寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
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人には人の時が流れている。そんな感慨をもってしまった。為相と、称名寺における釼阿や貞顕の年譜をそれぞれつくり、
みくらべていたときだった。同じ時代、まさに同じ時間のなかにいたそれぞれなのに、まるでこちらをはぐらかそうとでもするかの
ように、鎌倉というひとつの空間にひとりがいて、べつのひとりが入ってきそうになると、そのひとりがすうっとでていってしまう。
でも、それでも、同じ時代、同じ時間と空間を共有することのあり 得た人たちなら、あるいは一瞬、ある一点で同じ空気を共有し
合ったこともあったのではないかと思ったとき、アンリ・カルティェ・ブレッソンの「決定的瞬間」を思いだした。
私の人生は写真が原点だから、どうしてもそういう発想をしてしまう。
写真の道にすすんで、はじめて系統立って写真を学んだとき、授業でブレッソンの「決定的瞬間」を紹介された。
それはなんの変哲もないただの日常的光景を切りとった一コマにすぎないけれど、そういうありふれた日常の一瞬
のなかにひそむそらおそろしいほどのすごさを思い知らせてくれたのがこの一枚の写真だった。
今ここに写真があるわけでないから私がつくりあげた部分が大きいかもしれないけれど、記憶は鮮明で、ヨーロッパ
のある街角。アパートの二階か三階の窓からみおろして撮ったようなアングル。だから、背景は全面石畳で、
そこに三方から石造りの建物の端が街路灯の飾りといっしょに不安定な角度で入りこんでいる。
今しもその街角を思い思いの方向からとおりすぎようとして擦れちがう、ばらばらに点在する人たち。モノクロームの
画面だからか皆黒衣で、それが人生の重さを象徴するかのよう。上からのアングルなのでひとりとして顔がわからない。ただ
頭のてっぺんと、帽子やスカーフで年齢や個性を想像するしかない。誰ひとり見知ったもののいないどうしが擦れちがう瞬間。
それは、擦れちがっている当事者でさえ意識していない、ゆえにその人にとってなんの記憶にものこらない、なんの意味も
ない瞬間。でも、厳然として、そのとき、その人は、そこに足跡をのこしたのだ。「そこ」という歴史に組みこまれたのだ……
この写真を知って以来、私のなかにこの感覚が棲みついて、どこにいても、どんなことをしていても、ふっと、
「今、私は?」という外への眼差しにとらわれる。意識からそれた感覚……。人生はみえないところにドラマがある。
と、こんなふうに格言めいたことばが浮かんだところで、為相と称名寺関係のそれぞれの年譜を紹介させていただきます。
あるいは為相も、称名寺の釼阿や貞顕と、鎌倉の辻で、歴史的一瞬の足跡をのこしているかもしれない。それを探るために。
まず、第Ⅱ期の冷泉為相から。四十一歳から五十一歳の期間となります。
嘉元元年(1303)閏四月 為兼佐渡より帰洛・仙洞五十番歌合(京極派歌合初参加)
五月 東下
十月 鎌倉久明親王家千首歌会
十二月 為世『新後撰集』奏覧。為相四首入集。勅撰集初
嘉元二年二月 某、鎌倉旅宿にて為相より御堂関白集を見せられる
十月 竹園(久明御所)会。為相、為守らが作者某、雅孝本の明日香井集を写、「於讃州之許注之」
嘉元頃 拾遺風躰撰か
延慶元年夏 他阿の千首に合点
八月 久明親王廃せられ、守邦王が将軍に
延慶二年八月 将軍宮会、為相詠歌云々
この年 細川庄地頭職につき越訴
延慶三年二月 東下
八月 貞時の勧めで五首歌を詠
この年 柳風抄を撰か。為相女、久明親王との間に久良を生む。為兼、東下(他阿と法談)
応長元年五月 為兼に勅撰集撰進の命下る
十月 貞時没
十二月 貞時四十九日に尾藤頼氏に贈歌
正和元年三月 為兼『玉葉集』奏覧。為相十四首入集
正和二年(1313)七月 細川庄地頭職勝訴確定
八月 六波羅より勝訴の事伝達さる
この年 他阿の歌に合点
ここにあらわれる他阿という人物は、一遍上人に十三年間片時も離れず随行し、一遍の没後も遊行を
つづけて布教につとめた時衆教団の大成者真教です。嘉元二年、真教は遊行をやめ、神奈川県相模原市の
当麻に一所止住します。和歌をよくし、為相や為兼、為相の弟為守(暁月房)らと親交があったことが知られています。
つづいて称名寺の関係を。
乾元元年七月 貞顕、六波羅探題南方就任
嘉元二年三月 釼阿、大和室生寺にて忍空より付法
四月 佐々目遺身院にて、益助から益性法親王へ聖教伝授
六月 審海没
嘉元三年二月 益助没
四月 嘉元の乱
十月 貞顕、六浦瀬戸橋造営
延慶元年八月 釼阿、称名寺長老に
十二月 貞顕、六波羅探題南方を辞す
延慶二年正月 貞顕、鎌倉に帰る
五月 益性法親王の釼阿への聖教伝授始まる
延慶三年 益性法親王帰洛
六月 貞顕、六波羅探題北方就任
応長元年十月 益性法親王の釼阿への伝授、この時期最も盛ん
正和二年 益性法親王の釼阿への伝授、なお活発
正和三年十月 貞顕、北方を辞して帰る
それから、第Ⅲ期になりますが、為相は高峰顕日、夢窓疎石のふたりの禅僧と親しい交わりをもちます。
その交流がいつ端を発したか明らかではないのですが、第Ⅱ期にはじまっていると考えられますので、お二方の
年譜を第Ⅲ期までまとめて紹介させていただきます。
文応元年 高峰顕日、兀庵普寧が来日して建長寺に入ると侍者に
弘長元年 兀庵普寧帰国。高峰顕日那須雲巌寺再興
弘安二年(阿仏尼鎌倉下向の年)
高峰顕日、無学祖元が来日して建長寺に入ると法嗣に
永仁三年 夢窓疎石、はじめて鎌倉に入る
正安元年 一山一寧が来日し、夢窓疎石建長寺に参じる
正安三年 夢窓疎石、建長寺の一山一寧のもとに入室
乾元元年 夢窓疎石、一山一寧に従い円覚寺に
嘉元元年 万寿寺の高峰顕日に夢窓疎石参じる
嘉元三年 浄智寺の高峰顕日に夢窓疎石参じ、印可を受く
徳治二年 万寿寺の高峰顕日に夢窓疎石参じる
延慶二年 高峰顕日、万寿寺を辞し那須雲巌寺に
正和二年 高峰顕日、浄智寺に在
正和三年 高峰顕日、建長寺第十三世住持に
正和五年 高峰顕日、那須雲巌寺へ。十月没
元応元年 夢窓疎石、鎌倉へ戻る
夏以降 夢窓疎石、横須賀泊船庵に。五年滞在
夢窓疎石については今さら説明する必要ないでしょう。鎌倉では水仙の花で知られる瑞泉寺を開創された僧。
京ではもっと天龍寺、西芳寺など、今ここで語るのもはばかられるほど有名な臨済宗の僧侶でいられます。この連載を
はじめてまもなく、夢窓疎石の影がちらつきはじめて、参ったな、これは触れざるを得なくなるのかなと、できること
なら避けてとおりたいものと思いました。なぜなら、こんなすごい方を語るなど、とうてい私の力量の範囲外と思ったからです。
夢窓疎石については、その名前の印象から、かなりむかしから気にかかっていました。ただ、どういう事蹟の方か詳しいことを
知るのはさき送りにしていました。だって、かかわってしまったらとんでもないことになるのは明白です。
触れずにおいたほうがどんなにか楽でしょう。
だいたいに、こうやって最初に避けてとおりたくなる人物ほど要注意、核心中の人なのです。直感でわかるの
でしょうね。これは危ないぞ、かかわったら振りまわされるぞと思う人ほど、かかわらざるを得なくなるのは、あるいは
実人生と同じなのかもしれません。
「白拍子の風」のときも、新古今前夜という時代設定上、藤原定家の存在を無視できないことはわかっていました。
でも、定家など、触れたらどんなことになるか。世のなかの定家ファン、定家オーソリティーでいられる方から失笑
されること必定です。それで、最初はそっと名前だけ登場させて、あとは避けてとおすつもりでいました。それが、
物語がすすむにつれ、いつしか舞台の前面に押し出でて……。なにか定家に狂言まわしのような役割を
させてしまい、「定家をあんなに走りまわらせて……」と、菱川善夫先生に苦笑されてしまいました。
夢窓疎石も、だから、最初に、やばい! と思ったからには、いつかは避けてとおれなくなるのを感じていたのでしょう。
案の定、嵌まってしまいました。でも、むかしから漠然と興味をもっていた方の生涯を把握させていただけたわけ
ですから、嬉しい罠ではありましたが……
高峰顕日という方は、夢窓疎石ほどにはよくわからないのですが、この方も私のなかではすでにすてきな風貌と
ともに確たる存在を占めています。今までに憧れをもった人物中、高齢なほうでいられる方だからか、もしかしたら
私のなかでの最高峰、理想中の理想の人、手をのばしても届こうなどとも思わず、ひたすら憧れているだけで満足と
いった方かもしれません。後嵯峨天皇の皇子という身分でいられながら、禅僧としての修行を積まれ、厳しく
人生を生きた方です。師僧は北条時宗も帰依した宋僧無学祖元。私などは、この方ほど清廉とか潔癖ということばが
ふさわしい方はいられないのではと思っているのですが、あの、自分の思惑からはずれることには梃でもうごかないと
いった、ある意味では気難しい、繊細な感性の持主の夢窓疎石が、終生師弟の礼をとってつくされたのも
当然とうなずかれる方でいられます。
為相は、このお二方の歌の師範だったといわれています。
このあたりのことは、私はまだなにも深い資料を手にしていませんから、どういう状況だったのか具体的なことは
わかりませんが、このように、為相における第Ⅱ期には、佐々目遺身院における頼助や親玄、益性法親王といった
密教僧の方々とはべつの、禅僧世界が入りこんでくることになるのを予告だけさせていただきます。
為相における第Ⅱ期の第Ⅰ期との明らかなちがいは、鎌倉での活動の場が将軍久明親王や執権貞時のもよおす
歌合や歌会になっていることです。着実な地盤固めが実った結果であるでしょうし、四十代という年齢からくる
風格もそなわっていたことと思います。久明親王には娘を側室としてあげるなど、縁戚関係まできずいています。
延慶元年、久明親王は将軍を廃されて帰洛されますが、為相の鎌倉における立場はそれほど変わらなかったよう
です。年譜をみると、嘉元から延慶にかけて、為相はこの時期のほとんどを鎌倉ですごしています。
そしてこの時期、貞顕は為相とは反対に六波羅探題南方として約六年半、京に在住しとおしました。
為相の鎌倉下向は、細川庄をめぐる遺産相続争いでした。その決着が第Ⅱ期のこの時期についています。
しかも、それは為相の勝訴というかたちで。
裁判は建治元年(1275)、為家没後まもなく、おそらく阿仏尼によって六波羅に提訴がなされ、はじまって
います。弘安二年以前に一度、為氏もしくは為世が勝訴したと思われ、それが阿仏尼の鎌倉下向につながったらしい。
弘安六年、阿仏尼が没し、正応二年、為相が勝訴します。けれど、為世が不服として越訴したため、正応四年に
為世の勝訴となります。延慶二年、今度は為相が越訴して、正和二年、為相の勝訴が確定するのです。このときの
判決主文に添えられた施行状に六波羅北方貞顕の署名があります。
福田秀一氏「細川庄をめぐる二条冷泉両家の訴訟」によると、「建治元年以来四度に亙る訴への提起と判決とは、
すべて六波羅がこれに与つた」とあります。貞顕が赴任したのは乾元元年だから、係わった越訴は延慶二年のときの
ものでした。正応四年から延慶二年までの十八年間、為相は敗訴したままうごきませんでした。
当時の越訴の提出期限は原判決交付後二十三年間だったといいます。年齢でみると、敗訴したのが二十九歳。
越訴に踏み切ったのは四十七歳です。ながい鎌倉滞在のあいだに為相はさまざまな人物とかかわりをもちました。
年譜をみると、特に第Ⅱ期には、高峰顕日、夢窓疎石ら当時鎌倉で全盛だった禅宗の高僧と親しい交わりをもった
形跡がうかがえます。 四十七歳での越訴は、そうした精神面での深まり、自信が、社会的なかたちをとって
あらわれたことだと思います。
延慶二年は、貞顕が南方を辞し北方に就任するまでの、京にいなかったちょうど谷間のような一年半にそっくり
含まれます。貞顕が鎌倉に帰ったのが一月。越訴がおこなわれたのが何月かはわかりませんが、為相は
八月にはまだ鎌倉の将軍宮会で詠歌をしており、十一月になると京で大嘗会御禊供奉をしていますから、
六波羅に提訴したのはおそらくこの頃ではないでしょうか。為相の越訴を貞顕が受理したわけではないことになります。
その後、貞顕は北方として再度上洛。辞して帰る前年の八月、為相勝訴の書類に署名をした。
七月に幕府で決定されたものが六波羅をとおして八月に為相に伝達されたといいますが、年譜をみると、この時期
為相は鎌倉にいたとしか考えられません。ということは、この時点では越訴のときも勝訴確定のときも、為相と貞顕は
対面していないことになります。でも……、なのです。
第Ⅰ期では為相と称名寺関連の人物との接点はまるで見出せませんでした。でも、称名寺に「青葉の楓」という、
伝承ではあるにしろ為相のなんらかの足跡がのこされている以上、どこかで接点があるとしたら、それはもうながく
京に滞在し、公家文化にどっぷり浸った貞顕が、と考えるほかありません。なにしろ、六波羅探題の任は十年以上にも
わたりましたから。そこで、すこし貞顕について考えてみたいと思います。
益性法親王の釼阿への聖教伝授の開始が、貞顕が六波羅探題南方を辞して鎌倉にもどったその年であることが、
年譜をみるとわかります。最初、それは偶然にすぎないと思い、やりすごしていました。が、年譜をつくり終えてひと息
つき、例のごとく気晴らしに散乱しきった資料を片づけていたとき、これは佐々目遺身院には関係ないと眼をとおす
ことを見送っていた図録のなかにある文章をみつけ、益性法親王の鎌倉下向がにわかに気になってきました。
それは、金沢文庫の図録で、『鎌倉時代の手紙』中の文章です。
金沢文庫に残る書状のうち「法親」と記すものには益性筆のものがあり、法親は法親王の略称で人名ではないと
みられる。実時が自分にあてた手紙を利用して書写させた『斉民要術』紙背文書にも「法親」とあるものがあり、同じく、
法親王の書状かと思われる。益性は釼阿に付法し多くの聖教の書写を認めたが、貞顕の子の顕助も仁和寺に
入っており、その深密な関係を推定させる。恐らく、実時と益性の師=益助との関係を前提にしているものとみられる。
益助は頼助の付法を受けるために仁和寺から下向したのでしたが、その益助の下向に称名寺の檀越、初代金沢北条氏
の実時がかかわっていたのでした。それでは、益性法親王の下向には、貞顕がかかわっている?
そう思ってあらためて年譜をみると、益性法親王の下向は貞顕の六波羅探題南方時代のことで、貞顕が仁和寺に
はたらきかけたとみることもできるとわかりました。そして、釼阿の益性法親王による聖教伝授が、佐々目遺身院とは
関係のない称名寺や犬懸坊という場でおこなわれていることとあわせて考えるとき、ここに貞顕の意向というものを
思わないわけにいかなくなります。
以前、佐々目遺身院では、釼阿ではなく、同時期に付法を受けた有助の聖教が主流になっていたと書きましたが、
最初から釼阿への聖教伝授は佐々目遺身院と無関係だったのでした。貞顕が、「称名寺」に、聖教という高貴な法の
伝授を希んだのではないでしょうか。
貞顕という人物は、鎌倉武士としてはかなり変わっているのではないでしょうか。六波羅探題として上洛した武士は
何人もいるのに、貞顕ほどの顕著な貴族趣味をもって帰った人はほかにいないのでは。貴族趣味というと
誤解をまねくかもしれませんからいいなおすと、京での生活を過去にしてしまわず、摂取して帰った
文化を鎌倉の地において現出せしめようとした……
もともと実時がすでにこの時代随一といわれるほどの、武人としての実力をもちながらの高度な知的趣味人であり、
その土壌があるわけですが、貞顕の代になって金沢北条氏は最盛期を迎え(貞顕は執権にまでのぼりつめるのです)、
称名寺の再造営が可能になったとき、貞顕がえらんだのは、当時鎌倉で主流だった建長寺や円覚寺のような禅宗様寺院
ではなく、王朝風の匂いをもつ、ある意味では前近代的な浄土式庭園機構の寺院でした。
それこそ、貞顕がながく京に滞在してみて歩いた文化。白河上皇や道長といった最高級貴族がつくりだした
文化にほかなりません。鎌倉には当時頼朝建立の永福寺という浄土式庭園をもつ立派な寺院があり、貞顕は
その永福寺を手本にしたともいわれていますが、時代に逆行したこれは、いくら貞顕が変わっているといっても、よほど
みずからの趣味嗜好にたいするポリシーがはっきりしていなければ成し得るものではありません。
とにかく、貞顕の作庭にかける熱意は並たいていではありません。金沢文庫にのこる書状のなかには、貞顕が
石立師性一法師をともなって称名寺の釼阿を訪ねたり、石についての指示をだす文面のものがあり、かなり肉薄して
当時のことをうかがうことができます。
作庭といえば、夢窓疎石との関連を思わないわけにいきません。が、夢窓疎石の指示も仰いだのでは? と話には
きくものの、確たる資料をつかんでいないので、私のなかでは半信半疑。書いていくなかで明らかになるのを楽しみに
待つといった状態です。
趣味人というと暗にやわな人物のように思う向きもあるかもしれませんが、『太平記』にある子息貞将の、鎌倉が
新田義貞軍に攻め入られた際の美しくも壮絶な最期をみるとき、それほどの後継者をそだて得た父親、そしてその
貞将から終生信頼されとおした父親が、そう気骨のない人物だったとは思えません。
称名寺には生前の風貌を忠実にえがいているとされる実時、顕時、貞顕、貞将の歴代当主四人の肖像画が
のこっており、すべて国宝に指定されています。個々の肖像画には金沢文庫での展示で幾度かずつお眼に
かかっていましたが、鎌倉国宝館でひらかれた「鎌倉の国宝」展でめずらしく四像が一堂に会し、その壁面のまえに
立ったときには思わず圧倒されてしまいました。
実時が堂々とした体躯の立派な押しだしにえがかれているのに対し、貞顕はゆとりというより自信のほうが前面にでて、
一見したところ私には馴染みにくく感じられるのですが、眼差しが遠くを見据えていて、これは、といった人物のすごみを
覚えます。やはり鎌倉末期の人……。来るべきものを受けとめるべくおのれの知らないところで覚悟のできている人物の眼、
と私は思っています。
貞顕は、鎌倉滅亡の際、高時らといっしょに東勝寺で自害して果てました。その貞顕が益性法親王をして釼阿に
聖教を付法させしめた真意はなんなのでしょう。やはり貴族趣味の一端……。「東密諸派の中でも最も貴族的密儀的な
御室の一流」(和島芳男「中世における極楽・称名二寺の関係」)というような、貴顕にのみ付法の許される聖教の
その真価を欲しかったということなのでしょうか。
貞顕は、伝統の深さ、一流の文化といったものに傾倒するたちだったのでしょうか。頼朝が鎌倉にありながら終生
京の文化を崇めつづけたように、貞顕もまた……
真の力は精神のなかにあり、その精神は深い伝統にはぐくまれてこそゆたかになるということを知っていた人たち……
そうした精神の輪のなかに為相も入ってくることになるのかもしれません。