寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―

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 親玄が居住したかもしれない遺跡がみつかりました! 『親玄僧正日記』の翻刻にたずさわられた峰岸純夫先生からお電話
をいただき、わたしが親玄がどこに住んでいたのかこだわって書いていましたので、教えてくださったのです。専門家でもないものの
文章にたいしてそんなに親身になってくださってと恐縮してしまいましたが、やはり翻刻にたずさわられた佐藤和彦先生からも
お便りをいただきまして、為兼の書状の部分の引用の誤りをご指摘いただきましたので、さきにそれを訂正させていただいてから、
親玄の居住空間だったかもしれない遺跡について話をすすめたいと思います。
 
「その十二」で為兼の書状を二通紹介させていただきましたが、訂正は最初のほう、すなわち親玄宛の書状の追伸の箇所です。
「自旧冬連々承候之間趣」とある「間」の文字に「見せ消ち」の記号がついていたのを見落として、付さずにしまったのでした。
ですから「間」は読まずに「旧冬より連々承り候の■趣」となるのだそうです。古文書の世界に「見せ消ち」という問題があることは
知っていましたが、佐藤先生のご指摘ではじめてまのあたりにし、これがそうなんだ! と、変に感じ入ってみてしまいました。
国文学も史学も、当然文献の扱い方も、正式に学んだことなく書いていますから、いつかはこんな重大なうっかりミスをするのでは
ないかとこころのなかで危惧していましたが、とうとうやってしまいました。そもそも最初から無謀を承知ではじめたこと、過ちに
関してはその都度訂正させていただきますので、どうかご了承ください。佐藤先生にはあらためてこの場を借りてお詫びとお礼を
申しあげさせていただきます。

  さて、親玄が居住していたかもしれない遺跡ですが、峰岸先生は『岩波講座 日本通史 別巻二』所収の「文化財の調査・
保存と地域史研究」を書かれたとき、鎌倉の今小路西遺跡の項で、北側の屋敷とされる出土遺構について、(寺堂ないし京下り
の僧侶の住居か)と括弧して但書きをされています。それは、ちょうどそのとき『親玄僧正日記』の翻刻にあたっていられたので、
念頭に親玄があってのこととのお話でした。

  今小路西遺跡については以前紹介したことがあります。「その二」で、安達泰盛の邸宅だったかもしれない遺跡として、鎌倉中央
図書館を訪れるたびにこっそり覗くと書いたあの遺跡です。あのときはまだ連載がこんなに長くなるとは思わず、今小路西遺跡
についても、ふたたび戻って書くことになるなど思ってもいませんでした。巡り合わせのふしぎを思います。佐々目遺身院があった
笹目とは低い尾根をへだてて隣合わせになる地域の遺跡です。安達泰盛の邸宅であったかどうかはともかく、今小路西遺跡
については今まで鎌倉における典型的な武家屋敷ときいていました。寺院かもしれないという説は峰岸先生のお電話がはじめてです。

  遺跡というのは、よほどたしかな文献や物的証拠がないかぎり、発掘の結果から判断して、どのような過去の遺跡か決定されます。
ですから、根拠とする遺構、遺物、地層そのものの判断がちがえば、まったくべつの解釈、説が浮かびあがります。木簡のような
特殊なものをのぞいて、署名のある遺物などまずありません。宝栄の火山灰のように、一七〇七年の富士山噴火によるものと
はっきり紀年のわかる地層などめったにないのです。今小路西遺跡も、検出された焼土層を霜月騒動によるものとみれば安達
泰盛の邸宅ということになりますし、新田義貞の鎌倉侵攻によるものとすれば、住人は鎌倉幕府終焉まで居住しつづけていたこと
になります。峰岸先生の寺院説は、たぶん、基壇の存在や特徴ある出土舶載磁器からのご判断と思います。

  お電話でうかがって、そうかもしれないとわたしのなかで即座に反応するものがあったのは、お話のなかに「白砂」の語があった
からでした。慈円が宇治平等院の執印をつとめていたことから、「白拍子の風」はそのシーンからはじめようと決め、もう数年以上
もまえのことになりますが、秋、はじめて平等院を訪ねました。周知のように、平等院鳳凰堂は、中央の阿弥陀堂をはさんで北と
南の両方に鳳凰が翼をひろげたかたちの翼廊をもっています。阿弥陀堂へ向かう観光客は、まず北の翼廊から入るわけですが、
訪ねたとき、ちょうどその北の翼廊の手前で池の発掘調査をしていました。発掘現場は、知らなければ工事現場とまったく同じで、
優美な鳳凰堂にはまるで不向きの殺伐とした光景ですが、発掘に魅された眼には、平等院の発掘現場をみられるなんてと大変
得した気分で、阿弥陀堂へ向かう足をしばしとめ、眺めていました。「平等院の庭園の発掘は、極楽浄土を現世に表現したとされる
平安時代創建時の浄土庭園の姿に復元する目的で、九〇年から実施」と、当時の新聞記事にあります。平等院に関する記事を
発掘情報誌でみつけるたびにコピーして集めていたのですが、調査は九十八年に終了し、今は復元の段階に入っているようです。

去年、「白拍子の風」の連載終了直後、新築なった平等院ミュージアムのオープニングへいきませんかというお誘いをいただき、
思いがけずふたたびその地を訪れることができました。慈円について書いて、そのはじまりに訪ねた地を、自分で意図したわけ
でもないのにまた訪ねられ、いくら偶然にしてもタイミングがよすぎて、これはきっと慈円さまのご褒美とひとりこころに思っていま
した。その直前、発掘によってわかった創建当時の阿弥陀堂前の洲浜が再現されたニュースを耳にしていましたから、それもみる
ことのできるのが楽しみでした。古いパンフレットをみると、阿弥陀堂の前庭が尽きる池の汀はきちんとした石組で護岸工事が
なされています。新しくなった汀では、石組はとりはずされており、代わりに玉砂利が遠浅のような自然なかたちで池に没する
洲浜ができていました。玉砂利と阿弥陀堂の中間、石の灯籠がおかれた部分は白砂敷きです。

慈円は後年、童舞の育成につとめました。そうでなくても平等院では今でも毎年舞楽の奉納がなされています。平等院の白砂
敷きの前庭は舞楽奉納には少々狭い気もしますが、寺院・白砂・舞楽の三点セットはあざやかに、わたしのなかで慈円が生きた
たしかな有機的空間を構成しているのです。あるいは仁和寺や大覚寺のあの白砂の庭。守覚法親王や益性法親王が眺めて
いられたのは白砂の庭でした。さらに、寝殿造り建築における南庭は白砂敷きだったといいますし、平安時代、舞楽や儀式はそ
こでおこなわれました。と、このように白砂敷きの前庭は、わたしにとって寺院もしくは公家社会の舞楽・儀式を考えるうえでなく
てはならないというか、あって当然のシチュエーションなのです。

峰岸先生のお話のなかに「白砂」の語を耳にしたとき、『親玄僧正日記』にあった「舞」の語が条件反射のように甦ったのも当然と
了解していただけますでしょうか。日記には「庭舞」の語もあり、庭で舞がおこなわれた……。どのような舞かわかりませんが、とにか
く親玄がいた寺院には、「舞」をおこなうにふさわしい庭があったのです。正応六年正月の条に、佐々目遺身院に於いて「及打会」
なるものがもよおされ、そこでは田楽、猿楽ときちんと舞の種類が記されていますから、たんなる「舞」は「舞楽」とみていいでしょう。
その「庭舞」の部分を引用させていただきます。正応五年八月です。

十一日降雨、今日為庭舞見物、相州(貞時)来臨、雖降雨、無事、被舞之間、聊雨脚有隙分也、
   十二日
   十三日、今日舞有見物了、
 
と、親玄がいた寺院では、執権貞時が「来臨」するほどの「庭舞」がおこなわれていました。雨が降って気をもんでいるようすがう
かがわれますから、これはやはり「外」、完全な「庭」での行事でしょう。今小路西遺跡の白砂敷きの前庭は、発掘調査報告書に
よると、北谷3B面、通称北側の武家屋敷とよばれている地区中、堂々とした建物だっただろうことが推測される「礎石建物5」の
南に広がり、そこに小さな「礎石建物6」が海中に浮かぶ島のようなかたちで建っていたらしい。海中にというのは、白砂は報告
書では海砂となっているからで、文献によっては白砂とあるから、海砂であるところの白い砂なのでしょう。じっさいにどんな砂
か知りたくて、報告書をはじめいろいろ探したのですが、どの本をみても、わたしのように「白砂」などという些細なところに焦点を
あてて編集してくださってなどいませんから、写真すらみつからず、いつか折があったら鎌倉の考古学関係のかたに教えて
いただけないかしらと思っています。

「礎石建物6」はだから、報告書には、「砂敷き中にあることから、その用途は舞台とか宴会用あづま屋か桟敷のようなもの、さら
に想像をめぐらすならば建物5から張り出す釣殿のようなものが思いうかべられる」とあります。釣殿というのは、寝殿造り建築の
東西の対の屋からのび、池に張りだして建てられた建物で、釣りをしたり、観月や管弦の宴をもよおす風雅の場です。

  さて、この北側の武家屋敷ですが、ここには十棟の建物がみつかり、そのうち七棟が礎石建物でした。そして、七棟のなかで
も主要建物とみられる「礎石建物1」「礎石建物2」「礎石建物5」の三棟が、基壇状土盛り上に建てられていました。「礎石建物5」
は「礎石建物1」と近接し、渡り廊下でむすばれています。「礎石建物1」は「大棟に瓦を葺く平安貴族の邸宅風の建物であったと
考えられ」、「5間四方という規模からして、大型の持仏堂のようなものであったかもしれない」そうです。

「礎石建物5」は、平安貴族の邸宅風「礎石建物1」と渡り廊下でつながり、前面に白砂敷きの庭があった……。しかも、それは
南庭です。京都で発掘される寝殿造りのじっさいをよく知らないから危いのですが、「礎石建物1」の南側前面への張りだし具合
や渡り廊下との関係から、わたしには「礎石建物5」を寝殿にあてると「礎石建物1」が西対となる寝殿造り状の構造に思えます。
ただ、寝殿造りにおける対の屋は「礎石建物1」みたいな正方形ではなく、奥へ長い長方形が一般的のようですが。

  でも、報告書でも「礎石建物5」について、「これを3B面の主殿(平安貴族の邸宅をまねたとすれば寝殿)と考えて良いのでは
なかろうか」とありますから、かならずしも寝殿造りそのままというのでなくとも、雰囲気としてはそうなのでしょう。「礎石建物1」を
持仏堂とするにはすこし規模がおおきいのではないでしょうか。貴族がみずからの邸宅内にかまえる持仏堂はたいてい三間
あるいはもっと小さく二間四方のようですから。同じく基壇をもつ「礎石建物2」は、「1」「5」と離れて西側の山裾にあり、北谷
3B面の「奥座敷」的性格の建築とみられています。ここから後述するようなおびただしい量の高級舶載磁器の破片が出土して
います。「礎石建物2」の南側、前庭にあたる部分には玉砂利が敷きつめられていました。

  基壇ときいたとき、わたしには思いだした遺跡がありました。それは佐々目遺身院かもしれない遺跡、笹目にある遺跡です。
記憶がたしかなら笹目の遺跡にも基壇があったはずと、『笹目遺跡発掘調査報告書330番│1地点』のコピーを久方ぶりに
だしてみました。この遺跡は、確たる証拠がないから、検出された焼土層が『見聞私記』にある永仁五年閏十月の「甘縄宿坊
焼失於聖教等出用半被出了」のときのものならという一種願うような前提のもとで、佐々目遺身院かもしれないとされている遺跡
です。そうしたら、やはりありました。佐々目遺身院かもしれない遺跡からは、礎石建物と基壇と玉砂利敷が検出されています。
礎石建物は基壇上に建てられていました。報告書にはこうあります。「鎌倉市内の中世遺跡では、既に各所で基壇遺構が発見
されているが、そのほとんどが経済的に裕福な寺社或いは高級武家の屋敷に限られる」と。そして、「基壇には(中略)多様な
形態のものが見られる。本址に類似する基壇遺構は、鶴岡八幡宮境内(鎌倉国宝館収蔵庫予定地)などで検出されている」と。
  また、玉砂利敷については、「本址は位置・範囲から見て礎石建物址2の前面に存在していた庭を整備・装飾するために
蒔かれたものであろう。鎌倉市内の中世遺跡で基壇遺構に近接して玉砂利敷が検出された例としては、極楽寺旧境内遺跡・
今小路西遺跡の北谷第3B面などがある」と報告されています。

  ここで奇しくも、頼助が住したかもしれない遺跡の遺構と、親玄が住したかもしれない遺跡の遺構とが、こんなめずらしい状況
で似ているという結果がでました。しかも頼助が別当をつとめた鶴岡八幡宮の名前まで登場するなんて……。佐々目遺身院
かもしれない遺跡から白砂敷きは検出されていませんから、今小路西遺跡の報告書に戻ると、「礎石建物5」の前庭、白砂敷き
のなかに建つ「礎石建物6」は、さきほど記したように「舞台」とか「建物5から張り出す釣殿」のようだとありました。

  鶴岡八幡宮の本殿へあがる階段の下、実朝が殺されたという銀杏の樹の下の広場に「舞殿」があります。そこで毎年春の
鎌倉まつりで「静の舞」が奉納されます。静御前が頼朝のまえで堂々と義経を慕って謡いつつ舞ったというあの舞です。二度、
スタジアムの観客席さながらロープで仕切られた階段に座して見物させていただきました。舞がこんなにもおごそかなものかと
思われる得難い経験をします。四月の第二日曜と決まっているようですから、折があったら是非ご覧になってください。「礎石建
物6」が「舞台」だったとしたら、この「舞殿」のような存在だったのではないでしょうか。「舞殿」には演じる舞人・楽人しかあがり
ません。見物者はみな天の下、野ざらしです。

  親玄がいた寺院での「庭舞」にしても、たしかに雨ではらはらしたかもしれませんが、舞そのものは「礎石建物6」のなかで
おこなわれて無事だったのでしょう。そして、見物の貞時は主殿である「礎石建物5」のなかに座して、ゆうゆうとくつろぎながら
時をすごしたのではないでしょうか。親玄が雨にこころをいためたのは、貞時に追従してきた家臣とか警護のものが白砂の庭
に整然と侍って雨ざらしになるのをみかねてのことだったと思います。と、こんな具合に、まったくなんの根拠もなく、ただ有機的
感覚の連鎖反応で、今小路西遺跡から検出された遺構にかさねて、『親玄僧正日記』にある「庭舞」の情景を想像してみました。

  そこで、つぎにもうすこし信憑性のある物的証拠へと話を移します。「礎石建物2」からおびただしい量の高級舶載磁器の破片
が出土したことはさきに記しました。ここでの高級舶載磁器とは、当時の貿易の相手国である元の青磁や白磁をいいます。遺跡は、
遺跡の存在それだけでもおもしろいのですが、中世遺跡にたずさわって、出土品である陶磁器の魅力に嵌まると、もうこれは
おそらく生涯そこからぬけだせなくなるほどの妖しい牽引力でとりつかれます。

  陶磁器が出土品といってもよく理解できない方もいられると思いますが、旧石器時代なら石器、縄文時代や弥生時代は土器、
古墳時代なら古墳のなかの副葬品、とそれぞれその時代をみるにバロメーターとなる遺物があります。中世のそれは陶磁器です。
  陶磁器というのは便利で、まず産地がわかるからその時代の流通経路が読めます。生産年代がわかるから、時代の特定の判断
基準になります。どういう種類の陶磁器がまとまっているか(組成)をみれば、そこがどのような性格の場であったか読みとることがで
きます。陶磁器とひと口でいっても、そこには国産のものと舶載品があり、猿投窯製品や珠洲、古伊万里など国産陶器に嵌まる
方もいられますが、わたしはなんといっても舶載磁器、それも越州窯や龍泉窯の青磁、景徳鎮窯の青白磁、定窯の白磁といった
最高級品にばかり魅せられてしまっています。

  だって、破片とはいえ、当時最高級の優品です。博物館でだったらガラスケース越しにのぞくしかない品々を、じっさいにこの
手にとってためつすがめつまじまじとみることができるのです。最初に手にしたときの感激。それはなにものにも代えがたい思い
でしたし、どんなに回数をかさねても今でも思いは新たです。毎年九月に貿易陶磁研究会というシンポジウムがひらかれて、
全国から発掘の当事者の方々や陶磁器研究の第一人者でいられる方々があつまり、前年一年間の成果を発表してください
ます。わたしはこの会に参加させていただくのが楽しみで、素人という負い目をひしひしと感じながら第一線の先生方のあいだ
に混じって、二日間、むさぼるように全部の講演を拝聴してきます。

  こんなふうに陶磁器が身近になっていますから、峰岸先生の寺院説をうかがったあと、しばらくたって、組成はどうなっている
のかしらという思いがおのずと湧いてきました。そこで、一九九六年に根津美術館で開催された「甦る鎌倉」展の図録から、
今小路西遺跡出土と同じものが他のどの遺跡からでているのか調べることにしました。この展覧会は、副題が「鎌倉発掘の成果
と伝世の名品」という、美術館としてはめずらしい、むしろ博物館のほうがふさわしい内容でした。副題どおり、鎌倉の遺跡出土中
のえらばれた陶磁器が網羅されてでているわけですから、ここに載っているものを分類すれば、綿密さはともかく、一応の傾向
はでると思ったのです。

  今小路西遺跡出土の遺物にははっきりした特徴があります。それは、「日常雑器類があまり含まれておらず、青磁酒会壷や
浮牡丹文水差、竜文大皿など市街地一般には出土しない(全国的にも類例の少ない)最高級舶載品が多かった」(河野真知郎
「鎌倉武家屋形と都市住居│中世鎌倉市街地の居住様態│」)ということ。その最高級舶載品の組成にどういう傾向があったか……

  まず、対象とする磁器ですが、青磁鎬蓮弁文碗のようなどこにでもでている普遍的なものは調べる必要ないでしょう。 それから、
青磁太鼓胴水指や、青磁双魚文皿、青磁龍文盤のような、めずらしいものではあっても、形態として日常あってふしぎはないものも
対象からはずしました。探ってみたいのは、青磁酒会壷、それから青白磁梅瓶、白磁水注といった、他の遺跡でみたことはある
ものの非常に特殊で数がすくないもの。それに、これほど特殊ではないものの、日常雑器ではない二、三の陶磁器です。

  今小路西遺跡の最高級舶載磁器の代表は龍泉窯青磁酒会壷です(しゅかいこ、と読みます)。酒会壷をご存じの方はほとんど
いらっしゃらないと思いますが、じつはこれがわたしには馴染みの深い青磁で、称名寺に大変有名なものがあるのです。それは
称名寺境内にある北条顕時の墓から出土しました。骨壷に使っていたようです。おそらく顕時愛用のものを子息の貞顕が埋葬
にあたって用いたのではないかといわれています。安達泰盛の娘婿だった縁で霜月騒動の際に下総籠居を余儀なくされ、
平禅門の乱で頼綱がほろびると、その年のうちに復帰して親玄のもとを訪ねた称名寺の檀越のあの顕時です。酒会壷は
骨壷でわかるとおり、膨らみのある胴体の、蓋付きの容器です。

  親玄が住したかもしれない遺跡の出土遺物と、親玄のもとを訪ねた顕時の墓から出土した遺物とが、かなり特殊な遺物で
あるにもかかわらず同じというのは、なにか因縁めいたものを覚えます。或いは顕時が親玄から譲られていたりして……、などと。
今小路西遺跡からはこの酒会壷が複数出土し、大型のものから称名寺のと似た中型のもの、そして小型と、種類はさまざま
です。図録から、青磁酒会壷が他のどの遺跡から出土しているかみてみました。これは、あくまでもこの図録でみるかぎりと
いうことを忘れてはならないのですが、なんと、称名寺・太平尼寺跡からの二点だけでした。それから、景徳鎮窯青白磁梅瓶
ですが、今小路西遺跡以外には極楽寺旧境内納骨堂跡の一点のみです。

青白磁というのは、胎土の白とその彫りの文様が透けてみえる非常に美しい水色の釉がかかった磁器で、梅瓶は「めいぴん」と
読みますが、これがまたすてきなのです。景徳鎮窯独特のもうほれぼれしてため息をつくしかないのですが、これはどう説明
しても説明しきれないので、百聞は一見に如かずです。美術館か博物館でみてください。出光美術館にあります。

では、青磁または青白磁香炉はとみると、これはたくさんあって、称名寺、極楽寺旧境内納骨堂跡、由比ケ浜中世集団墓地
遺跡、建長寺、円覚寺、浄妙寺、遊行寺、材木座妙長寺裏遺跡から。白磁または青白磁水注は、笹目遺跡、若宮大路周辺
遺跡群からです。こんなにめずらしいものが、頼助が住したかもしれない遺跡と、親玄が住したかもしれない遺跡の双方から
出土しています。笹目遺跡出土の水注は埋納遺構の一括遺物で、以前からこの水注に関しては気になっていたのですが、この
符合もまた気になるところのひとつです。

それから、白磁または白磁を模しただろう国産瀬戸製品の灰釉四耳壷(かいゆうしじこ)は、多宝寺址やぐら、新善光寺境内
やぐら、佐助ケ谷やぐらから。最後に、これは青磁、国産品の材質を問わず花瓶(けびょう)一般をあげると、称名寺、太平
尼寺跡、極楽寺旧境内納骨堂跡、由比ケ浜中世集団墓地遺跡、建長寺、多宝寺址やぐらからとなります。かなり片寄った傾向に
なっているのをお察しいただけたでしょうか。やぐらというのは、鎌倉特有の墓地、あるいはそれに準ずるものとされています
が、今あげた出土遺跡、あるいは伝世品を所持しているところはみな寺院かまたはそれに付随する葬送関連の遺跡なのです。

さきに基壇や玉砂利が検出したことから、遺跡は「経済的に裕福な寺社或いは高級武家の屋敷に限られる」となりましたが、遺物
の組成のベクトルは、はっきりと武家屋敷でなく寺院を指していました。手塚直樹氏も「鎌倉出土の工芸品」のなかで、この遺跡
の最高級舶載品について、「火を受けていなければ寺社などに伝世していたと思われる」「……このように大型の製品は寺社内の
調度品として使用されたり、蔵骨器に転用されたものと思われる」と述べていられます。遺物からみるかぎり、寺院という説はかなり
有力なのではないでしょうか。 もしそうだとして、そこに親玄がいたとしたら、ここには頼助が訪れ、顕時が訪ねてきて、そして、
もしかしたら為兼も訪れていたかもしれません。正応四年下向の際に……


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