寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
Ⅺ
予告だけしておきながらなかなかたどりつけなかった『親玄僧正日記』を、この号でようやく紹介させていただくことができます。
はじめに、『親玄僧正日記』とはどういうものなのかを。つぎに、覚えていていただいてますでしょうか、「とめどもなく興味が守覚
法親王のほうにかたむいて」という書き出しで始めた「孔雀明王像」のあの図像をもちいる孔雀経法について書かせていただいて、
それから、本題の頼助と為兼の話にはいります。では、『親玄僧正日記』の概略を岩橋小彌太氏「親玄僧正と其の日記」から。
親玄という方は久我道忠の息。醍醐寺にはいり、二十八歳で師親快より受法。柔和な性質でかつ密教僧として資質が秀でて
おり、師の信用も篤かった。すくなとくも正応五年以前、すなわち四十八歳までには鎌倉に下っていたと思われる。
のちに醍醐寺座主までのぼりつめた方です。


(醍醐寺)
日記は、最初醍醐寺三宝院所蔵の『満済准后日記』三十八冊のなかに紛れこんでいて、一括して国宝に指定されて
いた。京都帝国大学文学部で校訂出版したとき、そのうちの三十七冊はたしかに准后の日記にまちがいないが、なかに
一冊、まったく異筆の時代もはるかにちがうものが混入していることがわかった。それが『親玄僧正日記』だったのです。
親玄が鎌倉に滞在、佐々目遺身院に住していたときの日記で、のこされている記述は正応五年から永仁二年にかけての
三年間。祈祷僧として幕府や将軍家に近侍していたため、貞時や久明親王の日常がことこまかに書かれていて、
『吾妻鏡』なきあとの、鎌倉末期の公武関係を理解するうえで貴重な史料となっているそうです。
頼助に関する事柄を調べていたときすでにこの日記の影がちらほらと見え隠れし、眼をとおす必要を感じさせられていたの
ですが、どうしたらそれに接することができるか在野のわたしには難問で、それにおそらく漢文でしょうから入手したところで判読
できるか覚束なく、まさか為兼まで登場するなど夢にも思っていませんでしたから、探す手をこまねいたまま先送りにしていました。
『中世内乱史研究』十四号~十六号にダイゴの会(親玄僧正日記を読む会)の方々によって翻刻されたものが載っていることが
わかったのは、為兼が佐々目遺身院を訪れた可能性はないと断言して書いた直後。締め切りまで余裕があったので、原稿は
編集部に送らず手元にのこしたまま、ひとまず確認だけしておこうと、いとも呑気な軽い気持で金沢文庫の図書室を訪れました。
ここで余談になりますが、最近では各地の図書館の蔵書検索がホームページでかんたんにできるようになり、とても便利になり
ました。以前にはせっかく出向いたのにその図書館になかったり、その号だけ欠けていたりして、がっかりして帰ることがたび
たびあったのですが、都立図書館も、上野の資料館も、そしてこの金沢文庫の図書室までも、自宅で検索できるのです。
真夏に汗してやっとたどりついたのに空振りで帰るなどという苦い経験をかさねた身には、この検索システムの普及は僥倖で、
こころみるたびにいまだに新鮮な感動を覚えます。国立国会図書館へいけばすべての図書がそろっているのでしょうけれど、
あまりに規模がおおきくて、待ち時間など負担感のほうがさきに立ち、よほどのことでもないかぎり足が向きません。
でも、その国会図書館ですが、考えてみると、以前参加させていただいた明治期刊行図書十六万冊全部のマイクロ化プロ
ジェクトの意義もそれだったのです。当時現場で、この事業によって外国からわざわざ見えた研究者が、図書館が休みだった
り閲覧不可だったりして用をなさず帰るなどの不便が解消されると上司の方から説明され、たった書物をみるだけの目的で
日本を訪れるなど、研究に携わる方々の労苦と熱意にびっくりしつつ、資料を手にする大変さを垣間みた気がしたものでした。
わたしが従事していたあいだも、江戸時代の漢方の医学を研究しているというドイツの金髪の青年や、中世尼僧史を研究され
ているアメリカコロンビア大学のバーバラ・ルーシュさんなど、実際にたくさんの方々が見学や原本をみるためにおみえになり、
上司の方の説明があながち誇張ではないことを肌身にしみて感じていました。バーバラさんという女性の方はドナルド・キーン
氏の愛弟子でいらして、そのあとドナルド・キーン氏もおみえになりましたが、日本語にすばらしく堪能な、上品で穏やかな
紳士でいらっしゃいました。上司の方の案内でフロアをめぐられるあいだ、いっしょについてたっぷり写真を撮らせていただき
ましたが、大切な宝物のような思い出です。当時制作したマイクロフィルムは、今は世界中の大学の図書館におさめられ、
活用されているそうです。と、なつかしさに思わず筆がはしってしまいました。
ともあれ、『中世内乱史研究』は検索によって金沢文庫の図書室にあることがわかり、安心して片道二時間かけての称名寺
訪問を楽しむことにしました。雑誌なら都立図書館にだってそろっているのでしょうけれど、どこへ行くかはそのときの気分に
よって決めるので、その日は緊急意識がないまま久しぶりに遠出もいいなと、はるばる金沢文庫まで向かったまでのことでした。
でも、コピーした『親玄僧正日記』に眼をとおして、わたしの物見遊山気分は一気に吹き飛んでしまいました。なにしろ、正応
五年といえば日記の最初の年。その正応五年の二月から記述がはじまるのですが、その二月の条項を記した最初の頁にもう
「為兼」の文字がでてくる。えっ、なに! と眼が釘づけになりました。これは! という思いで、それからは読めない漢文を
「読む」のではなく、象形文字をたどるかたちで、書かれている内容を追う日々がはじまりました。こういうとき、漢字はうれしい
ですね。読めなくてもなんとなく筋は追えるのです。困るのは文脈ではなく、人名が官職で書かれているので、翻刻された方の
注がないと誰だかまったくわからないところ。頼助も「頼助」とは記されていず、「若宮僧正」「佐々目」またはたんに「僧正」と
いった具合。親玄は「太政僧正」。「宮」「太守」「相州」はいいとして、「羽林」となると、もうわたしにはお手上げです。
どなたか個人レッスンを!
と、こころのなかで悲鳴をあげる連続でした。
こんなふうに為兼は日記がはじまる早々登場するのですが、為兼の本題に入るまえに、わたしにはどうしても書いておきたい
ことがあります。それは、孔雀経法のこと。もろもろの病、害毒を除き、病気平癒、延命息災、請雨止雨などの効力に加えて、
調伏にまで効き目があるという修法。仁和寺ではあの美しい「孔雀明王像」を本尊にした孔雀経法がおこなわれ、高倉天皇
による中宮徳子の安産祈願、後白河院による平家調伏祈願の孔雀経法を、守覚法親王が修されたことはさきに書きました。
そのとき、その守覚法親王の法の流れを継ぐ益性法親王が下向されたのなら、鎌倉に於いても孔雀経法が修されたと考えても
いいのではという疑問、というかわたしの夢を記しました。もし、修していたとしたら、どんな画像の明王像だったのだろうと。
鎌倉にあまり孔雀明王像がみられないことから、結局否定的に終わらせるしかなかったのですが。ところが、なんと、
『親玄僧正日記』にはその孔雀経法を修したことが明記されているのです。それも、一度だけでなく。
『親玄僧正日記』は、僧正という偉い地位にあるお坊さまの日記ですから、毎日のできごとをたんたんと記したことが、
おのずと修した修法の綿密な記録になっている。ここのあたりがおもしろいですね。なにが、どんなふうに役立つのか。
なにを知りたいかが、なにによって解きほぐされるのか。一筋縄で解決のつかない問題が、ひょんなことからほぐれていく……、
まさに人生の醍醐味です。それで、まず『親玄僧正日記』から、「孔雀経法」の文字の記載部分を抜きだすと、
正応五年 六月十三日 自今夜乙姫御前料 孔雀経護摩可始行云々、
十一月廿五日 今日孔雀経護摩、運時七条僧正、平左衛門尉之許へ遣状、
使者向云々、「廿日天晴、自今日孔雀経護摩始行之、山内禅台祈也、…」
永仁元年 五月 六日 自今夕孔雀経護摩始也、
九月十五日 永仁元年八月廿一日宣下状……益■(助)上乗院也、去三月性仁法親王、孔雀経賞譲……
と、以上の三件の護摩の記録と一通の宣下状にあらわれる記載があります。永仁二年に孔雀経法の記載はありません。
それは、永仁二年が前年のこのふたつの年と性質を異にしているためで、外部にあまり事件がなく、貞時による男子
誕生祈願に主眼がおかれたこの年、修法の種類がどことなく妖しい色合いを帯びているのを感じます。
また、親玄は幾度となく夢想を記していて、王と王妃の合体を夢想した慈円の「夢之記」を思い出してしまいました。
『源氏物語』の冷泉帝出生の秘密、じつは冷泉帝は桐壺帝の子でなく、光源氏と藤壷の不義密通の子という真実を冷泉帝
に打ち明けたのは、夜居の僧でした。どうもこの時代、僧侶の役割はかなりきわどい妖しい立場にあったようです。
守覚法親王の中宮徳子への祈祷は安産という「事後」にたいするものだから、それほど感じなかったのですが、
それにしても、守覚法親王は平家側の后の安産と、平家打倒をめざす後白河院の祈願と、矛盾するふたつの祈祷を
平然とやってのけていられる。人のこころの奥深く秘められた願望の成就を祈祷するところに意味があるわけですから、
僧侶という立場でいられる方は絶対の秘密を厳守する訓練をされた、通常でははかりしれない精神構造をもっていられる
のです。それが、どんなに妖しい内容でも、まったく平静な筆致でたんたんと記されている所以でしょう。
永仁二年のことはこれくらいにして、ここから三件の護摩について個別にみていきたいと思います。最初の正応五年六月
十三日条の孔雀経護摩は、乙姫というおそらく貞時の子女にたいする祈祷。祈願内容は病気平癒かなにかでしょう。
つぎの、十一月廿五日の護摩ですが、ここにわたしはなにかとてつもないものを感じるのです。ここからは根拠もなにもない
小説家の天衣無縫の空想と思い、かならずしも真実ではないぞ、荒唐無稽の絵空事もありうるぞ、と危惧しながら読んでください。
この廿五日の前日、すなわち廿四日の条に、(後筆)と注のある「今日寄合、異国打手大将軍事、可治定云々、」があります。
この日、親玄は山内に行っていろいろな人と会っています。そのひとりに七条僧正がいました。七条僧正という方については、
後のほうの頁に(道朝)という注がありますが、この僧正が廿五日に平左衛門尉という人物のもとへ孔雀経護摩についての
書状を送っているのです。これだけの流れでみれば、表向きこの護摩の祈願内容は異国調伏です。そしてそれは「山内
禅台」の「祈り」なのです。が、果たしてそれはほんとうでしょうか。
山内というのは今の北鎌倉のあたりで、一帯は北条得宗家の別業地域でした。だからあの地に時頼が建長寺を、時宗が
円覚寺を建て、それぞれその地に葬られているわけです。浄智寺は時宗の弟宗政の、東慶寺は時宗の未亡人覚山尼の
建立といいます。ここには貞時の別邸もあり、久明将軍もたびたび渡御されています。「山内禅台」の「祈り」というのは、
すなわち北条得宗家の祈りとみていいでしょう。貞時はまだ出家していないと思うので、禅台が誰をさすのかわかりませんが。
平左衛門尉は、平頼綱の息宗綱ではないでしょうか。そうだとしたらという前提で、ここからがわたしの空想です。もしちがう
なら、とんでもない過ちを犯すことになってしまいますので、ここのところは重々お含みおきを。平左衛門尉が頼綱そのひとを指し
ているとも考えられますが、この日記では頼綱は「禅門」「平禅門」と記されている。一方、宗綱は「平左衛門宗綱」です。
またまたでてきましたが、安達泰盛を討ったあの頼綱です。頼綱にはふたりの息子がいて、ひとりはこの宗綱。もうひとりが
飯沼資宗です。ふたりは兄弟でありながら、頼綱が討たれた際に正反対の運命をたどります。宗綱は頼綱とは志を異に
していたからと許され、資宗は一心同体であったからともに自害しほろびる。
『とはずがたり』二条はこの兄弟とも会っています。宗綱については「将軍の侍所の所司とて参りしありさまなどは、物にくらべ
ば、関白などの御ふるまひと見えき」と記し、惟康将軍が廃され鎌倉を追われることになって御所をでられるときの叙述では、
「相模守のつかひとて、平二郎左衛門いできたり。そののち、先例なりとて、御輿さかさまによすべしといふ。又ここには、
いまだ御輿にだに召さぬさきに、寝殿には、小舎人といふ者のいやしげなるが、わらうづはきながら、上へのぼりて、御簾ひき
おとしなどするも、いと目もあてられず」と、前将軍を堂々と罪人扱いし、配下のものの傍若無人の横暴ぶりをひきとめも
しない非情さを書いています。
いくら役職上当然であるとしても、そこは人間。血もこころもあるならば、どこかで目こぼしして情をかける優しさ、気高
さがあっていい。まして相手は将軍だった方です。後嵯峨上皇を祖父にもち、宗尊親王の皇子であられる方です。そうでなく
ても、『平家物語』には敵味方でありながら情にほだされ、相手の意を汲むうるわしい交流が随所に描かれていたと思います。
弟の飯沼資宗とは二条は歌の交わりをとおして親しみ、「常にかやうによりあふとて、あやしく『いかなる契などぞ』と申す人も
ある」と、人から仲を取り沙汰されるまでなっている。尼僧でありながら、ここでも危ない二条です。
さて、孔雀経護摩ですが、後白河院は平家調伏の祈願をこめました。そして、『親玄僧正日記』のここでも表向き異国調伏
でした。そう、表向き、です。わたしは「表向き」を感じたのです。祈祷というのは妖しくて、秘密裡にこめられた願いがみえる
はずありませんから、表向きの理由を簡単に信じてはいけないのです。後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の祈願をこめて修した
祈祷は、表向き中宮嬉子の安産祈願でした。後鳥羽院が白河に建立した最勝四天王院。その障子名所絵および詩歌
には、慈円をはじめ藤原定家など新古今歌人のそうそうたるメンバーが顔を揃えたといいますが、実はこの最勝四天王院の
建立それ自体が院の関東調伏の意が込められていた。では、この十一月廿五日の孔雀経法護摩は?それに、何故、
「異国打手大将軍事」などという後筆が入れられたのでしょう。まるでとってつけたようで、なにかを糊塗する意図を感じませんか?
この五カ月後の永仁元年(改元前なので、実際は正応六年)四月二十二日、平頼綱が討たれる平禅門の乱が起きます。
そこで頼綱と助宗は滅び、宗綱は許される。のちに佐渡に流されますが、とにかく宗綱は助かるのです。変だとおもいませ
んか? 鎌倉のこういった内乱の場合、男は有無をいわさず一族郎党皆殺されるのが常です。それが、たった
「合戦以前平左衛門宗綱令参云々、父子違逆之上者」というだけで、当事者そのものの嫡男が許される
など、そんなことがあるでしょうか。『とはずがたり』の注などでは、宗綱が密告してというふうにあります。
宗綱は以前から父からの離脱を考えていたのではないでしょうか。もっといえば、父を討つ手筈をととのえる貞時の側に加わって
いたのでは。密告しても罪は罪。加担してこそ罪をまぬがれる……。孔雀経法護摩の真の目的は、「頼綱調伏」だった……。
と、考えることができないでしょうか。そこに平左衛門尉もかかわっていたと。内乱直後の五月六日、また孔雀経護摩は
おこなわれます。このときの記述からは目的が読みとれませんが、前後の条を読んでもまだ世情が不安定な感があります。
そして、五月一日の条にあの七条僧正がまたあらわれます。平左衛門尉に遣状を送った人物です。今度は七条僧正自身が
佐々目遺身院を訪ねてくるのです。それを親玄は「光臨」と記しました。なにか、勝ち戦のあとの晴れやかな密談といった趣です。
そう、親玄もふくめて佐々目遺身院自体がこの乱にかかわっていたのです。翻刻したダイゴの会の解説では、親玄への
恩賞沙汰について触れられています。たったこれだけの符合で断定するのは危険かもしれませんが、六日のこの護摩もまた
平禅門の乱の関係、その後処理かなにかとみていいのではないでしょうか。以後、『親玄僧正日記』にみるかぎり、孔雀経法
護摩はおこなわれていません。それは「調伏」の必要性がなくなったからと、わたしなどは思います。
最後に九月十五日条について。
弘安八年、これは霜月騒動のあった年ですが、益助は鎌倉に下向していて、佐々目
遺身院において頼助から仁和寺御流の伝授を受けました。弘安十年にも伝授があって、そのあと京へもどっています。
ふたたび下向するのは頼助が亡くなってからだから、『親玄僧正日記』のこのあたりには鎌倉にいなかったと思われます。
ということは、この時期佐々目遺身院において親玄と益助がいっしょに住してはいなかったことになります。
その益助の名前が一回だけ『親玄僧正日記』に記されます。それが永仁元年九月条の八月廿一日宣下状です。「孔雀経
賞譲」の意味はわかりませんが、これで佐々目遺身院における孔雀経法が益助と、すなわち益助がバックボーンとする仁和寺
と、密接につながるものであることは読みとっていいと思います。そうだとしたら、佐々目遺身院の「孔雀明王像」もまたやはり
宋画、とまではいかなくても、それを模した宋画風の優美なものだったと考えていいでしょう。のこっていないのが惜しまれます。
どうも鎌倉の孔雀経法は物騒です。後白河院の平家調伏にしても物騒なことに変わりないのですが、かかわった人物が
憧れの守覚法親王と大嫌いな頼綱父子というだけで、わたしにはまったくべつものにみえてしまうというのは、考えてみれば
不公平の極みかもしれません。守覚法親王の流れを汲む孔雀経法なら、鎌倉の佐々目遺身院において、どんなにか
美しい「孔雀明王像」がかかげられただろうという期待で読み解きはじめた『親玄僧正日記』だったのですが、
とんでもない方向に話がいってしまいました。
ここで前号の訂正とお詫びをさせていただきます。前回の最後に、夢窓疎石が京の六波羅亭に於いておこなわれた
北条顕時の八年忌をつとめたメモを記しましたが、どう年譜を調べても夢窓疎石がこの時期京に入っている形跡はなく、
この件については削除ということでお願いいたします。