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訪問 2003.11.8 / 作成 2003.11.20 石清水八幡宮におけるフォーラムに参加するために、朝、新幹線で東京を発ちました。フォーラムは午後からなので、午前いっぱいを水無瀬離宮跡をみて過ごそうと、京都駅でおりるとすぐ地下鉄で四条へ。四条から2、3分の烏丸駅まで歩いて阪急線に乗り、20分ほど乗ったところで水無瀬駅につきました。水無瀬は、淀川をはさんで石清水八幡宮の対岸なのですが、石清水八幡宮が京都府なのに対して、水無瀬は大阪府。しかも、淀川をわたって直接いくことのできる線がないために、石清水八幡宮へいくには一旦京都へもどって京阪線に乗り換えなければならず、昼食抜きでフォーラムへ駆けつけてやっとという、時計を睨み睨みの移動でした。 石清水八幡宮へは、一度参拝したい思いを抱いていましたが、中学のときに読んだ『徒然草』が呪縛になっていて、仁和寺の法師のような笑い種になったら大変と、信頼のおける人に案内してもらうのでなければ行かれないと、そんな気がしていました。でも、フォーラムがあるのなら、見誤ることはないでしょうから、この度は安心してでかけました。いつもなら、どこかへいくときは、いちおうは地理や歴史ををみるのですが、石清水八幡宮は「寺院揺曳」というエッセイに記した益性法親王の関連で身近に感じていたものですから、まったくなにも調べずに出発してしまいました。水無瀬についても、たしか石清水八幡宮の対岸だったという、うろ覚えの記憶のまま。それで、惜しかったのです。じつは、この地は谷崎潤一郎の『蘆刈』の舞台だったのです。この作品を読んだのは一度や二度ではないのに、歴史に関心をもつ以前だったものですから、妖しい展開にばかり魅せられて、具体的な事柄の把握がまったくできていなかったのでした。知っていたら、バッグに文庫本をしのばせて、新幹線の往復に堪能できたのにと残念です。 石清水八幡宮
石清水八幡宮は男山山頂にあって、京阪電車八幡市駅からケーブルでのぼって3分で着きます。仁和寺の法師は、麓の神社に参拝したらもう安心して、山頂までのぼらずに帰ってしまったわけですが、ケーブルがあれば、そんな失態をやらかす人もいないだろうと、妙なところに気をめぐらせて、やっと『徒然草』の呪縛から解放されました。 貞観元年(859)、清和天皇の御世に、豊前の宇佐八幡宮を訪れた南都大安寺の僧行教が、「吾れ都近き石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、この地に宝殿を建立したのがはじまりといいます。神様みずからがこの地を指定されたのでした。御祭神は、応神天皇・タギリビメノミコト/イチキシマヒメノミコト/タギツヒメノミコトの三柱・神功皇后でいられます。男山は、雄徳山とも書き、社地山峰の旧称だそうです。明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈の運動以前は、石清水八幡宮内にも寺院が存在し、神道と仏教は共存していました。神仏分離令によって、堂塔や仏像が売却され仏教色が一掃されたといいます。中世の文学・歴史をひもどいていると、石清水八幡宮への参拝、祭や放生会の記録に、この地がどれほどかの華麗な聖地、人々にとっての大変な精神の中心地だったことがわかります。でも、その石清水八幡宮が、京都のいわゆる主だつ観光地から離れているためか、忘れ去られてしまっているのが現状でした。 このフォーラムのあった前日の11月7日、京都清水寺で「国家安泰世界平和祈願祭」という式典がとりおこなわれました。明治の神仏分離以前の日本では、人は一木一草に神や仏を見出し、こころ安らぐ精神構造をもっていたといいます。けれど、神道と仏教が無理矢理分離させられ、相対立させられてから、日本人は目に見えないものに対する畏怖心、敬虔なものへの崇敬を失ってしまったといいます。自然を媒介として相反するものすべてを受け入れ、美しく調和して生きるという、この日本人の精神的なアイデンティティーを取り戻そうとする活動が、今年京都を中心にはじまったそうです。7日の清水寺での祈願祭は、仏教の清水寺、そして神道の石清水八幡宮が、協力し合ってとりおこなわれた画期的なものでした。 鎌倉の鶴岡八幡宮は、石清水八幡宮の末社です。源頼朝が鎌倉に幕府をひらくわけですが、それよりずっと以前から鎌倉は源氏ゆかりの地で、鎮守府将軍となって前九年の役にのぞんだ源頼義が、石清水八幡宮に戦勝祈願をし、役の平定後、由比ガ浜に石清水八幡宮を勧請したのがはじまりでした。そうした流れを汲む鶴岡八幡宮を地元に擁する関東人たる私たちも、一木一草に神仏の宿ることへ思いを馳せ、敬虔に暮らすすべを早々にとりもどさなくてはと、近年のあまりに殺伐とした風潮をみるにつけ、危機感をもって覚えます。 ●社殿
水無瀬からぎりぎりの時間にフォーラム会場に入り、貴重なご講演を拝聴したあとでの参拝となりましたので、夕陽に映える社殿に立ち合うことができました。夕陽は、この直後にはもう射しこんで来ず、境内は暗くなるいっぽうでしたから、こちらもまたぎりぎりの滑り込みセーフ状態でした。思わず、こういう成り行きに導いてくださった石清水の八幡様に感謝してしまいました。
●巨木に風格ある歴史をみました
●展望台から
ケーブルをおりて本殿へ向かう参道の脇に展望台がありましたので、立ち寄りました。 ●展望台の紅葉
見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ(後鳥羽院) 丸谷才一氏『後鳥羽院』を拝読して以来、後鳥羽天皇という人物に惹かれていますから、水無瀬の地へは格別の思いがあります。石清水八幡宮でのフォーラムを機に、この際是非と訪ねることにしました。
水無瀬駅から歩いて10分ほどで着きました。水無瀬の歴史をたどる道筋は、歩くだけならここを出発点として一周すると、一時間ほどで駅にもどります。後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇のお三方が祀られています。
離宮といったら、さぞ雅な風情あるところと思いきや、この殺伐さ。離宮跡の碑は、殺風景な駐車場の端にひっそりとありました。あまりのことに唖然とし、シャッターを切るのもやめようかと思ったほどでした。でも、コンクリートやアスファルトの現代の工作物を排除した地形、空気、光、といった不変のものに目をこらすと、中世の、まさに後鳥羽院が、藤原定家が、生きて喜怒哀楽を醸しだした離宮のようすが活き活きとみえてきます。そうしたよすがにと、山の輪郭、遠望を撮ってのこすことにしました。京阪線に乗って京都からの車窓をみていたのですが、嵐山からずっと低い山並みが絶えることなくつづき、平地はなだらかで、従者をしたがえた後鳥羽院の行列が往復するのにとても楽な地形と思いました。光も空気も穏やかで、馥郁とした豊饒の感覚があって、たしかにこの地はちがいます。
赤は後鳥羽院の色だったのだ! と思いました。こんなに赤い水際の草があるのでしょうか。異様な気がして、後鳥羽院の思いがまだこの地に籠もっているのだと思ってしまいました。 州浜の飾りのようなちいさな中州とか、この赤い色とか、この地は、離宮が消滅した現代でも、かつての離宮の感触をおぼえていて、どこかにそれを現出させているのです。思うのですが、水無瀬が大阪府ではなく、京都府だったらどうなのでしょう。なにも大阪府を文化的でないというわけではないのですが、京都府だったとしたら、観光地の一端として整備し、例えば嵐山−水無瀬離宮コースとか、水無瀬離宮跡−桂離宮コースなど、工夫次第でいくらでも貴重な歴史の風情をのこすことができたのではないでしょうか。
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