寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―

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もう終わったと、とっくに葬り去っていたことが、じつは終わってはいず、ここにきてふたたびそのことに思いをめぐらせられています。
恋も、全身をつらぬくほどの運命の恋は、めぐりめぐってきっとぶりかえさざるを得ないように、真実は、いくら固い岩盤のなかに閉じ
こめられていても、時がくるとおのずから湧水に浮く木の葉の表面にあぶりだされて地上にあらわれてくるもののようです。金沢北条氏
二代顕時(あきとき)のことなのですが、安逹泰盛の娘婿だった縁で霜月騒動のあと下総埴生庄に隠棲し、永仁元年の平禅門の乱で
平頼綱が滅びるとすぐ幕府の中枢に復帰し、『親玄僧正日記』の十一月の条で親玄を訪ねてみえたあの顕時です。あのときも、佐々
目遺身院の聖教伝授に、何故称名寺の釼阿がかかわってくるのか唐突な思いがしてならなかったところ、顕時があいだに入ったことで、
やっと佐々目遺身院と称名寺のつながりが自然にみえたのでした。

そのころすでに為相は鎌倉に下向していましたから、顕時とのかかわりであるいは称名寺を訪ねたこともと考えたのですが、いくら
探っても接点を見出せず、なかったとしてここまで話をすすめてきました。ですけれど、為相と交流があった人物として高峰顕日に
ついて考えていたら、高峰顕日をあいだにはさむと、もしかして為相と顕時のつながりがみえてくるかもしれないという気がしだしたのです。
というのも、高峰顕日と顕時のあいだにはなんらかのかかわりがあったと思われますから。ただ、ここに立ちどまってしまうと、為相
の第Ⅰ期まで話をさかのぼらさずを得ず、せっかく第Ⅱ期に入って順調にすべりだしたかにみえてまた話をじぐざぐにしてしまうようで
いやなのですが、無視できることではありませんから、しばらく顕時にこだわっていきたいと思います。

前回と重複しますが、高峰顕日は、正安元年(1299)に一山一寧が来朝し建長寺に入ると、那須雲巌寺より参じます。高峰顕日
が鎌倉に戻ったのは、弘安二年(1279)に無学祖元が来朝したとき参じて印可を受け、それから那須に帰って以来です。すくなくとも
住持というようなきちんとしたかたちでは、十七年間一度も鎌倉にとどまっていません。翌正安二年、一山一寧のもとを離れて浄妙寺
に入ります。それから、万寿寺、浄智寺と住持を歴任し、延慶二年(1309)に那須に帰るまで十年間鎌倉に滞在するのですが、これ
は高峰顕日の人生にあってかなり特殊なめずらしい時期です。兀庵普寧のもとに参じた弘長二年(1262)のときも、兀庵普寧が帰国
するとすぐ那須へ向かっていますから、わずか三年のみじかい日々でした。このめずらしい十年の長期滞在ののち三年ほど那須に
籠もって、正和元年(1312)にまた浄智寺に戻り、三年に建長寺十四世(十三世とも)に就任しますが、翌年辞任、那須に帰って亡く
なります。ですから、高峰顕日が鎌倉を拠点としてすごした日々は、高峰顕日にとってすでに晩年ということになります。若い日々、体
力のみなぎった日々、通常人なら晴々しい活躍の舞台のほうを選びとるだろう日々のほとんどを、人里避けた厳しい那須の山懐ろで
すごすのです。請われても、請われても、那須のほうを選びとった人生でした。晩年での鎌倉寺院における住持は、もういいっ
か……、といったような、鎌倉側をたてての余裕といったものを感じます。

そんなふうな高峰顕日の人生のなかでの特異期間中でのできごと、浄智寺における高峰顕日と夢窓疎石の印可の場面を前回記し
て、そのときその場にそれほど強力な磁場がはたらいていたのなら、それ以前の浄妙寺にはさほどの意味は見出せないだろうと、関心
もないままやりすごすつもりでした。でも、なんとなく気になって訪ねたのです。竹の庭で有名な報国寺には何度もいっているのですが、
報国寺を訪ねる際におりるバス停が「浄明寺」で同じなのに、おりて反対側の浄妙寺へは一度もいったことがありませんでした。それは
浄妙寺が足利氏ゆかりの寺院だったからで、足利氏は今まであえて関心の範疇からはずしていました。ガイドブックには「奥の墓地
にある足利貞氏の墓にお参りし」てから境内の散策をするようすすめてあります。それで、足利貞氏がどういう方かわからないまま、
まずそうさせていただきました。貞氏は中興開基でいられます。お墓はほっそりとさびた感じの品のいい宝篋印塔でした。

それから話がとびますが、帰宅して時間つぶしにある論文を読んでいたら、それが浄土庭園に関するものでしたから、関東地方の
浄土庭園をもつ寺院の遺跡として、足利氏の本貫地である足利市の智光寺跡、法界寺跡などについて書かれていて、そこに足利氏
の系図がのっていました。そのなかに貞氏の名があって、昼間お参りしたばかりの方ですから眼にとまり、よくみると、なんと尊氏の父に
あたる方だったんです。 まあ、私は足利尊氏の父親にあたる方のお墓に参拝したんだわと、あらためてすごいことをした気分になり、
つぎに金沢文庫の図録『北条顕時ー金沢北条氏二代ー』をとりだしました。

高峰顕日を書いてから、ずうっと、もやもやと顕時のことが気になって脳裡から離れなかったものですから……。そこに一通の貞顕
の書状があり、キャプションに、「金沢北条氏と足利氏は、北条顕時の娘が足利貞氏の正室となり、嫡子高義が誕生したことによって
親密な関係を築いていた」とありました。何気なく読んで、え、なに? と、あまりのことにとっさには意味がとれない面持で読みかえし
ました。眼で追って了解したことはまちがいではありませんでした。浄妙寺は、顕時の娘の夫が中興開基の寺院だったのです。という
ことは、です。それまで浄妙寺はたんに六浦路沿いにある一寺院としか思っていませんでしたから、称名寺の人たちとは縁もゆかりも
ないものと思っていました。顕時や貞顕も、称名寺と鎌倉の往還の際には門前を通過しただろうけれど、立ち寄るほどのかかわりはな
いと。けれど、顕時の娘の夫の寺となると、立ち寄ったどころではない脈絡がみえてきます。顕時はおそらく親しく頻繁に浄妙寺を訪
れていたことでしょうし、高峰顕日が浄妙寺に住することになったのも、あるいは顕時との縁があったからかも知れません。その高峰顕
日と顕時の交流ですが、それはおふた方が無学祖元のもとに参禅したときになされたと私は思っています。それは、高峰顕日が印可
を受けて那須へ帰るまでの三年間というみじかい期間でしかありませんが、以後十七年間、高峰顕日は那須に籠もっていますし、
一山一寧のもとに参じた翌年すぐの浄妙寺ですから、それ以外は無理でしょう。

顕時は寿福寺にいた宋僧大休正念にも師事し、霜月騒動で下総へ流される直前、正念のために『伝心法要』を開版したほど深く
禅宗に傾倒しています。顕時の禅宗への帰依は、建治二年に父実時が亡くなってののちだろうといいます。忍性を庇護し、時頼と
組んで西大寺律宗僧叡尊を鎌倉に招聘するなど、強力な真言律宗の支持者だった父の影響下から解きはなたれての、顕時自身
の選択の結果ということのようです。

顕時は、父実時、息子貞顕の華々しいふたりのあいだにあって、今まであまり着目されずにいました。実時のような押出しのいい政治
家ではなく、また、貞顕のように執権にまでのぼりつめたわけでもありませんからしかたないのですが、顕時というと、安逹泰盛の娘婿と
して、すでに関係の悪化していた平頼綱の君臨する幕府内で「薄氷を踏む」思いでいることを述べた書状がのこっていることなどから、
ひ弱な人物として不当な扱いを受けていたきらいがあります。けれどちがって、『北条顕時ー金沢北条氏二代ー』にはこう書かれてい
ます。「長年の激務に胃を患っていたが、得宗北条貞時の信頼は篤く、たびたび諮問に預かったというのである。得宗北条貞時は、
埴生庄幽閉によって金沢家の家学をもとに地に足のついた言動をするようになった顕時を重んじたのである。この信頼が、後に嫡子の
金沢貞顕の抜擢へとつながり、金沢北条氏の全盛時代をもたらすことになる」と。

以前から私は「薄氷を踏む思い」の手紙のどこが悪いのだろうと不服に思っていました。均整のとれた文学的に美しい文章で、こういう
文章を書くひとはかなり思索の深いひとと思っていました。ですから、この図録の再評価には得てしたりの思いで嬉しかったのですが、
武者はというか、男社会ではというのでしょうか、はたまた世間ではとでもいうのでしょうか、本音を吐露すると、たまたまのこったその
一面だけで貶められてしまうものなのですね。人間には、どんなに強い立派なひとにだって弱さの一面、不安の兆す感情というものが
あり、そうだからこそ「人間」なのに。さらにいえば、それをどう受けとめ、どう表現するかで評価されるべきなのに。顕時は十三歳のと
きから将軍御所に出仕し、「宗尊親王も顕時に目をかけ、側近として側に置いていた」そうですから、そこでほんものの意味での伝統
にひたり、東国の武者の世界とはちがう穏やかな正しい品格という土台を養うことができたのでしょう。

顕時は安逹泰盛の娘と結婚して夫婦ともども禅宗に帰依し、その事実が無学祖元や大休正念の語録にのっています。顕時の死後、
夫人は出家し、無着あるいは無外如大という尼僧になり、中世における尼僧史を語るうえではずせない存在になっています。無着と
無外如大は別人らしいのですが、どちらも泰盛の娘で顕時夫人というふうに伝わっていて、どうやら後世ふたりの人間の事績が混同さ
れてしまったようです。山家浩樹氏「無外如大と無着」によると、無外如大のほうが無着より二十五歳年上で、無着が安逹泰盛の娘で
顕時夫人。無外如大は足利尊氏の母方の関係の女性だそうです。無着について記した夢窓疎石の文書が相国寺に、高峰顕日の名
を記す無外如大の譲状が大聖寺にのこされています。この無着と顕時とのあいだに生まれた娘が足利貞氏のもとに嫁いだのでした。
貞氏にはべつの夫人がいて、足利尊氏はそちらを母としています。顕時の娘から生まれた高義という男の子は早逝しています。顕時
はこんなふうな人生、人柄の方でした。

その顕時と為相の交わりですが、顕時が高峰顕日とともに無学祖元に参禅していたころはまだ阿仏尼が健在で、為相は下向して
いません。為相が下向したと思われる正応のころ、顕時は下総に隠棲していて、鎌倉不在です。顕時が鎌倉に復帰するのは永仁元
年。あの『親玄僧正日記』にのこされていた「歳暮の比」の為兼下向の年です。このころ為相はほとんど鎌倉に滞在していますから、い
つか書いたように狭い鎌倉の地、会って話くらいは交わしているでしょう。(ということは、為兼も顕時と接触した可能性も、ということにな
りますが……) でも、親密な交際に発展するような事件や事柄はなにも見出せませんでしたし、史料としても接点の証となるものはあり
ませんでした。そこで高峰顕日の登場をまつわけですが、高峰顕日が鎌倉に戻ってくるのが一山一寧が来朝した正安元年。ここに、
年譜上ではじめて、為相、高峰顕日、夢窓疎石、顕時が、そして顕時の息貞顕が、交わりの度合はともかくも鎌倉という地においてそろ
うことになります。

年齢をおさえておきますと、為相、三十七歳。高峰顕日、五十九歳。夢窓疎石、二十五歳。顕時、五十二歳。貞顕、二十二歳です。
このとき、これは歴史的偶然なのでしょうか、これもまた歴史的磁場のなせるわざとでもいうのでしょうか、大変重要な事柄が起きます。
『吾妻鏡』の編纂という問題です。『吾妻鏡』は、意外だったのですが、いつ、どのようにして、誰の手によってなされたか、なにもわかっ
ていないのです。他の歴史書である「鏡」類がどうか知りませんが、私は勝手に『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録と思っていましたから、
当然、幕府の手によって、いつ、誰それと誰それがたずさわって、の事実くらいは明らかになっているものとばかり思っていました。
そうではなかったのです。誰が任命して、誰が拝命し、その人物が責任をもって編纂にたずさわったというような性質のものではな
かったのです。さらに、叙述内容も危うく、学者の方々のあいだでは厳密な意味での史料としては価値を置かれていないとか……。

おどろきました。今まで『吾妻鏡』を確実な史書と信じて佐々目遺身院の歴史を書き抜きなどさせていただいていたので、なにか
ふいに足もとが覚束なくなった気がしました。それで、これはなんとかしなくてはという思いが湧いたのです。私自身がはっきりと『吾妻
鏡』について認識する必要を感じたのでした。金沢北条氏が『吾妻鏡』の編纂にかかわっていたかもしれないという話を最初に読んだ
のは、石井進先生の『鎌倉武士の実像』でした。そこに「霜月騒動おぼえがき」、「金沢文庫と『吾妻鏡』をめぐって」というふたつの論旨
があったのです。それは遺跡の仕事について二年目。やっと中世にめざめて夢中になって中世関係の書物を手当たり次第に読み
あさっていたときでした。でも、まだ金沢文庫に関心がいっていないときでしたから、ただなんとなく、ふうん、といった面持で通過して
しまいました。ただなんとなく、金沢北条氏という一族がこころにのこっただけでした。そして、気がつくといつのまにか金沢文庫に
はまっていたのですが、今度は『吾妻鏡』の編纂にかかわっていたかもしれない事柄を忘れていました。

今回、顕時が気になって、そのことばかりを考えていましたら、ふっと、なんの脈絡もなく急に思いだされたのです。たしか、金沢北条
氏と『吾妻鏡』が関係あったとか……、と。石井先生のご著書は図書館で借りたものでしたので手もとになく、そういえばあれがあったと、
拝読したまま奥にしまいこんでいた五味文彦先生の『吾妻鏡の方法 事実と神話にみる中世』をとりだしました。五味先生は、ここの
ところずっと『明月記』を読み解く作業に従事してらして、そこから土谷恵氏の一連の童舞の研究などが生みだされ、「白拍子の風」
執筆の際には大変お世話になりました。それで、お礼方々の気持もあって、五味先生のご著書が刊行になると入手させていただく
ようになっていたのですが、素人の付け刃で読んでも駄目ですね。そのときはわかったようでもなんにも身になっていなくて、『吾妻鏡
の方法』も、なかにびっしり線がひかれているのに、はじめて読んだみたいに今度も新発見の連続でした。それでみごとに『吾妻鏡』
の編纂の問題にはまって、図書館での論文集めがはじまったのです。

必要と思われるものはほぼ手にしました。はじめて、品川区戸越にある国文学研究資料館の閲覧室まで利用させていただきました。
そうしてざっと眼をとおさせていただいたところ、研究の方向にふたつあることがわかりました。ひとつは『吾妻鏡』を編纂する際に使った
原史料の問題。もうひとつは『吾妻鏡』がいつ成ったかという編纂の時期の問題です。整理して紹介させていただきます。最初に、原
史料の問題を。八代国治氏『吾妻鏡の研究』が『吾妻鏡』研究の最初の大著で、今でもほぼここに書かれていることに尽きるほどの内容
らしいのですが、大正二年の刊行です。なかに、「吾妻鏡の性質に就ては、古來より或は鎌倉幕府純粹の日記と信じ、或は後の編纂
物として、議論少からず」とありますから、幕府の公式記録という私の思いこみも、あながち無理なかったようです。ここで氏は結論をだ
されて、それが以後の『吾妻鏡』の方向を決定づけたのでした。すなわち、「吾妻鏡が公卿の日記、又は其他の書によりて編纂せし
ものにして、愈々純粋の日記にあらざるべし」「吾妻鏡全編を通じて後の追記なること明かなるべし」と。また、その編纂の方法は、「今
全編を大觀するに、悉く編年の日記體なるにもかゝはらず、記載年度が將軍を基として記したる」そうです。その将軍とは、頼朝、頼家、
実朝、頼經、頼嗣、宗尊親王の六名。『吾妻鏡』は、治承四年の頼朝挙兵の原因にはじまり、宗尊親王が「親王將軍を止められて京都
に還啓の日を以て終とし」ています。そして、八代氏はこう看破されたのでした。「本書が北條氏を庇護して曲筆し、或は事實を■滅した
る形迹あるは止む事を得ざることなり、本書編纂の當時は幕府の實権は全く北條氏に帰して、將軍は徒に虚器を擁するのみ、加ふるに
本書編纂を企てしは北條氏なれば、之れが編纂者が北條氏を庇護して曲筆し、或は亊實を■滅したる形迹あるは、實に止むを得ざる
に出でしものなるべし」と。

この八代氏が『吾妻鏡』の記事と一致する文章を探しだされて「吾妻鏡編纂の材料」として示されたのは、幕府の記録・文書類のほか
に、『玉葉』『明月記』『天台座主記』『源平盛衰記』『平家物語』『金槐和歌集』『海道記』などで、これがほとんどそのまま今日まで継承
されているそうです。そして、のちに佐藤進一氏によって飛鳥井教定の日記が、平田俊春氏によって『六代勝事記』が加えられたり、
また、一々についての論証がなされたりと研究がすすんできています。それからいよいよ編纂の時期となりますが、ここに顕時がかか
わってくる形跡がみえてきます。石井進先生の「霜月騒動おぼえがき」にこうあります。「ごくかいつまんで述べれば、それはこの事件の
敗者となった泰盛派の人々のえがき出した鎌倉幕府史こそが、実は現在のわれわれの前にある史書『吾妻鏡』そのものではないか、
と考える」と。さらにつづけて、

 金沢文庫の主人北条顕時が泰盛の娘婿として流罪にされたあと、数年を経て平禅門の乱が起こり、御内人のリーダー
平頼綱以下は成長した貞時によって討伐された。かくして顕時はじめ長井宗秀・宇都宮景綱らはいずれも政界の中枢
に復帰することとなった。もとよりそれはかつての泰盛の指向した政治とは全く異なる、語の真の意味での得宗貞時の
専制政治下への復帰にすぎなかったが、しかも今に残り伝わる関係文書群が多く旧泰盛派のかれらの系列に属してい
る事実自体、鎌倉後期の幕府政治史を研究する際にまず留意しておかなければならぬ点だと考えられるのである。

と、こう書いていられます。この連載をはじめた当時、安達泰盛はまだ私にとって未知の人物で、ただ網野善彦先生の『蒙古襲来』
にえがきだされた徳政の政治家泰盛にこころ惹かれ、佐々目遺身院を訪ねるとちゅうに、安達一族ゆかりの甘縄神社を拝しただけで
した。その安達泰盛や霜月騒動がこんなふうにしてここまでかかわってくるなんて。絶えたと思った地下水がじつは絶えてはいず、地底
深く脈々と流れつづけていて、あるとき一挙に地上に吹きだしたかのような、鮮烈な感動を覚えます。『吾妻鏡』研究の変遷を絞ってい
くかたちで、それぞれの論文の成立時期の結論をならべて紹介させていただきます。
顕時との関連で興味深い事実が浮かびあがってきます。

□八代国治説
前半 文永年間(1264~75)までに成立
後半 正応三年(1290)から嘉元二年(1304)までに成立
□笠松宏至説
永仁七年(1299)以後成立
□五味文彦説
乾元元(1302)年以後、嘉元二年(1304)以前に成立

ざっと、こうなります。この整理は、五味文彦先生の『増補 吾妻鏡の方法』に依りました。このご著書は二〇〇〇年の刊行で、私のとこ
ろにある『吾妻鏡の方法』に第Ⅲ部「『吾妻鏡』の筆法」を補われたものです。私が手にしたところの最新の論旨ということになりますか
ら、この五味先生の「乾元元年以後、嘉元二年以前」が、もっとも新しい説ということになります。そして、これはおどろいたことにわずか
三年でしかありません。五味先生はここで実際の編纂にたずさわった人物の名前を論証されたりしていますが、煩瑣になりますので
ここでは省略させていただき、さきへすすみます。この三年ですが、ここに顕時、高峰顕日の年譜を重ねると、どういうことになるでしょ
う。笠松説の永仁七年は元号がかわって正安元年となる年で、一山一寧が来朝し、年譜上ではじめて為相、高峰顕日、夢窓疎石、
顕時、貞顕が鎌倉に集結した年です。翌年、高峰顕日が浄妙寺に移ります。さらに翌年、顕時が亡くなります。乾元元年はその翌年
です。ここから三年のあいだのどこかで『吾妻鏡』は成立したのでした。『吾妻鏡』の原史料のひとつに『明月記』があることを八代国治
氏が論証されたことをさきに記しました。それは頼家・実朝将軍記に限って使われているそうですが、そのあたりを五味先生はこう記
されます。

 『明月記』を藤原為家から伝えられた冷泉為相は所領の相論などで鎌倉に滞在することが多く、訴訟の関係、
また和歌や蹴鞠の関係においても幕府の奉行人との繋がりは深かった。その為相が幕府に二条為世との所領の
訴訟をおこして裁許を得たのは正応二年十一月七日であり、正和二年(一三一三)七月に再度の裁許を獲得して
いる。先に指摘した編纂の時期はここに含まれることになる。

 正応二年から正和二年では二十四年と長すぎますから、さらに緻密にこのうちの正安元年から嘉元二年までの数年をみると、乾元
元年から嘉元元年の前半にかけてのほかは、為相には京での事績がみられないことから、鎌倉に滞在していたことがわかります。この時
期顕時は、永仁五年に引付四番頭人に任じられていますから、そのまま引付衆として活躍していたことと思われます。さきに記したよう
に「貞時の信頼篤」く、幕府内において重要人物になっていました。晩年の顕時は「胃を病痾せられて、休退を許すといえども」とありま
すから、任務についていなかったときがあるにしても、『吾妻鏡』編纂を推進するに充分な重い立場にありました。さらに、これが「泰盛
派の系列」により成ったというある意味で私的なものなら、かえって顕時が激務を「休退」していたときのほうが、時間的には可能な気も
します。顕時は泰盛の娘婿。泰盛派の系列の最重要人物です。政治家というより文人肌であった顕時のいかにも考えつきそうな事業で
す。正安元年から嘉元二年までの年譜を整理させていただきます。

 正安元年 一山一寧来朝。為相、高峰顕日、夢窓疎石、顕時、貞顕のすべてが鎌倉に滞在
正安二年 高峰顕日、浄妙寺に移る
正安三年 顕時没
乾元元年 二月、為相上洛か。この年以降、『吾妻鏡』成立
嘉元元年 五月末、為相下向
嘉元二年 高峰顕日、万寿寺に移る。この年までに『吾妻鏡』成立

 以上のことから、こんなふうな情景がみえてきませんか。まず、石井先生がいわれる泰盛派の人々を顕時に特定します。これは、石井
先生が泰盛派の人々として、顕時、長井宗秀、宇都宮景綱の三人をあげていられるのですが、長井宗秀がどういう人物かわかりません
が、子息の貞秀が貞顕に宛てて金沢文庫の『原吾妻鏡』とでもいうべき書の借用を願いでている書状がのこっていることから、編纂当事
者の線からはずしていいと思います。

宇都宮景綱は、「歳暮の比」の為兼の下向を記した『沙弥蓮愉集』の蓮愉ですから、永仁六年(これは、正安元年の前年です)に亡
くなっています。ですから、乾元元年以降成立の編纂にたずさわることはなかったとみていいでしょう。そして、顕時ですが、石井先生
をはじめ多くの方々が『吾妻鏡』と金沢文庫の緊密な関係を指摘されている以上、中心的人物であったかどうかはべつとして、すくなく
とも関係者のひとりとみていいことはまちがいないと思います。さらに、可能性として、発案者、企画者、出資者といったような積極的第
一人者と考えてもいいのではないのでしょうか。そこで、年譜をみての読みですが、私は以下のようなプロットをたててみました。

永仁年間、顕時は幕府中枢にあって重鎮としての地位を築き、ゆとりある晩年を迎えていた。そうしたとき、正安元年になって一山
一寧が来朝し、高峰顕日、夢窓疎石が参じた。顕時は高峰顕日と再会し、高峰顕日という人物を媒体として禅という深い思索の世界
がよみがえった。そして、顕時は、社会的な満足だけでは得られない、もっと真に価値ある業績への思いが湧いた。それが『吾妻鏡』
の編纂だった。そこには、自身が置かれている北条氏というものの立場や系譜を明らかにする意図と同時に、亡き泰盛への追慕があ
った。その時期は正安元年。翌二年、高峰顕日が浄妙寺に移ったころ、話が具体的にうごきはじめ、史料集めがはじまった。顕時は
為相にも接し、『明月記』の頼家、実朝時代の条を使わせてくれるよう依頼した。おそらく、為相は応じて、その部分を抜書きするなど
して提出した。為相と高峰顕日の出逢いはここにはじまった。もしかしたら、浄妙寺において為相は高峰顕日と会っていたかも知れない。
顕時を交えて、浄妙寺において三者会談がなされたかも知れない。なぜなら、顕時は禅を深く学んだ思索者であると同時に、宗尊親
王のもとで成長した公家社会の文化を身につけた風雅の人でもあったから。 資質において、文学を、宗教を、人生を語る意味で三者
ともなんの違和感もなく、それこそすらすらと水が流れるようにさわやかでゆたかな対談がそこになされていっただろう。浄妙寺は、鎌倉
ではめずらしく、前面に山が聳えたつ一種深山幽谷にまぎれこんだ感のある寺院です。衣張山ですが、その衣張山をながめつつ、ゆう
ゆうとした時間がそこではすごされていたのではないでしょうか。その翌年、顕時は亡くなります。

が、すでに史料は集められていて編纂に支障はきたしませんでした。五味先生が論証された三善氏の子孫、二階堂氏の子孫らの手
によって乾元元年以降『吾妻鏡』は成立した。編纂が顕時の意志によるものだとすると、『吾妻鏡』が何故宗尊将軍記で終わっているの
か、じつは終わってはいず、書かれたのだが紛失してしまったのか、はたまた、以後書き継がれる予定があったのか、などのむかしから
の謎が一挙に解決つきます。宗尊将軍記以降がないのは、ここで顕時が亡くなっているという一事、それに尽きるのでしょう。おそらく
企画をたてた時点では、以後書き継ぐかどうかはべつとして、宗尊親王の帰洛で終わらせることしか考えていなかった。だから、史料の
収集も、以後のものはなかったのだと思います。編纂が終わったときに顕時がまだ健在だったら、あるいは継続があったかも知れません。
ただ、宗尊親王といえば、顕時が思春期に仕え、慈しまれた将軍です。親王の悲劇的な帰洛がいかに顕時にとって深い哀しみに
満ちたものであったかを考えるとき、それ以降の編纂などする意志は、最初もあともなかったとみるほうが正しいでしょう。『吾妻鏡』は、
北条氏の立場を明確にし、安達泰盛への追慕の念をふくむと同時に、宗尊親王への哀惜、追慕の記でもあったのでした。

さきに記したように、『吾妻鏡』には誤謬が多く、歴史的史料として信頼されていないようですが、もし、顕時が生きていて最後に眼を
とおしていたら、顕時の教養からして、また、まじめな性格からして、きっと筋のとおった信憑性高い史書にできあがっていたと思います。
と、こんなふうに為相が顕時と接触したことが明らかになった以上、ここで為相が称名寺を訪ねて「いかにして」の「青葉の楓」伝承のも
とになった歌を詠じた可能性ができてきました。顕時は称名寺造営に力を尽くし、護摩堂や両界堂を建てています。また、亡くなる
前年には梵鐘の修理をしています。そして、「金沢之別業」を訪れ、「称名之霊場」を逍遥することが楽しみであったともいいますから、
あるいはそんな散策の折に為相が招かれて接待を受けたことがあったかもしれません。ですが、この時期称名寺はまだ戒律厳しい初
代長老審海の真言律宗の時代です。「いかにして」の歌を詠むようなのびやかな雰囲気と対極にある気が私にはします。ですから、
顕時との関連であるいは訪ねて歌を詠んだ可能性がここにひとつあったということにとどめて、さらにさきへすすみたいと思います。

追記: 顕時が編纂の企画第一人者だとすると、『吾妻鏡』が何故宗尊将軍記で終わっているのか、じつは終わってはいず、書かれ
たのだが紛失してしまったのか、はたまた、以後書き継がれる予定があったのか、などのむかしからの謎が一挙に解決つきます。
宗尊将軍記以降がないのは、ここで顕時が亡くなっているという一事、それに尽きるのでしょう。おそらく企画をたてた時点では、
以後書き継ぐかどうかはべつとして、宗尊親王の帰洛で終わらせることしか考えていなかった。だから、史料の収集も、以後のものはな
かったのだと思います。編纂が終わったときに顕時がまだ健在だったら、あるいは継続があったかも知れません。ただ、宗尊親王と
いえば、顕時が思春期に仕え、慈しまれた将軍です。親王の悲劇的な帰洛がいかに顕時にとって深い哀しみに満ちたものであったか
を考えるとき、それ以降の編纂などする意志は、最初もあともなかったとみるほうが正しいでしょう。『吾妻鏡』は、北条氏の立場を明確
にし、安達泰盛への追慕の念をふくむと同時に、宗尊親王への追慕の記でもあったのでした。

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