おくのほそ道

リンクご紹介: 松尾芭蕉のことなら、こちらが、たいへん参考になります。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドットコム
(http://www.bashouan.com/)
My おくのほそ道 「芭蕉の花鳥風月の旅」 momota著
草加・越谷は、芭蕉が辿った「おくのほそ道」の入り口にあたります。

月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして行きかふ年もまた旅人なり

The months and days are the travellers of eternity. The years that come and go are also voyagers.
Donald Keene訳 The Narrow Road to Oku (講談社インターナショナル発行)より


<草加> ことし元禄(げんろく)二とせ(二年)にや、奥羽(おうう)長途(ちょうど)の行脚(あんぎゃ)、只(ただ)かりそめに思ひたちて、呉天(ごてん)に白髪の恨(うらみ)を重ぬといへ共(ども)、耳にふれていまだめ(目)に見ぬさかひ、若(もし)生(いき)て帰らばと定(さだめ)なき頼(たより)の末をかけ、其日(その日)漸(やうやう)早加(そうか)と云(いふ)宿(しゅく)にたどり着(つき)にけり。・・・

松尾芭蕉
正保元年(1644年)、現在の三重県上野市にて生まれる。伊賀で俳諧を学び、のちに江戸・深川の芭蕉庵に入る。江戸前期の俳人で数度の旅を通じて蕉風を確立。俳号は「はせを」と自署。元禄7年(1694年)10月12日、数え年51歳で没す。
芭蕉像は、草加市の松原団地駅から東に数百メートル直進して旧国道4号線(旧日光街道)に出ると、道路と綾瀬川の間に細長い散策の道「草加松原遊歩道」が整備されていますが、その南端、札場河岸公園にあります。
河合曾良(かわいそら)
奥の細道への旅に同行した芭蕉の高弟である。「おくのほそ道」で、この人を忘れてはならない。紀行文の中に散りばめられている俳句の中には、この曾良の句も多い。

剃り捨てて黒髪山に衣更
かさねとは八重撫子の名成べし
卯の花をかざしに関の晴着かな
松島や鶴に身をかれほとゝぎす
卯の花に兼房みゆる白毛かな
蚕飼する人は古代のすがた哉
湯殿山銭ふむ道の泪かな
象潟や料理何食う神祭
波こえぬ契ありてやみさごの巣
行き行きてたふれ伏とも萩の原

いずれも、曾良の句である。

ところで、曾良の名前の由来について、大胆な推測であるが、
いまから、2500〜2600年もの昔、孔子は論語を著したが、その孔子の高弟に曾人という人がいた。孔子は、13年もの間、旅の人であった。芭蕉もまたしかり。そのふたりの高弟の名に共通するのが「曾」という文字である。芭蕉はきわめて博識であったし、その彼が俳号を付けたとすれば、後世の曾良という命名は、まったくの偶然ではないような気がする。

句碑

芭蕉の、旅の最初の宿が草加宿であったのか、はたまた、越ヶ谷、粕壁の宿であったのか諸説あるようです(「おくのほそ道」には「その日やうやう早(草)加と云ふ宿にたどり着きにけり」の一節がありますが・・・)が、つぎの句が碑表に刻まれた句碑が、さいたま市の盆栽町の江原家にあるそうです。 「あけぼのやまだ朔日(ついたち)にほととぎす」 はせを  同家が越谷に住んでいたころ、隣家が奈良屋という大きな呉服商で、その庭にあったものが、何かの縁で江原家に伝えられて、数代前に同家の移転とともに大宮の地に移ったのだそうです。芭蕉が奥の細道の途次、奈良屋へ泊まって書いたものを碑に彫ったものだといわれている句碑です。
芭蕉に同行した曾良の「曾良旅日記」(昭和18年に発見された)によると 二十七日夜、カスカベに泊まる。江戸ヨリ九里余。 とあるそうです。宿泊したのは、粕壁の東陽寺、または、小渕の観音院というふたつの言い伝えがあるそうです。次の日は栗橋の関を越えて陸奥へと向かったのでした。「曾良旅日記」二十八日、・・・此日栗橋ノ関所通ル。
越谷からさいたま市へ通じる街道(少し先に行くと旧大門宿の本陣跡があります。)に面したところにある西教院(越谷市西新井)の鐘楼の下には、「道ばたの木槿(むくげ)は馬に喰れけり」という句を刻した碑が残っています。

なお、道ばたと道のべの違いがありますが、「野ざらし紀行」の折り、大井川を越えてからの作、馬上吟「道のべの木槿は馬にくはれけり」という句もあるそうです。なお、近くでは杉戸町の浅間山、庄和町の不動堂にも芭蕉の句碑があるそうです。
さきたま双書 芭蕉句碑を歩く(小林甲子男)、および、山本健吉俳句読本から

「おくのほそ道」自筆本確認の新聞記事いろいろ

朝日新聞の記事から
芭蕉自筆の「おくのほそ道」 書き癖の誤字で確認 大阪の古書店主所蔵

 漂泊の旅に生きた江戸前期の俳人、松尾芭蕉(1644−94)の代表的な紀行文
として知られる「おくのほそ道」の自筆本が確認されたと、25日、芭蕉研究者の櫻井武
次郎・神戸親和女子大学教授らが発表した。これまでは、自筆原稿を弟子が清書した
ものなどしか伝わっていなかった。74カ所もの推敲(すいこう)の跡があり、芭蕉
研究の貴重な手掛かりとなりそうだ。
 櫻井さんと上野洋三・大阪女子大学教授によると、この自筆本は大阪市中央区淡路
町の古書店「中尾松泉堂書店」の店主中尾堅一郎さん(72)が所蔵している。上質
の紙32帖(じょう)64ページに書かれており、縦166ミリ、横171ミリの小
型横長本。
 6年前にこの本を見せられた櫻井さんが芭蕉の筆跡に似ているのに気付き、昨年か
ら本格的に調査していた。自筆の「野ざらし紀行」や手紙など455点と比べて、
「涯」や「死」など、芭蕉の書き癖の誤字約10種類を確認し、「99%の確率で自
筆本」と断定した。
 現在流布している「曽良本」と比較したところ、自筆本の「葦を刈」が曽良本では
「草を刈」とされているなど、写し間違いとみられる個所が8カ所確認された。自筆
本の題名は「おくの細道」となっている。自筆本は、芭蕉の死後50回忌まで門弟が
持っていたことがわかっているが、その後行方がわからなくなっていた。
 推敲の個所には、10数行にもわたって紙を張り、書き直した部分もあった。これ
は、NHKが協力した映像処理で解読した。
 本が入っていた袋には「有國」という名前が記されていた。櫻井さんらは「天保時
代から幕末に近い時期に所持されていたものとみて、当時の公家や上級武士の俳号を
調べたが、『有國』は見当たらなかった」と話している。
 中尾さんは、大阪市近郊の古書業者から15年ほど前に入手した。それ以前の流通
経路については手掛かりがない。
 現在流布している「おくのほそ道」には、福井県敦賀市の西村家に伝わる「西村本」と、
芭蕉の旅に同行した弟子の曽良が書き写した「曽良本」の2系統がある。西村本は、
芭蕉が弟子で書家だった素龍に命じて自筆原本から写させ、実兄に献じたものとされ
る。この写本が高弟の去来に譲られ、芭蕉の死後、木版刷りになって世に広まった。
 中尾さんは自筆本を大阪市立博物館に寄託するという。

 ○成立の過程明らかに
 芭蕉研究家の尾形仂・前成城大教授(近世文学)の話 直筆本のコピーを見たが、
はり紙をして書き直しをした跡が74カ所もあった。芭蕉がそれだけ推敲を重ねてい
たわけで、これによりおくのほそ道の成立過程が明らかになる。また、これまでは書家の
素龍が清書したものが決定稿とされていたが、今回の直筆本と素龍本を比べてみると
、素龍の写し間違いと思われる個所がある。今後の研究によっては、段落や字句の訂
正の可能性も出てくる。

 <おくのほそ道> 1689年(元禄2年)、当時46歳の松尾芭蕉が門人の曽良を伴
い、関東、奥羽、北陸の各地を巡り歩いた俳諧紀行。江戸・深川を3月末に出発して
歌まくら、名所旧跡を訪ねながら美濃大垣(岐阜県大垣市)に至る。さらに伊勢の遷
宮を拝むために出発するまでの約6カ月間の行程をつづっている。推敲を加えて没後
8年たった1702年に出版された。


朝日新聞の記事から
震災のガレキに芭蕉よみがえり 松尾芭蕉の「おくのほそ道」自筆本確認

 松尾芭蕉の自筆とみられる「おくのほそ道」は、阪神大震災で被災した古書店主が半壊
した自宅から持ち出した。幻の存在とされた自筆本と確定すれば、近世文学史上の
「大発見」。弟子の手に渡ったことが知られながら、没後300年余の歳月をへて、
ようやく日の目をみた。だが、その軌跡はいまなお謎(なぞ)として残る。発見され
た本には、上から紙を張って書き直した推敲(すいこう)の跡が70数カ所もあった。
漂泊の旅に生きた「俳聖」の創作過程を解き明かすものと、研究者らの期待は高まっ
ている。

 大阪市中央区で古書店「中尾松泉堂書店」を経営する中尾堅一郎さん(72)=兵
庫県芦屋市=は、15年ほど前に、大阪府内の古書業者の仲介でこの本を入手した。
古書業者は5年ほど前に亡くなったため、それまでどこでだれに保管されていたかは
分からない、という。
 中尾さんは当初、本物とは思わず、保管場所も木造2階建ての自宅のたんすの中だ
った。昨年1月の阪神大震災で、自宅は半壊。たんすは倒れ、その上に土壁が崩れ落
ちた。震災翌日、車で家財道具を取りに戻った際、崩れた土壁の中からこの本を探し
出した。
 今回、あらためて鑑定に回したのも、もし本物で大震災で失われていたら、大変な
ことになっていた、という気持ちもあった。
 見つかった本には74カ所に張り紙がされ、上書きされている。張り紙は、長い所
では10数行にわたった。うち7カ所では二重の張り紙をして二度書き換えてあり、
紙を削って訂正したところもあった。
 芭蕉ら一行が笠嶋(現在の宮城県名取市)にいた部分は、写本などでは「笠嶋はい
つこさ月のぬかり道」という芭蕉の一句があるだけ。しかし、今回見つかった本の張
り紙の下には、「又狂歌して曽良に戯ぶる」という文句が続き、「旧あとのいかに降
りけむ五月雨の名にもある哉みのわ笠嶋」という狂歌も記してあった。「これまで、
おくのほそ道には、狂歌は1カ所もなかった。最初の構想では狂歌も取り入れていたわけ
で、貴重な発見になる」と上野洋三・大阪女子大学教授は説明する。
 真贋(しんがん)の決め手となったのは、「当時でさえ一般的でない、芭蕉の不思
議な文字の癖」(上野教授)だった。
 上野教授によると、芭蕉の特徴的な筆跡は約10種類に達するという。「死」の字
を略したりする癖が、それ以前に芭蕉自身が書いた「野ざらし紀行」や手紙などにあ
らわれている。
 「おくのほそ道」の自筆本は、芭蕉の50回忌(1743年)まではその所在がはっき
りしていた。「蕉門十哲」に数えられる俳人の野坡(やば)から、さらにその高弟に
渡ったとされる。深川の芭蕉庵をしばしば訪ねて師事したが、芭蕉の死後、大阪に移
住し、各地を行脚して関西に一大勢力を築いたという。
 大阪で営まれた50回忌の法要に、この野坡が持っていた自筆本が供えられたとさ
れ、研究者は「自筆本が関西で見つかったことと、つじつまが合う話だ」という。


朝日新聞社の記事から
推敲の人・松尾芭蕉(天声人語)

 250年間も行方がわからなかった、芭蕉自筆とみられる『おくのほそ道』が見つかっ
た。74カ所もの推敲(すいこう)の跡があると聞いて、さっそく資料を取り寄せて
みた
▼〈月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして行(ゆき)かふ年も又(また)
 旅人也(なり)〉で始まる書き出しの文章の、最初の1行からもう修正が施されて
 いる。〈にして行かふ〉の部分が、それだ。元は〈にして立帰〉だった。〈月日は
 百代の過客にして立帰年も又旅人也〉が、芭蕉がそもそも記した文ということにな
 る
▼〈行かふ〉の方の現代語訳は、〈月日は永遠の旅人であり、来ては去り去っては来
 る年々も、また同じように旅するものである=『古典日本文学全集・松尾芭蕉集』
 筑摩書房〉。これが「行き交う」でなく「立ち帰る」だとすると、文意も、ひいて
 は思想も微妙に異なる。どちらがいいのか、素人にはにわかに判断がつかないが、
 文章というものの奥の深さ、恐ろしさを感じずにはいられない
▼原文の上に紙片を張り、推敲した結果が書かれている。芭蕉にはきわめて珍しい狂
 歌も、文章を練る過程で削られたことがわかる。推敲の跡が見える最後は、旅も終
 わりに近い敦賀・色浜(いろがはま)(原文では種(いろ)の浜)のくだり。浜で
 拾おうとした貝の名前が、書き添えられた。『おくのほそ道』は推敲に推敲を重ねて完
 成した
▼芭蕉は推敲の人だった。死を間近にして〈旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(め
 ぐ)る〉としたためた。それから弟子の支考を呼び、聞いた。〈なをかけ廻る夢心〉
 とどちらがよいか、と。支考は〈旅に病で〉が結構ですと答えた。こうして、いま
 に伝えられる辞世の句が定まった
▼このとき、もし支考が〈なをかけ廻る夢心〉の方がいいです、と答えたとする。す
 ると初めの五字が違ってくる。〈旅に病で〉は季語を含んでいないからだ。推敲す
 る芭蕉の頭に、どんな5字があったのだろう。こちらは、永遠のなぞである。


朝日新聞社の記事から
6代目弟子・浦井有國が一時期所有 「おくのほそ道」芭蕉自筆本

 俳人松尾芭蕉の「おくのほそ道」自筆本が250余年ぶりに大阪市内で発見されたが、
鑑定した櫻井武次郎・神戸親和女子大学教授は、包み紙の署名の字体などから、この
本を一時期所持していたのは、江戸後期の京都の俳人、浦井有國(うらい・ありくに、
1780―1858)であると断定した。有國は、芭蕉から数えて六代目の弟子筋に
当たり、「短冊天狗(てんぐ)」と呼ばれたほどの収集家。自筆本である確度がさら
に高まった。

 この自筆本は、芭蕉の50回忌の法要が1743年に大阪で営まれたとき、「蕉門
十哲」に数えられる志太(志田)野坡(しだ・やば)の高弟によって供えられたこと
が分かっている。しかし、それ以後、1981年ごろに、大阪市中央区の古書店主、
中尾堅一郎さんが大阪府内の古書業者の仲介で入手するまで行方不明だった。
 空白の250年を埋める唯一の手掛かりとされていたのが、本を包む和紙に書かれ
た「予が所蔵となりし時迄(まで)入有(いれあり)し紙文庫 有國記之(これをし
るす)」という一文。朝日新聞社にも、岡山県久世町文化財保護審議会委員の加藤浩
さんらから、「浦井有國のことではないか」といった様々な情報が寄せられた。
 「日本系譜綜覧(そうらん)」(1936年刊)などによると、浦井有國は、芭蕉
の高弟宝井其角の系譜を引く俳人で、刀剣の柄糸(つかいと)商だった。与謝蕪村と
同世代の俳人望月宋屋の孫弟子に当たる入江斗雪の弟子という。「国書人名辞典」
(岩波書店)には、「書肆(しょし)業も兼ねたが、古人の短冊を蒐集(しゅうしゅ
う)して『短冊天狗』と評された」とある。
 櫻井教授は「有國の短冊集『眺望集』にある署名の字体と、包み紙の字体とがピッ
タリ一致した。有國は書や短冊の収集家であり、丁寧な装丁も彼が施したのでしょう」
と話している。

 ■芭蕉と浦井有國との関係
        松尾芭蕉
 ……………〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
  :   〓     〓     〓
    河合曽良  志太野坡  宝井其角
    (同右)  (同右)  (蕉門十哲の一人)
                  〓
 ……………〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
  :      〓        〓
                早野巴人
 ……………〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
  :   〓      〓      〓
           望月宋屋   与謝蕪村
             〓
    ……………〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓……………
     :   〓       〓      :
               三宅嘯山
   …………………………〓〓〓〓〓〓〓〓……………
     :       〓       :
           入江斗雪
             〓
           浦井有國
 ※「日本系譜綜覧」(改造社、1936年刊)から


朝日新聞社の記事から
中尾堅一郎さん 「おくのほそ道」自筆本を所蔵していた古書店主(ひと)

 250年余ぶりに発見された松尾芭蕉の「おくのほそ道」自筆本。報道された日に、
8万5千円で売り出した中尾松泉堂書店刊の複製本120部は、1日で完売した。
 「反響の大きさにびっくりしました。普通、複製本は半年はかかるのですが」
 自筆本との出あいは40年前。同業者から持ち込まれたが、学者が写本と断じたの
で返した。15年前、その同業者から、店に掛けてあった江戸時代の茶人の掛け軸を
求められ、「それなら」と、本と交換した。二人の研究者に見せたら鑑定はやはり
「写本」。芭蕉にしては字が細いと言われた。それでも、あえて手元に置き続けた。
 「実は芭蕉は三度目の正直だったんです」
 一度目は持ち込まれた巻物が本物と分からず、安く売ってしまった。二度目は写真
で見せられた本物の「野ざらし紀行」を見送った。
 芭蕉は、「おくのほそ道」の書簡や短冊など2、30点扱ってきたが、「にせものばか
りでしてん」と苦笑する。
 「死んだおやじの因縁を感じます。芭蕉の生地、三重県上野市から大阪に来て古書
店を始めたおやじが、芭蕉の本を引きとめてくれた」
 自筆本は大阪市立博物館に寄託する。
 「おやじならば上野市の芭蕉翁記念館に預けたでしょう。わたしは船場に生まれ、
船場で育ち、大阪が大好き。大阪のこととなれば、目がないんです」
 同書店の出版物は「近世文芸叢刊(そうかん)」「上方芸文叢刊」シリーズなど大
阪ものばかり。大阪文芸の研究冊子「混沌(こんとん)」を年に1回ほど編集・発行
し、漢学者の白川静さんもメンバーの「文字文化研究所」の漢籍勉強会に通う。
 自筆本にたどりついたのは偶然だけではないようだ。


朝日新聞社の記事から
松尾芭蕉自筆とみられる「おくのほそ道」複製本完成

 ▽大阪市内で見つかった松尾芭蕉の自筆とみられる「おくのほそ道」の複製本=写真=
が完成し、5日、発行元の中尾松泉堂が、芭蕉の生誕地の三重県上野市に届けた。6
日から芭蕉翁記念館に展示される。
 ▽複製は縦15センチ、横17センチ。34枚、68ページ。高級和紙にコロタイ
プ印刷し、74カ所の推敲(すいこう)部分を張り紙した跡もくっきり見えるなど、
自筆本に限りなく近い。限定120部で即日完売という人気ぶりとか。
 ▽「上野は芭蕉ゆかりの地。祖父らが伊賀出身でもあり、真っ先にお届けしました」
と中尾松泉堂の中尾重宏常務(34)。山本茂貴館長は「展示して市民に見ていただ
く。それが、芭蕉顕彰につながります」。


朝日新聞社の記事から
写本の系譜見直しへ 芭蕉の自筆本「おくのほそ道」発見

 松尾芭蕉の紀行文「おくのほそ道」の自筆本が250余年ぶりに大阪の古書店で見つか
ったことで、芭蕉研究に新たな1ページが加わることになった。とりわけ、芭蕉のテ
キストの系譜が見直され、筆跡判定の範囲が広がることになる。

 「おくのほそ道」は従来、自筆本がみつからないまま、3つの代表的な写本が知られて
いた。
 (1)芭蕉の草稿本から、旅に同行した弟子の曽良(そら)が書き写したとされ、
    天理大学付属図書館(奈良県天理市)が所蔵する「曽良本」(重要文化財)
 (2)芭蕉の成稿本を弟子で能書家の素龍(そりゅう)が清書し、福井県敦賀市の
    西村氏宅で戦前に確認された「西村本」(同)
 (3)同じように素龍が写し、柿衛(かきもり)文庫(兵庫県伊丹市)が所蔵する
   「柿衛本」である。
 ところが近年、芭蕉の自筆本から書き写された曽良本に芭蕉自身がさらに書き込み、
それを素龍が清書したものが西村本、柿衛本であるとする説が有力になっていた。
 今回、自筆本と判定した上野洋三・大阪女子大学教授は、自筆本の発見により、こ
の新説が補強されたとみる。例えば、自筆本の「葦(あし)を刈」を曽良本では「草
を刈」と筆写しているが、この誤写はそのまま西村本、柿衛本にも見られる。また、
判定の過程で、曽良本を書写したのは、芭蕉の高弟野坡(やば)と親しい俳人利牛で
あることも分かったという。
 鑑定者のひとりで、やはり新説を推す櫻井武次郎・神戸親和女子大学教授は「自筆
本と対比することで、曽良本の読みにくい字がはっきりした。芭蕉は曽良本に朱墨で
一度、黒墨で二度書き込みしているが、先の書き込みが柿衛本に、後の書き込みが西
村本にそれぞれ反映されたと見られる」と話している。
 芭蕉の筆遣いについて、上野教授は、芭蕉が「おくのほそ道」を清書した時期は体力的
な衰えが見られ、何日もかけたこともあって、筆致にむらがあるという。「当時とし
ては特に上手とはいえないが、人格とか心のすがすがしさがうかがえる、気持ちのい
い筆跡です」
 「おくのほそ道」は唯一の長文の自筆なので、多くの字体が含まれている。これを参考
にすれば、芭蕉の筆跡を判定するときの範囲が従来よりも広がり、より正確に判断で
きるようになるだろうと、上野教授はみる。
 また、「おくのほそ道」と同じ木箱には、俳文「幻住庵記(げんじゅうあんき)」の草
稿と連句「市中(まちなか)歌仙」も入っていた。上野教授によると、正式な鑑定は
まだ行っていないが、写真やコピーで見る限りでは芭蕉の筆跡らしいという。
 「幻住庵記」は、「芭蕉七部集」のひとつの俳文集「猿蓑(さるみの)」に収めら
れている、4百字詰め原稿用紙換算で5枚程度の文章。これまでに芭蕉自筆の稿本が
数種類確認されており、今回見つかったのは最初期にあたると見られる。「市中歌仙」
は、「猿蓑」に収められている、芭蕉が加わった連句三十六句。同じ木箱には七部集
のなかの俳諧集「冬の日」もあったが、上野教授は「芭蕉筆とするには疑問がある」
としている。
 専門家だけでなく、民間の研究家の間でも反響は大きい。岩波書店が来年1月に刊
行する普及版『芭蕉自筆おくのほそ道』は、初刷り最大限の3万部を超える予約が集まり、
早々と増刷が決まったほどだ。
 神戸市東灘区の民間の研究家、林田一雄さんは、「おくのほそ道」の複製本をさっそく
取り寄せた一人。「芭蕉の筆にはどこか風格がある。これからの研究が楽しみです」
と期待を寄せている。