寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
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益性法親王という方については書きのこした思いがかなり深くありますが、為相、為兼の世界と交差するものではありません
から、今はおいて、高峰顕日という禅僧へ話をすすめます。高峰顕日という方は、以前紹介させていただきましたとおり、後
嵯峨天皇の皇子でいられます。ということは、後深草天皇、亀山天皇とご兄弟。お年は、亀山天皇がお生れになったとき、高峰
顕日が九歳、後深草天皇は七歳でした。後深草天皇といえば、『とはずがたり』二条を翻弄しきった人物。後宮、お人柄の頽廃ぶ
りはかなりなものです。亀山天皇も、安達泰盛と組んで「弘安の改革」をおしすすめるなど、政治上では立派でいられたようですが、
『とはずがたり』『増鏡』が伝える男女関係の乱れは後深草天皇とそう変わるものではありません。そのお二方と高峰顕日がご兄弟
というのは信じ難いのですが、母君がちがうとこうもちがうものなのでしょうか。高峰顕日の母君がどういう方かわかりませんが、後深
草天皇、亀山天皇の母君は西園寺実氏の娘。「雪の曙」のあの西園寺実兼からは叔母にあたる方です。ということは、実兼と後深
草天皇、亀山天皇とは従兄弟の間柄ということになりますから、家系のなせるわざかもと……
天皇の皇子、皇女のご兄弟というと私はすぐ後白河天皇の守覚法親王、以仁王、式子内親王のお三方を思いだすのですが、
こちらはお三方ともに母君を同じくされていて、まっすぐで気品ありつつも一種狂気を抱えていられるといった趣のところまで似て
いられます。高峰顕日がこちらの系列のご兄弟なら違和感ないのですが。でも、もっと純粋無垢、熾烈孤高。狂気などというやわな
ものとは無縁の、俗というもののまったく入る余地のない凛とした厳しい人生をおくられた方です。十六歳のとき東福寺円爾のもとに
入門して出家されています。禅宗を日本にもたらしたのは栄西、道元のおふたりですが、定着に至ったのは、鎌倉時代後期高名
な宋僧がつぎつぎと来朝し布教につとめるようになってからです。高峰顕日はそれら宋僧にじきじきに馳せ参じた門弟ですから、
この方を語ることは、とりもなおさず日本における禅宗の最初期をみることになります。
と、こんなふうに書くといかにも私が禅宗の歴史につうじているかのようでおかしいのですが、馴染んだというか、ひととおり理解した
のはごく最近です。ある展覧会の資料集めをお手伝いすることがあって、それが北条時宗関連だったことから、資料はおのずと
禅宗のものが中心になりました。それまで仏教は密教を中心に学んでいて、やっと空海の十住心論など体系の、その入口の入口
の入口の…をあくまでも机上でですが把握できたかなというところですから、そこに禅宗が入りこむなどとんでもない。これ以上複雑
なことになるのだけは避けたいと、そのときあったのはひたすらしり込み体勢の拒否反応でした。ただ、仕事ですから投げだすわけ
にいかず、これは敬愛する作家の井伏鱒二さんにならってと、耐え忍びつつたずさわったものでした。なぜいきなりこんなところに
井伏鱒二さんが? と思われた方に説明させていただきますと、私は井伏さんの『さざなみ軍記』が大好きで、日本の作家で好きな
一冊をあげるよういわれたら、そのときどきの気分の変化はあるにしても、たぶん、生涯をとおして『さざなみ軍記』に落ち着くと思い
ます。
以前、広島県福山市に中世の遺跡として重要な草戸千軒町遺跡があると知り、訪ねたことがあります。川の中洲にあって、往時の町
並みがそっくりそのままあらわれた大変な遺跡です。朝一番の「のぞみ」で東京駅をたって、八時半ころ明石を通過、十時近辺には
福山におりたっているという日帰りの強行軍でしたが、(遺跡調査の世界には、こんなことが可能だよとわざわざ調べて推進してくださ
るマニアックな調査員がいられるのです)、往復の新幹線の車中にと持参したのが文庫本の『さざなみ軍記』でした。草戸千軒町遺跡
を訪ねるための準備をしている過程でわかったことなのですが、この小説の舞台が奇しくも草戸千軒町遺跡に近い鞆という湊だったの
です。小説では室の津という名前になっていますが。井伏さんは福山のお生れなんですね。井伏さんには『鞆の津茶会記』という作品
もあり、こちらも以前読んでこころにのこっていました。でも、西国に縁がない私には、『さざなみ軍記』の西海に落ちのびた平家の若い
公達が、どこかに上陸してその土地の娘とはかなくせつない愛を交わす情景も、ただ漠然と瀬戸内海のどこかとしかとらえようがなく、
『鞆の津茶会記』を読んでも、鞆が実在の湊だなど考えてもみませんでした。それが、草戸千軒町遺跡へいくために旅行ガイドブック
を手にしたら、福山には井伏さん関係の情報が満載。びっくりしました。俄然おもしろくなって、あらためて『鞆の津茶会記』に読みふけ
り、『さざなみ軍記』は短いから新幹線用にバッグに詰めてと、いつかしら、目的が遺跡を訪ねる旅なのか文学散歩なのかわからない
状態になっていました。当日は、バラの香薫る福山駅をおりたその足で鞆へ向かい(福山はバラの花の町でした。古い石垣の下にま
でバラの木が植えられていたりして……)、日中の波頭がきらきらかがやく凪いだ瀬戸内海を堪能し、茶会記の舞台となった安国寺を
訪ねるなどしたあと草戸千軒町遺跡のあった芦田川へまわり、中洲に入って、叢のここかしこにのこる赤い頭のグリッドの杭に発掘当
時のようすをしのんで(遺跡はすでに埋めもどされていましたから)、あたりが夕陽に染まるころ中洲をあとにして東京へもどりました。
『さざなみ軍記』は知らずに読んでも凪いだ瀬戸内海の描写が美しい作品ですが、間近に海を眺めての読破は終生忘れられない
思い出です。仙酔島というふしぎな名前の島があったりして……。その井伏さんですが、ともすると思い浮かぶひとつのエピソードが
あります。それを紹介させていただきたくて、高峰顕日、禅宗から離れあえて迂回しているのですが、井伏さんには『厄除け詩集』と
いう、漢詩を翻訳された作品をおさめる詩集があります。
コノサカヅキヲ受ケテクレ 勸君金屈巵
ドウゾナミナミツガシテオクレ 滿酌不須辭
ハナニアラシノタトヘモアルゾ 花發多風雨
「サヨナラ」ダケガ人生ダ 人生足別離
あまりにも有名な詩ですが、これは于武陵という詩人の「勸酒」を訳されたもの。「この盃を受けてくれ」と人にいわれたら、「どうぞな
みなみ注がしておくれ」といわれたら……、これ以上美しい惜別の辞がこの世のなかにあるでしょうか。最初、この翻訳詩を知ったとき
は、さすが大家はちがう。漢詩までこなされているんだと感心したものでしたが、ちがったのです。どなただったか忘れましたが、井伏
さんの下積み時代、収入がなくて困っているのをみかねた師にあたる方が、漢詩だったか辞書だったか、とにかく漢字にかかわる仕
事の世話をされた。その経験が後年になって実ったのが『厄除け詩集』だったのだそうです。私はこのエピソードがなんとなく忘れ
られなくて、作家というのはなにがどう役にたつかわからないなあと。まったくちがう領域の仕事をするのはかなり「お得」だなあと。それ
で、展覧会の資料集めで蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)とか兀庵普寧(ごったんふねい)とか見慣れないどころか読めない名前をまえ
にして、拒否反応を起こしつつ思ったのは、これもいつか役にたつときがくるかもしれないということでした。展覧会のための資料です
から、当然それは頂相(ちんぞう)(肖像画のこと)、墨跡、語録が主体。私のなかにはお名前の字面といっしょに具体的なそれぞれの
お顔、筆跡、そしてその方の気魄までがいっしょに滲みこんでいます。振り返るとかなり「お得」な仕事でした。井伏さんの『厄除け詩
集』に近いことをやってしまったのです。これで私もすこし井伏さんっぽい? と、ミーハー的にひとり嬉しいのですが。
でも、その資料集めの際にはまだ高峰顕日、夢窓疎石のおふたりは登場しませんでした。夢窓疎石は時代がずっとあとになりますか
ら当然として、高峰顕日は宋僧ではありませんからこれも当然です。このおふたりの名前が眼にとまり、私のなかで位置を占めるように
なったのは、禅僧としてではなく、冷泉為相と親交のあった人物としてです。おふたりには私歌集があって、『新編国歌大観 第七
巻』所収のそれは、高峰顕日は『仏国禅師集』、夢窓疎石は『正覚国師集』となっています。詞書には贈答の相手やその場に居合わ
せた人物の名前が書かれている場合があり、『正覚国師集』に為相の名を二度みとめることができます。『仏国禅師集』にはありません
が、為相の私歌集『藤谷和歌集』に
正和五年九月、仏国禅師かまくらより下野のなすへ下り侍りける時、
春はかならずくだりて山の花を見るべきとちぎりけるに、十月入滅し侍りければ、
仏応禅師のもとにつかはしける
咲く花の春を契りしはかなさよ風の木の葉のとどまらぬ世に
というかたちで、双方の交流の深さをしのばせる歌がおさめられています。これは、『風雅和歌集』にも入集しています。花園院、光
厳天皇じきじきの撰になる、『玉葉和歌集』と一対をなす持明院統悲願の勅撰集です。歌はまったく同じですが、詞書にたとえば
「山の花を見るべきと」が「かの山の花をもみるべきよしなど」とあるように、多少のちがいがみられます。『仏国禅師集』は歌の総数わ
ずか二十九首。ちいさな私歌集です。詞書も那須、建長寺長老という語があるにもかかわらず、すこしも具体性を感じない無色透明
の世界といった趣。都市鎌倉の権力と密着し人間の錯綜する仏教界を厭い、那須雲巌寺にこもることの多かった僧のいかにもそれ
らしい私歌集です。
月はさしくひなはたたくまきの戸をあるじがほにてあくる山かぜ
月影は木のもとごとにむらぎえてふむにあとなき庭のしら雪
われだにもせばしと思ふしばのいほになかばさしいるみねのしら雲
夜もすがらこころの行へたづぬればきのふの空にとぶとりの跡
秋の夜のながきねぶりのさめしよりよそにはきかぬをぎのうは風
ふればまづつもらぬさきにふき捨てて風ある松は雪をれもせず
と、高峰顕日という方のお歌の傾向を知っていただくために数首ほど引かせていただきました。勅撰集は、風雅集・新続古今集に
計三首入集しているそうです。慈円の歌とつうじるところがある気のするのは、おふたりともに人里離れた深山幽谷での実体験が反映
しているからでしょう。慈円も純粋無垢と思っていましたが、慈円にはどこかおどろおどろしいというか、曖昧というか、みずから乖離に
苦しむほど浮世と隔絶しきれない混沌がありましたが、高峰顕日にそれは皆無です。こちらはもうほんとうに厳しくまっすぐで純粋孤高
でいられます。後嵯峨天皇の皇子という身分でいられながら、那須雲巌寺にこもることを愛されたということ。慈円も、兄兼実の要請に応
えながら比叡山無動寺での生活を必死になって守りますが、結局は後鳥羽院への愛に敗け国家の護持の名目のもとで、最後は権力
の中枢、人の世の愛憎のうごめき激しい宮廷の護持僧となって終わります。高峰顕日にそういうことはありません。徹底して那須雲巌
寺での人生をとおしきります。皇子でいられながら、「われだにもせばしと思ふ」庵の生活をまっとうされるのです。
那須に庵をむすんだ折、「禅客が踵を接して至つたが、容易に面するを許さず。ある檀家があつて、爲に寺を建てんとしたが、高峰は
痛く之を叱した。檀家曰く、昔、須達長者、佛世尊の爲めに精舎を建てしに、未だ如來の禁止せし事を聞かず、師何ぞ固辭すると。
高峰巳むを得ず之を許した。殿堂門廊不日にして成り、之を雲巌寺と稱した」と、辻善之助『日本仏教史』第三巻中世篇之二の高峰
顕日の項にあります。高峰顕日が師事した宋僧は、兀庵普寧、無学祖元、一山一寧のお三方です。文応元年(1260)、兀庵普寧が
来朝し、弘長二年(1262)、北条時頼の庇護のもとで建長寺二世になり、高峰顕日は京の東福寺からはるばる馳せ参じました。二十
二歳でした。時頼が亡くなって兀庵普寧が帰国したため、高峰顕日は那須にこもり雲巌寺の開山となります。文永二年(1265)でした。
弘安二年(1279)、無学祖元が来朝し建長寺住持になると、その年のうちに高峰顕日は参じて師事、二年後の弘安四年印可を受け、
また那須雲巌寺にこもります。世情ではこのあと、弘安八年(1285)に霜月騒動があり、永仁元年(1293)に平禅門の乱があったりし
て、めまぐるしい転変がつづきます。正安元年(1299)、一山一寧来朝、建長寺に入ると、そこに高峰顕日、夢窓疎石が参じます。
翌二年、高峰顕日は鎌倉浄妙寺に移ります。嘉元元年(1303)、高峰顕日は鎌倉万寿寺にいました。そこへ、一山一寧のもとで修
行していた夢窓疎石が迷いをもって訪ねたのでした。高峰顕日との問答のあと、夢窓疎石は思うことあって奥州へと去ります。
嘉元三年、高峰顕日は鎌倉浄智寺にいました。そこにふたたび奥州からもどった夢窓疎石が訪れ、このとき印可を受けます。夢窓疎
石が高峰顕日より賜った法衣は、高峰顕日が無学祖元より印可を受けたときに賜った無学祖元の師、宋の無準師範のものです。無
準師範は来朝していませんので直接には日本への布教にたずさわっていませんが、その法嗣の法嗣が高峰顕日であり、またその
法嗣が夢窓疎石となるなど、日本への貢献多大なる方です。展覧会場でこの方の頂相のまえに立ったとき、不意に涙があふれて、それ
が滲むなどというようなものでなく、茫沱といった形容がふさわしいほどのものだったのでおどろきました。それは、なつかしいというか、
嬉しいというのか、とにかく、会うべきひとに出会えたというか、一度も日本の地を踏んではいないはるか遠い時空の方なのにすでに
旧知というか、じかに温もりの伝わってくる尋常でない喜びでした。それで、無準師範という方のお顔が胸に焼きついたのですが、その
法弟に高峰顕日がいて夢窓疎石がいるということになると、精神のつながりというものはすでに無準師範のそのときから夢窓疎石への
流れは決まっているというような、無準師範そのひとが高峰顕日、夢窓疎石と同じ精神の色合いのひとというような、人が人に惹かれる
精神のタイプにはひとつの系統があるのだなあと。あとになって、その方が高峰顕日、夢窓疎石の精神の源流にあたる方だとわかった
とき、ふしぎな因縁を覚えたのでした。印可を受けた夢窓疎石は即刻甲斐へもどりますが、徳治二年(1307)、また万寿寺にいた高峰
顕日のもとを訪れ、翌年の夏まで滞在し、それから元応元年(1319)までの十一年間鎌倉を離れることになる旅にでます。延慶二年
(1309)、高峰顕日は那須へもどりますが、正和元年(1312)には浄智寺に、三年には建長寺十三世に就任、四年那須へ帰って、
翌五年十月亡くなりました。
と、ここまで『日本仏教人名辞典』(法蔵館)その他から適宜ピックアップさせていただきつつ構成しました。為相の歌の詞書には「正和
五年九月、仏国禅師かまくらより下野のなすへ下り侍りける時」とありますが、どちらが正しいのでしょう。私は最初この詞書に接したとき、
為相が「春はかならずくだりて」とあるのを、為相は京にいて鎌倉へ下るつもりと早とちりし、ながいあいだその誤解が解けないでいまし
た。思い込みって恐いですね。一瞬にして感じた最初の読みのそれがまちがいと気づくまで、為相の京における滞在期間の辻褄が合
わないで困りました。たまたま為相が京に滞在していたときのなにかを調べた直後だったからそういう事態になってしまったのですが、
先入観なく今読むと、為相は鎌倉にいて、那須へ向かう高峰顕日とじきじきに接して約束をしているのですね。そうすると、「春になった
らわたしが那須へうかがいましょう」と為相がいっていることになります。当時の鎌倉と那須間の旅路がどういうルートをたどるのか調べて
みたいところですが、それほどに為相が那須を訪ねるのも辞さないとしたら、さきに記した真教との交流で、為相が真教のいる相模原
市の当麻を訪ねたのだろうという推測も、あながち無謀ではない気がします。為相が特別なのか、当時鎌倉にくだったような貴族はみ
なそうなのか、けっこう動きが自在です。『とはずがたり』二条にしても、女の身でありながら、鎌倉滞在中に長野の善光寺まで出向いて
います。当麻は相模川、那須雲巌寺は那珂川のほとりですから、あるいは水運を利用したのかもしれません。
為相と高峰顕日にとって永久の別れとなった正和四年(あるいは五年)の惜別は、為相における第Ⅲ期に入ってすぐにあたります。
この正和四年四月、為相は為兼が贅を尽くしておこなった南都参詣に参加しており、また、それがために翌五年一月為兼が土佐へ
配流になるなどの激動を経験します。こうしたなかで為相と高峰顕日の交わりが芽生える余裕があったとは思えず、第Ⅱ期において
すでに相当親しく接するようになっていたとみていいでしょう。それでは、いつそういう交流がはじまったか。両者の交流をしめす事跡
は今のところこれしかありませんから、また井上宗雄氏作成の為相の年譜に高峰顕日の年譜を重ね合わせて、どこのあたりなら可能
か、無理なく自然だったかを探ってみたいと思います。