寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―


 冷泉為相が鎌倉に滞在した時期を三期にわけて考えることとして、三期それぞれの明記すべき事柄を記しておきたい。

 ■第Ⅰ期…伏見天皇による永仁勅撰があった時期
      撰者は、二条為世・京極為兼・飛鳥井雅有・九条隆博
   (時代)時宗没・貞時執権・霜月騒動・頼助から益助へ聖教伝授・伏見天皇践祚・
久明親王下向・平禅門の乱・頼助没・為兼佐渡配流
   ・佐々目遺身院指図53・54・65
  ■第Ⅱ期…『玉葉和歌集』成立の時期
      撰者、京極為兼
   (時代)貞顕六波羅探題・為兼帰洛・後深草院崩御・益助から益性法親王へ聖教伝授・益助没・
亀山院崩御・久明親王廃さる・花園天皇践祚・称名寺長老に釼阿・益性法親王から釼阿に聖教伝授・貞時没
   ・佐々目遺身院指図55
 ■第Ⅲ期…夢窓疎石と親交があった晩年
   (時代)貞顕連署・為兼土佐配流・益性法親王帰洛・
       貞顕称名寺再造営・伏見院崩御・後醍醐天皇即位・元瑜没・正中の変・貞顕執権
   ・佐々目遺身院指図56

 為相の晩年はまさに鎌倉後期です。鎌倉幕府滅亡の元弘三年(1333)は、為相が亡くなってわずか五年後です。
佐々目遺身院との関連でいえば、第Ⅰ期は頼助が益助に伝授するなど活躍した時期で、ここで頼助の時代は終わる。
第Ⅱ期は益助から益性法親王へ、益性法親王から称名寺長老釼阿への伝授がさかんにおこなわれた時代で、このあと
益性法親王は帰洛、後醍醐天皇のもとで重用されて生涯を終える。第Ⅲ期は元瑜が中心となって活動していたと思われるが、
正中二年の阿闍梨が有助とある伝法潅頂図(56)があるから、元瑜亡きあとは有助がそれを引き継いだとみていいのだろう。
有助は益性法親王の弟子だが、益助からも伝授されていて、その内容は釼阿が継承したものとかさなるという。ということは、
聖教は益性法親王から釼阿に伝授されたが、それとはべつに有助の系統があり、佐々目遺身院ではこの有助の
系統が主流だったということになる。また同じ年におこなわれた御影供には「東寺一流之顕識」とあり、この時期
佐々目遺身院は仁和寺のみならず東寺をもふくめる壮大な真言宗寺院のようすを呈していたことが想像される。

  なお、この時代に把握しておかなければならない事項として、持明院統と大覚寺統の皇統分裂があるので、それを。
為兼ひきいる京極派和歌の基盤である持明院統の天皇をここにあげさせていただくと、後深草天皇の皇子でいられ
る伏見天皇にはじまり、後伏見天皇・花園天皇・光厳天皇となります。いっぽう二条家が師範の大覚寺統は、亀山天皇の
皇子後宇多天皇から後二条天皇、そして、後醍醐天皇でいられます。この方々が、ほぼ交代々々に天皇の位につかれて
権力交代がなされ、それにともなって臣下の方々の栄達、失脚が繰りかえされました。帝位につかれた方々を歴代順に列挙
させていただくと、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇・伏見天皇・後伏見天皇・後二条天皇・花園天皇・後醍醐天皇・光厳
天皇となり、そこに持明院統、大覚寺統のどちらかをあてはめて考えると、いかに政権がめまぐるしく変わったかわかります。
益性法親王は亀山天皇の皇子でいられますから大覚寺統で、帰洛後の後醍醐天皇のもとでの重用というのもうなずかれ
ます。ということは、佐々目遺身院自体が大覚寺統、釼阿も益性法親王の弟子として大覚寺統、ひいては称名寺も、
ということになるのでしょうか。ここのところは、為兼や為相が鎌倉に下向したとき佐々目遺身院を訪ねたかどうかを考えるうえ
での重要なポイントになると思うのですが、はたしてどうなのか私のなかでまだ決着はついていません。
書いていくなかでおのずと湧いてくる気分に委ねたいと思っています。

  勅撰集は上皇や天皇といわれる方の命によってなされるわけですから、自然、勅撰集にも、持明院統派の勅撰集、
大覚寺統派の勅撰集というものができました。撰者ももちろん、院宣をくだす天皇の思し召しがなければえらばれることさえない
わけですから、二条、京極、冷泉の三家をになった当主の方々はおのずと政権抗争に巻きこまれ、明けくれることになります。

  京極為兼は持明院統で『玉葉和歌集』を編み、二条為世は大覚寺統で『新後撰和歌集』『新後撰和歌集』を編んでいます。
冷泉為相は、為兼と親しいあいだは持明院統の一員のようですが、そのときとて持明院統一辺倒ではなかったようで、
大覚寺統に世のなかが変わっても失脚するほどのことはなく、第Ⅲ期には後醍醐天皇の内裏の歌合に参加している。
これは為相が権力におもねって栄えたほうにつく姿勢をとったというのではなく、為兼や為世のようには完璧にどちらか
の権力とむすびついていなかった、というか、むすびつくことができなかったゆえの自在さというのでしょう。後醍醐天皇に
接近していても、鎌倉に下向するときには花園院のもとに挨拶にいっているところをみても、どちらからも反目されることの
ない温厚な人柄だったのではないでしょうか。勅撰集の撰者には一度としてなれませんでした。悲哀はあったと思いますが、
それゆえに得た自由、到達したところの大きさというものがあったのだと思います。なにしろ三十五年ものあいだつづいた裁判
で、人間としてみるべきものをみ尽くしているわけだから、それでいて飄々としていられるのは、よほど修練した結果としか思え
ない。こだわることの無意味さ辛さをあらゆるところで痛感し、捨ててきたのでしょう。おそらくそこにある種の精神の深まりが
あったと思います。というか、ないなどということはありえないでしょう。

  為相にはそういうところがあります。歌風は平明、歌論は自由だそうですが、あるいはそれが生来の性質であったにしても、
到達した境地でもあったといえるのではないでしょうか。為兼がかなりカリスマ性たっぷりの強烈な個性の人物だったというのと
対照的です。藤原定家も芸術にかぎっていえば精神に強靭なところがあり、為兼がその血を継いでいるのではないでしょうか。
と、このようなことを布石し終わったところで、第Ⅰ期の為相(二十一歳から三十六歳)をみていくことにします。

 この時期、為相がどこに住んだか。鎌倉に下向した京の人たちはいったいどこに居を構えたのだろう。 鎌倉に暮らしている
人や研究者の方々のあいだでは周知の事実というのがあるのかもしれないけれど、すくなくとも私の知るかぎり、というか、
知りたいかぎりでの人たちの動向はほとんどみえていない。『とはずがたり』の二条も、文章中に「大倉の谷といふ所」に住む小町
殿から「我がもとへ」と誘われたが、「中々むつかしくて…ちかきほどに宿をとり」とあるだけで、その宿がどこかは書かれていず、
また研究された報告も眼にしていない。発掘調査で「二条」と書かれた遺物でも出土しなければそういう特定は無理だろうし、
まずそんなことはありえないけれど。阿仏尼は『十六夜日記』に、

 あづまにてすむところは月影のやつとぞいふなるうらちかき山もとにて風いとあらしやまでらの
かたはらなればのどかにすごくてなみのおと松の風たえず    
(岩佐美代子「『十六夜日記』考察と翻刻」より)
                      
  とあり、極楽寺のあたりだったことがわかっている。ここにある「やまでら」が極楽寺なのです。為相は藤谷に住むまえに
そこにおちついたのだろうか。むかしから私はなんとなくそうではない気がしていた。月影谷では鎌倉の中心地から遠すぎ、
かよわい女の身の阿仏尼だからそういう場所にしか住めなかったが、本格的に鎌倉で争おうとしてくだってきた為相は、
もっと便のいいところを探したのではないかと。

  でも、何故、阿仏尼は極楽寺近くの月影谷などという、人とは性質を異にする場所に居を構えたのだろう。岩佐美代子先生
のさきにあげた論文に接するまで阿仏尼にたいしてあまりいい印象をもっていなかったから、そんなにまともに考えたわけ
ではないけれど、鎌倉の地図に月影谷の地名をみるたびに疑問が湧いて、はたとそこで思考が止まってしまうことがよく
あった。その疑問は深く追求しないでいただけにもやもやしていたから、細川涼一氏の「阿仏尼伝の一節─律宗
との関係をめぐって─」を読んだときはまさに字義どおり霧が晴れる思いでした。

  長くなるのでここではごくごく一部しか紹介できませんが、阿仏尼は為家にとつぐまえ出家して奈良の法華寺に住んでいた。
その法華寺は西大寺流律宗の尼寺で、阿仏尼当時の法華寺長老は西大寺叡尊から受戒した慈善であった。極楽寺の
長老は叡尊の弟子忍性で、阿仏尼はそういう律宗のつながりのなかで極楽寺境内に住むことになったのではないかと。
だから、月影谷というのはたんに阿仏尼が居を構えた場所というのではなく、極楽寺とペアの尼寺ではなかったかと。

  忍性といえば、叡尊のもとを離れてはじめて東国にくだったとき、最初に活動の拠点を置いたのは常陸の国、三村山極楽寺
だった。それがおそらく北条実時の帰依でいったん六浦におちつき、それから鎌倉に入って極楽寺の開山となっている。
称名寺の初代長老審海を実時に紹介したのも忍性だった。称名寺とはゆかりの深い人なのです。その忍性と阿仏尼が会って
いたかもしれないなんて。事実はミステリーよりもおもしろい、などといったら軽率でしょうか。文学史なら文学史、政治史なら
政治史、仏教史なら仏教史の範囲でみているだけではみえてこない人と人との交流があるのです。
それを統合する役目が文学なのではと、私はそんなふうに捉えています。

  為相に話をもどすと、尼寺である月影谷には住まなかったとしても、母親の住居だったそのあたりには為相が一度くらいは
訪れたとみていいでしょう。そうだとしたら、鎌倉の中心地へ向かうとちゅうに甘縄があり、笹目があるから、往復の途次あるいは
佐々目遺身院を眼にしたことがあるかもしれない。頼助と擦れちがっているかもしれない。すくなくとも活発な佐々目遺身院の
儀式、法会の気配は感じとっていただろう。と、こんなふうに可能性をのこして、つぎにこの時期為相が鎌倉にいたことを明かす
資料として歌書の奥書があり、歌会の記録があるので、井上氏の作成された年譜や本文からそれをぬきだすと、
 
 正応三年正月 慶融、大懸禅房にて定家筆本拾遺愚草写、為相より借りるか。
(井上氏は大懸禅房について、場所は明らかでないと書いていられるが、鎌倉の犬懸坊ではないでしょうか)
      八月 観慧、鎌倉釈迦堂谷にて定家筆拾遺集を写。これも為相より借りるか。
  正応四年   為相、源氏物語を写。(慶融に写さしめた)
  永仁元年十月 寂恵、詞花集を写、為相もこの頃詞花集写。為相・為顕、楚忽百首。(鎌倉で詠んだものであろう)
  永仁二年   為相家会、為顕出席。(鎌倉で行ったか)
  永仁三年   為相家歌合、為顕出席。(在東したのであろう)
  永仁四年二月 入道某、関東にて為相本定家自筆拾遺愚草写。

 と以上の件があり、為相は阿仏尼から相続した定家伝来の歌書(秘本)をたずさえて下向し、いろいろな人に書写させている。
井上氏によると、これには門流拡大や訴訟問題を有利にはこぶ意図があったらしい。そしてまた五味文彦氏は『明月記の
史科学』のなかで、『吾妻鏡』のなかに『明月記』の記述が資料としてつかわれていることは周知の事実だが、編纂者にそれを
提供したのは為相ではなかったかと書かれています。おそらく、ここにあらわれた件数よりずっと多くの書写が鎌倉でおこなわれ
たのでしょう。慶融は為相の異母兄でしばしば鎌倉に下向しているという。寂恵は幕府に仕えていた陰陽師で、晩年の為家に
入門し、阿仏尼と接していた人物。またべつの異母兄為顕が出席する歌会をもよおしているが、為顕は弘安元年以前から
関東に住んでいたという。歌会がおこなわれたこの為相家がどこだったか。月影谷でないとしたら、藤谷……。いずれにしろ
為相はほぼ定期的に長期にわたって鎌倉にいた。京での足跡も同様にのこされているから、旅路の労を考えたら大変だったと思う。

  なお、この時期の鎌倉歌壇のようすをうかがうことのできる資料として、『沙弥蓮愉集』があり、永仁元年に為兼が鎌倉に
下向したという興味深い記述がある。蓮愉の没年は永仁六年だから、まさに為相の第Ⅰ期中の人物なのです。蓮愉の
出家前の名は宇都宮景綱といい、宇都宮頼綱の孫。二条為氏、京極為教とは従兄弟にあたる。この当時宇都宮には鎌倉
とはちがう文化圏があって、宇都宮歌壇というべきものが存在していた。
そういう背景があってか為家が頼綱の娘と結婚し、為氏と為教が生まれた。

  蓮愉はその宇都宮歌壇の中心人物で、従兄弟の子である為世や為兼と親しく接し、上洛した折には為兼邸での歌会に参加
するなど活躍していた。為相の名もみえるが、為世や為兼ほどの具体的な交わりはみせていない。為相が若すぎてくいこむ
までに至らなかったというより、為相だけ血のつながりがないからだろう。『沙弥蓮愉集』からうかがえるのは、為世が久明親王や
執権貞時の歌の師範だったことや、為兼との頻繁な交流で、為相の鎌倉歌壇における立場はみえない。さきにみた慶融、寂恵、
為顕の名もなく、これらのことから、為相は裁判で争っている相手の為世が師範として君臨する鎌倉歌壇にはまだ入りこむことが
できず、中枢からはなれたところで人脈をひろげていっていたことが推測される。

  頼助の晩年は貞時邸での祈祷に明けくれたとあるから、為相が貞時邸での歌会に出席していれば、あるいは接点があるかも
と期待しつつ探ってきたけれど、その可能性は薄いと思うしかないようです。第Ⅱ期にはさかんに久明親王や貞時のもよおす
歌会に出席することになるのだが、そのころにはもう頼助は亡くなっている。

さて、為兼の下向ですが、それは『沙弥蓮愉集』にこう記されている。

権中納言為兼卿永仁元年歳暮の比、関東に下向侍りしに、世上事悦ありて帰洛侍りし時、
道より申送られ侍る
   年暮れし雪を霞にわけかへてみやこの春にたちかへりぬる
返し
   雪ふりて年暮れはてしあづま野に道ある春の跡はみえけむ

 永仁元年、伏見天皇は勅撰集をなす決意をされ、為世、為兼、飛鳥井雅有、九条隆博の四人に撰者の命をくだされた。もろ
もろの事情でこのときの勅撰集は成立しなかったが、『沙弥蓮愉集』にある詞書きの「世上事悦ありて」とあるのは、この撰者の件が
幕府にみとめられたことあたりではないかと井上氏はいわれます。じつはこの「寺院揺曳」で佐々目遺身院をとりあげたとき、
書きたい意欲のもっともそそられたのがこの為兼の下向だった。あの『玉葉和歌集』の撰者が、鎌倉の地を踏んでいたなんて……。
  そのおどろきというか感動が一歩すすんで、では為兼は佐々目遺身院を訪れただろうか、頼助と為兼が会うなどということが
あったりしたのだろうかという興味に変わった。はやくそれを書きたい、書いて自分のなかで明らかにしたいと、ずうっと焦れる
思いですすめてきてようやく今たどりついた。が、結論は、「non」……。なぜなら、佐々目遺身院は大覚寺統。
伏見天皇の側近である為兼は持明院統だから……。と、こう書いたのがひと月まえのことでした。

ところが、急転直下、あったのです! 頼助と為兼の接点が……。佐々目遺身院が住宅風の建築になった時期のことと
いい、頼助の上洛の年といい、入稿してから推論を変更せざるを得ない論文にめぐり逢う事態がつづいたので、今度から
は書きあげてもすぐには送らず、締め切り間際まで手もとに置いてじっくり構えることに決めました。
  そうしたら、その甲斐あって、またまた同じ結果に……。

  どうしてそうなるのでしょう。書くまでは眼隠しされてでもいるかのように、世界はかっきり構築されて揺るぎなく、
安心して書きすすめているのに、書き終わったとたん、それを根底から覆してしまう論文がさっと眼のまえに現れる……。
書かなかったら、たぶん論文もでてこないのでしょう。準備もととのっていないのに真実が開示されるほど、
世界は甘くはないのです。書くことで新事実を呼ぶことができるのなら、一度はあわてる思いをしても仕方ないと、
このごろでは書いたあとにあらわれる新展開を示唆してくれる論文をまつ気持にさえなってしまいました。

  このころすでに佐々目遺身院には仁和寺から上乗院岩蔵宮益助が下向し、頼助から聖教の伝授を受けています。益助
という方は、以前はどういう方かわからないと書いたけれど、今回入手したばかりの論文のひとつである村田正志氏の
「称名寺僧釼阿の自蹟」により、佐渡院宮忠成王の息、順徳天皇の孫であられる方とわかりました。この時期まだ益性法
親王は下向されていません。ということは、佐々目遺身院が大覚寺統かどうか考える必要なかったのです。井上氏の著作では、
為兼が下向したとき為相と会ったことが推測されている。為相は伏見天皇の勅撰集の撰者にみずからも選ばれたいとのぞんで
おり、あるいは会ってそんな話をしたかもしれない。為兼が頼助と接触をもったとしたら、為兼を介して為相もと考えることも
可能になる。が、それよりも、為相にあっては頼助との関係より、為兼によって久明親王の御所に伺候する機会がつくられた
のではと考えるほうが意味あるだろう。それが第Ⅱ期へのステップアップにつながったと。

  称名寺との関係でいえば、実時が亡くなって当主は顕時になっており、長老は初代審海。初期の不断念仏宗の寺院が
あらためられて戒律厳しい律宗寺院になっている。釼阿は、阿仏尼が鎌倉に下向した年あたりに称名寺に入ったらしいが、
益性法親王から付法されたり二代長老になるのは第Ⅱ期になってからのこと。為相における第Ⅰ期は、そのまま称名寺に
おける審海の時代であった。為相が称名寺を訪れるには、為相の側にも称名寺の側にも機が熟していないとみることが自然
だろう。実時の息顕時は、安達泰盛の娘婿という関係で霜月騒動のあと下総に蟄居させられたが、八年後復帰した。
為兼が下向したのと同じ永仁元年のことである。顕時が佐々目遺身院の記述のなかに登場してくるのですが、為兼も登場
するその『親玄僧正日記』を次号で紹介させていただきます。親玄は頼助の弟子で一時期佐々目遺身院に住し、
のちに醍醐寺座主にもなった方です。

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