松尾芭蕉

深川・芭蕉庵の近くの隅田川べりに座す芭蕉像
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俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドットコム
(http://www.bashouan.com/)
松尾芭蕉
正保元年(1644年)、現在の三重県上野市にて生まれる。伊賀で俳諧を学び、のちに江戸・深川の芭蕉庵に入る。江戸前期の俳人で数度の旅を通じて蕉風を確立。俳号は「はせを」と自署。元禄7年(1694年)10月12日、数え年51歳で没す。
おくのほそ道

深川・採荼庵(さいとあん)から芭蕉は、奥の細道へと出立しました。


奥州街道探訪記
さいたま市在住の佐藤様の探訪記をご紹介いたします。
芭蕉「幻の肖像」発見
蕪村も「見たい」とした品(写真、記事ともに1997/09/07 朝日新聞掲載)
江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698−1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716−1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今同見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。
同館で開かれている「芭蕉肖像展」で初公開された。
芭蕉が怒りの書簡
俳人の松尾芭蕉(1644−1694)が、弟子の酒堂(しゃどう、寛文中期−1737)にあてた書簡がこのほど、山形市内で発見された。大阪に進出して精力的に俳諧活動をする酒堂を「最近利口ぶっているのではないか。行動は慎重にせよ。私の意見を聞かないのであれば、絶交するつもりだ」と強い口調で注意する内容。芭蕉が感情を表している点で珍しいという。書簡は、1693年(元禄6年)6月20日付で、俳人の寒崖(かんがい)が描いた芭蕉の肖像画と張り合わされた掛軸の形で見つかった。山形市にある山寺芭蕉記念館の資料整備検討委員会顧問4人が鑑定し、芭蕉の直筆と断定された。芭蕉と酒堂の仲は当初、良好だったとされるが、芭蕉の葬式や、死後に芭蕉をしのんで開かれた句会に酒堂が姿を見せなかったことから、研究者の間ではその原因が長年取りざたされてきた。
松尾芭蕉の書簡
2003/12/16 日本経済新聞のコラム「窓」 より
東京、深川に住んでいた芭蕉が、弟子の林桐葉にあてた書簡の原本1通が187年ぶりに発見されたと、早稲田大学文学部教授、雲英(きら)末雄教授が15日に発表。
書簡は、縦27センチ、横80センチで、1687年に出したとみられ、都内の個人が所有していた。俳人、芳賀一晶が批判した桐葉の句を自分は評価していることなどがつづられている。
芭蕉の書簡は、約230通あるとされていて、うち、約110通の原本が発見されている。
芭蕉に関する書籍