■六浦・小山若犬丸二児の石塔
訪問・作成 2003.12.25

     
 
 
 
宮犬丸の石塔
久犬丸の石塔
乳母の石塔

『金沢ところどころ』(横浜市金沢区制五十周年記念事業版)にこうあります。「国道16号線から右へ京浜急行のガードをくぐって、鎌倉方面へ三〇〇メートルほどで、六浦のバス停があります。その右側、理髪店のすぐ裏に、お伊勢山の山すそが尾根となって伸び出し、その突端が小さな崖になっています」と。その崖上に石塔はありました。石塔ははるか遠く朝比奈の峠をみはるかすようにして立っていました。峠の向こうは鎌倉です。以下、史実の部分は『金沢ところどころ』に拠りつつすすめさせていただきます。


 


「伝えによると、この石塔は子供を祭ったものと考えられますが、『鎌倉大草紙』という本には、応永四年(1397)小山若犬丸の子供二人が、三浦左京大夫に召捕られ、鎌倉に送られた後、六浦の海に沈められたと記してあります。」
 「小山若犬丸は、下野国の小山義政の子で、吉野の南朝に味方し、北朝方の鎌倉公方足利氏満に攻め亡ぼされたのですが、当時は六浦町の塩場・三艘・川のあたりまで海がはいり込み、六浦湊と呼ばれる一面の海でしたから、その海を眼の下に見おろす崖の上に、かわいそうな二人の子供の墓をつくり、土地の人がいつまでも供養を続けたものでしょう。」


ここは理髪店の家の方の私有地で、お店に入ってご挨拶申しあげると、快く崖上まで登ることを許して下さいました。そして、今は冬だからよく見えていいでしょう、と。夏は竹が茂って難しいそうです。
崖になっている尾根は、理髪店の家屋の背後にかぶさるように延びていて、そこに二人の男の子のお墓である石塔はありました。松の木をはさんで、乳母のものとされる石塔がつきそっています。

石塔へは少々危険と思われる細い山道をのぼります。ほんの数分のところですが、細い尾根上ですから踏みはずしたら大変です。とちゅう、ひらけた場所があって、そこに小学生の男の子が二人遊んでいました。そして、私をみると人なつこく「どこ行くの?」と訊ねてきました。「こんな形のお墓があるんだけど、こっち?」と逆に質問すると、石塔の存在は知らないらしく、「そっちは畑だよ」といいます。「あ、畑ならそれでいいの」と、理髪店の方に「畑がありますから」と教えられたことを思いだして、お礼をいって別れました。

お墓に花を手向け、撮影をすませて同じ場所へくると、離れたところでで遊んでいたさっきの二人が「あっ」とみえるところまででてきて、木にぶらさがったりしながら、「何してきたの?」と、おおきな声でまた問います。「お参りしてきたのよ」と答えると、「ふうん」といいながら、「荷物、どうしたの?」といいました。おおきなビニールの袋に三つ花束を入れてもっていたのが目立ったのでしょう。それがなくなっているので、忘れ物をしてきたと思ったのかもしれません。私は、「お墓にね、置いてきたの」と答えました。すると、男の子が「あ、そう」といってから、「ごくろうさま」と叫びました。「じゃあね」と手を振り合って別れたのですが、男の子の「ごくろうさま」の言葉が奇妙に耳にのこりました。これって、あんなちいさな子供が使う言葉かしらと。花を手向ける行為が「ごくろうさま」に通じることだなんて、あんな子達にわかるのかしらと。

最初に会ったときも、二人の男の子のお墓に詣でようとしているところで、二人の男の子に会うなんてと、偶然にしても不思議と思ったのですが、妙にまつわるような感触で話しかけてきた挙句のこの言葉に、ふっと、この子達はもしかしてあのお墓に眠っている二人が、現代の子の姿を借りてあらわれてきたのかもと、そんな錯覚に陥り、二人の子供の悲劇が急に実感されて、切なさがこみあげてきました。

上の二枚の写真が石塔のある崖です。石塔は、左の写真の松の木の下、右の写真の真上にあります。今年、小山市では市制五十周年を記念して、この若犬丸の二人の遺児をテーマにした古典能を復曲し、上演されるそうです。そうして私たちは、ここに眠る二人の遺児をいつまでも忘れないようにしたいものと心から思います。

 

 

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