寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―

 何かまちがいを犯していたようです。ここで『親玄僧正日記』から、「佐々目」という場所に関する人の移動の記述を抜き書きしてみます。

  *正応五年三月卅日 今日自佐々目力者一人進発上洛了、
       六月十八日 自今日僧正移住佐々目云々、
      八月七日 僧正佐々目へ被向、
  *永仁元年年正月一日 於佐々目、有及打会云々、
         三日 於佐々目、及打会、卿阿及開口云々、恒例田楽、移于佐々目云々、
         四日 恒例猿楽於佐々目結構云々、
       七月十八日 元瑜入来了、
      九月十一日 向佐々目了、
     十一月廿八日 今日僧正佐々目へ被帰云々、
     十二月廿日 羽林向佐々目了、
         廿二日 今日安東新左衛門、為使者、向佐々目之由、
  *永仁二年正月廿二日 宮律等向佐々目了、
      三月十四日 僧正被来臨了、
      五月十四日 為沐浴僧正来臨、資藤入来付僧正了、
     十二月十二日 今夜愚身向佐々目了、
        十七日 向佐々目、
        廿七日 為僧正坊、向佐々目了、

と、以上の件があります。僧正は頼助、元瑜は佐々目遺身院の長老です。ここからみえてくるのは、親玄のいる場所からは、「佐々目」
は離れた位置にあるということ。佐々目へ「向」かう、そして佐々目からは「来」るのです。頼助や元瑜が「来」たのは親玄のいる場所
へ来たのであって、「佐々目」へではありません。元瑜は佐々目遺身院の長老だから佐々目遺身院にいて、そこから親玄のいる場所
へ「来」たのでしょう。頼助はこのころ鶴岡八幡宮別当職をつとめていたから、常住はそちらのほうだったのだと思います。そして、時折
佐々目遺身院へ移住したり、帰ったりしたのでしょう。頼助が親玄のもとへ来たときは、師弟の礼をとってなのでしょう、「来臨」です。
頼助は親玄の付法の師です。でも、頼助と親玄は一歳しかちがわず、しかも頼助のほうが年下です。

  今までわたしは親玄は佐々目遺身院に住んでいるのだとばかり思っていました。何故そんなまちがいを犯してしまったかといえば、
これはもう完全に勝手な思い込みとしかいいようがありません。この日記の存在を遠くから漠然とながめていたときはそうではありま
せんでした。佐々目遺身院に関連して読む必要を感じはじめたときもまだそうではなかった気がします。『中世内乱史研究』に
翻刻されているとわかり、いざ手にできるようになった段階で、どこかでするっと思考に「すりこみ」がはたらいてしまいました。

  では、何故、読みはじめてから変に思わなかったのか。じつは、変に思っていたのです。すすむにつれ、読みかえすにつれ、
何度も違和感はあったのです。とくに永仁二年の「愚身向佐々目」には。それを確認する気持にまでいたらしめなかったのは、
筆頭の正応五年三月卅日の「佐々目力者進発」云々の条でした。佐々目から「進発」したのだから、あとのほうで「向」かうと書かれ
てもそれは気のせいと、違和感を覚えるたびに暗黙のうちにかき消していました。今になってみれば、これは佐々目から進発
したのではなく、佐々目の力者が進発したということで、なにも親玄が佐々目遺身院にいて力者を見送っている記述でないことは
わかります。これが終盤にあったら、そして、早いうちに佐々目へ「向」かう記事があらわれていたら、親玄が佐々目遺身院にいる
という先入観はおそらく正されていたでしょう。ここまで信じてついてきてくださった読者の方には申し訳ないことをしてしまいました。

  それで、ここで、親玄が佐々目遺身院にいるのでないなら、今まで組み立ててきた論が成立するか、検証させていただきます。
まず、称名寺檀越金沢北条氏二代当主顕時の来訪について。それは、平頼綱が打たれた永仁元年の十一月十七日条に
「越州禅門被参了」というかたちであらわれます。安達泰盛の娘婿だった縁で下総蟄居の生活をやむなくされた顕時でしたが、
頼綱の失脚によって幕府中枢への復帰をはたし、貞時の信任のもとに穏やかな生涯を終えることができたのでした。その
おそらく鎌倉にもどった早々の記録が『親玄僧正日記』の条です。

「その十」でわたしが顕時の来訪に特別な意味をもたせたのは、「泰盛亡きあとの佐々目遺身院の新しい檀越としてあらわれた」
と読んだからでした。それが、佐々目遺身院を訪ねたのでなかったとしたら……。このときの来訪の目的はわからず、顕時は
どこかべつのところにいる親玄を訪ねたのであって、佐々目遺身院を訪ねたのではありませんでした。だとすると、顕時が佐々目
遺身院の新しい檀越となった可能性をとり消さなければならなくなったでしょうか。いえ、その必要はなく思われます。なぜなら、
泰盛以下安達の家系の男はみな亡くなっており、霜月騒動当時赤子だったゆえに難を逃れた男子が安達を復興するのは
これよりずっとあとです。

  この時期、「その十」でも書きましたが、安達氏が滅亡したといっても、得宗の妻、得宗の母という地位を代々生み出してきた
一族の女たちは安泰で、幕府内部で変わらず力をもっていました。顕時の妻はそういう女の姉妹でした。そして、この当時、
幕府の重鎮として復帰した顕時は安達にかかわる男たちのなかで最大の実力者でした。顕時が佐々目遺身院の管理にかかわる
ことになったとしてもおかしくないと思います。だから、顕時が佐々目遺身院と称名寺の両者をつなぐパイプ役となり、貞顕の代に
なって称名寺の釼阿が佐々目遺身院に登場してきたという推測も訂正しなくていいと思います。顕時が佐々目遺身院を訪ねて
きたと思ったのはとんでもないうっかりミスでしたが、わずか数文字ほどのこの記事をきっかけにこういう連関を考えることができた
のはわたしにとって幸いでした。

  つぎに、孔雀経法について。これは、どこで修されたかについて書かれていませんが、特に記述がない分は親玄が自分の
居場所でと読みとれます。佐々目遺身院でと読むのはここでは不可能です。ただ、この孔雀経法が佐々目遺身院の、ひいては
仁和寺御室の系統のものであるということは、永仁元年九月の「益助上乗院也」の条で明らかでしょう。佐々目遺身院でおこな
われたかどうかはべつとして、鎌倉でも孔雀経法が修されていたことだけは事実です。

  では、もっと大事な平禅門の乱と孔雀経法とのかかわりは? 「その十一」で、わたしは頼綱が打たれる五カ月前におこなわれた
修法を、頼綱調伏の祈願ではないかと書きました。そして、佐々目遺身院がその中心地であるかのように書いてしまいました。
ここを正確にいいなおしてみたいと思います。まず、佐々目遺身院は乱にかかわっていた。それはまちがいないと思います。
根拠はありませんが、乱の直前に頼助が頼綱を訪ねており、「無対面、指合云々」と、一読して不審なのです。頼助だけでなく、
とにかくこのあたり人の気配が不審で、頼助の件もその一端とみてとれます。これは、なにも、平禅門の乱があったからそう読める
というのでなく、直後にそんな事件が起きるのを知らないで読んだ最初のときにもう、なんだろう、この頻繁なひとの出入りは? 
と感じてしまったくらいです。そして、そのあわただしさのベクトルのさきがすべて頼綱へ向いているのも、さだかに認識しないまでも、
感じとれるような状況です。

  乱の直前、十日ほどまえに頼助が頼綱を訪ね、その三日後、「上下死者之輩不知幾千人」「建長寺炎上、道隆禅師影堂之外
不残一宇云々」という「先代未曾有」の大地震が起き、その混乱に乗じるかのように、二十二日、平禅門の乱は決行されます。親玄
がかかわっていたことは『中世内乱史研究』でも解説で言及されています。すなわち、親玄は四カ月後に恩賞らしきものを受けて
いるのです。ならば、前年十一月に孔雀経法を修したのは誰か。親玄は同じ日に仁王経法の護摩をはじめているので、親玄で
ないことはたしかです。仁王経法護摩はたしか国家太平を祈る祈祷で、この時期のこの修法にはやはりなにか特別の意味を
覚えてしまいます。

  孔雀経法については、七条僧正が平左衛門尉のもとへつかわした書状と関連して記しているので、修したのは七条僧正と読み
とればいいのかもしれません。そうだからこそ、乱のあと七条僧正が「光臨」するのでしょう。そして、この「光臨」は佐々目遺身院
にではなく、親玄の居住する場所へでした。おそらく佐々目遺身院で頼助が、こちらでは親玄が、そして親玄と連絡をとりながら
七条僧正が、というふうな連携プレーがなり立っていたのでしょう。中心はやはり頼助だと思います。なにしろ得宗家とのつながり
深い鎌倉一の高僧です。蒙古調伏の折の祈祷以来、頼助はそういう立場になっていたのではないでしょうか。とすれば、佐々目
遺身院もまた平禅門の乱と密接にかかわっていたとみるしかありません。
  静謐な悟りの場とは対極の僧侶の世界の思いがけない不穏なうごきをみてしまいました。

  それにしても、親玄はどこに住んでいたのでしょう。ふつうに考えれば「どこかの寺院に居住していた」でいいのですが、どうも
この日記からうかがわれる雰囲気からしてただの寺院ではない気がして気になっています。あり得ないことかもしれないけれど、
わたしの感覚では将軍御所の敷地内のような。そんなふうな公家文化に近い気配が感じられ、このあたりを探りたくてたまらない
のですが、どんどん話がそれていってしまうのは明白ですので、そろそろ本命の京極為兼に移ることにします。お待たせしました、
といわなければならないのは、予告してはべつのことに話をすすめる状況がつづいたので、とうとう「まだ為兼はでてこないのね」
という読者の方からの声をきいてしまったからです。そうですよね。いつになったら為兼ワールドにひたれるのかしらと、
自分でもあきれはてていましたから。

  でも、ここでは憧れの京極派歌人としてでなく、頼助との関係であらわれる政治家京極為兼です。正応五年(1292)の各人の
年齢をおさえておきます。京極為兼、三十九歳。頼助、四十七歳。親玄、四十八歳。貞時、二十二歳。そして、冷泉為相は
三十歳になっています。ちなみに、京では西園寺実兼が四十四歳で、太政大臣になっていました。伏見天皇は二十八歳
でいられます。

  親玄がいつ鎌倉に下向したかはわかりませんが、この年の六月に頼助から仁和寺聖教の伝授を受けているところから、前年
暮れまでには下向していたのでしょう。伝授の場所は佐々目遺身院御影堂でした。あとで触れますが、頼助は親玄にたいして
捨て身と思われるくらい親身で、しかも一歳しか年がちがわないことから、わたしの推測では頼助が京に滞在した折にすでに
交流を深めていて、その信頼関係が底にあるのではないかと。

  岩橋小彌太氏の「親玄僧正と其の日記」によると、親玄の性質はとても柔和だったとか。「国宝醍醐寺」展で拝した「理性院祖師
像」にみる頼助の優しい風情と思いあわせると、ふたりのあいだに友情がめばえてなんのふしぎもなく思われます。頼助が親玄の
下向をうながしたのでしょうか。頼助が醍醐寺理性院院主の座につくのはこの翌年、それは正応六年ですが八月に改元されて
永仁元年となる年で、平禅門の乱が決行された一カ月後のことです。重要事項のひしめきあう永仁元年に、またひとつ特記すべ
き事柄が重なりました。

 では、『親玄僧正日記』における為兼のあらわれかたを。それは、できすぎといわれるかもしれませんが、ほんとうにこの日記の
最初の頁です。日記は(前欠)となっており、正応五年二月九日からはじまります。この頁の最終行に、「新中納言為兼卿状
云」として「為兼」の文字が登場します。為兼からとどいた書状について記そうとしている詞書です。二月廿八日の条のあとです。
つぎの頁の冒頭から書状の中身が書きとどめられています。せっかくの為兼の書状です。全文を紹介させていただきます。

  御転任事、雖不可驚申候、朝恩無相違之際、定御自愛候歟、承悦之余捧短札者也、恐々謹言、
        二月廿八日      権中納言為兼謹上 太政僧正御房
     追伸
      醍醐寺座主職事、自旧冬連々承候之間趣、具申入候也、御沙汰之次第無相違候、
其間子細令□(申カ)御使候了、

と、これは親玄宛の書状。親玄は太政僧正と呼ばれていました。そしてすぐにもう一通がならべられています。それは、「為兼遣
僧正之許之状云」という肩書。頼助宛の書状です。

  新僧正転任事、被挙申之趣無相違候条、定御自愛候歟、先日依石山寺事、御代官有便宜之由、
令申候之間、進愚状了、定参着候歟、醍醐座主職事、度々蒙仰候之趣、具申入候了、就其当座主
可被辞申之由、密々其沙汰候歟、不請官符不逐拝堂以前辞申之条、無先  例之由被申之由、粗承及候、
其条先例何様事候哉、不審間内々令申候也、恐々謹言、
二月廿八日 権中納言為兼
謹上 若宮別当僧正御房

と、以上です。若宮別当僧正が頼助です。頼助と為兼のあいだには直接の交流があったのでした。佐々目遺身院をめぐって
書きはじめても、まさか頼助について項をついやすことになるなど考えてもいませんでした。なぜなら、当初佐々目遺身院
に関連する人物として関心の中心にあったのは益性法親王でしたから。それが、「国宝醍醐寺」展で肖像画を眼にしてひかれ、
気がつくといつしかどっぷり頼助の世界にはまっていました。そのときでもまだ頼助と為兼は隔絶されたふたつの世界のそれ
ぞれにいて、境界を越えることはないと信じていました。鎌倉と京、僧侶の世界と歌人の世界、大覚寺統と持明院統…
  それでも、同じ時代に生き、同じ鎌倉の地にいあわせたなら、あるいはすれちがったこともあるのでは? とのはかない希望を
抱いて可能性を探りはじめたのでした。期待はしていませんでした。結局は徒労に終わるのを承知のうえで書きすすめ、
やはり徒労でした、というような結語まで暗に思い浮かべていました。

  美しい徒労……、わたしの好きなことばです。川端康成の小説『雪国』にでてくることばです。カルチャーの小説の教室に
籍をおいていたとき、毎週一篇の名作を読む課題がだされました。そこでは、書くよりも読み込むことに主眼がおかれていて、
徹底してそのことを指導していただきました。『雪国』はそうして読んだ一冊でした。そのとき、この小説の主題がこのことばを
含む一文に集約されていることを知りました。

  美しい徒労、なんて美しいことばでしょう。以来、このことばは深いところでわたしのなかにとどまって、人生哲学そのものの
ようになっています。徒労でもいい、美しければ……。そんなふうな長い長い吐息とともに書いています。だから、頼助と為兼の
接点も、結局は徒労と信じてうたがいませんでした。徒労でいいと思っていました。
  でも、徒労ではありませんでした。しかも、こんなにはっきり交流を明かす史料がでてくるなんて……

  頼助はおそらく為兼と会っています。この日記の(前欠)となっている部分に、おそらくそれは記されていたでしょう。欠けて
いる部分、それこそは正応四年。『実躬卿記』にみた、伏見天皇の使者として為兼が下向した年です。会って親交を深めて
いたのでしょう。文面にはたがいを知るものどうしのふみこんだ会話の感覚があります。醍醐寺座主職についてふたつともの
文面で触れられていることをみると、このとき、頼助の側からそういう申し出をしたのでしょうか。

  ふたつの書状の直前にもう一通、書状が書きとどめられています。それは、頼助が仁和寺に宛ててしたためたもので、二月
八日付です。そこで、頼助は自分が僧正の位をおりる代わりに親玄を僧正にと願いでています。それがかない、そのことを知った
為兼からお祝いの書状がとどいた……。それが二月廿八日付のふたつの書状でした。

  孔雀経法にかかわった七条僧正は親玄と同じ醍醐寺のひとらしく、それで親しいのでしょう。『親玄僧正日記』を翻刻した方に
よる解説には「京都要人や醍醐寺関係者が鎌倉に愈着しつつ暗躍する様子」とあります。こうした「京都被官たちが関東への
依存を強める状況に対し、当の伏見天皇は、『近日の風儀、無力の事なり』と記している」そうです。ともあれ、『親玄僧正日記』は、
こんなふうに親玄みずからの僧正就任という晴れの記録からはじまっています。


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