寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―

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『親玄僧正日記』がすごいのは、為兼そのひとの気配、身のそよぎや、もしかしたら為兼自身の匂いのまじる馥郁とした衣服
の薫香までも感じとれるところです。このときこの場に為兼がいたということを読むことができることです。これって、すごいと
思いませんか。歴史上にあらわれる事蹟のひとつとして名前がのこっているわけでなく、今そこに手をのばせば触れることの
できる存在として為兼が記述されているのです。これがエロスの極みでなくてなんでしょう。読めない漢文を眼で追いつつ
ここに至ったとき、思わずわたしは「ううむ」とうなったまま、ながいあいだ放心したような面持で見入ってしまいました。

それは親玄が御所に参じた夜のこと。永仁元年十二月六日の条です。 御所だから、寝殿造りと思っていいでしょう。おそらく
廻り廊下とか、簀子とか、衝立、几帳とか、そういった状況、『源氏物語絵巻』にみるあのような室礼の奥に為兼がいるのです。
几帳をそっとおしやると、ほのかな燭台の灯りのもとに浮かびあがる為兼その人をみることができるのです。

『源氏物語』ではよく光源氏や夕霧が女性を垣間見しますが、それこそここではわたしがそういった行為におよびたい衝動
に駆られるような場面です。「覗き見」は、今でこそ不謹慎な行為になっていますが、『源氏物語』など平安王朝文学の世界
では覗き見がないと恋愛も成立しない。紫式部は精神の高潔な女性のはずですが、こと覗き見に関するかぎり、非難している
ようにはみえません。堂々と「覗き見」をしてはばからない社会だったのでしょうか。みつかっても恥になるわけでなく、あ、しく
じった、程度のこと。『源氏物語』には今とまったく異なる習慣、倫理観があってよく戸惑うのですが、「覗き見」もそのひとつです。
でも、「覗き見」だから想像をどんなにもゆたかにはたらかせることができる。想像が想像をよんでどんなにか美しく思いを飛翔さ
せることができる。その結実が王朝女流文学なのでしょう。「覗き見」も、あるひとつの知性の水準のもとでならということでしょうか。

『親玄僧正日記』のここでも、せっかく同じ屋根の下に為兼と居合わせながら、親玄はじかに対面してはいません。だからこそ、
記述に遭遇して一瞬にして想像をめぐらせられたと、その幸運を思います。もし会ってことばを交わしていたら、それはそれで
すばらしい事実なのでしょうけれど。

藤原定家の家系は、温和な人物と、感情の激しい人物の、両系統の性質にわかれます。俊成、為家、為相が温和派。為兼は
定家の血を継いで激しい人物だったと思われますから、風貌も他の人たちよりは定家に近かったのでは。ただ、健康面で、
病気がちで神経質だった定家と反対に為兼はたくましかったから、印象はだいぶちがうでしょうけれど。定家のような鋭い風貌
で、体躯はたくましい大柄の人物だったとしたら、これはもう……ですね。

為兼については最近おもしろいことを発見しました。それは、為兼の父為教の母方の宇都宮氏について探っていたときのこと。
為家が宇都宮頼綱の娘と結婚して為氏、為教をなしたことは以前、『沙弥蓮愉集』のところで記しました。蓮愉は頼綱の孫です。
頼綱は源実朝に仕えた人物で、出家後は蓮生と名乗り、法然に帰依して多く京都に住んだらしいのです。その地が西山で、
定家の小倉山荘と近かった。鎌倉においてすでに鎌倉歌壇の一員であった蓮生が、定家に歌の添削を乞うかたちで親しくなり、
定家の息為家と蓮生の娘との婚姻が成立することとなった。蓮生の妻は北条時政と牧の方の娘で、故に蓮生の娘というのは
時政の孫。為家は時政の孫と結婚したのでした。この蓮生が、自身の山荘の障子に貼る色紙の歌の選定を定家に依頼した
のが有名な『小倉百人一首』とか。

ざっとこれだけみても、宇都宮歌壇への関心は尽きることがないのですが、為兼に関するおもしろいことというのは、なんと為兼
にはあの藤原道長と同じ血が流れていたのです。それは、宇都宮氏の系図をみていて気がついたことで、宇都宮氏の祖は
摂政兼家の息道隆とも道兼とも。まだ三、四本の論文をざっと拝読した段階で、説がくいちがっているためどちらが真実か
わからないのですが、これは『尊卑分脈』をみれば判明すること。近々あたってみますが、いずれにしても道長の兄からはじまる
のです。道隆は『枕草子』をみると鷹揚な明るい人物らしい。弟の道兼は、父兼家と組んで花山天皇を退位出家に追いやった
ほどの冷徹な策略家。わたしには、為兼が冷徹とは思いませんが、伏見天皇の側近として辣腕振りを発揮するところから、
道兼が祖のほうが合っている気がします。同じ「兼」の字のつくのも偶然とは思えません。

ただ、為兼が道兼とちがうのは、伏見天皇の宮廷において、佐渡に流されても帰還をじっと待たれるほど愛され信頼を得ていた
こと。ここのところが道兼とまったくちがいます。ならば、と考えたとき、ふっと道長のあの豪放磊落さ、誰からも親しまれつつ政治
の中枢を見事に泳ぎ切った道長の人物の大きさを思ったのです。道長も、紫式部などの後宮文学を支援しただけでなく、
自身も『御堂関白記』をのこしたほどの文学的資質ゆたかな人物。そこに定家の歌人としての血が入ったのが為兼、と。
そういえば、中宮彰子の、文学的に理解が深くありながら決して崩れず、国母としての立場も努めはたす、そういった相反する
ふたつの立場を難無くなしとげたあたり、なんとなく似ていなくはありませんか?

話がどんどんそれてしまいますので、ここらあたりで軌道修正して、『親玄僧正日記』から、永仁元年十二月六日の条を抜きだ
させていただきます。永仁元年十二月といえば……、そう、『沙弥蓮愉集』の詞書にあった「歳暮の比」。一歌人の歌集の詞書
にしかうかがわれなかった為兼の鎌倉下向の実際を、こんなところで垣間見できるなど、『沙弥蓮愉集』をめぐって書いていた
ころには予測だにしませんでしたから、繰り返すようですが、この展開はふしぎです。では、その条を。

  六日天晴、向壇所対面僧正、彼祈祷事、申談了、其後参御所、及夜陰了、
為兼参之間、不入見参退出了、

親玄が頼助と会ったあと御所に参じたところ、為兼もまた参じていたのです。このときの将軍は久明将軍。後深草院の皇子で
いらして、為兼の仕える伏見天皇とは兄弟の関係でいられます。兄君から弟君への使者として、為兼があいだに立っていたの
でしょう。その間親玄はなかへ入れなかった……。几帳の奥に完璧に親玄と隔絶した雅びな世界があります。これほど為兼
は将軍と近かった……。このころ為相は鎌倉に下向していたが、為世が師範として君臨する鎌倉歌壇の中枢、久明将軍や
貞時の催す歌会にはまだ参加することができず、慶融や寂恵、為顕といった歌書の奥書にあらわれるべつの人脈のなかで
生きていたことは前に書きました。

第Ⅱ期になると、為相も将軍家、得宗家の歌会にさかんに出席するようになるのですが、わたしはそのきっかけをつくったのが、
為兼の永仁元年のこの鎌倉下向ではないかと推測しています。すなわち、このとき為兼が為相をして将軍家に近侍できるよう
労をとったと。正応四年のときでもいいのですが、このときは平頼綱と禅空の専横を幕府に訴えるための不穏の下向。平禅門
の乱の後処理もすんだ平和裡での永仁元年の下向時のほうが、そういう余裕があったとみるのが自然でしょう。井上宗雄氏は、
このとき為相が為兼から伏見天皇の永仁の勅撰集の話をきいたとされています。そして、為相はみずからも
その撰者に加えてもらうべく年が明けると上洛し、朝廷へ申し入れるがかなわず、その年のうちに鎌倉へ戻るのです。

『親玄僧正日記』には為兼に関する記述は他に二回、消息として登場しますが、ふたつともに正応五年のこと。永仁元年には
十二月のこの記述のみで、永仁二年になると一度もあらわれません。以上で為兼をはなれ、つぎに『親玄僧正日記』にみる
為相関連の事柄に移りたいと思います。とはいっても、為相が直接かかわりをみせる記述はありませんが。

為相の歌集『藤谷和歌集』には、「正応五年三島社十首歌に」という詞書の歌が四首あります。一首は「七首歌」となっています
が、これは書写の際の「十」のまちがいでしょう。これは、この歌集中、年代のわかるものとして最初期のものです。『沙弥蓮愉集』
には、正応五年以前かもしれないものとして、「為相朝臣日吉社十首題送り侍りし時」という詞書がありますが、ふしぎとこれは
『藤谷和歌集』にはありません。『藤谷和歌集』からさきの四首を紹介させていただきます。

海辺霞
くるる日の夕波遠きなみ路よりかすみを出でてかへる船人

時しらぬふじの煙もはるる夜の月のためにやたたずなるらむ
松山雪
あらはるる雪のしづえの深みどり松のなさけは冬ぞしらるる
社頭祝
万代も久しくうけよ神がきやとしにかはらぬ君がいもひを

 三島社は静岡県三島市にあって、源頼朝以来、将軍をはじめ多くの御家人の崇敬をあつめた神社だそうです。『沙弥蓮愉集』
には「平貞時朝臣三嶋社十首歌人々よみ侍りし時」とあって、この十首歌が貞時の勧進によるものだということがわかります。為相が
まだ鎌倉歌壇の中央とつながりをもっていないとみた時期ですが、すでにこの勧進には一員として名を連ねています。『親玄僧正
日記』の永仁元年六月廿四日の条に、貞時が三嶋社へ参詣する内容の記述があります。

  廿四日天晴 自殿使有之、自今日三ケ日可参詣三嶋之由也、金三両居扇送之、
廿五日天晴 参詣社頭了、
廿六日天晴 参詣社頭了、向雪下謁僧正了、

というものです。正応五年に貞時は為兼、為相、蓮愉らをふくむ歌人に「十首歌」の勧進をつのった。でも、『親玄僧正日記』
にみるかぎり、正応五年に貞時の三嶋社参詣の記事はありません。三嶋社参詣があらわれるのは、永仁元年六月のこの記述
が最初で最後です。為相や蓮愉の歌集にみる貞時勧進の十首歌は、このとき奉納されたとみていいのではないでしょうか。
遺跡発掘調査の仕事に就いていたとき、三嶋社でも発掘がおこなわれていることを知り、興味をもちました。頼朝や政子寄進の
宝物もあり、遺物にもそれらしいものがうかがわれて、一度参詣したいと考えながらまだ果たさないでいます。でも、為相との
関連でご縁のできた今度こそ、早々に行ってみたい気持になりました。

もうひとり、『親玄僧正日記』には、ふたりの歌集の詞書と連動する人物が登場します。大御堂僧正源恵です。第四代将軍頼経の
息でいられます。今は廃寺となってあとかたもありませんが、鎌倉に幕府をかまえた頼朝が最初に建てた寺院、大御堂ともよばれる
勝長寿院に住されていたそうです。『藤谷和歌集』にみる詞書は「源恵僧正家障子に」で、

     から崎に郭公かきたる所
から崎の松の一木をやどりにて外山にかよふほととぎすかな
関寺かきたる所
あふさかや関の戸みゆる秋かぜにきりもへだてぬ入あひのかね
勢多橋に雪降りたる所かきたるに
うちわたす朝けの袖もしろたへの雪をかけたるせたの長はし

の、三首です。『沙弥蓮愉集』での詞書は「大御堂僧正源恵千首続歌よみ侍りし時」です。正応四年二月二十六日の歌会
だそうです。残念ながら、『親玄僧正日記』の(前欠)の部分です。『親玄僧正日記』で源恵は歌人としてではなく、修法に
関連して名前がだされます。でも、為相や蓮愉との交わりを知って読むと、ただしかつめらしく修法をおさめる高僧というだけ
でない暖かなものが伝わってきて人物が彷彿とし、嬉しいですね。

源恵が修したのは北斗護摩と熾盛光法(しじょうこうほう)でした。大北斗法を、鎌倉に下向されたばかりの久明将軍の病平癒
を祈って頼助が修したことが思いだされます。孔雀経法と孔雀護摩。あのあたりを書いていたころにはまだこの区別がついて
いず、両者を同じもののような書き方をしてしまいました。その後教えていただいたことによると、「法」はご本尊の図像を掲げ
何時間もかけて修する大々的なもの。「護摩」は図像を掲げなくてもいい略式なのだそうです。熾盛光法はわたしにとって思い
入れ深い修法です。慈円さまが終生特別の思いをもって修しつづけられた修法なのです。それで、あ、こんなところに熾盛光
法が! と眼にとまって、そこから源恵に注意がいったのでした。慈円が門跡をつとめた京都の青蓮院の本堂は熾盛光堂です。
いずれにしても、為相は将軍家、得宗家そのものの歌会には出席していないものの、周辺では鎌倉歌壇の人たちとのつながり
はもっていたようです。

さてここから、「鎌倉佐々目遺身院」というこの連載の本筋の仁和寺聖教の伝授に関する記述を抜粋して『親玄僧正日記』
からはなれるとともに、今度こそほんとうに為相における第Ⅰ期を終了し、次回から第Ⅱ期にすすみたいと思います。

上野勝久氏「鎌倉佐々目遺身院の指図について」所収の佐々目遺身院における記録には、正応五年六月二十一日に佐々目
御影堂において、頼助から親玄への付法があったことが記されています。それを日記にたしかめると、ありました! たしかに
伝授がなされていました。それを書き写します。

  十八日、自今日僧正移住佐々目云々、至廿一日申身之暇云々、
廿一日天晴、酉半刻向佐々目了、宿大納言僧都部屋了、三昧耶戒日没之程始之、以外遅々了、
初夜時仍遅々、後夜之程被始供養法了、
廿二日降雨、後夜時辰初始之、巳半許出堂了、

と、こういう状況です。付法というのは信頼し合う師弟関係においてなされるものですから、そこには他人のはいりこむ隙のない、
ほぼ絶対的な濃密な空間が醸しだされます。付法は、弟子の器がそこまで達していることを見定めてからでないと、たとえ
伝授しなければ法が途絶えると焦っていても、行ってはいけないのです。血脈という、紙に書かれた文字でない、口移しに
よるじかのことばでしか伝授されない付法。生温かい人間の血が流れる師から、同じく生温かい血の流れる弟子へ。そこに
絶対的な信頼関係が成立するとなると、これはもう究極の愛のすがたです。

わたしが僧侶の世界に憧れるのはそこになのかもしれません。自分の身には絶対に起こり得ないと知っていても、この世の
なかにそういう世界があるのを垣間見ているだけで幸せな気分でいられるのです。時々、僧侶の世界のそういう師弟関係って、
まるで同性愛のようと思ってしまうのは、不謹慎このうえないかもしれませんが、司馬遼太郎氏が同性愛を称して「深海魚の
ように愛の水圧の違うところ」と書いていられたそれを思うとき、この世ならぬ愛、究極の愛は、やはりそうしたある意味での
異界にしかないのかもと。またまたおかしなところに話がいってしまいそうで、これでやめますが、頼助と親玄の関係には
なにかそんなふうなことを思わせる親密さがある気がします。


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