寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
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よく鎌倉の新仏教とひとくくりしていいますが、宗派間の重層的なつながりのその層と層の重なり具合を把握しておかないと、この
時代の宗教を正しく認識したことにはなりません。私もそうでしたが、たぶん今でもほとんどの方が、鎌倉時代の仏教といえば法
然にはじまり、親鸞、日蓮といった方々を祖師と仰ぐ新仏教が主流と思っていられるでしょう。では、「鎌倉時代の」ではなく、
「鎌倉という地の」仏教は? と問われたら、それはまた迷いもなく禅宗に落ち着くと思います。では、法然や親鸞、日蓮の新仏教
と、禅宗はどういう関係? と問われて、ああ、それは、と明確に答えきれる方がどれだけいられるか、たぶん覚束ないと思います。
漠然と、鎌倉時代は新仏教、そして、北鎌倉の駅をおりると円覚寺、建長寺といった大寺院が聳えたっているから、鎌倉の仏教は
禅宗と思ったまま、そのちぐはぐさにさえ思いが至らないですごしていられる方が大部分と思います。
以前、必要があって鎌倉の仏教について考えることがあり、はじめてそのときその矛盾、齟齬に気がつきました。自分の思考の
網目のあまりの粗雑さに我ながらあきれながら、そのときしたことは一覧表の作成でした。教科書にでてきて誰もが知っている
有名な僧を年代順にならべてみたのです。一目瞭然、鎌倉時代の仏教のありようを的確に把握していただけると思うので、紹介さ
せていただきます。便宜上、鎌倉時代を三期に分けて考えました。
Ⅰ期(12世紀後半~承久の乱)
□源平の争乱という大きな社会的変動を背景に鎌倉仏教が形成された時期
・法然……浄土宗
・慈円……天台宗
・栄西……臨済禅招来
Ⅱ期(承久の乱以後の執権政治期)
□比較的平和で安定した社会を背景に思想が深められた時期
・明恵……華厳宗
・親鸞……浄土真宗
・道元……曹洞禅招来
Ⅲ期(13世紀後半以後の社会的変動期)
□再び社会的不安が高まると同時に蒙古襲来により国家意識が高揚された時期
・蘭渓道隆に始まる宋僧来朝
・日蓮……日蓮宗
・叡尊、忍性……律宗
・一遍……時宗
佐々目遺身院は四代執権北条経時の没後その墓所に建立された寺院なので、十三世紀後半に入るちょうどその時期の
創建です。ですから、今まで書かせていただいた頼助や親玄、益助、益性法親王、釼阿といった真言密教僧、そして、高峰
顕日、夢窓疎石といった禅僧の方々はみなⅢ期に入ります。夢窓疎石の禅の思想はつぎの室町時代で大きく花ひらき、
室町文化の基調をなしてゆきます。禅を鎌倉の新仏教にふくめる向きもありますが、鎌倉時代になってはじめて招来されたと
いっても、日本で天台宗などから派生して新しく開宗された、いわゆる法然や親鸞、日蓮、一遍といった革新の諸宗とちがうので、
私は一線を画して考えています。鎌倉といえば武士層の支持を得た禅宗という印象がつよいのですが、それが定着したのは
ようやくⅢ期になってから。蘭渓道隆ら宋僧がつぎつぎと来朝し、日本での門弟が育ってからのことで、鎌倉時代全体をとおして
基調をなす仏教ではありませんでした。こうしてみると、鎌倉の仏教とひと口でいっても、新仏教だけが抜きんでて擡頭して
いたわけでないことがよくわかります。平行して、旧仏教である天台宗、華厳宗、真言宗もきちんと引き継がれ、廃れてはいな
かったのです。
このことを最初に指摘されたのは黒田俊雄氏でした。「顕密体制論」という、それまでの定説をあっさりくつがえす説がだされ
たとき、大変な驚きをもって迎え入れられたといいます。私は残念ながら、そのブームをリアルタイムで享受できる立場にはあり
ませんでしたが、固定観念がくつがえされ、しかもそれが正しいという、虚をつかれたような爽快さは容易に想像できました。
黒田氏は仏教を宗派別でとらえず、国家や社会との関係でとらえなおされたのでした。そうして浮かびあがった結論は、新仏教
はいわれているほどあまねく広まっているわけでなく、それどころかじつは国家や社会の中枢から離れた周縁的存在でしか
なかったこと。逆に旧仏教こそが依然として中心的存在であったことでした。大変わかりやすい文章がありますので、それを引か
せていただきます。黒田俊雄氏「顕密体制―中世史の一つの見直し―」から、
日本の中世仏教は、「新仏教」と「旧仏教」とに大別され、前者が中世とともに成立した中世的なもの、
中世を端的に表現し代表するものと説かれ、これが中世仏教の首座に据えられるのが常である。
新仏教に中世の発現をみるのはむろん正当であり、私もかつては新仏教が中世を代表するものとみて
あやしまなかったが、しかし、その後、新仏教の中世における伸びなやみや停滞の現象、中世社会で
占めていた客観的位置などが、次第に目にみえてくると、新仏教を中世仏教の主役にみたてることが新仏教
びいきに傾いた主観的な判断にすぎないことに、気づいた。実際には、中世社会と民衆の信仰を量的
にも質的にも支配していたのはいわゆる旧仏教であり、それは「旧」とか古代的とかいうよりは、日本の中世
そのものに根を張り繁茂していたのであって、そのことは、中世の文学作品や芸能、古文書、古記録などに、
新旧の宗派がそれぞれどれだけどんなかたちで現われているかをみれば、だれにもわかることなのである。
(中略)
私の考えを改めていうならば、中世仏教の首座に正統的な位置を占め宗教の次元でひとびとを支配していた
のは、いわゆる旧仏教、つまり天台・真言・南都の諸宗であり、その諸宗を裏づける原理は、顕教と密教との同一と
差別を論じつつ諸宗派・諸寺社・諸門流がそれぞれの特色を競う“顕密主義”であった。「顕密」という論理主義と
直観主義を巧妙に組み合わせた思考方法が主軸になり、仏教諸宗のみならず神祇崇拝・陰陽道なども内部に
とりこまれ、政治権力(王法)と宗教(仏法)の関係もそれによって規定されていた。聖や新仏教は、その構造が
生み出した周縁的な存在であった。私はこのような仏教の体制「顕密体制」と呼ぶ。
「顕密」の「密」は、大変乱暴ないい方かもしれませんが、密教をさし、「顕」は顕教。天台宗、真言宗、華厳宗以下すべての宗派
をさします。空海の教学以来、密教こそが究竟とする考えかたがあり、密教以外を顕教とくくっていう流れができました。その「顕」
と「密」を両輪とする旧仏教が、鎌倉時代の政治や文化の中心を占めていたというのが黒田氏の「顕密体制論」です。こうした
ことは将軍や貞時の護持僧として重用された頼助や親玄をみても明らかです。そうだったからこそ、はるばる鎌倉まで仁和寺
や醍醐寺など旧仏教系の寺院から高僧が下り、佐々目遺身院のような寺院が栄えたのでした。Ⅲ期といえば鎌倉後半。後半
にしてなお旧仏教はこれほどの勢力を張っていたのです。「新」「旧」のことばに惑わされ、「旧」を「過去」ととらえてしまっては
いけなかったのです。
一遍の時宗は、鎌倉新仏教の掉尾を飾るものですが、この衆団の二祖上人、他阿ともよばれる真教が、歌を介して冷泉為相、
京極為兼、そして、為相の弟の暁月房らと交流のあったことは前回記しました。文永の役のあったあと、一遍は九州を巡って
歩いていました。真教はこのとき大分で一遍と出逢い、以後十三年間、片時も離れず遊行に随行します。一遍の没後、今の
神奈川県相模原市当麻に落ち着きますが、この当麻を為相や為兼が訪ねたとも、いや真教が鎌倉へいったときに会っただけとも
いわれます。
時宗については、ここからさきあまり触れる機会がないでしょうから、まとめてここに書きとどめておきたいと思います。先だって、
佐藤和彦先生からお便りをいただいた際、「蒙古合戦と南北朝内乱―地域から戦争と平和を考える―」という、大分で講演な
さった折のご論稿を抜刷のかたちでお送りいただきました。拝読させていただいて、思いがけず時宗の僧侶の活動が具体的に
示されている箇所に出逢ったとき、周縁的存在の僧侶の役割とはこういうものだったのかと胸うたれました。表舞台で権力者
とむすびついてきらびやかな祈祷に終始する旧仏教系の僧侶とのあまりのちがいに、新仏教が周縁でありながらひとびとの
こころに深く浸透していった歴史的事実がおのずと浮かびあがってきます。真教という人物を理解し、そういう人物と交流をもった
為相、為兼という人物をも理解するうえで重要と思いますので、紹介させていただきます。まず、「Ⅰ 蒙古合戦(一)文永の役」の
項から、一遍がこの戦乱のあと九州の地を歩いていたことについて。
(前略)また一遍側にすれば、この戦乱で疲弊した村々を歩いていく中で、人々にとって何が一番重要な
のかということを自分の心に刻みつけながら、修行を行っていた大切な時期ではなかったのかと思います。
文永の役の後、建治年間に一遍がこの地を歩いたということは、やがて彼の布教活動に大きな意味をもたらす事
になります。時宗の僧侶は、金瘡の術(今流にいえば外科の手術のことですが)に長けているといわれます。
それは、恐らく文永の役で怪我をした御家人が、どういう治療をされていたのか、ということを一遍が学んだことと
深くかかわるのではないかと思います。
つぎに、「Ⅱ 南北朝内乱(一)建武の乱」の項から、「楠木合戦注文」の千早城合戦に関する記事のことを。
まず、数十万人の鎌倉軍の中に「信仰人々同道之時衆雖及二百余人、於今者一人モ無其難」と書かれて
いるところに注目したいのです。鎌倉軍は二百人に及ぶ時宗の僧侶を引き連れていたわけで、この時宗の
僧侶たちは、連歌を詠んで戦場の無聊を慰めていました。さらに、傷を負った武士たちに金瘡の術といわ
れる外科手術を施し、死に臨んだ武士たちに最後の十念を授けていたのです。
当麻に落ち着いたとき真教は六十八歳。為相、為兼、暁月房らが交流をもったのは遊行をやめ当麻に止住してからですから、
その年齢以降の、趣も風貌も一遍に随行していたころとかなりちがう、落ち着いた真教ではあったでしょう。でも、それにしても
十三年、一遍とともに修羅場をみる旅をした人物です。そういう人間ならさぞかし凄みのある風貌と想像したら大まちがい。
真教には幾体か肖像彫刻がのこされていて、晩年病んだ中風で顔がゆがんでいますが、どれもみな丸顔にたれ目の大変
やさしそうな方です。修羅場をみているのに飄々としてこのうえもなく穏やかそうな人物……。真教がどれほど精神のたくましい、
深い人物だったかがうかがわれます。そういう人物と、為相、為兼は法談をし、歌の交わりをもっていました。為相、為兼の
人柄の一端がわかる気がします。公卿でありながら、どこか苦労ということを知っている、人のこころの痛みのわかるふしぎな
人間性……。これが文学者たる所以とでもいうのでしょうか。
戦場で時宗の僧侶は連歌を詠んで武士たちの無聊を慰めていたとあります。時宗という教団は和歌や連歌など文学を娯楽
ではなく、宗教の法儀としてとらえていたのだそうです。今でも総本山の清浄光寺では毎年十一月下旬歳末別時念仏の最初の
行事として「御連歌の式」がおこなわれるそうですが、これは「花のもと連歌」の変形と考えていいそうです。そういう事情だった
から、時宗には和歌や連歌に秀でた僧侶が多かったそうです。一遍には七十首ほどの和歌が伝えられているそうですが、でも、
一遍にとって和歌はただ端的に教義を説く手段でした。真教は一遍よりは文芸に近く和歌と接していたようで、『玉葉和歌集』に
入集もしています。
真教と為相たちの交流の記録は、『他阿上人法語』にのこされています。真教の消息、法語、和歌などを後世のひとが集めた
もので、八巻から成り、七巻までは消息など、そして、八巻目に和歌が収められています。為相、為兼、暁月房の名は、八巻の
和歌の詞書にでてきます。『時宗全書』に収められている『他阿上人法語』から、詞書のみ網羅して引かせていただきます。
順序は掲載の順に従います。
・去延慶三年爲兼卿關東下向のとき見参ありて念佛往生のいはれ尋ね申されて信心落居の後三條新中納言
其頃宰相中將にておはせしが上人の御歌を所望あり爲兼卿の許へつかはさるゝ時合點の歌卅三首のうち
・延慶三年のころ讀たまひけるに曉月房合點のうち
・正和二年曉月房合點のうち
・曉月房合點の歌のおくに和歌の浦やひかりあるたまをなにとして心のそこにかきをくらましとありし返し
・同年八月十五日曉月房詣られけるに折しも今夜は明月なればとて歌すゝめられし時
・おなじこゝろ爲相卿にみせ給ふ歌のうち
・同四年爲相卿合點のうち若以色我見の心を
・正和五年六月のころ爲相卿詣でられけるついでに點あひ給ひしうち
・同年曉月房合點のうち
・文保元年おなじく合點のうち
・文保二年爲相卿合點のうち
・曉月房煩ふ事のありて立居もたやすからさるよしなと歎き申さるゝとて
・文保二年亡者の追孝のためとて爲相卿四十八願の題を人々にすゝめ申されしうち第十八願をよみ給ひける
・徳治三年夏のころ爲家卿出題の千首題をよみ給ひしに爲相卿合點ありし雑の部のうち
これら年号のうちいちばん早いのが徳治三年(1308)。遅いのは文保二年(1318)です。十一年という歳月、為相、為兼、暁月房
と真教の交流はありました。真教の没年は文保三年(元応元年)正月ですから、交流は最後までつづいたことになります。この第八
巻の末尾、すなわち『他阿上人法語』そのものの大尾は、真教の終焉の玉詠とされる歌で絞めくくられています。
元應元年正月十日の夜より病床につき給ひけるか十二日に讀給ひし歌のうち
秋
月はゝや世を秋風に影ふけぬ山のはちかき我をともなへ
と。十一年という歳月には興味深い符合があります。為相がこの第Ⅱ期に鎌倉で高峰顕日や夢窓疎石と交流があった可能性を
前回記しましたが、この徳治三年(延慶元年)という年は、夢窓疎石が甲斐へ去って、以後元応元年まで十年間、美濃の虎渓
や京都北山、土佐などをまわることになる旅にでた最初の年。高峰顕日は延慶二年那須雲厳寺へ去り、その間の正和五年に
亡くなっています。つまり、為相の側からみると、高峰顕日や夢窓疎石と交わりをもっていたが、二人が鎌倉を離れたのをきっかけ
とするかのように真教との交流がはじまる。それは十一年間つづき、真教が亡くなると、またその空いた席を埋めるかのようにして
夢窓疎石が鎌倉に戻って交際が復活する。と、こういう図式になります。
為相の信仰について知る手立てをまだなにももっていないのですが、以前どこかで読んだような、時宗に帰依したあと禅宗に
というような二者択一的なものではない気がします。時宗にも禅宗にも別け隔てなく接していた。おそらく為相や為兼だけでなく、
たとえば道長の法成寺が本堂は大日如来を拝す密教系でありながら、浄土系の阿弥陀堂もあわせもつというように、貴族には
特定の宗派にこだわる意識はなく、ひとしなみに宗教あるいは人生哲学として仏教はあり、そういう深い話をすることのできる相手
として宗教者があったのでしょう。為相の場合、それが高峰顕日や夢窓疎石であり、真教であった。文学と同時に宗教を、哲学を、
語ることのできる相手。双方にとってどんなにか馥郁とした時の流れをもつことのできる大切なかつ楽しい交流だったか。
当麻の地を為相や為兼が踏んだかどうかはわかりませんが、詞書でみるかぎり、真教が歌の師として為相や為兼との
接触をはかったのではなく、為相や為兼が法の道をもとめて真教のもとを訪れています。そのついでに歌を詠んだ……。
真教のほうが立場が上です。当麻は現在の相模原市で鎌倉からかなり離れており、交通手段の不自由な時代に、為相の
ような公卿が何度も足をはこんだとは考えにくいから、真教が鎌倉に入ったときに会ったと考えたほうが自然かもしれません。
けれど、交通手段が不自由というのは現代からみるから不自由なのであって、当時の人たちまでが不自由と感じていたとは
かぎりません。今の時代だって何百年後かにはあんな不自由な時代によくといわれかねないことを考えたら、為相が法の道を
もとめるために艱難辛苦を排して訪ねたとしてもおかしくないでしょう。馥郁とした時の流れにはそれだけの魅力、価値、引きつけ
る力があります。詞書でみるかぎり、私は為相も為兼も当麻を訪ねていると感じます。為兼が登場するのは延慶三年鎌倉下向
のときの一回のみ。旅路のとちゅうに立ち寄ったのか、それとも鎌倉からわざわざ出向いたのかわかりませんが、興味深いもの
があります。京人である為兼と遊行上人真教とのかかわり……、どういう結びつきなのでしょう。
その前々年、延慶元年に花園天皇が即位され、大覚寺統から持明院統へと世の中が変わっています。そして、ふたたび
政治の表舞台に立たれた伏見上皇が、永仁元年に立ち消えになってしまった勅撰集撰集の復活を思いたたれています。
永仁元年のとき決まった撰者は四名で、京極為兼、二条為世の二人が入っていました。他の二人はすでにこの世を去って
います。けれど、この間為世は大覚寺統の後二条天皇に仕えて『新後撰和歌集』を編んでいます。
そのような事情でしたし、そうでなくても為兼に絶対の信頼を寄せていられる伏見上皇です。おこころのうちは為兼の単独撰者
に決まっていました。それを察した為世の側から不服の訴えがなされ、世に有名な「延慶両卿訴陳状」の争いがおこります。為相も
また撰者に加わりたい旨の申状を提出したりしていますが、このときも適わず、早々に鎌倉に引きあげています。為兼、為世の争い
は相当熾烈だったようですが、結局為兼単独撰者の院宣がくだり、延慶三年から二年後の正和元年に『玉葉和歌集』が成立します。
為兼の鎌倉下向はそうした争いのさなかでした。このときの下向の目的がなにかはわかりませんが、為世が鎌倉歌壇の師範で
あることなどから、幕府に単独撰者を諒解させるためではなかったかと井上宗雄氏はいわれます。それもありますが、為兼は
まだほかの年にも下向しており、かならずしも勅撰集とむすびつけて考えなくていい気がします。正応四年の下向が禅空専横を
幕府に訴えるためという、完璧に政治向きの目的だったように、為兼には勅撰集とはべつの世界での功労が実際にありますから。
『玉葉和歌集』はこんなふうにして為相における第Ⅱ期の最後に成立しました。
そして、その翌年、為相の細川庄地頭職勝訴が確定したのでした。