■栃木県尾羽寺 ・ 宇都宮一族墓域
作成 2004.5.31

宇都宮一族墓域 遠望

今は廃寺になっていますが、栃木県益子町上大羽の地にあった尾羽寺は、宇都宮当主三代朝綱が造営し隠棲した寺院で、歴代当主の墓も隣接した林の中にひっそりと佇んでいます。益子焼の窯元がならぶ町の中心部を抜け、山道に入り、しばらくいったところにその一帯はありました。

初代 宗円
長久4年〜天永2年
(1043〜1111)
粟田関白道兼流というが、実は常陸中原氏の出かと思われる。
二代 宇都宮宗綱
三代 宇都宮朝綱
養子
妻・常陸大掾平棟幹女
天治2年〜元久元年 頼朝期
(1125〜1204)
尾羽寺隠棲
四代 宇都宮業綱
五代 宇都宮頼綱
〜建久3年(1192)
早世(二十七歳)
治承2年〜正元元年 頼家期
(1178〜1259)
法名・蓮生/小倉百人一首
六代 宇都宮泰綱
七代 宇都宮景綱
建仁3年〜弘長元年 泰時期
(1203〜1261)
母・北条時政女  娘・経時室
嘉禎元年〜永仁6年 時宗期
(1235〜1298)
法名・蓮瑜/ 『沙弥蓮瑜集』

『宇都宮市史 中世通史編』等の地図でみていたかぎりでは、この地は大変辺鄙な、とうてい一般人のたどりつくことなど無理だろう山奥の印象でした。けれど、まったくそんなことはなく、観光客はともかく人一人みかけないものの、周辺一帯の案内図は懇切丁寧にそちこちにあり、しかも英文のものまであって、初めて訪れる者にもとてもわかりやすい整備された地でした。ここは、栃木県の指定史跡です。

最初に目に入るのは綱神社入口の赤い鳥居です。横にある案内板はなぜか英文のみ。誰を対象にしているのだろうと考えてしまいました。この鳥居をくぐった奥に、地蔵院、綱神社、尾羽寺跡があります。冒頭の一枚、宇都宮一族墓域遠望の光景は、この鳥居の左手です。

綱神社鳥居
 

宇都宮氏が鎌倉幕府と縁をむすんだ最初の当主は、三代朝綱です。頼朝が挙兵したとき朝綱は大番役として在京中で、平氏に捕われます。脱出して幕府に参じて以来頼朝に仕え、幕府中枢に位置する御家人となりました。頼朝の奥州征伐にも従軍しています。頼朝は奥州へ向かう際に、初代宗円以来、宇都宮氏が代々社務職をつとめる宇都宮神社(現・二荒山神社)に立ち寄り、奉幣しています。

この奥州従軍で接した平泉の光景が、のちに朝綱が隠棲して尾羽寺を造営することに影響を及ぼしたといわれます。すなわち、直接には頼朝建立の鎌倉永福寺に触発されてというものの、内々に平泉でみた華麗な毛越寺や無量光院の印象があったからと。

そのように、尾羽寺は永福寺や平泉にみる寺院同様、浄土教寺院でした。当時、阿弥陀堂を中心に浄土式庭園が造られ、頼朝寄進による多宝塔もあったといいます。朝綱は早世した嫡子業綱の菩提を弔いながら晩年をここで過ごし、八十三歳の生涯を閉じたのでした。

とはいうものの、朝綱の尾羽寺隠棲は、完全に俗世と絶縁するものではありませんでした。「子息の極楽往生を祈念する一方では、一族の勢力拡大の執念を燃やし、笠間策定と日光山進出の機をうかがっていたのではあるまいか」と『宇都宮市史』にあります。益子町編纂の『益子の歴史』によれば、「尾羽寺のある大羽の里を眼下に見おろせる高館山は要衝の地である。」「尾羽寺の防衛と笠間への前進基地として、益子は重要な位置にあった。」そうです。

■ 地蔵院

地蔵院
地蔵院内部

現在建っている伽藍は地蔵院のみです。この地蔵院がかつての朝綱創建による阿弥陀堂で、文明年間に修復されてはいるものの建久四年(1193)の創建当時のものだそうです。国の重要文化財に指定されています。ここに、もともとの阿弥陀堂の本尊阿弥陀三尊像、かつての地蔵院の本尊地蔵菩薩、そして、尾羽寺の本尊阿弥陀三尊像の、三体のご本尊が祀られています。内陣厨子や須弥壇は鎌倉期の様式を残し、屋根はかつては茅葺だったそうですが、今は銅板葺です。

堂内には柱や天井、小壁など、華麗な極彩色の装飾文様がほどこされています。現在は剥落が激しく、また以前野晒しになっていたときに野宿した心無い人たちの手で天井の絵が持ち去られたなど、無残な状況ですが、残っている色彩から、往時の荘厳さを容易にうかがうことができます。朝綱はこういう堂内で朝夕の勤行をおこなっていたのです。

堂内正面に祀られていて扉をあけたとき拝することができるのは、阿弥陀堂本尊の阿弥陀三尊像と、かつての地蔵院本尊地蔵菩薩です。ともに鎌倉時代作。尾羽寺の本尊阿弥陀三尊像は、隣室のようになっている奥の暗がりにひっそりといらっしゃいました。朝綱が拝した仏像です。敬虔な面持になりました。たぶん、撮っても画面は真っ黒だろうと思われましたがともかく撮って、画像処理をしてなんとかみられるようになりました。平安時代の仏像特有の優美なほとけさま方でいられます。

阿弥陀堂本尊と地蔵院本尊
尾羽寺本尊の阿弥陀三尊像

■ 浄土式庭園/鶴池・亀池の跡

上段左の画像は宇都宮一族墓域から眺めて撮っていますが、かつてこの画面の中に尾羽寺があり、多宝塔があり、鶴池・亀池がありました。下段二枚の草地は左上の画像奥の林の前面に広がっています。

■ 綱神社

地蔵院裏の道をおりてしばらくいったところに綱神社があります。朝綱は一度公田掠領の咎で土佐に流されたことがあり、その地の賀茂明神に一刻も早い帰国の沙汰があるようにと祈願をします。それが叶ったために勧請したのが綱神社です。境内にはべつの場所から移された大倉神社がならんでいます。

階段を昇ると綱神社
大倉神社
綱神社
綱神社正面

■ その後の歴代当主

宇都宮氏には、現代においても重要視される文化面での特異な功労があります。それは、五代当主頼綱が、かの新古今歌人藤原定家に依頼して、今でいう「小倉百人一首」を編みださせたことです。頼綱には妻が三人いました。最初の妻は稲毛重成女。二人目は梶原景時女。三人目の妻は北条時政女、牧の方とのあいだにできた女子です。その時政が女婿平賀朝雅を将軍に擁する陰謀をくわだてて失脚したとき、頼綱もまた謀反の嫌疑をかけられ、身の潔白の証に剃髪したのでした。生法師となった頼綱が、京都嵯峨の地に建てて移り住んだのが中院山荘。そこはたまたま定家の小倉山荘の近くでした。蓮生は定家に師事して和歌を学び、交流を深めて、ついには定家の息為家と娘の婚姻が整うまでになります。その中院山荘の襖を飾る色紙のために依頼した百首の和歌が小倉百人一首になったといいます。

六代当主泰綱は、父頼綱が出家したとき三歳でした。母は北条時政女です。妹が藤原定家の息為家と結婚した関係で『明月記』にも登場し、定家から歌の才を認められたり、定家書写の『古今集』を贈られたりしています。大番役で在京中は派手に遊んで定家の顰蹙をかったりしてもいます。が、武士としてはめざましく、定家の目を見張らせました。要するに泰綱は風雅の才にもたけながら、生粋の筋金入りの坂東武者でした。北条時政の孫にあたる泰綱は、従兄弟北条泰時の信任を得、泰時の孫の経時に娘を嫁がせています。経時執権の時代には名実ともに有力御家人の一人となり、評定衆をつとめました。また、宗尊親王御前での蹴鞠の会に嫡子景綱ともども参加をするなど、豪放かつ雅な面での活躍もある相当魅力的な人物だったようです。

七代当主景綱もまた風雅の道にたけ、かつ武者としても一流でした。将軍近侍の結番にえらばれ、引付衆、評定衆を経験しています。蒙古襲来の国難に遭い心労で時宗が命を落としたとき、多くの御家人が出家しましたが、景綱もその一人でした。沙弥蓮瑜となった景綱は歌人として活躍し、『沙弥蓮瑜集』を残しました。背景に御子左家の嫁となった叔母の存在があり、為家息で従兄弟の為氏、そして孫の為世や為兼らと親しく交流していることが『沙弥蓮瑜集』の詞書からうかがわれます。

■ 宇都宮一族墓域光景

 

 

 

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