寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―
21 (最終回)
夢窓疎石という方はあれほど偉大なのに、最澄、空海、または栄西や道元のようには一般にほとんど知られていません。私にして
も、為相との関連でほんとうの事績を知るまでは、作庭に秀でた趣味の禅僧といった面でしか読んだことがなく、当然そこにはどこか
禅僧でありながら贅沢なといった誹謗が背後にみえ隠れしていて、あまりかんばしい印象ではありませんでした。何故こんなことがと
いう疑問を解いてくれる文章がありますので、紹介させていただきます。すこしながくなりますが、古田紹欽氏『禅僧の歌』から。
夢窓及びその派の禅は、大応国師南浦紹明、大燈国師宗峯妙超、無相大師関山慧玄の、いわゆる応・燈・関の禅が
臨済禅の主流を占めるに至って、とかく亜流のようにみなされ、あまつさえ夢窓が南北両朝の対立した間にあって、融和
調停につとめたことから俗事に携り、恰も時の権勢に近づいたかの如くに目され、後醍醐天皇の信任を受けながら足利尊氏・
直義兄弟の帰依も受けたことをもって、無節操でもあったかのように見られる。(中略)
果たして夢窓の禅がそのような禅であり、その人となりに権門に媚びて栄達を望んだり、また無節操と非難されるところが
事実あったであろうか。判官びいきならぬ大燈びいきから、そのために一方が逆に、当たらぬ理由で非難を蒙ることは、
ただの筋違いで事済まされることではなく、それが若し事実を曲げるに至っては黙視できない。夢窓に対するとかくの批判は、
南朝正統論から、戦前にはそれがなかったとはいえないし、尊氏・直義の逆賊論から、夢窓もそのとばっちりを受けなかった
とはいえない。思えば夢窓くらい大きな業績を遺しながら、時勢の故に不当な評価を浴びた人はなかろう。(中略)
夢窓の在世した時代は政治の混乱した時代であり、夢窓は時代の傍観者として自分だけが超然としていることは、自ら
の良心が許さなかった。出家者としての立場から機会あるごとに政治の要路者にもいうべきはいい、求められれば進んで
困難な問題に取り組むことも辞さなかった。顧みて南北両朝の間に若し夢窓が介在せず、また朝廷と幕府の間にこの人が
存在しなかったとしたら、両朝の対立、朝幕の関係は益ゝ険悪なものになり、南北朝の歴史は悲劇的運命に変転して
いったかも知れない。
と、こういう状況です。夢窓疎石の風貌は頂相をはじめいろいろのこされていますが、ほっそりして美しく、あたかも尼僧とみまごう
ような優美な方でいられます。そのうえに聡明なことこのうえなく、たぶん、声のトーン、挙措言動も穏やかで優しかったのでしょう、ど
こにあってもすぐ長たる人の寵愛を得てしまうのです。内実が潔癖なことこのうえなく、厳しさも人一倍だったにもかかわらず。愛される
反面、妬まれることも多かっただろうと直感される雰囲気があり、事実、高峰顕日を師と仰いで那須雲巌寺に居住しながら、周囲の嫉
妬にあい、高峰顕日に迷惑がおよぶのを避けて山をおりるなどの試練をくぐっていますが、歴史的にまで後世妬みにあって貶められ
ていたのでした。夢窓疎石が那須雲巌寺を去ったのは延慶二年(1309)、三十五歳のときです。以後、夢窓疎石と高峰顕日があいま
みえることは二度とありませんでした。その後、夢窓疎石は、「私はここで誓います。もし道価が老和尚(高峰)よりも下にあるならば、出
世はせず、ただ閑を守り、草木とともに朽ち果てるつもりです」という手紙を送っています。それにたいして高峰顕日は、「山僧(高峰自
身)は長老(夢窓)の脚下にいる。閑を守り、草木とともに朽ち果てたいなどと思ってはいけない。一木一草とても大法輪を転じている。
汝がどんなに遮っても、黙らせることはできない。末世の乱弊を一体誰が救うのか」といった手紙をかえして夢窓疎石を鼓舞したのでした。
先だって、私は高峰顕日がどのような方だったのか知りたくて、那須雲巌寺を訪ねました。べつに居住した寺院を訪ねたところで、
こういう方だったのですよという案内がでているはずもありませんから、どこかべつの場所、たとえば図書館へいって建長寺史を繰る
などしたほうがいいのかも知れません。でも、私はとにかくあんなにも高峰顕日を引きつけてやまなかった那須雲巌寺という地がどうい
うところなのか、私自身が立ってたしかめたかったのです。すこしだけ、わかった気がしました。雲巌寺は、栃木県那須郡黒羽町にあり
ます。芭蕉も訪ねて『奥の細道』にも記されたところですので、黒羽町には「芭蕉の館」が建ち、至るところに芭蕉の句碑があり、町全体
が芭蕉の里になっていました。高峰顕日が最初に那須に入ったのは、参じていた兀庵普寧が帰国したための文永二年(1265)です
が、そのときはまだ雲巌寺という名称ではありませんでした。雲巌寺となったのは弘安六年(1283)、鎌倉で阿仏尼が亡くなった年で
す。鎌倉では北条時宗が前年円覚寺を建てて無学祖元を住持に迎え、それから高峰顕日のために那須の地に堂塔を建て、雲巌寺
と命名したのでした。高峰顕日は、弘安四年に無学祖元より印可を受け、那須へ戻っていました。
境内を歩くと、至るところに黒々した大きな岩石が地表にあらわれているのが眼につきます。武茂川の橋をわたって山門へと高い
階段をのぼっていくのですが、その武茂川にも巨岩が至るところに突きだしていて、水は岩にあたって激しく砕けながら走っています。
せせらぎといったようすではまるでなく、有機的な温もりを排したまったくの清冽な無機の世界です。周囲の緑は鬱蒼としてすずやかで
すが。ここは栃木県から茨城県にまたがって南北にのびる八溝山地の北端の山、八溝山の麓に位置します。八溝山地の南端が筑波
山です。地質構造は中生代ジュラ紀で、主として砂岩、粘板岩、チャートなどの堆積岩からなっているそうです。境内に突きでている岩
も、艶があって層理がみられましたから、チャートでしょう。雲巌寺の名称は、地形が唐の蘇州虎丘山に似て千丈岩があるところから、
その地にある雲巌寺の名をとって号したといいます。そう、高峰顕日は「岩」にこころ牽かれたのでした。
この思いがわかる気がするのは、私も岩石にこころ牽かれるひとりだからです。以前、フォッサマグナということばに魅せられて、糸
魚川ー静岡構造線の撮影旅行をくわだてたことがあります。ラテン語でフォッサは溝、マグナは大きいの意ですから、訳して大地溝帯
となります。糸魚川ー静岡構造線はその西縁にあたります。静岡側の構造線の末端は、静岡市内のほとんど小丘といったおもむきの
なだらかな浅間山に没してしまっていますが、糸魚川側は上流に翡翠峡のある姫川河口で、近くに名勝親不知海岸があるなど絶景の
一帯でした。構造線自体は地中深く走っていてうかがい知ることはできませんが、ときどき地表にあらわれている地点があり、そのひと
つに山梨県早川町新倉の断層があります。
新倉は身延山をすぎてさらにずっと山奥深く入ったところで、ひとひとりいず、民家どころかひとの手になる建造物はなにもなく、ガ
イドブックに示す地点におり立ったものの、無事に帰ることができるか不安になってしまいました。為兼の「沈みはつる入日の際にあら
はれぬ霞める山のなほ奥の峯」の一首に会うと、私はいつもこの新倉に向かうとちゅう車窓からみた山また山の連なりを彷彿とします。
断層は早川の支流内河内川に接する崖面にあります。でも、すぐにはそれが見出せず、探しつつうろうろしていると、マイクロバス
がきて停まり、運転していた方がなかからおりてらして、「断層をみにいらしたのですか」と声をかけてくださいました。「はい」と答えると、
「じゃあ、付いてきてください」といわれます。一行は前日京都国際会議場での地学学会に参加した世界の地質学者の方々で、声を
かけてくださったのは静岡大学の新妻教授でした。会議が終わったので、学者の方々を案内してこられたのでした。一行のあとについ
て夏草の茂みを分け入り、内河内川の河原におり立つと、突然眼前に高い崖面の光景がひらけ、そこに断層がありました。あまりの
威容に思わず感嘆の声をもらしてしまったのですが、世界中の地質をみてらして、なまじのことにはおどろかないだろう学者の方々のあ
いだにも、ワァとも、オォともつかないどよめきがあがっていました。
断層は、崖面の右上から左下へ急傾斜で一直線に走っていて、被さっている左側が古く、古第三期の地層。右側の下になっている
ほうが新しい新第三期の地層です。新しい地層に古い地層が被さっているのですから、これは逆断層。断層という地層のずれが起きた
あと、さらにべつの力がはたらいて新旧の位置が逆になった……。太古のむかし、この地においてこんな雄大な地殻変動があったの
です。そして、さらにそれが地表に剥き出しになる変動も。人間など微細な存在でしかないことをまざまざと思い知らされたどころでない、
一瞬にして人生観が変わってしまったかのような非常に深いショックを覚えました。新妻教授からは今でも毎年お年賀状をいただくので
すが、それは決まって教授が身近にみられている富士山など連山の横位置の図柄で、お手製の木版刷りのそこにひと言、山の稜線に
ついてのコメントがあったりして、地質学者という方は、同じ山をみるにしても、通常人の私たちとはちがうべつの世界、地球内部の奥深
い構造をみてられるのだと、人としてとても大切なことを教えられる思いがします。
高峰顕日に地学という意識があったとはいいませんが、そういう地球内部の太古のうねり、人智のおよばない世界での巨大な生成に
たいする畏怖のようなものを、那須雲巌寺の地に感じて牽きつけられていたのではないでしょうか。命名の由来になった千丈岩は、高い
崖上から下を流れる武茂川まで、一気に白いほそい滝の糸を幾条も落としている一枚岩で、黒いチャートの岩肌が水に濡れてぬめって
光っていました。それをみたとき、そう思ったのです。那須雲巌寺はそういう地でした。帰ろうとしたころ、急に空が曇って雷鳴がとどろ
き、ひっきりなしに稲妻が走る激しい雨に見舞われました。ちょうどコスモスの花の種をとりにでていらした雲水さまとお話をさせていた
だいたあとだったのですが、このあたり一帯では雷は日常のことだそうです。それも山のなかだから近くて、それは恐いですよ、と。
そして、冬の寒さの厳しさ。裸足で座禅を組んでいると爪が変形してしまうほどだそうで、ほら、私なども、と草履からのぞいている足の爪
を指さしてみせてくださいました。高峰顕日の足の爪もそうだったのかと思いを馳せ、後嵯峨天皇の皇子でいられる方が何故そこまで
という思いにうたれました。雷鳴とどろくなかでの座禅、凍傷の足、厳しく人を寄せつけない巨岩。いかにも厳格孤高、清廉潔白の禅
僧、高峰顕日にふさわしい地と思いつつ、どしゃぶりの雨のなかを帰途につきました。
正和五年十月の高峰顕日の遷化を、夢窓疎石は美濃古渓(現在の岐阜永保寺)において接します。古渓において夢窓疎石は法要を
おこない、翌文保元年九月、突如として古渓を発ち、ながい行脚の旅にでます。このとき為相は鎌倉にいて、那須へくだる高峰顕日に、
「春はかならずくだりて」と約束をして別れています。それからすぐの遷化でした。夢窓疎石が鎌倉に戻ってきたのは元応元年(1319)。
四十五歳になっていました。延慶元年に万寿寺から甲斐へ去って以来の十一年ぶりで、ときの執権高時の母覚海尼のたっての要請に
よるものでした。当初、勝栄寺(今は廃寺)というところに住していましたが、夏がすぎると、相模の三浦横州(現在の神奈川県横須賀市)
に移ります。ここに泊船庵を建て、足かけ五年ここですごします。覚海尼の強引な力によって呼び戻されたにもかかわらず、どこか寺院
の住持につくことを拒んで、勝栄寺においても、泊船庵にあっても、頑として門を閉ざし、人を避けての生活でした。
後世、権力者におもねって出世栄達をのぞんだかのように誹謗されましたが、鎌倉幕府と朝廷、南北両朝、後醍醐天皇と足利尊氏、
尊氏と直義など、敵対するどうしのどちらからも帰依され、天龍寺建立など一世を風靡するまでにのぼりつめたときのことを、「世俗にも
まれて明け暮れ、どうやらとりとめることができるのは、従前の修行勉学のお陰である」と述懐されているそうです。決して誹謗されたよう
には夢窓疎石自身は栄達のなかでまみれてはいず、自身を保ちつづけられた。それは修行のお陰だと。夢窓疎石のかたくななまでに
ひとを避けての旅はながく、五十歳をすぎてはじめて世間という表舞台にでます。
それを川瀬一馬氏は『夢中問答集』解説で、つぎのように書かれます。
国師は全国各地の自然の勝地で坐禅旅行を重ねて来られたが、その地を今尋ね廻って理会し得たことは、
その勝地は、天然自然が具有する特色をそれぞれの面において鮮やかに発揮している処々である。(中略)
国師は自然の特色の顕著な現われと対坐して、山を知り、川を知り、海を知り、そして自然の変化の相の中から、
不変の本性を発揮されたと思う。(中略)国師は横洲の泊船庵に五年間滞在したが、これは禅者として各地を修行
中、最も長く足を留めた処となっている。そして、この泊船庵以前における仮庵の地は、いずれも自然が対象で
あって、(中略)泊船に至って初めて自然の中に人事が加わってきている。これは国師の心境の一大進展と見なけ
ればならぬと思う。そして、この泊船庵の次が、海を渡って房総半島の上総国千町荘の退耕庵である。国師は元亨
三年(四十九歳)正月、退耕庵に移り、ここに丸二年半を過ごしたが、(中略)ここで国師が耕しを終え、それに対って
坐禅を行ったということは、泊船庵で加わってきた人事が、民を養うというその中心に迫ったことを意味する。これに
より国師は自然と人間との関係を真に把握し、人間の本性の会得を完了されること になったのである。ちょうど人生
五十年、国師がみずから納得される悟達の境地になられたのである。
十一年の歳月の行脚の果てにたどりついた泊船庵、退耕庵には、そういう意味がありました。『正覚国師集』には、
相州三浦のよこすかといふ所に、いり海あり、しばしがほど、泊船庵と云ふ庵をむすびてすみたまひ
ける比、よみ給ひける
ひくしほの浦とほさかる音はしてひがたもみえずたつかすみかな
の一首があります。ここを為相が訪れていて、やはり『正覚国師集』に、
相州三浦のよこすかと云ふ所に、いり海にのぞみて、泊船庵とてすみ給ひけるころ、中納言為相卿訪来られたり
けるを、舟にておくりいだし給ひけるとき、よみたまひける
かりにすむいほりたづねてとふひとをあるじがほにて又おくりぬる 為相卿
とほからぬ今日の舟ぢのわかれにもうかびやすきはなみだなりけり
の贈答歌があります。この訪問がいつだったか、ただ夢窓疎石が横須賀にいた五年のあいだのいつかとしかわかっていません。
夢窓疎石が横須賀に落ちつくまえは十一年ものあいだ鎌倉を離れていました。最後は土佐までも足をのばし、為相と親交を深め
るような状況は空間的にも精神的にもなかったでしょう。文保元年九月に夢窓疎石は古渓を離れて上洛し、北山に住して翌年まで
とどまります。文保元年に為相が鎌倉にいたか京に滞在していたのかが、井上宗雄氏の年譜ではわからないのですが、このとき
会っていたとしても、半年に満たない期間だったことを考えると、後年わざわざ横須賀を訪ねるほど親しくなるには、それよりもっと以前
から親交があったと考えたほうが自然でしょう。以前、夢窓疎石が高峰顕日から印可を受けた年に為相も鎌倉にいて、そうした重大事
のあった気配を感じとっていたのではないでしょうかと記しました。それは高峰顕日が浄智寺にいて、藤谷に邸宅をかまえる為相と親し
く法談をし、歌の交わりをしただろうと推測した嘉元三年(1305)のこと。このとき夢窓疎石はその日のうちに甲斐へくだっていますから、
この時点においての為相と夢窓疎石の関係は、顔は見知っていても交流に発展するまでのことはなかったと思います。
徳治二年(1307)、高峰顕日は万寿寺にいました。そこを夢窓疎石が訪れます。このときすでに高峰顕日と為相の仲は深まって
いますから、多少遠くても為相がたびたび万寿寺を訪ねただろうことは容易に想像できます。夢窓疎石は高峰顕日に請われてこの
万寿寺に翌年の夏が終わるまで住します。それから十一年鎌倉に帰ってはいず、帰った直後の横須賀ですから、この万寿寺が、
為相と夢窓疎石が親交をはぐくむこととなったもっとも可能性のある場所、時期ということになります。印可を受け、余裕のできた夢窓
疎石は、それまでとは別人のようにこころをひらいて、高峰顕日のもとを訪ねてくる為相と交わりをむすぶことができたのでしょう。それ
が、のちの横須賀を訪ねたときの別れ際に詠んだ親密な贈答歌に結実した……。
さて、ここからが為相の本題ですが、横須賀の地にある泊船庵を訪ねた為相はどうしたでしょう。泊船庵については、高橋恭一氏に
「夢窓国師の遺跡ー泊船庵と退耕庵ー」というご研究があり、つまびらかに踏査された結果が報告されています。それによると、泊船庵
は、現在米海軍横須賀基地内になってしまっている場所にありました。「今の第一ドックとなった昔の白仙山の左右いずれかにあった」
「つまり白仙山かその麓の白仙湾に面した何れかの地点であろう」ということだそうです。米海軍基地内では訪ねることはできませんが、
地図をみると思いがけない事実がみえます。白仙湾と六浦とは非常にどころではなく近いのです。
当時、東京湾は、鎌倉と房総半島をむすぶ便船がでていたほど海上交通が活発だったことが、無住の『沙石集』にでてきます。その
鎌倉側の湊が六浦でした。泊船庵があった入り海は、まさにその六浦がある平潟湾と隣合わせなのでした。贈答歌の詞書では、船で
出発する為相を夢窓疎石が送っています。為相は鎌倉へ帰るとみていいでしょうから、泊船庵が三浦半島のどこにあるかを知らずに
考えると、当然、鎌倉が面している海、相模湾から直接鎌倉に入ると思ってしまうでしょう。けれど、白仙湾や平潟湾は東京湾内にある
うえに、三浦半島のほぼ付け根にあたります。船でいく場合、相模湾経由をとるとすると、一旦三浦半島の先端までいってそれから相
模湾へまわるかたちになり、もっとも遠い経路です。『沙石集』にみるように、六浦が鎌倉の外港としてにぎわっていたのなら、為相は東
京湾側の六浦から陸にあがったと考えていいでしょう。ここから六浦路をとおって、鎌倉へは一直線。とちゅう朝比奈の峠には切通しが
開削されていましたし、六浦路の終点は鶴岡八幡宮。その裏手に為相の邸宅がある藤谷はあります。そして、六浦から称名寺へは、
平潟湾にかけられた瀬戸橋をわたるともうほんとうにすぐです。
夢窓疎石が横須賀に庵をむすび、為相がそこを訪ねたこのとき、貞顕がながい六波羅探題の任を終えて鎌倉に戻っていました。
帰還は正和三年(1314)でした。翌年、連署就任。その翌年に、京では為兼が土佐に流される事件が起き、那須雲巌寺では高峰顕
日が亡くなっています。さらにその翌年の文保元年(1317)、貞顕は称名寺の再造営に着手し、十二月に金堂の上棟をみます。
元応元年(1319)には苑池の造営がおこなわれ、金堂の弥勒来迎壁画が完成。夢窓疎石が鎌倉に戻ってきたのはこの年でした。
称名寺の伽藍が完成するのは元亨三年(1323)。夢窓疎石が横須賀に滞在した五年のなかに入ります。貞顕の造苑にかけた情熱
は並たいていでなく、それは昭和に入っての発掘調査で確認されました。池の周縁をめぐるおびただしい量の景石と、池の中島、そし
て中島にかかる橋の橋脚があらわれたのです。そうなると、瑞泉寺、恵林寺、永保寺など作庭で有名な夢窓疎石ですから、称名寺の
苑池にも関与があったかどうか考えたくなります。時期的には可能です。貞顕と夢窓疎石はほぼ同世代。ここまでみてきて同じ時空を
共有していたことが明らかですから、なんらかの接触があって貞顕の相談にのったと考えてもいいのですが、私はなかったと思っていま
す。それは、この時期が、門を閉ざして来訪者を拒みつづけた事実に象徴されるように、夢窓疎石がまだ厳しい精神状況のなかに
あったこと。(そんななかでの為相訪問の受入れは特別です。)金沢文庫にのこる文書類に夢窓疎石関連のものがほとんどないこ
と。そして、高時と夢窓疎石の風聞を 記す貞顕の書状に、傍観者的遠さを感じることなどからですが、それよりもっと、称名寺の景
石自体が、夢窓疎石作庭の石組の印象と一致しないのです。
夢窓疎石作庭の池のめぐりの石組には、非常に穏やかなというか、なだらかなというか、平坦な、たたえられた水の面が明鏡止水と
いった禅の境地そのものを感じるのですが、貞顕作の称名寺の庭は、極楽を模したという平安時代の名残り濃い浄土庭園で、池には
魚がはね、水面には水鳥が遊ぶ闊達な生の世界です。その池に貞顕は白鳥を放したといいます。為相はここを訪れたのではないで
しょうか。浄妙寺で顕時が高峰顕日と親しく接し、『吾妻鏡』の編纂に意欲を燃やして為相とも接触したとき、顕時のそばには子息貞顕
がいました。そこに交流は端を発していたと思います。称名寺の再造営が完成なったとき、貞顕は為相を招いたのではないでしょうか。
為相はそれを受け、夢窓疎石を訪ねた帰りに立ち寄った。そして、「いかにしてこの一もとにしぐれけん山にさきだつ庭のもみぢ葉」の歌
を詠んだ。この歌には、そんなふうなのびやかな晴れ々々した感じがあります。顕時の時代ではなく、貞顕のこの時代にと思う所以です。
為相の称名寺訪問があったか否かを探りはじめた当初、私はここで船出して遠ざかる為相を悠然と見送って、さながら映画のラストシ
ーンのような余韻でもってこの連載を終えようと決めていました。でも、できなくなりました。世のなかが変わったのです。夢窓疎石が横須
賀に庵をむすび、為相が訪ねた事実までたどりついたとき、そこが米海軍基地内で立ち入ることができないにしても、ひとまず場所を確
認するだけでもしたいと思いました。明日はでかけようと、カメラをバッグにつめるなどしながらなに気なくテレビをみていたとき、ニューヨ
ークの貿易センタービルに小型機が衝突したもようですという、同時多発テロの発端となる第一報が入りました。それからのことは悪夢で
すが、即刻戒厳令がなされ、訪ねようとしていたまさにその横須賀の米海軍基地のゲートが頻繁にテレビに映しだされる日々。夢窓疎石
の庵跡が米海軍基地内になっていると知ったときも戸惑いを覚えましたが、今度はその場所がまさに同時多発テロ事件の日本における
中心地となる異様さ。
この事件のあと、世界中の「書く人」は、書くことへの懐疑にさいなまれ、深い虚脱感に陥ったと思います。私もこんなときに悠長に
廃寺探訪でもないと思い、真剣に連載の中止を考えました。でも、私は「書く人」です。書くことでしか救われないことはわかっています。
だから、とにかく「書く」しかありませんでした。それからはただ忌まわしい記憶を忘れるために、そのことを思いださないで済むだけのた
めに没頭してきた感があります。そして、いつしか書いているこの世界が私にとってのすべてになり、事件の記憶はあたまの片隅に追い
やられて……。夏の終わりに菱川善夫先生からお便りをいただきました。そこにつぎのようなご文面がありました。「その十五」で、『親玄
僧正日記』の庭舞のようすを有機的感覚で想像したことにたいして書いてくださったお言葉です。私信ですが、これは菱川先生の文学
にたいする、世界全体にたいする思いでもいられると思いますので、書き写させていただきます。
この《有機的感覚》が、いま文学にも求められるべきだと考えています。九・一一以後の世界の複雑な変化と動きを
つかまえるためには、単なる感情的反応だけでは駄目ですね。かといってパターン化された危機意識だけでも陳腐に
なるでしょう。まさしく《有機的感覚》が必要なのだと思っていたところです。
私は一度も先生に同時多発テロ事件との関連、それからあとの思いを打ち明けてはいません。にもかかわらず、菱川先生はその奥
の必死な思いを読みとってくださったのです。びっくりしました。このお便りで一挙に私は原点に引き戻されました。夢窓疎石について
書きながら、同時に私は同時多発テロ事件以後の世界を考えずにいられなくなりました。そして、気がついたのです。これこそが、夢窓
疎石がそこに庵をむすんだ意義にほかならないと。夢窓疎石と米海軍基地との関係は、当初、これほど不似合いな取合せはないと唖
然としました。でも、書いていて夢窓疎石という人物を知り、私自身の思いが深まり思念が定まったとき、これほど夢窓疎石にふさわしい
場所の選定はなかったと思うようになりました。戦乱の世に生きた夢窓疎石は、のちのちの世にもそういった乱世の到来するだろうことを
見抜いていたのです。そういうときに必要なのは叡知。遠くを見据え、正しく判断する冷静沈着な理智ということを思いだすよう、あまりの
ミスマッチに違和感を覚えて考えてそして気がついてもらえるよう、そのことのために夢窓疎石自身もおそらくなにかのおおきな意志には
こばれて、のちの米海軍基地になってしまう場所に庵をむすんだのでした。慈円のいう道理が、ここでもはたらいたのだと思います。
そういえば、慈円もまた時の施政者をいさめ、力およばずもあいだに立って苦慮しつつ乱世をみとどけたひとりでした。
文学は鎮魂です。福島泰樹先生の短歌絶叫コンサートも鎮魂ですが、古来、歌は、舞も、相撲も、すべて神へ奉納するもの。神の、
ひいては人間の鎮魂です。奇しくも九月。そして今日は十日。去年、このつぎの日の夜、横須賀へいく準備をしているときに第一報に
接しました。こういう日に最後の一行を記すはめになったこれもなにかの深い因縁と受けとめています。有為転変の世のなかですが、
最後に夢窓疎石のような方とめぐり逢えたことに感謝しつつ、この連載を閉じさせていただきます。
(完)