寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
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朝令暮改の見本みたいに前言をくつがえしてばかりで申し訳ないのですが、どうやら今号でも冷泉為相における第Ⅱ期へ
すすめそうもありません。わたしのなかには、はやく先へすすみたい、はやく為相が称名寺を訪れたか否かの結論を紹介
させていただきたいというはやる思いがあって、それで、宣言さえしてしまえばすすまざるを得ないだろうと、前回、次号から
第Ⅱ期に入りますと書いたのでした。強引に京極為兼について終了させたのも、そうした気持がはたらいていたからで、
あのときはほんとうにそれで終わりと思っていました。なのに、しばらくして、あ、あの日記に触れるのを忘れた! と思いだした
ことがあったのです。それは、為兼を語るに欠かせない大切な記録ですので、今回も予告をたがえてこの日記からはじめさせて
いただきます。そう、だから、今号の主人公は京極為兼。わたしのなかでイメージがふくらんでやまないこの人物の根源を
つきつめるべく、思う存分、憧れの君ののこされた歴史の薫香にひたって書かせていただきます。
それは『中務内侍日記』なのですが、この日記のほんとうの魅力を知ったのも、岩佐美代子先生の『宮廷女流文学読解考中
世篇』が最初でしたので、引用はそこからさせていただきます。弘安六年(1283)四月十九日夜、為兼三十歳のときのことです。
春宮の御方、土御門の少将ばかり御供にて、院の御方ざまに忍びて御覧ぜらるゝ。南殿の花橘、盛りなる
頃なれば、香を懐かしむ時鳥もやと待たせおはしますに、心づくしの一声もあかず恨めし。その頃、左中将、
何事にかありけん、こもりて久しく参らざりけるに、有明の空に鳴きぬる一声を、寝覚にや聞くらんなど、かたじけ
なくも思し召し出づるは、夢の中にも通ふらんと思ひやらるゝに、思ひやるねざめやいかに時鳥鳴きて過ぎぬる
有明のそらと御気色あれば、内侍殿、たどたどしき程の有明の光に書きて、花橘に付けられたり。さるべき御使も
なくて、明けぬべければ、土御門少将、人も具せずたゞ一人、馬にて行きぬ。手づから馬の口をひきて門を
たゝくに、とみにも開けず。空は明方になるもあさましくをかし。門を開けぬるに、思ひよらずあきれたりけんもこと
わりなり。さらぬ情だに、折から物はうれしきに、かしこき御情も深く、色をも香をもと思し召し出づるも、御使の
嬉しさはげにいかなりけん。同じ類(たぐひ)ならん身は、げにいかでかうらやましからざん。ありがたき面目、
生ける身の思ひ出(いで)とぞ、よそに思ひ知られて侍りし。ほのぼのと明くる程にぞ、帰り参りたる。
岩佐先生は、「『源氏物語』花散里の、『橘の香をなつかしみ時鳥花散る里をたづねてぞとふ』を髣髴とさせる、折からの情
趣」といわれます。こういう情趣のなか、なんらかの事情で久しく出仕しない為兼を思いやられた春宮のおこころを受け止め、そ
の場にいあわせた者が使いに立つ。それは、有明の月のもとで書かれ、花橘につけられて……。「たまたま籠居して出仕せぬ
左中将為兼の上を思いやる春宮の情愛、それにこたえてただ一人月下の使者に立つ具顕の風雅、そして思いもかけぬ殊遇
に感動して声もない為兼」と、岩佐先生は書かれます。先生は『中務内侍日記』を「友愛の文学」と称されていますが、
ここなどはそのもっとも象徴的な場面でしょう。
為兼はそういうグループのなかにいました。そういうグループの一員として愛され、溶け込んでいました。これは、後年、伏見
天皇の側近として政治家為兼が辣腕ぶりを示したとしても、決してそれだけではない人物だという意味で忘れてはならないこと
だと思います。そうであったからでこそ、「伏見・花園両院は真に心から為兼の歌論にうちこまれ」(石田吉貞氏「玉葉集撰者京極
為兼」)たのです。 石田氏はこう書かれます。「とくに伏見・花園両帝のごときは、学問に熱心で、歌もその本質とか根本的意義
とかについて考えていられる。そのような時代、そのような優秀な天子に対して、ただ俗的な力で歌をおしつけ申し上げるという
ようなことができるわけはない」と。「白拍子の風」の執筆中、わたしが「白拍子が主人公だから好奇な眼でみられて……」と申しあ
げたとき、菱川善夫先生に「ただ媚を売るだけで貴顕の愛を得られるものではない」と、銀嶺姉さまの真価をみとめていっていた
だき嬉しかったことが思いだされます。為兼もただ俗的な忠誠心、政治力だけで高貴な方の信頼を勝ち得たわけではないのです。
弘安六年というこの年は、鎌倉で阿仏尼が亡くなった年。頼助が鶴岡八幡宮寺別当職についた年です。阿仏尼が亡くなったの
は四月八日。四月十九日のこのとき、為兼が「何事にかありけん、こもりて久しく参らざりけるに」とあるのと関係あるのでしょうか。
為兼は阿仏尼と親交がありましたから。
為兼がのちに伏見天皇となられる春宮に初出仕したのがこれよりも三年前。主家の西園寺実兼が春宮大夫だったので、その
縁でおのずとという流れなのでしょう。後年、伏見天皇のあまりの寵愛ぶりに実兼がはじきだされ、持明院統を去るしかなかった
のも、出世を遂げてからのあまりの驕慢ぶりに実兼が怒り幕府に讒訴して、土佐へ流されざるを得なくなったのも、初出仕のとき
の双方の立場を思うと、こういうことってよくあることとはいえ複雑です。『中務内侍日記』にはもうひとつ興味深い記事があります。
それは弘安十年十二月二十五日夜、十月に即位された伏見天皇が北山殿へ方違の行幸をされたときのことです。
入御なりぬれば、御装束、御引直衣召しかへて、月もなき頃なれば殿上人ども紙燭さして雪
御覧ぜらる。入らせ給て御会あり。男には左中将為兼ばかりなり。警固の姿にて参りたる、いと優しく見ゆ。
(岩波書店 新日本古典文学大系51『中世日記紀行集』)
ここのところ、おもしろいのですが、「優しく見ゆ」をどう捉えたらいいのでしょう。石田氏は「宮廷貴族に愛されるには容姿のとと
のっていることも一つの要件」と書かれ、「容姿嫺雅」と読まれています。わたしも、「優艶」の「優」と読みたいと思うのですが、
そうすると前回書いた定家似の鋭い風貌とイメージが合わない。為兼の性格については石田氏が詳細に紹介されていて、
『花園天皇宸記』から「かれの激情型の性格は、まず知遇に感ずるとき一身を捧げて君のために尽くす誠忠とな」り、「自己の
気にくわない人間、または自己に敵対する人間に対しては、絶対の憎悪・闘争心を投げ……、主家の西園寺実兼とさえ、……
互いに切歯する間柄となり」、「偏狭で猜忌心が強く、君寵を独占しようとし、自分に頭を下げない人間を憎んで不忠と呼び、
権勢ある人々をも憚るところがな」いと書かれ、また、「驕慢尊大で、高く自ら構え、謙譲というような徳を少しも持たない人間で
あったらしい」が、「一面豪快な男性的なところがあり、卑屈の態度など少しもなかった」と書かれています。この最後の堂々とした
男っぽさは『徒然草』第百五十三段に有名で、それを引きます。
為兼大納言入道、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿、一条
わたりにてこれを見て、「あな羨まし。世にあらん思ひ出、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。
(岩波文庫 西尾実・安良岡康作校注『新訂 徒然草』)
為兼は四十五歳で佐渡に、六十二歳で土佐に、二度配流にあっていますが、これは二度目のときのこと。七十九歳で河内の
地で死去しますから、結果として二度と帰洛することのない旅へと連行されたときのもようです。なのに、なんと凄まじくきっぱり
としていることでしょう。ここを読むたびにわたしはいつもすがすがしささえ覚えて感動するのです。どのような境涯になろうと
人はかくありたいものと、資朝卿でなくてもほれぼれするものがあります。これだと、「鋭い風貌」でもいい。それと、「優しく見ゆ」
との折合いをどうつけるか。やはり「優」はたんなる人柄が優しい「優」ではなく、挙措存在それ自体の「優」。「優艶」の
「優」
ととっていいのではないでしょうか。こんなふうに『中務内侍日記』は為兼の同僚ともいうべき女房の手によってなった日記。
「友愛の文学」と称されるここに紛れもない為兼の全人格をつつむ柔らかくあたたかい親愛の情の一端が描きだされています。
数ある中古・中世女流文学作品のなかでなにがいちばん好きかときかれても、それはそのときその場の気分で異なって、一
概にこたえられるものではありません。一時期それはもう深く『和泉式部日記』に傾倒した時代もありました。『更級日記』は読み
かえすほど年を経るほどに好きになっていきます。「白拍子の風」執筆中は『建礼門院右京大夫集』と一心同体でした。もし
どうしても一点をといわれれば躊躇なく『紫式部日記』をあげますが、それでも、もしかしたらこちらかもしれないと、ひそかにこころ
のうちにつぶやいている日記があります。『讃岐典侍日記』です。堀河天皇の典侍で、天皇と相思相愛の仲となり、崩御をみとった
女性の悲痛な追慕の記録です。
堀河天皇といえばはじめて院政をきずかれた白河天皇の皇子。源平の合戦よりも、保元の乱よりもずっと以前の、平安時代
中期の天皇でいられますから、またまた話がそれていってしまうと思われる向きもあると思いますので、最初に結論を書いてし
まいますが、この讃岐典侍という方がじつは俊成の母方の系譜に登場する女性、血筋で定家ひいては為兼につながる女性なの
です。これから書こうとすることは、石田吉貞氏「藤原為家の生涯」を拝読していて気がついたことで、この論稿で氏は俊成の母系
に着目していられます。すなわち、「大才俊成を生んだものは、この父系よりはむしろ俊成の母系にあったもののようである」と。
俊成の母方の家系は『蜻蛉日記』作者の息道綱にはじまり、その三代あとに伊予三位という女性がいる。その方が俊成の祖母
にあたるわけですが、讃岐典侍は伊予三位のかなり年のはなれた妹で、俊成にとっては祖母の妹という立場になる方です。
けれど、玉井幸助『讃岐典侍日記全註解』中の解説「讃岐典侍日記中の人物」では、讃岐典侍は伊予三位の妹ではあるが、
伊予三位の養子となって俊成の父に嫁いだとされ、ゆえに讃岐典侍と俊成の母は同一人物と推測されています。岩佐先生は
否定されていますが。いずれにしても、俊成、そして定家と、非常に密接な係わりある女性だったのです。俊成は若いころこの
女性に可愛がられて、折に触れ気にかけてもらったので、不遇のなかでも栄達をみることができたと、今どの先生のご著作
だったか探してもその箇所を見出せないので紹介できず申し訳ないのですが、ありました。
ということは……、です。俊成にとって『讃岐典侍日記』は非常に特殊に、非常に密接に位置づけられた日記ということになり
ます。そして、それはとりもなおさず定家にとっても……。『讃岐典侍日記』は、このうえもなく美しい作品です。ひどく透明な、
澄んだ珠玉のような……。それは愛する人の死をみとった哀切きわまりない記述だから……。同じように亡き恋人を追慕
する作品『建礼門院右京大夫集』も美しいと思いますが、こちらには一時恋人の心変わりという一種俗的苦悩の記述がある。
残念なことですが、女性は一度裏切りにあうと、一時的にせよ、終生にせよ、「俗」になる……。そのあとみずからのうちに透明
孤高な精神性を樹立しうるかどうかは別問題として、一度それを記述してしまうと、その部分はどうしても「俗」なのです。
『讃岐典侍日記』にはそういう世俗の意味での葛藤はありません。終始控えめに親愛の情に満ちたままに淡々と回顧されるだけ
です。だから、近代小説的見地からするとドラマがないと片づけられ、『建礼門院右京大夫集』みたいには着目されないのかも
しれませんが、ほんとうはこちらにこそドラマがある。現実の場面にはあらわれない深い深いこころのドラマがあるのです。
ひとり作者だけが知るドラマが……。胸をうってやまない章段を紹介させていただきます。
大好きな、というにはあまりに不謹慎ではばかられる気のする段です。
つれづれなるひるつかた、くらべやの方を見やれば、御経教へさせ給ふとて、よみし経をよく
したためてとらせんと仰せられて、御おこなひのついでに二間にて、たちておはしまして、認めさせ
給ひて、局におりたりしに、御経したためてもて参りてわらはれんとておりし召して、余りなるまでかしづかせ
給ひし御事は思ひ出でらるるに、御前におはしまして、われ抱きて障子の絵見せよと仰せらるれば、よろづ
さむる心地すれど、朝餉の御障子の絵御覧ぜさせありくに、夜のおとどの壁に、あけくれ目なれて覚えんと
おぼしたりし楽を書きて押付けさせ給へりし笛の譜の押されたるあとの壁にあるを見つけたるぞあはれなる。
笛のねのおされし壁のあと見れば過ぎにし事は夢と覚ゆる悲しくて袖を顔におしあつるを、怪しげに御覧
ずれば、心得させ参らせじとて、さりげなくもてなしつつ、あくびをせられて、かく目に涙のうきたる」と申せば、
「みな知りてさぶらふ」と仰せらるるに、あはれにもかたじけなくも覚えさせ給へば、「いかに知らせ給へるぞ」と
申せば、ほ文字のり文字のこと思ひ出でたるなめり」と仰せらるるは堀河院の御事とよく心得させ給へると思ふも、
うつくしくて、あはれにさめぬる心地してぞ笑まるる。かくて九月もはかなく過ぎぬ。
(玉井幸助『讃岐典侍日記全註解』)
讃岐典侍は、堀河天皇崩御のあと自宅にさがっていましたが、人手がないと、経験の深さを買われ、こころならずも次帝、
六歳でいられる幼帝鳥羽天皇のもとに出仕します。でも、そこはかつて自分が堀河天皇と濃密な愛の時間を過ごした場所。
なにをみても哀切きわまりない追憶の情にひたらざるを得ないいたたまれない空間です。
九月、重陽の節句も過ぎ、つれづれにかつて自分がすごした「くらべや」をみていると、そこで堀河天皇が御経を教えて
くださろうとした思い出がまたもよみがえり、たまらない思いでいるところへ鳥羽天皇がいらっしゃり、「われ抱きて障子の絵見せ
よ」と仰せられる。そうして内裏のそこここをお見せしていると、夜のおとどの壁に堀河天皇が貼られた笛の楽譜のあとが眼に
とまる。思わず涙がにじむのですが、それをさとられまいと、あくびのせいにして「かく目に涙のうきたる」と申しあげると、
幼帝は「みな知りてさぶらふ」と、「ほ文字のり文字のこと思ひ出でたるなめり」と、思いもかけず真実をいいあてられ、あまりの
可愛らしさに微笑んだ……と、ここはそういう描写です。
『讃岐典侍日記』の魅力の半分は、幼い鳥羽天皇のご言動がになっているといってもいいすぎではないでしょう。二度目の
出仕に感慨にふけってあたりをみまわしている作者のもとに、「降れ降れこ雪」とちいさなこどもの声がとどく。内裏にこどもが
いるはずがなく、「こは誰そ、誰が子にか」と現実にひきもどされていぶかしく思っていると、それがこれから仕える鳥羽天皇
だった……。というように、鳥羽天皇のあどけないご言動が、堀河天皇の治世が終わって新しい世がすでにはじまっている
現実を逆にきわだたせている。讃岐典侍は意図したわけではなく、思い出すままに事実を淡々と記述しただけなのでしょう
けれど、それがはからずもそういう構図を浮き彫りにした。そういう日記です。
讃岐典侍は、『源氏物語』でいうと朧月夜の立場にあたる女性です。堀河天皇と讃岐典侍の関係を、朱雀帝と朧月夜に
あてはめて考えていいと思います。冷泉帝に玉鬘が入内していたら、やはりこういう関係になっていたでしょう。典侍という職種
は、岩佐先生のご文章によると、「天皇に最も近侍し、その日常に直接手を下して奉仕し、時に『侍寝』をも勤める。……
典侍としての侍寝はあくまでも公務の一であり、そこに天皇の意向が反映されるにしても、愛情如何にかかわらず、女性として
中宮と対等に天皇の寵を争う、女御のごとき立場ではない。中宮も典侍も、それぞれの分を弁え、相互の領域を尊重してこれを
犯さず、自己の領域には確たる自尊と誇りをもって力めると同時に、互いに慎しみ深い友愛をもって穏やかに交流する」
(『宮廷女流文学読解考 総論・中古篇』)ものだそうです。泉水のように静かで穏やかで透明な清冽な涙で書かれた日記、
それが『讃岐典侍日記』と思います。この日記が俊成の傍らにあった。しかもただの文学作品としてでなく、恩ある女性の形見
として。それはもう家宝のような存在だったでしょう。
これを定家が読んでいた。
定家と『讃岐典侍日記』の関係について論じた方がすでにいられるかどうかわたしにはわかりませんが、石田吉貞氏のかか
げられた俊成の母方の系図に接してとっさに思ったのは、定家の女歌の妖艶さの原点はここだということでした。『冷泉家時雨亭
叢書 平安私家集』付録の栞「月報2」に冷泉貴実子氏が「俊成邸の焼亡」と題して書かれています。定家の『明月記』治承四年
二月十四日の条には、定家が梅の花の妖しさにひかれ、眠れずに夜の庭を徘徊したあと火事にあったことが記されています。
貴実子氏によると、それが俊成の五條邸の焼亡だったそうです。そして、こうつづけられます。「文庫には多くの本が集められ
ていたであろう。それがこの時灰になったと考えられる。現在、冷泉家時雨亭文庫に伝えられた典籍類の大部分が、俊成晩年
以後のものであることがそれを物語っているのではないだろうか」と。
治承四年のこのとき俊成は六十七歳。定家は十九歳でした。もし『讃岐典侍日記』が俊成の蔵書中にあったとしたら、当然
それはこのとき灰燼に帰した典籍の一冊になってしまっているでしょう。ということは、定家がこの日記を読んだのは、とりもなおさ
ず十九歳以前ということになります。定家のように美意識のつよい、感受性のなみなみならない少年が、その多感な時期に『讃岐
典侍日記』のような女性心理の真髄あふれる書に触れていたとしたら、それはもう深く影響を受けてしまったと思わないわけ
にいきません。おそらく、それは定家の意識するとしないとにかかわらず、などという次元よりもっと深く、定家の体質そのものと
なるほどの影響だったと思います。
以前、「白拍子の風」執筆に際してあつめた論文のなかに、谷山茂氏の「新古今的妖艶美と平家一門の栄華」があり、定家
の女歌の妖艶美は、青年期に華麗で優美な平家の公達、女人たちと交わり、その滅亡をまのあたりにした体験が後年に
なって発露したものと示唆され、目から鱗の落ちる思いをしたものですが、定家にはもっと深く、『讃岐典侍日記』という、踏み
にじってはいけない清らかな女人体験があったのです。火事のあった夜、月下のもとで梅林を彷徨っていたとき定家のこころに
あったのは、そうした女人へのつよい憧れだったと想像したら、それはあまりに小説的にすぎるでしょうか。
為兼からだいぶはなれてしまいましたが、わたしがいいたかったのは、為兼はそうした定家の血をついでいるということです。
石田氏は、為兼の歌風のもっとも顕著な特色に「新古今的」をあげられています。それは「為兼という人間が定家に近い人間で
あったために、いつしか定家的なものに引かれたということ」ではないかと。そして、「実際に求めた美は新古今的なものであった
と思われ、それは定家を慕い定家の歌を愛することから考えても、かれにとって必然のことであり、血そのものの好みであると
言ってもよいのではないかと思う」と結ばれます。けれど、定家と為兼の決定的なちがいは、ふたりともにそうした資質の
人間でありながら、定家の女歌の妖艶きわまりなさにたいして、為兼の女歌には傑出するものがないこと。ここが、生涯神経
質で病気がちだった定家と、政治家としても有能で豪快に生きた為兼との文学的体質の差ということでしょうか。
為兼には妻子など家族に係わる記録がなく、謎の状況といいます。養子にしたその養子が活躍する記録はあるわけですから、
実子の記録がないというのはふしぎです。あるいは婚姻関係をもった女性がいなかったということでしょうか。守る家庭をもたな
かったとしたら、それはそれで為兼らしく、わたしなどはひそかにそうであって欲しいなあと。逆に、こういう身分の方としては
めずらしく、遊女との交流を示す歌がのこされています。久保田淳先生の「配所の月を見た人々」よりそれを引かせていただいて
為兼の項を終わりにします。
『玉葉和歌集』の撰者京極為兼は、この集を撰進する以前、佐渡に流されるという憂き目に
遭った。その際、寺泊で失意の彼を慰めた遊君のやさしさは忘れ難かったのであろう、後年この
集を編んだ時、彼は次の一首を選び入れている。
為兼、佐渡国へまかり侍し時、越後国てらどまりと申所にて申をくり侍し
遊女初若
物おもひこしぢのうらの白浪もたちかへるならひありとこそきけ
(旅・一二四〇)