寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
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為相が真教と交わりをもったり、為兼が『玉葉和歌集』成立に向けて活動していた延慶年間から正和にかけてのちょうどこの時期、
称名寺では益性法親王(やくしょうほっしんのう)による長老釼阿への聖教伝授がさかんにおこなわれていました。為相との関連を
追うと、益性法親王は亀山天皇の第十九番目とも二十番目ともいわれる皇子でいられますから大覚寺統。為相は後年第Ⅲ期に
なると大覚寺統の後醍醐天皇に親近するようになりますが、為兼と親しいこの時期はまだどちらかといえば持明院統。まして、娘を
側室にあげた久明親王は持明院統をひきいていられる伏見上皇の弟君でいられます。為相と益性法親王の親密な関係はまずない
とみていいでしょう。もっとも、頼助、親玄と接触をもった為兼とのつながりもありますから、まったく接触がなかったといい切っていい
ものかどうか不安はのこりますが。
でも、為兼が下向し頼助と接触をもったと思われる正応四年からは二十年近い歳月が流れています。頼助が没してからも十年以上
がたち、その間為兼は数年におよぶ佐渡配流の憂き目にあってもいます。また、為兼の佐々目遺身院とのかかわりは文学や人生観
を語りあう類のものでなく、為兼が伏見天皇の側近であるが故の政務上のものでした。立場を離れてまで交流があったかどうかを
考えるとき、これもまずなかったとみていい気がします。ですから、ひとまずここでは為相と佐々目遺身院のかかわりは考慮しなくて
いいものとして、益性法親王による釼阿への聖教伝授に絞って話をすすめることにします。
とはいうものの、益性法親王について書かれた文章はとてもすくなく、詳しいもので入手できたのは今のところ櫛田良洪氏『真言
密教成立過程の研究』、『村田正志著作集五 国史学論説』の二著のみです。櫛田氏のご著書で益性法親王という方の存在を
知ったのでした。櫛田氏によると、益性法親王は「仁和寺に入って益助の弟子となられ、御年二十前後の頃関東に下向あらせられ、
鎌倉佐々目谷の遺身院の益助の別荘に住」されていました。そして、「益助僧正が嘉元三年二月二十二日に入寂せられ、亀山天皇
も同年崩御されたが、尚、依然として鎌倉におわしましたようで、引き続き関東に御止住の上、佐々目の元瑜に師事遊ばされていた」
そうです。そのあとにこうあります。「宮が御年二十歳で宏教方の佐々目元瑜より御受法遊ばされたのは禅林宮即ち亀山天皇の御思
召によつたものである」と。ここでおどろいたのは、佐々目遺身院は、東国の無名の一寺院ではなく、亀山天皇がご自身の皇子を託
されるほどみとめられた寺院だったこと。いくら宏教方というのが密教における大変な一流派であるにしてもです。ただたんに経時の
墓所という私的な仏堂から発展した経緯をみてきた眼に、これは新鮮でした。
頼助が活躍していたころにはまだそんなではなかったと思いますから、おそらくこれは順徳天皇の孫という高貴な身分の益助の
下向にともなってついた栄光、もっといえば仁和寺御流そのものがもたらしたランクアップなのでしょう。この時期、佐々目遺身院は、
京の宮廷とじかにつながるこういう状況でした。益助の下向は弘安七年(1284)。頼助から付法を受けるためでした。その益助のため
に安達泰盛が邸宅風の寺院を建てたのだろうという推論は、この連載の最初のころこだわって書きました。櫛田氏の文章にある
益性法親王が住されたという益助の別荘がその邸宅風の寺院になるのでしょう。でも、益助下向の翌年、それは頼助から益助への
聖教伝授がなされた年になるのですが、泰盛は霜月騒動によって滅ぼされてしまっています。嘉元二年(1304)、益助は益性法
親王へ聖教を伝授します。益性法親王から釼阿への聖教伝授の開始は延慶二年(1309)です。釼阿が称名寺の長老に就任した
のは延慶元年。つまり、釼阿の称名寺長老就任とほぼ時を同じくして益性法親王による伝授がはじまったことになります。ここに貞顕
の意図があっただろうことは前回書きました。釼阿の長老就任自体も、貞顕の意向がつよくはたらいてのことといいます。
応長元年、それは延慶四年にあたる年ですが、久しぶりにでました! あの五紙あった佐々目遺身院指図のうちの№55、「自上乗
院宮返給了」という端裏書のある印明図がのこされている年です。『金沢文庫資料全書 第九巻 寺院指図篇』中の説明には、「年
代や場所を記さないが、図の記入と端裏書は釼阿筆である。端裏書より、印明は潅頂印明のこととみられるから、上乗院宮より釼阿
への伝法潅頂の指図と考えられる。また、『三代供同八祖』のうち『故宮』が益助僧正と考えられるので、この上乗院宮は同じ仁和寺
上乗院の下河原宮とも号した益性法親王の可能性がある。ちなみに益性法親王は應長元年(一三一一)八月廿八日に潅頂印明を
釼阿に授けている」とあります。
応長元年は、為兼が勅撰集単独撰者に決まった年。翌年『玉葉和歌集』が成立することになる年です。益性法親王という方は非常
に繊細優美な方で、付法の態度の厳しいなかにも親王でいられるものやわらかな気品が伝わってきて、知ったときから、まるでその香
に染まるようにして惹かれてしまいました。釼阿とやりとりした書簡がのこっているので(四十通ほどといいます)、ふつうならうかがい
知ることのない親王という方の内面にじかに触れることができ、そこに凜としてすがすがしい書体から受ける印象があいまって、
私のなかではすでに美しい生身の肉体をもって存在していられます。実をいうと、いつかそれを「ある日の法親王の云々」とでもいう
ような短編に仕立てられたらと願っているのですが……。シュトルムの『みずうみ』のような、デュラスの『アンデスマ氏の午後』の
ような作品に……。そうしたら、もちろん舞台は佐々目遺身院。御簾をあげると白砂か玉砂利敷きの前庭がみえる邸宅風の寺院です。
と、話が飛躍してしまいましたが、でもおそらくそれは生涯無理でしょうから、ここで益性法親王の鎌倉でのごようすを櫛田氏や村田
氏のご研究から紹介させていただいて、益性法親王の人となりを知っていただきたいと思います。仁和寺御流は、益助から益性法親
王に伝授されたと同時に有助にも伝授されていて、佐々目遺身院ではそちらが主流だったことは以前書きました。頼助亡きあとの佐々
目遺身院の長老は元瑜でした。櫛田氏のご著書に「元瑜の没後はこの寺に止住した僧を詳にし難い」とありますが、元亨三年に阿闍
梨が有助の伝法潅頂の指図(№56)がありますから、元瑜のあと有助がそれを継いだのではないでしょうか。元瑜の没年は元応元年。
他阿上人真教と同じ年です。そのころになるともう私を魅了してやまない宗教者、歌人といった人たちとのかかわりがなにもうかがい
知れなくなるので、おそらく佐々目遺身院自体について語るのはこの号が最後になると思います。
また、益性法親王は佐々目遺身院の益助の別荘に住して付法を受けたとありますが、長老は元瑜でしたし、釼阿への付法も主として
称名寺でおこなわれたといいますから、この点からいっても連載のサブタイトルでありながら、舞台は完全に佐々目遺身院から離れる
ことになります。それから、仁和寺御流も、佐々目遺身院における有助の系統を追うことはしませんし、釼阿の系統は益性法親王の
ご動向にからんで必然的に顛末までふれることになると思いますので、この号が最後になります。では、その益性法親王の鎌倉ご滞
在の時期がいつからいつになるのか。それを把握するために例によって年譜を作成してみました。嘉元元年、益性法親王は二十歳
でいられます。釼阿は四十三歳。貞顕は二十六歳でした。
乾元元年1302 ●七月貞顕六波羅南方就任
嘉元元年1303 ●為兼佐渡配流より帰洛
二年1304 四月益助→益性法親王於佐々目
●後深草天皇崩御
十二月元瑜→益性法親王於佐々目益助別荘
三年1305 益助没
親玄醍醐寺座主を譲って下向佐々目に住
●亀山天皇崩御
●夢窓疎石浄智寺にて高峰顕日より印可受く
徳治元年1306 ●『とはずがたり』記述最後の年
二年1307
延慶元年1308 八月釼阿称名寺長老
二年1309 ●正月貞顕鎌倉に帰る
七月益性法親王→釼阿付法開始(第一回)
三年1310 ●六月貞顕六波羅北方就任
六月益性法親王→釼阿於犬懸坊
応長元年1311 六月釼阿宛益性法親王の書状親玄帰洛の件
八月指図55
十月益性法親王→釼阿付法
正和元年1312 六月釼阿益性法親王より法華経信解品贈らる
●『玉葉和歌集』成立
二年1313 十二月益性法親王→釼阿付法開始(第三回)
●為相勝訴確定
三年1314 ●十月貞顕鎌倉に帰る
四年1315 三月まで益性法親王→釼阿付法
五年1316 ●為兼土佐配流
釼阿への臨終印明
三月末益性法親王帰洛・大覚寺に住
●十月高峰顕日没
最初はたんに益性法親王と釼阿の関係をならべてみるだけのつもりだったのですが、年譜っておもしろいですね。偶然消し忘れた
他の事象グループの隣り合った一行が、思いがけない事実を浮かびあがらせてくる。えっ、という思いでながめて、それではと、すこし
意識的に他の事象グループのポイント、ポイントを落としてみました。それが●印の事項です。冒頭で為相や為兼における時期と、
益性法親王と釼阿の時期の重なりを指摘してはじまりましたが、こうしてみると、ほんとうに人生というのはさまざま。重層的なのですね。
この同じ時期、為相と真教、益性法親王と釼阿だけでなく、高峰顕日と夢窓疎石の印可をはさむ決定的な関係があり、為兼にあって
は『玉葉和歌集』編纂という絶頂の時期であったのみならず、二度の配流のちょうど狭間にあたる期間です。その誰と誰が顔見知り
だったか。狭い鎌倉の地、人口のほんの一部分でしかない身分の高い人たちのことですから、親しくなくとも擦れ違ったり同席したり噂
を耳にし合ったり、決して無関係のままではなかったでしょう。都市鎌倉のざわめきがきこえてくるようです。それから、貞顕ですが、この
年譜を作成してはじめて気がついたのですが、南方就任の翌年為兼が佐渡から帰っている。為兼は帰洛してすぐ持明院統に復帰し、
それをひきいて『玉葉和歌集』成立へと活発化していくわけですから、当然貞顕も噂にきいたり肌身に感じて過ごしていたことになります。
益性法親王は大覚寺統でいられますから、そのかかわりから貞顕がどれほど持明院統に親近したかはわかりませんが、後深草院
崩御の際には『増鏡』にあるように駆けつけて鎌倉武士の威容をつよく印象づけています。花園天皇や伏見上皇へも伺候したことが
あるかも知れません。だとしたら、貞顕は為兼と顔を合わせていることになります。すくなくとも同じ場に居合わせて同じ空気を吸った
ことがあることになります。双方の眼にたがいがどんなふうに映ったか興味深いものがありますが、個人的に親しい間柄にまではなって
いない気がします。これは私の感でしかありませんが、どこか為兼と貞顕とはそれほど深く馴染みあうタイプではない気がします。
あくまでも感ですが、貞顕は、私には横浜三渓園にみる原三渓のような、近代の大財閥に近いありかたの人間だったように思えます。
お気に入りの建造物、そして石組に植栽に意匠を凝らす庭園。それから、茶道具といった文物……。貞顕にとってそれが称名寺の
再造営であり、弥勒浄土の庭園であり、唐物……。人との交わりも、そういった文物趣味の一端で……。それに比して、為兼のような
人物は、「物」と名のつくようなかたちあるものには眼もくれず、つかみどころもなく不確かな「心」に比重をおくタイプです。かちっとした
理路整然とした世界に生きる人間と、曖昧模糊としたふわふわした世界に価値をおいてやまない人間。そんなちがいがある気がします。
為兼と貞顕のこういう関係をみるまえになりますが、金沢文庫に為兼の関係の資料がのこされていないか一度調べたことがあります。
といってもそんなぎょうぎょうしいことでなく、『金沢文庫古文書』の索引で為兼の項をみただけですが、直接のやりとりをうかがわせるも
のはなく、たった一通「氏名未詳書状」に為兼の名のあるものが。それは「爲兼入道殿とさの國へなかされ」という文面がありますから、
正和五年以降と思われます。どういう書状か、詳しいことを知りたく思っているところです。ちなみに、為世の名のでるのは「金沢貞顕
書状」で二通。為家は「為家書状」として一通ありましたが、為相はありませんでした。鎌倉歌壇の師範だった為世が多くて当然です
が、それも直接のやりとりではありません。
貞顕を中心とする金沢北条氏一門にとって二条、京極、冷泉家との深いかかわりはなかったとみていいでしょう。これが宇都宮氏
になると、定家の息為家が婿になっているわけですから、書状がのこるなどというものではない。定家の『明月記』に交流が堂々と記さ
れ、定家や家隆からじきじきに歌を贈られたりしています。(これも、私が宇都宮歌壇について関心を寄せていましたので、峰岸純夫
先生がどういうところを探ればいいか教えてくださってわかったことです。いつか紹介できるといいのですが。)こと歌の交流に関するか
ぎり、都宮氏は明らかに金沢北条氏に勝っています。金沢北条氏は残念ですが周縁とみるしかありません。でも、為相ですが、貞顕が
伏見宮廷に伺候して為兼と接する機会があったとすれば、それを為相についてもいうことができるでしょうか。
これは為相の第Ⅱ期に入った冒頭で、細川庄越訴、勝訴確定の時期にかぎってみて不可能なように述べましたが、検証しなおしてみ
ました。井上宗雄氏作成の為相の年譜から、第Ⅱ期にも断続的に在京していることがうかがわれます。まず、為兼が佐渡から帰洛して
早々おこなわれた仙洞五十番歌合、仙洞三十番歌合に、為相は出席しています。そのほかにも貞顕が南方、北方在京中に、為相も
在京している時期がありますから、為兼と同様、為相とも貞顕が伏見宮廷の同じ空間に居合わせたことは考えていいことになりました。
これはここでも私の感でしかないのですが、為兼よりは親しく接し合えたことと思います。為相の穏和な人柄もありますが、鎌倉にほぼ
常駐する公卿ということへの敬意、親近感があるでしょうから。もしそうだとしたら、おそらくそのとき「鎌倉に戻られた折には是非称名寺
へお越しください」という挨拶が交わされたことでしょう。と、やっとここで為相と貞顕の点と点が線でつながりました。ふうっ、という思い
です。こういうことは、もしかしたら歴史家の方々のあいだではとっくに考察されていることで、なにを今更といわれてしまうかもしれませ
んが、六波羅探題というなにやらおそろしげな鎌倉武士の立場と、雅な宮廷とのあいだの境界をとりはらって有機的空間を構成するま
でに、歴史初心者の私はこんなにも遠まわりをしなければならなかったのでした。と、ここまでくると、また、「鎌倉にあっても」の場合を
考えなおしてみたくなりました。
最近、書店のまえをとおっていて、『週刊朝日百科 日本の歴史』シリーズが新訂増補版として増刷されているのをみつけ、嬉しく
なって必要な号をそろえはじめました。これは、昭和六十年代に刊行されていたものですが、当然私が歴史に関心を寄せるまえで、
遺跡発掘調査の仕事について知った時にはもう在庫がなく手に入れられない状態でした。内容が深いし、ビジュアルなカラー図版
がとてもいいのです。「白拍子の風」執筆のときも、このシリーズの「中世Ⅰー3 遊女・傀儡・白拍子」の号の網野善彦先生と後藤紀
彦先生のご研究に大変お世話になりました。でも、それは入手できず、上司だった調査員の方にお願いしてお借りしたものなのです。
なつかしく思いだすのですが、そもそも慈円に着目したのも、「中世Ⅰー5 平家物語と愚管抄」中の大隅和雄先生のご文章によって
でした。慈円は「人間の理解やはからいを超えたものを、歴史の場面に身を置くことによって、当事者とともに感じとろうとした。そして、
歴史の不思議に出会って、その不思議なことが歴史を動かす力であり、歴史が動く場合の軸になっていることを、慈円は道理という言
葉で表そうとしたのである」と、大隅先生は書かれています。ここに私は感銘を受けて、以来すっぽり慈円の『愚管抄』世界にはまりこん
でしまったのでした。この号もお借りしたもので、私はそのページを白黒コピーしてもっているのですが、それはもう赤線をひかない
行を探したほうが早いくらいにびっしりと赤のボールペンで埋まっています。
今回の増刷ではじめて手にした号に「中世Ⅰー4 鎌倉幕府と承久の乱」があります。それをぱらぱらとながめていたら、中世都市
鎌倉の復元図がありました。南側が海に向かってひらき、のこりの三方は緑なす山にかこまれた都市鎌倉を俯瞰で描いたリアルな図
です。こうしてみるとほんとうに鎌倉は狭いんですね。今まで道路図でのみみていましたから、ここを曲がると誰それの邸宅、ここを行け
ば誰それの菩提寺、というふうに実感につとめてはきましたが、全体をみわたしての空間感覚、距離感覚はまったくつかんでいません
でした。だから、この復元図は私にはとても新鮮で、まじまじみてしまいましたが、ここでおどろいたのは幕府、北条家のある区域の狭
いこと。たったこれだけの空間? と思ったとき、これでは鎌倉に住む高官はみな顔見知りにならざるを得ないと気がつきました。だっ
て、こんなに狭い、しかもそう数あるわけでもない邸宅、建物間を移動する毎日なら、避けて会わずにとおすほうが無理です。さらにし
かもですが、そういう人たちの向かう場所というのは幕府か御所、寺社に限られていますから。これは為相と貞顕は懇意とまではいか
なくても、当然顔を合わせていると思いました。なにも、六波羅探題の任や、宮廷での接触を考えなくてもよかったのです。ながなが
お騒がせしてすみませんとでもいわなければならない状況ですが、これでかえって当時のようすをさまざまな角度からみることができ
たのですから、けがの巧妙と思ってご寛容のほどを。
さてここから益性法親王ですが、さきほど紹介した年譜はあまり正確ではありません。というのも、櫛田氏と村田氏の二著と、金沢文庫
特別展図録『仁和寺御流の聖教ー京・鎌倉の交流ー』の本文から、益性法親王と釼阿の付法をひろってならべてみたのですが、くい
違う箇所があり、迷いつつ折衷案的にようやく整然とさせたものなのです。たとえば、延慶三年の犬懸坊の付法ですが、延慶二年と
あるものもあります。それから、櫛田氏は、亀山天皇崩御のあと一時益性法親王は帰洛されたのではないかといわれ、応長元年九月
に京より釼阿宛の書状があって、すでに前年在洛と読みとれるとのこと。だから、益性法親王は延慶末年には帰洛されていたとの推測
を書いていられます。でも、応長元年には六月、八月、十月と、釼阿への付法の事実があります。九月の在京は無理と判断しました。
こんなふうに曖昧なものですが、ここは厳密な益性法親王の論をたてる場ではなく、鎌倉ご滞在の期間を把握するだけのためですか
ら、そのあたりを了解しつつみてください。
益性法親王がおられた主だった空間は、住居とされていた佐々目遺身院。釼阿への付法の場称名寺。それから、忍性が興したあの
極楽寺の三寺院になるのでしょうか。順忍は、新しく名前をだしますが、当時の極楽寺の長老。益助の弟子の経助から聖教の伝授を
受けています。この時期の称名寺と極楽寺の関係についてかかわってしまうとまた話がとんでもなくそれていってしまいますので、ここ
ではこの二寺院は兄弟の関係ほどに近かったとだけふれさせていただきます。順忍は釼阿より年少だそうですが、益性法親王は
釼阿よりも順忍を高く買っていた節があります。釼阿は弟子ですが、順忍は兄弟弟子のような立場になるからでしょうか。釼阿は順忍
からも伝授されています。法の伝授というのは、以前にも書きましたが、弟子の器量を見定めてからでないと伝えてはならないことに
なっています。益性法親王はこのことに格別こころを砕かれた方です。
今ここで「こころを砕く」と書いて、私が益性法親王に惹かれた理由がわかりました。このことばほど益性法親王その人のお人柄を
髣髴とするものはないでしょう。書状の端々にそれはうかがえて胸うたれます。いつ鎌倉に下校されたか明らかではありませんが、
嘉元二年に益助から付法されていますから、だいたい嘉元元年のころ。そして、亀山帝崩御のあと一時帰洛されたかどうかはべつと
して、正和五年正式に帰洛されるまで十三年間鎌倉にいられました。応長元年とみられる書状に親玄の名がでるものがあります。
『親玄僧正日記』のあの親玄です。図録『仁和寺御流の聖教』では、「親玄は、嘉元三年に醍醐寺座主を亀山天皇の皇子・聖雲法
親王に譲ったのちに鎌倉に下り、多分佐々目遺身院に止住していた」とあります。頼助と親玄に宛てた二通の為兼書状は醍醐寺
座主職についてふれていました。為兼のはからいが実って親玄の座主就任が決まったとでもいう経緯があるのでしょうか。
この時期の佐々目遺身院長老は元瑜。益性法親王も下向されていて「益助の別荘」におられます。親玄は頼助との関係から佐々
目遺身院に住した僧と考えがちですが、頼助生存中もべつに住んでいました。それが今小路西遺跡の北側の武家屋敷跡とされる
場所だったかもしれない推測は以前紹介しました。今小路西遺跡が安達泰盛の邸宅でなく、霜月騒動で焼土と化していないとしたら、
鎌倉幕府終焉まで建築は存続していたことになります。親玄が居住したのは今度もまたこちらだったのではないでしょうか。益性法親
王の書状の内容ですが、釼阿への付法が親玄となんらかのかかわりがあり、なのに親玄が京へ帰ってしまって釼阿の側で不快を感じ
る事態があった。そのとりなしです。益性法親王は、「親玄が京都に帰ったのは、腹にすえかねることでしょう。ただ、暇をとることを許
可されたと聞いております」と書かれ、さらに「親玄の立場を考えると、自身そして周囲、いろんな立場の人々への折衝などで大変な
ことと思います」とあります。
親玄という方は、師僧にみとめられながら兄弟弟子との争いに敗れるかたちで鎌倉に下向したいきさつをもっています。今また醍醐
寺内部の法流のいざこざで鎌倉を離れなければならなかったのだとしたら、終生苦労のついてまわった方のようです。親玄は、
その後わかったのですが、『とはずがたり』の二条とは従兄弟の間柄なのですね。益性法親王も苦労の絶えない方で、上洛の際にも
すんなり事がすすんだようにはみえず、櫛田氏の文章に「弥々上洛せらるると定まって離別の哀愁を述べられ誠に悲壮である」とあり
ます。上洛後は「上乗院門跡の所領すら召し上げられ、果ては上乗院の住持を放たれて一時放浪の御身となられたものの如くであ
る」そうです。そして、鎌倉では「これが為めに極楽寺長老順忍と、称名寺釼阿とは大に努力して大檀那金沢貞顕を通じて宮の御
為めに種々御便宜を御計り申し上げた事と思われる」のでした。
益性法親王に関しては、その真摯なお人柄が想像できる順忍や釼阿のあとの聖教の行方を心配されるエピソードを紹介させてい
ただきたかったのですが、ながくなりますので、最後にひとつこれだけはと思うことを記して終わりにさせていただきます。櫛田氏に
よると、益性法親王は立川流で有名なあの文観の正嫡でいられるそうです。そのことで指弾されている部分があるらしく、櫛田氏の
文章にはそれを必死にカバーしてさしあげようとの配慮が感じられます。ただ、私は思うのですが、益性法親王が立川流の正嫡で
あっていいと思います。「こころを砕く」ことは深くものを思うこと。そうした方が立川流に接したとしたら、そして、それだけの仏門の修
行を得た方がそういうものにふれられたとしたら、それはいわゆる世俗の意味で指弾される立川流の枠を超えて、真の男と女の世界、
宇宙の真理を立派に感じとられてふしぎはないでしょう。真綿のような純真なご境地でそれを受けとめられたことと私は思います。