越谷の伝統的産業
越谷張子だるま、越谷ひな人形、越谷甲冑(かっちゅう)はいずれも、地域住民の中で受け継がれてきた工芸品を県が指定する「伝統的手工芸品」(現在、合計30品目)に指定されています。
越谷市伝統的手工芸品展(だるま、せんべい、桐たんす、桐箱、五月人形などの地場産業の展示・即売会)が、毎年、3月上旬にサンシティで開催されています。
越谷張子だるま
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越谷だるまは、今から250年前、「だる吉」という人形師によって作り始められ、武州だるまとして江戸庶民の人気を集めました。木型に和紙を張り重ね、ひとつひとつに顔を書き込んでいく手の込んだもの。なかでも、ひげ描きには穂先の長い面相筆を使い、大小にかかわらず同じ筆で描きます。鼻が高く色白で「美男」との評判が高く、越谷市内では、大袋駅の東口周辺に工房が多く、10軒の業者が年間50万個のだるまを生産しています。古くから川崎大師(川崎市)、西新井大師(東京都足立区)といった初もうででにぎわう各地の「お大師さま」、柴又帝釈天の年明け早々のだるま市で人気を集めています。
越谷五色だるま:幕末から明治にかけて、紫・白・赤・黄・緑の塗料を使った親指大のだるま5体を1組にしたものを盛んに生産していました。大日如来の5つの知恵、5つの仏を象徴して、願望やあこがれを現したものだったと考えられています。
参照文献:毎日新聞(1995/12/10)、彩の国だよりNo.314、および、越谷市だるま組合のリーフレット
読売新聞から
景気回復へ起き上がりの願いを込め、越谷市特産の「越谷だるま」づくりが、ピークを迎えている。江戸時代中期から伝えられる「越谷だるま」は、起きあがり小法師に座禅を組んだ達磨大師の姿を描いたのが始まりで、厄よけや商売繁盛など「開運だるま」として人気を集めている。1984年、県の伝統手工芸品に指定され、だるま組合(9業者)で年間約50万個を生産。関東をはじめ北海道から九州まで全国に出荷している。「越谷だるま」は、鼻が高く、上品で優しい顔立ちが特徴。
カキの殻の粉末を練り合わせたノリを、はけで木地に塗り、最後の面相描きまでの10工程はすべて手作業。中でも最も気を使うのが「ひげ入れ」。穂先が長い特注の筆で1本1本、ていねいに描く。やわらかい日差しで自然の乾燥。1個ができ上がるまで約3日。
不況で、ここ数年は、3〜6千円の福だるまが主流。
越谷ひな人形・五月人形
越谷ひな人形:今からおよそ200数十年前の安永年間(1772〜81年)に、江戸の十軒店(日本橋)で修行した越谷新町の会田佐右衛門が当地で製作を始めたのがはじまりといわれています。江戸時代にひな祭りが盛んになり、各地で郷土びなが作られましたが、中でも、「越谷段びな」、「越谷練びな」、「越谷一文びな」など越谷特有のひな人形が作られました。そのひとつ、「越谷の段びな」は、高さ15〜20センチほどの木箱の中にひな段を入れ、お内裏さま、おひなさま、五人囃子、三人仕丁などを飾ったもので、他に例のない豆人形のはしりだったとも言われています。気品にあふれた優雅な顔立ちが高く評価され、関東一円に出荷され、将軍家にも納入されたと伝えられています。その後、ひな人形を扱う店は14軒にもなり、明治時代には年間2万個以上ものひな人形を生産しました。越谷で開かれるひな市は十軒店、鴻巣とともに関東3大ひな市といわれるほどになり、越谷は生産の一大中心地となったのでした。今でも江戸時代から受け継がれてきた伝統技術は健在で、ひなの胴体、頭、手足などすべてが他の地域に依存せず越谷市内で作られています。昭和58年には県の伝統的手工芸品に指定されました。
参照文献:広報こしがや(1998/03/01)ほか
なお、越谷の隣町、さいたま市岩槻区の人形も全国的に有名ですのでご紹介します。
さいたま市岩槻区内にある卸業者は約100軒、小売業者約80軒、日本伝統工芸師の資格をもつ職人が18人。これはほかの国内の人形産地の中でもケタ外れの数字だそうです。人形の顔の生産は全国の90%を占め、小道具にいたっては100%に近い数字を誇るといわれています。部品を作るところから、売りに出されるまで、ほとんど市内でまかなわれています。「岩槻にかかわらないと人形で商売ができない」とまで言われています。その起源については諸説あり、うち、江戸時代に日光街道を通って日光東照宮の大改築事業に参加するため、全国から集まった宮大工や仏師が、市内の特産のキリを材料に作り始めたというのが定説になっています。元禄10年(1697年)、京都の仏師恵信(えいしん)が日光東照宮の修理に加わり、その帰途、病を得て岩槻の宿に逗留した折り、桐のおがくずを利用して作ったのが始まりという説もあります。江戸末期には岩槻藩の専売品となっています。とくに木目込人形は国の伝統的工芸品に認定されています。
参照文献:毎日新聞、および、彩の国だより
越谷甲冑(かっちゅう)
越谷甲冑は、江戸時代から端午の節句の飾り物として盛んに製造されました。金工、漆工、皮革工芸、組み紐の技法などあらゆる技法を集大成したもので、鮮やかな色彩、威厳のある風格など工芸品としての美しさをいまに伝えています。平成8年に県の伝統的手工芸品に指定されました。
桐たんす・桐箱
越谷は、江戸時代の初期から江戸たんすの産地として全国的に知られていました。埼玉県東部地区(越谷市・さいたま市岩槻区・春日部市・庄和町)産の江戸たんすは、加茂たんすに次いで全国2位の生産を誇ります。いまなお、木の選別、木取りから仕上げまでを一貫して生産する個別生産方式で作られています。通商産業大臣から伝統的手工芸品の指定を受けています。
江戸時代文化年間、江戸の流行作家式亭三馬が「江戸の水」という化粧水を作りました。ガラスのびんに詰められ、桐の小箱に入ったこの「江戸の水」は、ヒット商品になりました。このとき使われた桐箱のほとんどが越谷の大泊で作られたものでした。以来、170年の歴史をもち、いまもその製造技術が引き継がれています。
せんべい
江戸時代の初期の頃から越谷の農家では、家庭用に焼き米が作られていましたがこれが「越谷せんべい」のルーツといわれています。越谷でもたくさん作られていますが、せんべいと言えば草加せんべい。そこで、草加せんべいについて紹介された一文を以下に記します。
毎日新聞記事
「カラッ、カラッ、カラ、カラッ」。網の上に並べられた白いせんべいの生地が、次から次へとひっくり返される。生地が少し膨らんでくると、「押しがわら」と呼ぶ取っ手のついた陶器で押し付け、平らにする。膨らんでは押し、押してはひっくり返し……。きつね色になると、網から皿にはじき落とし、しょうゆを素早く裏表に塗る。1870(明治3)年創業の老舗(しにせ)「源兵衛」草加市神明一)の店先では、毎日こうして、せんべいが焼かれている。 せんべいの起源は古く、奈良時代までさかのぼる。当時の保存食「餅(もち」に豆やごまを入れたり、塩味をつけ、焼いて食べるようになったのが「塩せんべい」の起こりという。草加せんべいの源流である。しょうゆをつけるようになっても、「塩せんべい」の名前だけは残った。1913(大正2)年、二代目源兵衛の源次郎さんが、川越で行われた陸軍大演習の際、大正天皇に献じたのをはじめとして、展覧会や博覧会で次々と賞を受けたため、一気に「草加せんべい」の名が広まったのだという。この源次郎さん、頑固だが頼ってくる人の面倒はよく見るという典型的な職人気質。・・・中略・・・「天皇陛下に献上するから、正装に白いかたびらを着て、しめ縄を張って焼くものだと聞いたら、「そんな堅苦しいことするんなら、おらあ焼かねえ。陛下だって何だって、客は客だ」なんて言ったという逸話が残っているそうだ。
藍染めゆかた
越谷はかつて藍染めゆかたの産地でした。型付けに使うもち米の産地で、染め上げたゆかたを元荒川や綾瀬川などの清流で洗えたからだったようです。昭和30年代まで順調に生産されてきましたが、その後は衰退してしまいました。現在、市内に残る工場は1軒だけになりました。大沢香取神社の奥殿の一部に紺屋の労働作業の有様が刻まれていることや奉納者の名に江戸の染料問屋の名が多いことからもかつての隆盛がうかがえます。
参照文献:広報こしがや(1997/06/01)および大沢香取神社境内の案内板
都団扇
加藤照邦氏。あでやかな装飾品として平安朝の昔から使われた団扇(うちわ)。その流れをくむ都団扇の繊細な美しさを作り出す名人です。この伝統芸をいまに受け継ぐのは、関東でふたり。もうひとりは加藤氏の姉上。細く割いた真竹を骨に、和紙を貼り、骨一本一本の筋目を引き立たせて作られて、柄にはスギやサクラが使われます。江戸仕立 都うちわは、江戸初期小笠原弥七により始められました。京都から職人を呼び、製法を学び江戸でうちわを張り始めたのが最初です。竹は5、6年を経た真竹を、柄は杉の古木を素材に木肌の美しさを生かし、紙は上質和紙を使用して30数工程をすべて手作りで仕上げてあります。やわらかさ、美しさ、丈夫さの3つの特質を備えています。