』のなかの記述で、後深草院崩御の際のこと。貞顕は六波羅探題
南方として在京していた。その一節を。
宵過ぐる程に六波羅の貞顕・のり時二人、御とぶらひに参れり。京極表の門の前に、庄子に
尻かけてさぶらふ。従ふ者ども、左右に並 みゐたるさま、いとよそほしげなり。
(講談社学術文庫『増鏡』より)
と、こんなふうに六波羅探題在任当時の貞顕の動向がうかがえるのはふしぎな気がする。貞顕がこういう場に立ち会っている
のが歴史の偶然にしても、よくもその偶然に立ち会わせたものとありがたい気がする。六波羅探題に直訴するときのシステムが
どういうものかわからないけれど、貞顕がその任についているとき為相が訴訟をもちこんでいるのだから、為相が貞顕に対面して
いるのはまちがいないだろう。と、とりとめもなくここまでつづってきたけれど、じつは私は為相がいつ称名寺を訪れて
「いかにして」の歌を詠んだのかを知りたくて、ひそかに探りを入れているのです。
それについてはすでに金沢文庫の文庫長でいらした関靖氏の綿密な考察があります。けれど、『かねさは物語』のなかに
収められているその考察では、為相が鎌倉に下向したこと自体がまだ疑問視されていて、ほとんどの労力をその論証に
ついやされている。また、「題しらず」として『藤谷和歌集』に収められた「いかにして」の歌も、ただちに謡曲にあるような
「青葉の楓」とむすびついた称名寺での詠と考えることには慎重を期されている。でも、さきの福田氏の著書や、詳細な年譜
の付された井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』では為相の下向は確定的なものとされていて、私はそれを前提
にしたいと思う。「いかにして」の歌はあるいは称名寺での詠ではないかもしれないが、歌はともかく、為相が称名寺のあの
境内に立ったことがあるかということを考えるとき、その可能性は充分あると思うし、もしほんとうにそうだったら、それはすごく
すてきなことだと思う。なぜなら、あの冷泉為相卿が踏んだ土を、今この現代において、私も踏んだことになるのだから。
同じ空気、同じ景観を時空を超えて共有したことになるのだから……。それで手はじめに、為相は度々下向しているが、
いつ鎌倉の地にいたか、井上氏のつくられた年譜をもとにノートに書きだしてみた。そうしたら、三つの大きなブロックに
わけて考えることができる気がしてきたので、ここに記します。
第Ⅰ期 二十一~三十六歳
阿仏尼が亡くなった弘安六年(1283)から、為兼が佐渡に配流された永仁六年(1298)まで
第Ⅱ期 四十一~五十一歳
為兼が帰還した嘉元元年(1303)から、勝訴確定の正和二年(1313)まで
第Ⅲ期 五十三~六十六歳
為兼が土佐に配流さるべく六波羅に拘引された正和四年(1315)から、為相死去の嘉暦三年(1328)まで
もちろん、ここからぬけ落ちた年に、為相がたまたまなんらかの縁で称名寺におもむいたこともありうる。だから、これから推察
していくことは、厳密な意味で「いつ」を問題にするのではなく、「いつ」という問をバロメーターとして為相というひとりの公卿の
人生をみることになっていくのでしょう。その結果として、為相が称名寺を訪れたという確証がもてたらうれしいし、それがいつ
だったか確信できたらさらにうれしい。それで、いつならそういうこともありえたか、というよりいつだったらそういう条件が整うかを、
第Ⅰ期から第Ⅲ期をたどるなかで考えていきたいと思います。
そのなかで、頼助との接点が見出せたら、とまで希むのは欲ばりすぎかもしれませんが。