寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
Ⅹ
永仁元年ほどさまざまな事柄、重要事件のひしめき合う年もめずらしい。私にとっては金沢文庫保管の佐々目遺身院
の指図五紙のうちの一紙がこの年のものであり、京極為兼が鎌倉に下向していることが明らかで、『親玄僧正日記』の
記述わずか三年のなかにこの年がふくまれるだけでも充分なのに、伏見天皇による勅撰集の令があり、さらには鎌倉に
二万三千余人もの死者がでた大地震が起き、そして平頼綱が貞時によって滅ぼされた平禅門の乱までも……
『親玄僧正日記』に関しては特にこのころにはもう『吾妻鏡』が終了しているだけに、のこされた意義は大きい。が、本題の
『親玄僧正日記』に移るまえに、この時期のキーパーソンともいうべき役柄は、良くも悪くも平頼綱にあると思うので、今回は
そこからはじめさせていただきます。平頼綱といえば安達泰盛を討った人物。泰盛びいきの私にとってはとうてい許し難い
「憎き奴」で、ここに名前を登場させること自体不本意なのだけれど、無視してとおれなくなった以上仕方ありません。そんな
「悪玉」たる人物を評して「良くも」というのは奇妙に思われるかもしれませんが、それについては流れのなかでおのずと
明らかにできるでしょう。
頼綱が巨大な権力をにぎることができたのは、ひとえに時宗の息貞時の乳父だったことにあるだろう。時宗亡きあと十四歳
で執権となった貞時を補佐したのが泰盛と頼綱だった。貞時からすれば、泰盛は祖父時頼以来のおそらくいかめしい幕府の
重鎮。いっぽう頼綱は自分をそだててくれた父親同然の人物。どちらにこころを許していたかは一目同然です。頼綱が泰盛を
討ったそのとき、貞時は十五歳。執権になった翌年で、頼綱の讒言に疑いをもつなど思いもよらない状況だった。そこから
実質上の頼綱の専制政治がはじまる。貞時が頼綱を討つのは永仁元年。貞時は二十三歳となっていて、頼綱の実態が把握
できての帰結だった。『とはずがたり』の二条は頼綱と対面しています。またもこの歴史的偶然によってのこされた人物の
交流の場面を『とはずがたり』から。
小町殿よりとてふみあり。なに事かとて見るに、「思ひかけぬことなれども、平入道が御ぜん、
御かたといふがもとへ、東二条院より五ぎぬをくだしつかはされたるが、調ぜられたるまま
にて、ぬひなどもせられぬを、申しあはせんとて、さりがたく申すに、出家のならひくるしからじ、
そのうへたれともしるまじ、ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつか
しくて、たびたび、かなふまじきよしを申ししかども、はては相模守のふみなどいふ物さへとりそへて、
なにかといはれしうへ、これにては、なにとも見沙汰する心ちにてあるに、やすかりぬべきことゆゑ、
なにかといはれんもむつかしくて、まかりぬ。(中略)御かたとかや出でたり。地は薄青に、むらさきの
濃きうすき糸にて、もみぢを、大きなる木におりうかしたる唐織物の二ぎぬに、白き裳を着たり。みめ
ことがら、ほこりかに、たけたかくおほきなり。かくいみじとみゆるほどに、入道、あなたより、はしりきて、
そでみじかなるしろきひたたれすがたにて、なれがほに添ひゐたりしぞ、やつるる心ちし侍りし。
(岩波文庫・玉井幸助校訂『問はず語り』より)
これは正応二年十月、惟康将軍が廃され、後深草院の皇子久明親王が新将軍として下向されるときのことだから、頼綱
が討たれる四年前のこと。新将軍をむかえるにあたって、室礼や裁縫など、京の作法が鎌倉びとにはわからないことが多く、
たまたま居合わせた京びとの二条が助言をもとめられた。相談は後深草院妃東二条院から頼綱の御かたのところにとどいた
衣装のことだった。それは、蘇芳の色の五衣に青い単衣が重なっているものだった。が、襲(かさね)は内へ向かうほど濃く
するのが常識なのに、上を濃くし、とんでもない珍妙な配色で縫製されてしまっていた。あまりのことに二条は「などかく」
と問う。「御服所の人々も知らずしに」と答えられ、「をかしけれども」正しい重なりをアドバイスする。二条はここではなにも
記していませんが、この東二条院という方は、二条と後深草天皇の仲を嫉妬して中傷し、二条が宮廷を追いだされる原因
をつくった方です。その東二条院から贈られた衣装の相談にのるなど、このときの二条のこころのうちはどんなだったでしょう。
周囲に人がいて、その人たちの誰ひとりとして知ることのない過去を、それももしその人たちが知ったらどれほどの驚愕
がはしるか察するにあまりある過去をもち、それゆえに、どれほど複雑であろうと思いはじっと自己のうちにおさめたままで
いなければならない二条のこの場面は、小説だったらこれ以上のシチュエーションはないという、大変ドラマティックなところです。
二条という女性はよくよく大変な場に遭遇する運命の持主です。これが実話でなかったらあまりにも創り過ぎと一笑のもとに
伏されてしまうでしょう。ドラマのない人生はありえないにしても、二条ほど特異なドラマに富んだ女性もそうそういない。これが
たんに二条の運命として片づけられるのか、二条という女性がじつはそういう危ない火種をかかえていて、みずから招きよせて
いるのか、判断のつきにくいところです。二条自身は「なにかといはれんもむつかしくて」というふうに、いつも仕方なくという
体裁をとってはいますが。
ともあれ、二条は平頼綱と会っています。そして、「たけたかくおほき」い御かたにならんだところを、「やつるる心ちし侍りし」
と記したのです。つまり、みすぼらしいと。二条の眼には頼綱はすこしもひとかどの人物とは映らなかった。私は、ここを
おもしろいと思うのです。なにしろあの西園寺実兼を恋人にもった二条です。後深草院にも、亀山天皇にも触手をはたら
かせてやまなかった二条です。その二条が、頼綱のどこにも美的なもの、カリスマ的なもの、実力者的なものをみていません。
オーラどころか、人としての品位をまったくみていないのです。おそらく、それは事実だったのでしょう。二条の直感、
審美眼を私は信じます。それに、この直前にえがかれた頼綱の邸のようすのけばけばしさ。これは貞時の宿所のうちの
「すみどの」とよばれる一画らしけれど、宮中生活のながかった二条でさえ、「金銀金玉をちりばめ、光耀鸞鏡をみがいてとは、
これにやとおぼえ、解脱の瓔珞にはあらねども、綾羅錦繍を身にまとひ、几帳のかたびら、ひき物まで、目もかがやき、
あたりも光るさまなり」と記さざるを得なかった……
泰盛を討って四年。頼綱はそういう暮らしをする人物になっていた。そしてそういう暮らしに匹敵する風格を頼綱は合わせ
もっていなかった。そんな頼綱のなにが時宗をして嫡子貞時の乳父に抜擢するほどの信頼をさせ得たか。時宗の眼には
真実がみえなかったのか。私にはふしぎでなりません。けれど、結局は頼綱の専横はながくはつづかず、泰盛を討った
八年後、討たれる。頼綱が政権を握ったのはわずか八年だった。そして、その八年が問題なのです。この八年のあいだに
頼綱がなにをしたか。そのまえに、討たれる直前の安達泰盛がなにをしていたか。
これは網野善彦先生の『蒙古襲来』に詳しいのですが、泰盛は亀山天皇と組んで「弘安の徳政」という政治をおしすすめ
ていた。そう、「徳政」なのです。そうだったからこそ、泰盛を偲んで竹崎季長が『蒙古襲来絵詞』を制作するなど、全国
各地で人々から追想されていたのです。泰盛は「北条時頼の政治の正統な継承であり、その完成」を、「政道にもとづく
政治の完成」を、「もしもそれを執権政治というならば…まさにその完成」をめざしていたのでした。
前々々回の「その七」では、泰盛については佐々目遺身院の有力なパトロンだったことまでしかわからず、奥にもっとすごい
事実がひそんでいるのではという思いをくすぶらせながら探る手だてがなく、仕方なく強引に泰盛についての項を終了に
したのですが、そのあと、多賀宗隼氏「金沢北条氏と安逹氏」を得て朧げながらわかってきたことによると、泰盛は、
というより、安逹氏そのものが強力に京や将軍家とむすびついていた。
京では、宮廷では、北条得宗家よりも安逹氏ほうが人望があったらしいのです。「わづかにのこされた断片的資料は泰盛
の活動の舞台がむしろ京都であり、畿内であったかの感を与えるものがある」そうです。多賀氏によると、安逹氏と将軍家、
ひいては宮廷そのものとのつながりは、頼朝と盛長にはじまり、実朝と景盛(実朝が暗殺されたので景盛は出家して高野山に
入ったのだった)、後嵯峨天皇と義景、亀山天皇と泰盛、というふうに連綿とつづいた。
ということは、それほど公家文化に精通している泰盛なら、佐々目遺身院のあの寝殿造系統の寺院建築は、泰盛自身
の采配でなったとみていいのでは? という思いが今にして兆します。有力なパトロンの一員だったかもしれないどころか、
有力なパトロンそのもの、そして、実質的に佐々目遺身院と将軍家をつなぐパイプ役……。
泰盛こそ鎌倉における公家文化の体現者だった……。
安逹氏の菩提寺だった無量寿寺(廃寺)に、佐々目遺身院と同様の住宅風の寺院建築の指図があるというのも、
やっとここで合点が行きました。今まで何故安逹氏ゆかりの寺院の両方に住宅風建築の寺院指図がのこされているのか
不可解で、それが明確に解けるまではと無量寿寺については意識的に無視してきたのですが。頼助の仁和寺聖教の
継承についても、たとえ時宗の配慮によるものとしても、泰盛のバックアップ抜きで考えてはいけないのかも知れません。
が、煩瑣になるので、これらについてはここではあえてこれ以上触れないでおき、ここから森幸夫氏の「平頼綱と公家政権」
を要約させていただくかたちで話をすすめさせていただきます。
そういう泰盛の改革だったから、「弘安の徳政」はおのずと将軍家に力をあたえるものとなり、それが得宗家に危機意識を
もたせ、霜月騒動という結果になってあらわれたという文脈がなりたつらしい。霜月騒動は、どうもたんに頼綱と泰盛の対立、
御内人と御家人の対立というようなものでないようです。で、そういう安逹氏と天皇家、将軍家との関係を一新しようとする
はたらきを頼綱がした。泰盛を討ったあと頼綱がしたことは亀山天皇廃位、伏見天皇即位、後深草院院政の実現だった。
泰盛と組まれて積極的に「弘安の改革」を推進してこられた亀山天皇は失意のあまり出家されます。さらに頼綱は、
惟康将軍の更迭、新将軍後深草院皇子久明親王の鎌倉下向をなしとげる。ここに、一分の隙もない持明院統の世が
現出します。頼綱の御かたに贈られた後深草院妃東二条院からの衣装は、その感謝の気持のあらわれにほかならないでしょう。
ここまで書けばもうお察しいただけたと思いますが、頼綱のはたらきがなければあの『玉葉和歌集』はこの世に存在しな
かったのです。なにしろ、伏見天皇の即位がなければ伏見天皇系統の勅撰集ができるはずないのですから。冒頭に書いた
「良くも」の意味がおわかりいただけたと思います。ここのところは、私にとってほんとうに複雑です。泰盛を討った人物
として憎むべきか、『玉葉和歌集』の生まれる基盤をつくった人物として感謝するべきか。森氏の論文では、頼綱は禅空という
真言律宗僧侶を後深草院の宮廷へおくりこんで、政治に介入させていた。頼綱によって院政をとることのできた後深草院は
そのいいなりになるしかなく、京における禅空、鎌倉における頼綱の専横は眼にあまるものとなっていき、しばらくはそれが
つづきます。けれどやがて事情が変わり、後深草院が出家され、伏見天皇親政の世となる。伏見天皇は後深草院の皇子では
いられますが、人間的には後深草院よりも亀山院に似ていらして、和歌を好まれ(亀山院もまた和歌をよくされています。後深草
院は和歌はされず、今様や管弦に秀でていらしたそうです)、意欲的に政治にとりくむ方でした。そんな伏見天皇の眼に、
禅空の人事や政治への介入は「不快」と映りました。そして、敢然と行動に移されます。
それを『実躬卿記』正応四年(1291)
五月二十九日条から。
以下向関東訴皮上人、又右衛門督(為兼)為公家御使被仰此事之由風聞
これは、四、五年にわたる禅空の専横に業を煮やした朝廷側が幕府に訴えたために、禅空は関東に召し下され、禅空の口入
によって昇進した人々が解官されたり、出仕をとめられたりしたことを記した記述の一部です。朝廷側から使者として発ったの
が京極為兼だった。正応四年は、永仁元年より二年前。ということは、為兼は前回書いた「永仁元年歳暮」より以前にも鎌倉に
下向していたことになります。この永仁元年の下向の用向きは定かではありませんが、正応四年時のはたらきからして、おそらく
このときも政治上の使命を帯びてのことだったと思います。
こんなふうに、為兼は歌人だけではおさまりきらない、実務的にも秀でた人物だった。ほとんど怪人のようで、私などはいつも為兼
を考えるとドストエフスキー『悪霊』のスタブローギンが彷彿としてくるのですが。ながくなるのでこれ以降のことをかいつまんで紹介
すると、ここで一時的に禅空・頼綱勢力は後退したもののすぐ復活し、それは頼綱が主人貞時によって討たれるまでつづく。
貞時は、弘安八年には若くてみすみす安逹泰盛の滅亡を許したが、成長した永仁元年には、頼綱の政治が「驕をきわめた恐怖政
治」という実態をもっていることを理解し、討つ。
おそらくその転機となったのが正応四年だった。為兼が使者となった伏見天皇からの訴えではじめて貞時は事実を理解
したのでしょう。貞時にしてみれば、みずからの乳父にするまでに父時宗が信頼していた頼綱が悪人だなどとうてい信じ難いこ
とで、受け入れるまでにこれだけの時間を要したとして無理はないでしょう。これは、貞時が決して乳父平頼綱と組んでいたわけ
でなかったことの証で、なにかしらほっとするものがあります。たとえ、その後の貞時の政治がどうなっていくにしろ。(このあと
貞時もまた専制政治にはしり、それを危惧する伏見天皇側と衝突して為兼が佐渡に流されるという歴史になっていくらしい……)
この貞時が、父時宗、祖父時頼とちがって貴族趣味というか、和歌をよくする人で、度々自邸で歌会をもよおしています。蒙古
襲来の危機もなくなり、それだけ世が平和になったということでしょう。ここに冷泉為相卿の入る余地がでてきます。先ばしりして
書いてしまいますが、正応五年に貞時がつのった三島社十首勧進のなかに為兼とともに為相も加わっています。これは、その
前年に下向した為兼の推進があってのこととみていいのではないでしょうか。前回、第Ⅰ期の為相はまだ鎌倉歌壇の中枢に入り
こめなかったと書きましたが、第Ⅰ期も半ばのこのころから徐々に貞時邸での、おそらくは久明将軍家での歌会にも出席できる
ようになっていたと思います。
頼綱亡きあと、亀山天皇・安逹泰盛のすすめた改革の路線は、伏見天皇・北条貞時に引き継がれ、ここに徳政が復活する。
これが永仁元年のことでした。のこされている『親玄僧正日記』は、正応五年、正応六年(永仁元年)、永仁二年の三年間の
記述です。だから、残念なことに、正応四年の為兼下向はすんでのことでこの枠内に入っていません。でも、為兼が佐々目遺
身院の頼助となにがしかの接触をもっただろう明らかな痕跡はあり、それを次号にて紹介させていただきます。この三年のうちの
永仁元年十一月十七日条に金沢北条氏二代当主顕時が登場します。すなわち、頼綱が討たれたその年のうちに佐々目
遺身院を訪ねているのです。このときまだ称名寺の檀越金沢北条氏はこの顕時の代でした。
顕時は泰盛の娘婿だった関係で霜月騒動のあと下総に蟄居させられていましたが、頼綱が討たれると早々に鎌倉にもどった
ことがここでわかります。このあと顕時は幕府奏執、引付頭というふうに幕府において重要な立場を重ねていきます。
「薄氷を踏む思い」ですごしてきた顕時が、晩年になってどんなにのびのびした人生をおくることができたか、ここでもまた
私はほっとするのです。顕時は、父実時、子息貞顕のふたりともども威厳ある人物のあいだにあって気配が風のような方です。
貞顕が顕時の三十三回忌に顕時の手紙をあつめ、漉いて円覚経を書写して供養したために、貞顕のようには書状がのこって
いず、それで今まであまりとりあげられませんでしたが、禅僧大休正念との交わりがあって、問答が『渓嵐拾葉集』にのこされている
ほど禅をよくされたそうです。
冷泉為相も禅僧と親交が深く、この時期夢窓疎石が鎌倉に入っているので、あるいは大休正念をたずねたあたりで顕時、
夢窓疎石、為相が相対した可能性もなくはないという気がしています。私のノートには延慶元年に夢窓疎石が六波羅亭に
おいて顕時の八年忌をつとめたという走り書きがあります。いつどこでそんな記述をみつけたのか、出どころをメモしておかな
かったことが悔やまれるのですが、このときはまだ顕時の禅への傾倒を知らず、どうして夢窓疎石が? とふしぎでなりません
でした。今にして思えばあながち有り得ないことでもないのです。貞顕の六波羅探題南方時代のことです。ということは、貞顕も
夢窓疎石と親交があり……。と、このあたりもっともっと追求したくてたまらないのですが手がまわらず、もうまもなく金沢文庫で
「顕時展」が予定されていて、この回を書くまでにまにあえば図録を参照することもできたのですが、残念です。
ともあれ、この顕時の鎌倉にもどって早々の佐々目遺身院への訪問はなにを意味するのでしょう。泰盛の一族は子息もふくめ
て滅ぼされてしまったわけだから、泰盛の娘婿だった顕時が新しく佐々目遺身院の檀越としてあらわれたということなので
しょうか。安達氏が滅びたといっても一族の女たちは安泰で、得宗の母という立場からその後の北条氏の影の実力者でありつづけ
たといいますから。この顕時をはさんで佐々目遺身院と称名寺とがつながり、貞顕の代になっての益性法親王による称名寺僧
釼阿への聖教伝授ということになるのでしょう。今まで貞顕の側からばかりみていたので、佐々目遺身院に釼阿の登場する
ことが唐突に感じられてならなかったのですが、あいだに顕時を投入して、やっと流れが自然になりました。