■武州金沢称名寺・金沢文庫
                               訪問 1995.1.6〜 作成 2003.5.22


 鎌倉時代中期、北条経時・時頼・時宗三代の執権につかえた武将北条実時創建の称名寺は、神奈川県横浜市金沢区にあります。隣接して、実時の蔵書をおさめた金沢文庫があります。金沢文庫は実時がつくったものですが、今も引き継がれて博物館として開館されています。 実時(さねとき)、顕時(あきとき)、貞顕(さだあき)、貞将(さだゆき)ら金沢北条氏四代当主の肖像画(国宝)や書状の多くのこる金沢文庫は、鎌倉時代の資料の宝庫です。実時が醸しだした雅な文化的雰囲気と、貞顕がつくりあげた浄土式庭園の浄土の雰囲気をご紹介したいと思います。

●仁王門

 
 
 
 

 参道を歩いていくと突き当たりに仁王門があります。阿字池に朱塗りの橋がかかる称名寺境内はこの奥、三方を山に囲まれてひろがっています。仁王門には、左右に分かれて二体の仁王さまがいられます。鎌倉時代末期の院派仏師の手になるほとけさまです。

●北条実時について

     
     

 実時の父実泰は、鎌倉幕府二代執権義時の息で、三代執権泰時とは兄弟の関係にあります。実時は北条得宗家に非常に近しい家柄の人です。鎌倉の中心地鶴岡八幡宮まえに居館をもっており、ここ六浦にかまえたのは別業でした。その別業を喜捨して称名寺としたのは、文応元年(1260)、実時母の七周忌の折でした。

 
 
 
 

 実時は文武両道に秀でた人物ですが、文化の面で大変な功績があります。それを知ったのは最近で、それでこのページのテーマがみえて、一挙にこうして作成しているのですが・・・。企画展の展示で実時書写の『源氏物語』はみていましたし、文庫にのこされた書状に『源氏物語』について書かれているのがあったりして、実時の周辺に『源氏物語』が存在したことは把握していました。でも、それは、裕福な武将の家なのだから、女たちのあいだでそれくらいのゆとりがあって当然くらいにしか意識にとめていませんでした。

 つい最近、後嵯峨天皇の皇子で、第六代執権として鎌倉に下向された宗尊親王について調べていたら、そこに、実時が『源氏物語』の書写をする文化の機運があったことを知りました。あらためて実時の写本について調べると、そうしたらそれはとんでもなく重要なものでした。実時は、宗尊親王に仕えていました。文化的資質が深かった親王は、さかんに歌合を催されたり、源氏物語学者源親行から談義を受けるなど、鎌倉にあっても京の宮廷と同じ雅な文学世界をつくりあげていかれました。『源氏物語』の書写は、宗尊親王のサロンのなかで生まれるべくして生まれたのであって、たんなる実時の好尚といったものではありませんでした。

 
 
 
 

 『源氏物語』には、藤原定家校訂の青表紙本と、源親行校訂の河内本の二つのおおきな系統があり、通常流布しているのは青表紙本。現代語訳されて私たちが手にしているのは、ほとんどがこの青表紙本によるものだそうです。けれど、紫式部が書いた原文に忠実なのは河内本。定家がみずからの見解をもって文章に手を入れたのに対し、親行はあくまでも底本に即して校訂をおこなったのです。

 実時書写の『源氏物語』は、河内本系統です。同じ宗尊親王に仕える身として親しかった親行に、じきじきに原本を借りての書写と考えられています。それが奥書にある正嘉二年(1918)。親行が長年にわたる校訂を完成させた三年後のことです。これが親行の晩年にあたることを考えると、完成後の校訂はほとんどなされていないとみて、実時の『源氏物語』は、河内本の原型をとどめる価値ある写本ということになります。
後世、徳川家康の手にわたったために、この本は『尾州家河内本源氏物語』とよばれ、現在名古屋市蓬左文庫所蔵となっています。

●称名寺境内における実時邸

 
 
 
 

 称名寺には、「称名寺絵図」という鎌倉時代末期の境内図がのこされています。そこには、阿字池を中央に据えて、三方の山と、点在する伽藍が綿密に描きこまれています。西側の、山と池にはさまれたちょっとした平場に「称名寺」と記された寝殿造りの建物があり、それが実時の邸宅でした。図中、平場には池のほうからあがる階段が描かれていますが、それは今もあって、平場の端にベンチが設けられ、腰かけて池を眺めることができます。実時も、このちょっとした高台に邸宅を建て、池の景色をみおろしていたのでしょう。実時の邸宅は、また阿弥陀堂ともいいました。そこには皆金色の阿弥陀三尊像がおさめられていたといいますから、実時も朝夕礼拝していたことでしょう。

 金沢文庫には木造立像の観音・勢至の両菩薩さまがのこされています。なよやかに腰をかがめた姿勢のこのほとけさま方は、実時の阿弥陀三尊像のうちの脇恃仏二体と考えられています。そうだとしたら、このほとけさま方の優美さから推して、三尊揃っていたときの阿弥陀堂の豪華さ、荘厳さはひとかたでなく、想像しただけでも息をのむ思いです。寝殿造りの邸内には、豪奢に襖絵を描かせた記録もあり、実時が質実剛健といわれる武将でありながらのこの京文化の摂取はなに? と、驚きを禁じ得ないのはひとり私だけでしょうか。鎌倉は武士の文化といわれて久しいのですが、京と鎌倉、その東西の地を、施政者の体質だけで文化の色分けをしてきた従来の見方に対して、異議を唱えたい今日この頃です。

 
 

 実時邸の背後にひかえる山腹には隋道がうがたれていて、ここをくぐり抜けた先の地名が文庫ヶ谷となっていますから、実時創建当時の金沢文庫はそこにあったと考えられます。実時邸の敷地は、この文庫ヶ谷を中心に膨大にひろがっていました。隋道は「称名寺絵図」にも描かれていますから、当時からあったものに間違いなく、実時もここをとおって自宅と称名寺境内を行き来したものと思われます。

●浄土式庭園

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 第三代当主貞顕は、四人の当主中ただ一人執権にまでのぼりつめた人物で、金沢北条氏に最盛期をもたらしました。貞顕は長らく六波羅探題として京に滞在しますが、そこで見聞した寺院庭園の知識を、鎌倉にもどったとき、称名寺の庭園に生かします。それが、今にのこる称名寺の浄土式庭園です。「称名寺絵図」は、貞顕の造園と伽藍整備が完成したときに描かれたものです。

 昭和のはじめ、称名寺境内はさびれきっていて、とてもここに絵図のような立派な寺院があったなど信じられない状態だったといいます。発掘調査がおこなわれた結果、苑池にかかる橋脚が発見され、絵図のとおりの橋があったことが実証されました。その後、庭園がととのえられて、朱塗りの橋も絵図のとおりに架けられ、境内は史跡に指定されるまでになりました。

●苑池取水口発掘遺構

 
 
 
 

 池の水は金堂の背後の山から引いていました。姥石とよばれる石の近くです。

●謡曲「六浦」の青葉の楓伝承

 
   

 池の縁に「青葉の楓」とよばれる木が立っていて、立札に由来が説明されています。謡曲「六浦」には、この楓の精が主人公となって登場します。称名寺を訪れた旅の僧が、一本だけ紅葉をしない楓があるのをみてふしぎに思っていると、楓の精があらわれて事情を説明します。それは・・・

 昔、一人の公卿がここを訪れ、周囲の木にさきがけて一本だけ紅葉している木をみて感心し、「いかにしてこのひともとにしぐれけむ山に先立つ庭のもみぢ葉」と詠みます。これを誇りに思った楓は、「功なり名遂げて身退くは、是天の道なり」と、以来紅葉するのをやめたのでした。公卿の名は冷泉為相。藤原定家の孫にあたる方で、『十六夜日記』作者阿仏尼の子息です。称名寺にはこのような方まで訪れていたのでした。右の写真の桜の奥に立つちいさな木がその楓です。もちろん、当時のものであるはずがなく、何代目かですが・・・

●東南の隅の鶏冠木(楓)

 
 
 
 

 「称名寺絵図」の東南の隅に、「鶏冠木」と書かれた楓の木が描かれています。「称名寺絵図」の裏には元亨三年(1323)の結界記が記されていて、この絵図が結界の儀式に用いられたことを示しています。結界の儀式をおこなうとき、東西南北それぞれの位置に、木や石や門といった目印となるものを定めますが、東南はそのなかでもポイントとなる位置で、赤い色のものを定め、それを「鶏冠をたてる」といいます。絵図に描かれた楓は、現実の場所でいうと仁王門の外になりますが、阿字池の縁の同じ東南にある写真の楓は、その子孫ではないかと、ひそかに私は思っています。元亨三年の十年後の元弘三年(1333)、鎌倉幕府は滅亡し、貞顕は子息貞将(さだゆき)ともども幕府と運命をともにしたのでした。

 

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