■広島県/草戸千軒町遺跡・鞆 
訪問 1994.10.19
作成 2003.3.18 

草戸千軒町遺跡は、広島県福山市を流れる芦田川の中州に出現した遺跡です。たびたび氾濫する芦田川の河川改修工事でそれは発見されました。遺跡となった中世の町並「草戸千軒町」も、発掘当時は洪水による埋没と考えられていましたが、その後研究がすすんで、今では政治的・社会的な事情で意図的に埋められたとみるほうが正しいようです。後の時代に破壊されることがなかっただけに、町並が遺構としてそっくりそのままあらわれたのでした。

●早朝の東京駅
             

東京駅六時発の山陽新幹線「のぞみ」1号に乗ると、八時半に明石を通過。岡山で乗り換えて、福山に十時につきました。日帰り強行軍の旅です。この遺跡の存在を知った時すでに発掘作業は終了していて、まもなく埋め戻されて川底に沈むという話でしたので、それならと急遽思いたっての出発でした。遺跡の仕事に就いてはじめての中世遺跡への旅でした。車中、井伏鱒二さんの『さざなみ軍記』を読みとおしていました。これは、半分ほどいったところで到着し、残りは帰途、東京駅につく寸前の横浜あたりで終わりました。とてもいい思い出です。草戸千軒町遺跡および鞆へは福山駅からバスに乗ります。

●芦田川遠望

             

鞆へ向かうバスの車窓から撮った光景です。草戸千軒町遺跡は、広島県福山市を流れる芦田川の中州に出現した遺跡です。遠くに赤く明王院がみえています。遺跡へは、シャッターを押したこの草戸大橋のバス停で下車し、芦田川沿いに一キロほど歩きます。

●草戸千軒町遺跡あたり一帯

             
             
             

昭和の初め、洪水のたびに氾濫する芦田川の河川改修工事をおこなったときに、川底に埋もれていたその中世の町はあらわれました。十三世紀中ごろ成立し、十六世紀前半まで存続した町です。「現在の福山市瀬戸町一帯を中心に、平安時代の末期に成立していた皇室領荘園の長和荘の一角にあり、鎌倉時代になってからその年貢を積み出す港として成立したものと考えられる」と、広島県草戸千軒町遺跡調査研究所発行の概報にあります。近隣の尾道や鞆が中国や朝鮮と交易する貿易港だったのに対し、草戸千軒は、小規模な港町だったと考えられるそうです。当時福山湾の海岸線は今より内陸に入っていましたから、町は芦田川河口の三角州上にあったということになります。「草戸千軒という町があり、(江戸時代初期、寛文十三・一六七三年)、洪水のおり土手を切れば、千軒の町家押し流れ、家一軒もなし」と、地誌に記された町の発見でした。

第一次調査がはじまったのは昭和三十六年。昭和四十三年の第四次調査からは毎年継続しておこなわれ、平成五年には第四十八次の調査を終えています。中世の集落跡がそっくり発掘され、しかもその流通から暮らしぶり、そして、町の成立期から最盛期、衰退期と変遷をたどることができるまでにまとまった成果のでたこの遺跡は、中世考古学の先駆けとなりました。町には、柵と溝・壕でかこまれた町割がなされ、石敷きの道路や井戸の検出から、おびただしい量の生活用品、陶磁器や銭貨の出土をみて、現在、広島県立歴史博物館にはそれらをもとに復元された「草戸千軒町」がフロアいっぱいに展示されています。

●明王院境内の五輪塔

             

古刹明王院は、草戸千軒町遺跡をみおろして芦田川べりに建つ真言宗寺院で、本堂・五重塔は国宝に指定されています。中世には常福寺とよばれていました。遺跡の存在があきらかになるよりも以前の昭和五年一月一七日朝、芦田川の改修工事中の作業員が「吹雪の中で、中州の土砂を掘さくしていたところ、地下一・五メートルのあたりで、突然、一人の作業員のくわにガツンと大石がぶつかったのを手始めに丸や角、笠形などをした石が次から次へと出てきた」(井出裕彦「草戸千軒町遺跡」)そうです。作業員たちは、墓石みたいなそれらの石を気味悪がって、明王院にもちこんだのでした。それは五輪塔や宝篋印塔の部分部分の石でした。今、その石はあつめられて、明王院の境内に安置されています。三十基以上になるそうです。掘り出されて運ばれるときに一旦ばらばらになっていますから、今は積みあげられていても、もとどおりの五輪塔や宝篋印塔の組み合わせになっているというわけではないそうです。

●中世の町並の再現(広島県立歴史博物館

             
             
             

草戸千軒町遺跡は、河川改修工事の際に川の中州から発見された遺跡ですから、工事の終了とともに中州は破壊され、ふたたび川底に埋没する運命にありました。それを惜しんで保存運動もおきましたが、発掘調査の完掘というところまで建設省が譲歩したうえで、結局は叶いませんでした。保存できないなら、その代わりに何か別の方法で町を残そうとの努力で、遺跡の実物大復元が実現しました。南北朝時代を中心とする広い意味での室町時代。草戸千軒町が最盛期を迎えていたころの、海岸から掘割で少し入った地点の一角です。船着場、市場、畑や井戸、御堂、漆職人の住居、下駄を作る職人の住居、鍛冶屋といった光景が蘇っています。初夏の黄昏時に照明が工夫されていますから、フロアをめぐると、まるでタイムスリップしたかのような錯覚に陥ります。

●草戸千軒町遺跡出土遺物(広島県立歴史博物館)

             

展示室には、発掘されたおびただしい量の遺物が展示されています。遺物は、そこで暮らした人たちがじっさいに手にとり使っていたもの。いわば、当時の人の手のぬくもりを知っているものたちです。遺物にはありとある種類がありますが、私がとりわけ陶磁器に魅せられるのは、陶磁器にはそういった思いがとりわけ強く感じられるからかもしれません。陶磁器の、ひんやりしたなかにもあたたかい、硬質ななかにもどこかやわらかみのある、まろやかな感触に触れるとき、それを作った人、使った人たちと一体となった気がして、そこはかとなく嬉しいのです。まして、中世の陶磁器は、現代の陶磁器と器種や地肌がまったくちがうものが多く、中世の時間そのものに触れるふしぎな感覚があります。
写真は、左端と中央の二枚が陶磁器ですが、中央は白磁四耳壷と青白磁梅瓶。右端は大量の古銭で、甕にぎっしりつまって発掘されました。

●鞆

             

鞆は、草戸千軒町遺跡の南十キロほどのところにある瀬戸内海に面した港です。ここは、かつて「潮待ちの港」として栄えた歌枕の地でした。万葉集に大伴旅人の歌で「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」があります。鎌倉時代には宿屋や遊女の店が軒をつらねていたといい、『とはずがたり』二条も訪ねています。井伏鱒二さんの小説『さざなみ軍記』には、この鞆を舞台として、主人公の平家の若武者が土地の娘とはかない愛を交わす場面があります。そこでは鞆は室の津となっています。

●汀に寄せる波と光(鞆港)

             
             
             

『さざなみ軍記』は、はじめて読んだのはずっと以前のことになりますが、ストーリーそれ自体の具体的なことは忘れても、凪いだ海のきらきらした波頭が眩しくこころにのこる作品です。どうしてこんな描写が!、と圧倒されつつ思ったのですが、井伏鱒二さんは福山市の芦田川上流の地のご出身でいられるのですね。鞆には青春時代によく訪れられていて、光る波頭は井伏さんご自身のからだのなかにもう血肉化してあったのです。とうてい単に取材で訪れただけではなし得ない文章、生まれるべくして生まれた作品なのでした。その印象があったから、鞆港の汀に寄せるきらきらした波をみたときは、思わず佇んでみとれ、夢中になってシャッターを切りました。ファインダーのなかで波は、わずかな風にもおおきく揺らぎ、一度として同じ表情をみせません。あっというまにフィルムを使い果たしてしまったほどの強烈な眩しさ、美しさでした。

●対潮楼

             
             
             

鞆の福禅寺という古刹の境内にある客殿です。江戸時代には朝鮮通信使の迎賓館でもありました。通信使との交流を物語る墨書や扁額がのこっています。頼山陽の漢詩もありました。お座敷に座してみる瀬戸内海の光景はまるで一幅の絵でした。ここは、左右の波のちょうど出逢うところで、そのとき海はまったくの凪ぎの状態になるとか。春と秋の彼岸のお中日には、正面にみえる弁天島の真上に陽が沈むのだそうです。 その奥は、天上を舞っていた仙人が眼下にみる景色のあまりの美しさに酔いしれて臥して島になったという伝承の仙酔島です。漁船が静かに海面をはしり、また遠くには一艘の小舟がとどまっていて、さながら万葉の世界を体現するかのようでした。

●備後安国寺

             

もとは鎌倉時代文永年間創建の金宝寺という寺院だったのが、足利尊氏の命で備後の安国寺となりました。室町時代に栄え、戦国時代一時衰退していたものを、天正七年(一五七九)、安芸の安国寺出身の僧恵瓊(えけい)が再興し、寺観とととのえたのですが、江戸時代になってふたたび衰微したという寺運をもっています。唐様建築の釈迦堂も、善光寺式阿弥陀三尊像も、ともに金宝寺時代のもので、国の重要文化財に指定されています。井伏鱒二さんの小説『鞆の津茶会記』は、ここ安国寺が舞台です。これも、どうしてこんな虚構が可能に? とほとんど息をのみつつ絶句しつつ読みすすんだ作品です。井伏さんという方は、ほんとうにどんな頭の構造をもってらしたのでしょう。

●安国寺庭園

         
         
         

枯山水式の庭園です。室町末期か、桃山初期の作庭と推定されていますが、部分部分に修理のあとがみられ、そこには恵瓊の天正期のものもあるそうです。下段は、庭園に接してあった本堂跡の礎石です。

●安国寺本堂跡礎石

   
   
   
 
 
 
 
 
             

太古の昔、地球の内部で生成された石が、ふとしたことから地表にあらわれ、採掘されて運ばれ、寺院建立に際して礎石として柱の下に埋められる。それがまた、ふとしたことから上にのっていた建造物がなくなってまた日のもとに晒される。暗いところに慣れていた礎石は、明るい陽光のもとにあることに戸惑い、恥ずかしがっているかに見えます。地球の生成の歴史から人類の文献史学的な時間の歴史まで、すべてを包括してその身にとどめて、ただ在ることにのみおのれを集中させている礎石は、私にとって見ても見ても見飽かないふしぎな存在です。

 

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