夜の旅行者

relay  1997.11.09-1997.12.20

  人間は孤独じゃないなんていうけれど、確かにそれを感じることがある。
  例えば、こうやって深夜に近いプラットホームにひとり佇んでいる時がそうだ。本線からはかなり隔たった小さな駅なので、次の電車を待つ人の姿はいつも少ない。今日のように自分ひとりになってしまうということもあるわけだ。
  とりわけ、この時間帯になると上り電車はもう終わってしまっているので、ぼくの立っているプラットホーム以外は蛍光燈さえすべて消えてしまっている。改札口の横にある駅員室には人影がさきほどまで見えていたんだけど、今は白いカーテンが引かれてしまっていて中に誰かがいるのかは判らない。煙草に火をつけるためにホームのいちばん端に移動しているので、なおさらだ。
  電車がやってくるまでまだ30分以上の時間がある。運悪くこの前の電車に乗り遅れてしまったのだ。ぼくが時計を気にしているのを知っていながら、定時を過ぎてから無理な仕事を押し付けた上司の顔がちらりと頭をかすめたけれど、すぐさま忘れてしまうことにした。小さな会社で人手がないのだから、無理からぬところだってあるのだ。いちいち逆らってみても仕方ない。
  ぼくはホームにある冷え切ったベンチに腰を下ろし、何本目かの煙草に火をつけた。冬に近い季節に吹きさらしの場所にあとしばらくいなければならないことを考えると気が重くなった。

  と、その時、向かいのホームに誰かが歩いているのが見えた。駅員ではない。蛍光燈が消された暗いホームを歩いているのは、服装からしてどうやら女性らしい。重そうなスーツケースを引っ張って歩いている。思わずぼくは声を出していた。
「あの、上り電車はもうありませんよ」
  女性もこちらに気づいたようで、立ち止まってこう言った。
「そうみたいですね。時刻表を読み間違えたみたい。下りの方はまだ大丈夫なのかしら」
  大丈夫だと返事をすると、女性はこちらに渡って来ると言った。
  エスカレーターも止まっているので、スーツケースを運ぶのを手伝おうかとぼくが言うと女性は悪びれずに礼を言った。
  結局スーツケースはぼくがひとりで運ぶことになったのだが、意外に重くはなかった。ほとんどケースそのものの重量しかないようにも思われる。まるで、今買ってきたかのような真新しいスカーレット色のケースだった。ぼくが問い掛けるように視線を向けると、女性は細面の美しい顔になぞめいた微笑を浮かべてこう言った。
「中身は何も入ってないのよ。これから死体をつめるんだから」
1997/11/09 11:51 by 書庫の彷徨人)
  勿論ぼくは冗談だと思った。新品のものを持つときの何ともいえないてれくささ、あるいは何も荷物の入っていないスーツケースを持つことへの変な言い訳… そんなものだろう。どう答えようか。「死体って結構手に入れるのは難しいんですよ」「つめるのはいいけど、その後重くて運ぶの大変だと思いますよ」とか。でも、どれもパッとしないなあ。
 しかし、彼女はまだ言葉を続けた。「最高の夜です。月はなく、深い闇と冷たい風が世の境をつくりだす。そこへ怪しいものたちとこの世から離れるものたちがさまよい出る。そして私はそのひとかけらをつまむ。それにはこれがいいんです。この血塗られた緋色のケースこそ、かれらの次のすみかです」
 ぼくは唖然としながら、彼女の顔を凝視した。侘びしい駅の闇を背景に薄暗い蛍光灯の明かりが彼女の美しい顔に深い陰影を与えていた。その顔はぼくが自分の人生でみた最も奇妙な印象を与える顔であった。そして彼女の瞳は清明な知性を物語っていた。彼女は本当のことをしゃべっている。
 しかし、死体を運ぶもの… ! ぼくは死神というものを思いつき、体中に鳥肌が立った。そうだ、死神というのはこうして唐突に来るのではないのだろうか…… そして、ぼくが死体に? いや、よく考えろ。このスーツケースはぼくが入れるほどの大きさでない。ではどこに死人が?
 もうぼくには彼女がこの世のものではないことは確信になっていた。ぼくにはこの不思議な笑みを浮かべながらぼくをみつめるものと居ることが耐え難い時間となっていた。逃げ出したい。早く逃げ出したい。しかし、ぼくの全身は硬直したように動かない。 
 何か、誰か来てくれないか。このままでは堪えられない。ほんの1、2分だっただろうが僕には永劫に感じられる時間だった。
 そのとき静寂を破る小さな足音がした。ぼくにはその足音こそ救いの鐘の音のように脳裏に響いてきた。ぼくは呪縛が解け、後ろを振り向いた。暗い階段に白い靴下をはいた小さな足がまず見えた。子供?こんな夜中に? 階段を下りてくるにつれ、全身が見えてきた。黒い半ズボンに、白いシャツ、おかっぱの頭、小学校高学年の男の子のようだった。しかし、違う。何かが違う。あまりにも青白い顔には表情が全く無く、目は何もみつめていない。手足の肌は乾ききっていて生気というものがない。そして、手足の動きには自然さが無く、操り人形のようだ。そう、彼はこの世に生きて
いるものではない。死人… 彼は死人だ。
1997/11/10 21:44  by ゆのひら)
 いや、それもおそらくはぼくの気の迷いのせいだろう。「死体」とか「血塗られた」などというおよそ日常性から乖離した言葉に怯え凍える心が見せたイリュージョン。跨線橋の降り口にある蛍光灯が息も絶えだえに暗い光しか放つことができなかったのも理由のひとつかもしれない。
 実際、近づくにしたがい少年の顔には仄かな赤みがさし、唇の朱色がひときわ目立つようになってきたのだ。脚をかすかに引きずっている。最初動作がぎこちなく見えたのは、脚に怪我でもしているからなのだろう。ぼくはなんとなくほっとした。
 少年はぼくたちのそばまで来ると、女性に問いかけた。
「この方がぼくの新しいお父さんなのですか」
 なんとも子供らしい無邪気さ。彼女はなんと答えるのだろうと思っていると、長い髪が白々とした光のなかで揺らいだ。ぼくはまた奇妙な感覚にとらわれた。彼女の顔が頷くように振られるのと、否定するように横に振られるのがオーバーラップして見えたからだ。
 思わず目を閉じて頬を叩く。しっかりしろ。酒も入ってないのに。連日のオーバーワークが重なって視神経でもやられてしまったのだろうか。そのとき頭上でなにものかの羽ばたきが聞こえた。
 見上げると梁に烏が一羽舞い降りようとしているところだ。烏は梁に降り立つと向き直ってぼくを見下ろしてきた。ぞっとするような赤い目。おそらくは光の反射のなせるいたずらなのだろうが……。
 目を転じると少年はいつしか姿を消している。緋色のスーツケースの横で女性は腕時計を気にしている。
「まもなく蒼列車が来るわ。私はそれで旅立たねばなりません」
 蒼列車? なんだ、それは? 聞いたこともない……。第一時刻表にも載ってないではないか。
 そんな言葉が口から出かかった刹那、甲蟹(カブトガニ)を思わせるような見たこともない奇妙なフォルムの機関車が客車を率いてホームに滑り込んできた。ホームの光で照らし出された車体は蒼穹を思わせる見事なまでのスカイブルー。客室の窓にはまばらに乗客の顔が貼りつき、ぼくたちの前を通りすぎるたびに黙礼するかのように頭を下げていく。
 ぼくは突然夜空が坤輿(こんよ)となり地上が穹窿(きゅうりょう)となったような錯覚に襲われた。鮮やかなまでの天地の逆転トリック。窓から覗く乗客たちはさながら大地に墜ちゆく天使というところか。
 彼女は吸い込まれるように列車に乗り込むと、振り向いてぼくに婉然と微笑みかけた。
「それでは紫門さん、ご機嫌よう」
「え、どうしてぼくの名を?」
「あなたとは、いずれふたたび相見えることができるでしょう。あなたが本来の名に気づいたときに。覚醒のときは近いのです」
「ぼく本来の名? 覚醒? いったいなんのことなんです?」
 非情にも扉はふたりの空間を切り裂き、蒼列車は音もなく発進した。ぼくはなす術もなく列車が闇に溶け込んでいくのを見守るのみ。
 反対方向から電車の音がした。闇の底に光の列をのたうたせていつもの終電車が近づいてくる。ホームに落としたぼくの視線に鮮やかな緋色が絡みつく。スーツケースだ。忘れたのだろうか? それともわざと残していった……?
 持ち上げるとずっしりと重かった。
(1997/11/16 17:06 by ふーまー)
 ホームに滑り込んできた最終電車はいつもと何も変わらなかった。降りる人影はなく、ぼくの他に乗る者もない。
 発車を知らせる笛が鳴り、ぼくは慌てて飛び乗った。背後でドアが閉まる。
 窓の外のホームの光がゆっくりと遠ざかっていく。ぼくはボックス席のひとつの窓際に座った。ぽつりぽつりと遠くを街灯が通り過ぎる。
 緋色のスーツケースはどうしたかって? 勿論、持ってきてしまった。ぼくの向かいの灰色の座席の上に置いてある。これはぼくが持って行くべきだという奇妙な確信があったからだ。
 彼女は一体、何者なのか。あの少年は。「蒼列車」は。そして、このケースの中身は。
 最初に運んだ時は確かに軽かった。中に何かが入っているとは思えないほどに。でも彼女はスーツケースを開けたりはしていない。いったい、いつ、何が……。
「次はー……」
 考え込んでいたぼくは、駅を知らせるアナウンスで我に帰った。やめよう。考えても仕方がない。いや、考えない方がいいことなのかも知れない。
 肘掛けに肘を突き、またぼんやりと窓の外を見る。電車が駅に近づいて減速し出したのが判った。少し眠ることにして目を閉じる。ぼくの降りる駅はまだまだ先なのだから。
……本当の名に気づいた時に……
……覚醒の日は……
(緋色のスーツケースが…闇の……死体)

 がくん、という衝撃でぼくは目を覚ました。
(1997/11/17 21:45 by ぐり)
慌てて窓の外を見ると、闇の中にぼんやりと浮かび上がる建物も
夜空に輝くネオンも知らないものばかりだった。
乗り越したことに気づいたぼくが立ち上がるのと同時に無情にも扉は閉まった。
再び電車が鈍重に動きはじめると、ぼくは大きな溜息をもらし座席に座りなおした。
辺りを見回すと、乗客はぼく一人だけのようだった。
ぼくと緋色のスーツケースだけだ。
タクシーで帰れるほどの所持金があったかを、車内を映す窓を見ながらぼんやりと考えた。 

緋色のスーツケースと共に薄暗いホームに降り立った。 
かなり乗り越してしまったようだ。
沿線にこんな駅があったことすら知らない。
酒を飲んでもいないのに馬鹿なことをしたものだ。
よぽど疲れているのかもしれない。
スーツケースを持ち直すと、腕にずっしりとその重みを感じた。
考えずにはいられない、…中身は何か…。
『これから死体をつめるんだから』
彼女の言葉が頭に響く。だが本当に死体が入っているはずはない。
このスーツケースは一度も開いていないのだから…。
開けずに何を入れられるというのだろう?しかし確かに中身はある。
ぼくは緋色のスーツケースに目を落とした。
どうして、ぼくが持っていくものだと思ったのだろう。
彼女はこれをぼくに渡すために現れたと思うのは間違いだろうか?
…開けてみよう…。
ぼくは決心をして、ホームの椅子にスーツケースをおいた。
ゴクリと唾を飲み込み、それを開けようとした瞬間、ポンと肩を叩かれた。
「お客さん、もう電車はないよ」
振り返ると迷惑そうな表情を隠しもしないで駅員が立っていた。
ホームに他の客の姿はなく、駅員の顔は早く出てっていてくれと露骨に言っている。
溜息を一つして、再びスーツケースを持ち上げる。
改札に向かうぼくを、駅員が目で追っていることに気が付いた。
ぼくはとても不似合いな色のスーツケースを持っている。
駅員はどう思っただろう、借り物?盗品?…どうでもいいことだ…。
中身を見られなかったことが、良かったのか悪かったのか…。
今のぼくには分からない。
ただ、少しホっとした気分がないといえば嘘になるだろう。
改札を出ると、どこか見覚えのあるようなネオン街が目の前に広がっていた。
(1997/11/20 00:38 by にと)
 一度も降り立ったことのない街であるはずなのに、不思議と懐かしさを覚える。視界に入るあの看板もこのネオンも、使われれている字体が妙に古めかしい。なんだか昭和初期か大正末期の広告でよく見かけるような書体なのだ。それでいて看板やネオンが古びているかというとそうでもない。近づいてみると、つい最近作られたものであるかのようによく磨き込まれているのがわかる。ひょっとするとここはレトロな味を出すように再開発された街なんだろうか? ぼくは駅前にしばらく佇んでいるうちに、なんだかこの街をよく見知っているような気になってきた。ぼくはこの街でむかし暮らしていたことがある。あの路地もあの道もかって歩いたことがある。なんてね。これ、デジャブというやつなのかなあ。
 知らないうちに目の前にタクシーが停まっていた。このタクシーがまた見事にレトロなのだ。ずんぐりした黒塗りのボディで屋根が高い。その屋根も変に丸みを帯びている。車名も年式もぼくにはまったく見当もつかない。けっこうカー雑誌なんかは読むほうなんだけれども。もしかしたらこのボディも街おこしのための特注品なのかも。
 ぎいっという愛嬌のある悲鳴を上げて客室のドアがぼくを誘うかのように開いた。こうなると乗り込まないわけにはいかない。さっき確認した財布の中身は乏しかったけれど、まさかこのまま駅前で夜を明かすなんてことは、二十代も終わりに近づいたこのぼくにできるはずもないのだ。ましてや冬も近いというのに。
 ぼくが乗り込んで行き先を告げると運転手がほっとしたようにため息をついた。
「ああ、よかったあ。あたしの家への帰り道ですよ。ほんとあたしはついてるよ。もう帰ろうかと思ってた矢先、おンなじトコに住んでる人に乗ってもらえて」
 ルームミラーに映った運転手の目元には人の良さそうな笑みが浮かんでいた。それで、ぼくは正直に所持金の額を告げる気になった。運転手に足りるでしょうかと尋ねると、一瞬気むずかしげに眉間に皺を寄せたが、すぐに人なつっこい笑みに戻った。
「ちょっと足りませんが、いいでしょう! 乗りかかった船、いや乗せてしまった客だ。所持金ちょうどのところでメーターを止めますよ。あとはサービスってことにしときましょう」
「ありがとうございます!」
「でもね、お客さん」
「はい?」なんだろう?
「会社には内緒にしといてくださいね。営業所へのお礼の菓子折なんかもなし! 持ってくるならあたしの家のほうへ頼んます」
 ぼくは思わず吹き出してしまった。本当にいい運転手に巡りあえてよかった。ほっとすると再び睡魔が襲いかかってきた。ぼくはスーツケースを抱きかかえるようにシートに横になった。

「お客さん。お客さん」
 その声にぼくは揺り起こされた。運転手の声なんだろうか。それにしてはトーンが違う。低音のきいた腹にずっしりと響くような声だ。窓を見ると、どの窓も外からすっぽりと暗幕を掛けられたように闇で塗り込められている。タクシーの走行音はもはやしていない。
「うん? 着いたのですか?」
 寝ぼけ眼で尋ねると、運転手は前を向いたまま肩を震わせて笑った。
「ああ、着きましたよ。ただしあんたのアパートの前ではないがね」
「え、ここはどこなんです? なぜなにも見えないんです!?」
 ガタンと音がしてなにかが足下に落ちてきた。運転席のヘッドレスト。運転手が思い切り頭をのけぞらせて、上下逆さまの顔をぼくに向けてきたのだ。人の良さそうな笑みはそこにはもはやない。
「ここはあんたの墓場だよ。紫門さん」
 なぜだ? なぜこの男もぼくの名を知っているのだ?
 突如運転手の唇の両端に亀裂が走り、口が大きく裂けた。赤黒い歯茎がむき出しになり歯がぼろぼろと落ちた。その歯茎に見る見る犬歯が生え揃っていく。舌が大きく膨らみ、その先端が鋭角に尖ってにょろにょろと延びていく。ぽんという音とともに眼窩から飛び出した眼球が、一瞬ぼくめがけてぶつかってきそうになったが、眼球に付着した筋肉繊維だか神経繊維だかにひっぱられて失速し、そのまま眼窩からだらしなくぶら下がる。眼窩からおびただしい体液がごぼごぼと溢れ出してきた。茶色い透明な液体が垂れ下がった眼球を包み込みながら床にこぼれていく。体液の臭いなのだろうか、我慢できないほどの腐臭が車内を満たした。
 目が痛い。鼻が痛い。そして喉の痛みをも急激に感じた。おそらくぼくはこの一連の出来事を悲鳴をあげながら見ていたのだろう。しかしこのときまでぼくの頭のなかはまっ白になっていて、自分の悲鳴さえ聞こえてはいなかったのだ。ともかくもぼくはドアを求めて腰を浮かせかけた。シートベルトがぼくの腰に絡みつき、次の一瞬バックルがかけられた。ぼくはバックルに手をかけたが、どうしたってはずれようとしない。
「逃げようとしたって無駄だよ。この車全体があたしなんだからねえ」
 ぼくの全身を恐怖の刃が刺し貫いた。悲鳴をあげた。おそらく涙さえ流したのではなかったか。
「くっくっく。これこれ。眠っているときに食っちまってもよかったんだが、あたしは恐怖にゆがむ顔を見ながら食事するのがなにより好きでねえ」
 ぶら下がっていた二個の眼球がふわふわと空中に浮かび上がりぼくを見据えた。
 リアウィンドウを突き破って黒い塊が飛び込んできた。
 烏だった。烏はぼくの膝の上に舞い降りた。間近で見る烏とはこれほど巨大なものなのか。少なくともぼくが想像していた烏よりふたまわりは大きい。烏はぼくの顔に赤い目を向けるとにやりと笑った。烏がわらうなんてあり得ないことなんだろうが、ぼくの目には確かに笑ったように見えた。赤い目の烏。駅で見かけたあの烏なんだろうか? そんな考えがよぎったが、やつが体全体をそらすようにしてから鋭い嘴をぼくの腹めがけて突き立ててきたので、ぼくはまた悲鳴をあげた。
 化け物烏に内蔵を抉られて重傷を負ったものと覚悟していたのだが、不思議と痛みはなかった。目を開けるとシートベルトが見事に切断されている。今だとばかりぼくはドアに飛びつきこじ開けようとした。しかしドアの封印を破ることはできない。烏はと見ると、やつは化け物タクシーの眼球から延びた神経繊維に食らいついていた。烏が首を急激に捻るとそれはねじ切れた。この世のものとは思えない悲鳴が車内を満たす。
 ドアの取っ手に手をかけると今度はたわいもなく開いた。ぼくはスーツケースを抱きかかえて表へ飛び出した。なぜかスーツケースを手放してはいけないという予感めいたものが脳裏に閃いたのだ。
 飛び出してすぐにぼくは後悔した。見知ったネオンが点在する光の海が遙か眼下にひろがっていたのだから。
 タクシーは知らぬ間に虚空高くぼくを連れ去っていたのだ。
 落下しながら上空を見ると、赤い満月を背にお化けタクシーが二頭立ての馬車へと姿を変え、その正体をさらけ出していた。
(1997/11/22 20:29 by ふーまー)
 ……。
 と、ここまで小説『夜の旅行者』を書いてきた私は頭をかきむしった。
 だめだ、これでは単なるホラーになってしまう。担当編集者である彼はこういったではないか。
「いいですか、先生。先生が最近、ホラーに凝っていらっしゃるのはよく判ります。でもですね、うちの雑誌は”本格ミステリ”の雑誌なんです。ミステリ的な論理的解決があるのでしたらまだしも、ただ単に血しぶきが飛び散るのだけはやめてくださいね。」

 決めた。
 私はここまで書いた全ての物語を

 消去した。

 再びパソコンに向かい、新しい物語を紡ぎ始める。
(1997/11/23 01:05 by 一人囃子)
 しかし、どうしても別のストーリーを考えつくことができない。どうしたものか。締め切りはもう目前に迫っているのだ。
 そのとき私は、超常世界を扱ったからといってミステリの範疇を逸脱すると思いこんだのは偏狭な思弁にとらわれすぎていたのではないかと思い至った。広く世界を見まわせば魔術的な世界を扱ってなおかつミステリとして燦然と輝く作品が枚挙に暇がないほど存在しているではないか。そう考えると急に気が楽になった。見ていろ。ミステリオタクの編集者の鼻を明かしてやる。
 私は抽斗を探りフロッピーを取り出した。よかった。バックアップを取っておいて。私はフロッピーをドライブに差し込み、ワープロソフトに先ほどまでの文章を読み込ませた。

 落下しながら上空を見ると、赤い満月を背にお化けタクシーが二頭立ての馬車へと姿を変え、その正体をさらけ出していた。

 さあ、続きを書くぞ。
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(1997/11/23 03:17 by ふーまー)
 しかし一時間後、ディスプレイのなかの文字はひとつも増えていなかった。やはり無理だ。こんなホラーじみた話を本格ミステリーにすることなど、果たしてできるのだろうか? 答えははっきりしていた。私は島田荘司ではない。
 ふいに責任者出てこい、と叫びたくなった。しかしもちろん口にはしない。責任者はほかでもない私自身なのだから。
 私は重い腰を椅子から引き剥がすと、気分転換にベランダに出た。外には生ぬるい風が吹いていた。月も出ている。満月だ。タバコをくわえて火をつける。煙を吐き出し、風がそれをかき消してゆく様を見ていたら、ちょっと気分が楽になった。あきらめるにはまだ早い、物語ははじまったばかりなのだ。なんとでもなるさ。
 そんなふうに思って部屋へ帰ろうとしたとき、気になる光景が目に入ってきた。私の住むマンションは5階建てで、私は2階に住んでいるのだが、このマンションのすぐ脇を線路が通っており、私がいるベランダの右手の方に小さな駅舎が少し見下ろせる感じでたたずんでいる。その間隔は手を伸ばせば届きそうなほどに近く(マンションと駅ホームのあいだには、車一台通るのがやっとなくらいの細長い道が走っている)、じっさいこちらに向かって伸びるプラットホームが途切れるあたりは真下に見下ろせた、というより、ホームのほうにもそれなりに高さがあるから、ほとんど正面に見えるといっていいだろう。
 そのプラットホームを、女が歩いていた。
 すでに時刻は真夜中になっていて、駅構内の明かりは消えていたが、女が歩いているホームが私から見て手前のほうであるのと、女がベンチが並んでいる前を通り過ぎ、どんどんとホームの端っこのほうへ向かってきていたので、私はさらによく女の姿を見ることができた。
 女はなにか重たそうなスーツケースを引きずっていた。
(1997/11/23 05:47 by SOMEBODY)
  とりあえず取材だ。材料がなければ何も書けない。
私は部屋に戻り、押入からザイルを取り出した。ギャフをとりつけ、ベランダから駅の鉄册に投げる。みごとにからまった。ザイルを張って固定し、懸垂下降の要領で駅まですべり落ちていった。我ながら鮮やかなものだ。この技術は大変便利なので登山家,泥棒,忍者等の職業以外の方もぜひ習得すべきものだと思う。
 さて、唐突に現れた私を呆れ顔で見ている女性に向かって言った。
「怪しい者ではありません。スーツケースの中身を見せて下さい」
女性は一瞬絶句したが、毅然として答えた。
「十分に怪しいです。空から勝手に降りてくる人を私は信用しません」
「それは空から来る人に対してあまりに失礼な意見です。空挺団隊員とか、バットマン、ETあるいはデビッドボウイとかをあなたは非常識と責めますか」
「なるほど、論理的ですね。私の失言でした。で、話は何でしたっけ」
「要するにそのスーツケースを見せてほしいんです」
「見ているじゃありませんか」
「いえ、ケースの中身です」
「あなたは、中身が見えないのですか」
「…そりゃ、開けてくれないと見えませんよ」
「どうして、そう断言できるんです。集中するなり、道具を使うなりすれば中が見えるかも知れないでしょう。努力もしないで勝手なことを言わないで下さい」
「すいません。私が間違ってました。急ぐとすぐ独断してしまうんです」
「過ちを素直に認めるのは大変よいことです。お互い納得できる結論に達したようですね。今夜は気分よく眠れそうです。では」
 確かに気分よく眠れそうだ。私は手を振って別れようとした。いや、待て。
「ちょっと、待って下さい。全然結論が出てないじゃないですか。私にはスーツケースの中身が必要なんです。それが分からないと話が進まないんです」
 彼女は、私を不思議そうに見た。
 私は力説した。
「とりあえず、話の流れとしてはスーツケースの中身が重要なんです。例えば、コーンビーフの缶詰があったとして、良識ある人は、それを開けてみて、ついでに食ってみて初めて確かにコーンビーフと判断するでしょう。ましてや、ここに河童の缶詰があったとしたら、誰だって開けないと落ちつかないでしょう。」
 彼女はうなづいた。
「確かに河童の缶詰には興味があります。あなたの言うことはもっともなような気もします。しかし、あなたの言うことは頭の使い方の怠慢なような気もします。これはミステリの世界でしょう。終電も行ってしまった侘びしい駅に佇む、スーツケースを持った女、このスチュエーションから解答は簡単に出そうな気がしますが」
 何ということを言うんだ。私は反論した。
「ミステリに普遍的な解答はありません。極端な話、ここで私が強引に考えた結論が解答になる可能性もあるんですよ」
「それでは、こう言います。当事者にとっては解決は一つですし、それは極めて簡単明瞭であるべきなんです。で、私はこうします」
 彼女は私をもう見向きもせず、線路の方に歩いていった。そして、スーツケースをぽんと線路に投げ出し、彼女自身も線路に降りた。彼女は線路に垂直にスーツケースを置いた。スーツケースの小車輪は丁度の線路の幅と一致した。彼女は、鍵を入れて回し、引綱をさっと引いた。心地よい2サイクルのエンジン音が響いた。彼女はスーツケースにまたがり、私をちらりと見て、「それでは」と言い、勢いよく発進して行った。スーツケースは彼女を乗せて、見事に加速していき、線路の奥の闇に吸い込まれていった。
 私は呆然とそれを見続けていた。
 いかん、解答はいくつもあるはずなのに完結しそうではないか。そんなはずはない。私は救いを求めるように、向かいのホームを見た。
と、その時、誰かが歩いているのが見えた。駅員ではない。蛍光燈が消された暗いホームを歩いているのは、服装からしてどうやら女性らしい。重そうなスーツケースを引っ張って歩いている。思わず私は声を出していた。
(1997/11/24 01:33 by ゆのひら)
女は肩をぴくっと震わせて私のほうに顔を向けた。
 そのときふたつのホームに挟まれた線路上に、どさっと大きな音を立ててなにものかが降ってきた。人間だった。スーツ姿の男だった。手にスーツケースを握りしめている。スーツケースは燃えるような緋色だった。男は仰向けになったままぴくりとも動かない。いったいどこから墜落したというのだろう。私はあわてて線路におり男に近づいていった。女は呆然とホームに立ちすくんだままだ。
 死んでいるのかと思ったのだが、私が傍らに跪くと男は急に両目を見開いた。バネ仕掛けのように上半身を起こして高らかに笑った。見たところまだ年若い青年のようだが、気でも触れているのだろうか?
「ぼくがなにものであるか、いまこそわかったぞ!」
 青年は一声叫ぶや、すくっと立ち上がり虚空を睨みつけた。自分がなにものか今気づいたんだって? するとこの青年は今まで記憶を喪失していたというのか? 墜落のショックで記憶が戻ったということか……。
 青年は私と女に「危ないから物陰にでも隠れていてください」と夜空を凝視したまま声をかけた。天空から蹄の音が轍の音が響いてきた。見上げると黒々とした馬車の影が私たちのほうをめがけて迫って来ている。私はあわててホームに駆け上がりベンチの陰に身をひそめた。
 青年はさも嬉しそうに笑いながらスーツケースを開け、なにか大きな布のようなものを取り出した。その布は透明であるにも関わらず限りなく漆黒で、ぬめぬめしていながらも乾いたような質感を持っており、強靱さとしなやかさをあわせ持っているように見えた。その布のなかにはあまたの星々が瞬いていた。そうか、あの布は夜なのだ。私はなぜか瞬時にそれを悟った。青年は闘牛士さながらのポーズで夜を両手で持ち、馬車をさそうかのごとく体の前でひらひらと振って見せた。
 間近まで馬車が迫ってくると私はそれが普通の馬車でないことに気づいた。空中を駆けたりするのだから馬車が普通でないのに今更のように気づくのは遅いといわれる向きがあるかもしれないが、私がここでいいたいのは馬車の形状のことである。
 まず馬車を牽いている二頭の馬であるが、この二頭の馬には脚があわせて四本しかないのだ。馬の脚が四本であるのは当たり前ではないかという向きもあるかもしれないが、私がここでいいたいのは二頭あわせて脚が四本しかないということなのだ。どういうことかというと馬の後ろ脚があるべき部分が馬車の車体に融合してしまっているのだ。ついでにいうと御者席に腰掛けているかのごとく見える御者――つば広の黒い帽子をかぶり左の眼球だけが筋繊維を引きずりながら空中に漂っている――も上半身だけが存在しており、下半身は御者席に溶け込んでしまっている。早い話がこの馬車は人・馬・車が一体化したひとつの生物なのだ。
「紫門〜、観念しろおおおぉぉっ!」
 御者が叫びながら青年に向かって馬車を突っ込ませた。青年は軽く身を翻してその攻撃を避け、手に持った夜を馬車に向かって投網のように投げる。
 青年は馬車の後ろ姿に向かって叫んだ。
「ぼくの隠された名はシモン・マグス! 爾後ぼくがこの夜を差配する!」
 夜は空高く舞い上がろうとする馬車を追ってふわあっと広がっていく。夜の端と現実の夜が触れ合い、無数の小さなスパーク光を閃かす。青年の投げた夜のなかに銀河が渦を巻くのが見えた。ふいに馬車の音が消え、銀河も消えた。
 やがて青年の足下に黒い小さな箱のようなものが落ちてきた。青年がそれを拾い上げながら私たちに向かって「もう安心ですよ」と告げた。
 私はこわごわベンチの陰から出ていって青年の手元を凝視した。青年は箱から黒い布のようなものを剥がそうとしている。黒い布のようなものはさきほどの夜だということがわかった。そしてそのなかから姿を現したのは、あの妖怪じみた馬車のミニチュアだった。青年はそのミニチュアと夜をスーツケースのなかに収めた。そうか死体を入れるというのはこういうことだったのか。おそらくミニチュアはあの奇怪な生物の亡骸に違いないのだ。
 青年はスーツケースを閉じてからしまったというように顔をしかめた。
「ああ、困ったなあ。今からだと電車もないしなあ。しょうがないか……」
 青年はもう一度スーツケースを開けて例のミニチュアを取り出した。それを地面に置く。
「あのすいません。ナイフかなんか持ってませんか?」
 ナイフ? ナイフなんかでなにをするのだ? 追い剥ぎでもする気なのだろうか。私は少し警戒しながら答えた。
「いや、ナイフは夜遅いので持ってません。財布ならあるのですが。ついでにワイフとは二年前に別れました。もっか花嫁募集中です」
「そうですか……。ではしかたありませんね。あ、ちょっと後ろへ下がっててもらえますか?」
 青年は憮然としてそういったかと思うと自分の人差し指の先を囓った。よほど腹でもすいていたのだろうか。そうするとナイフを渡さなくて悪かったかもしれない。私はちょっと後悔した。ん? しかしナイフは腹には刺せるだろうが腹の足しにはならないはず。
 青年は指先から滴る血をミニチュアに注いだ。ミニチュアはぐにゃぐにゃと奇妙な動きを見せたかと思うと見る見る大きくなっていった。
「血の契約は完了した。これからお前はぼくの僕(しもべ)となるのだ」
 青年が凛とした声で馬車に向かって宣言した。
 御者席にいるのは先ほどとはうって変わった人の良さそうな中年男性だった。右目と下半身がないのは相変わらずだったが。御者は青年に向かって深々と頭を下げた。
「シモン様。忠誠を誓います。さきほどのあたしの無礼な振る舞い許してくださいね」
「いや、お前がぼくを襲ったのも、ぼくが覚醒するために仕組まれた太古よりのプログラムだったのだろう」
「そんな優しい言葉をかけてもらうと感激のあまり泣いちゃうかもしれません。あたしはどうも最近歳のせいか涙腺がゆるくなってねえ」
 見ると御者の目にはすでに涙があふれている。魔物のくせに涙もろいやつ。
 ふいにばさばさと羽ばたきの音がして、青年の肩に大きな烏が舞い降りてきた。
「おお、アモンか。さっきはどうもありがとう」
 烏は青年の顔に身をすり寄せる。甘えているつもりなのだろうが、烏が甘えている図などどうもぞっとしない。そんな考えが頭をかすめたとたん、烏が私を赤い目で睨んだ。まさか、考えが読めるのか。アホーと啼く。私は烏ごときにあほといわれたところで痛くも痒くもない。あほというやつがあほなんだぞ。
 青年は馬車に乗り込もうとしたが、なにを思ったのか私に向き直って挨拶の声をかけてきた。名刺を取り出してさしだす。
「あ、ぼく、こういうものです。またなにかありましたら呼んでくださいね」
 名刺には「花袋ソフト(株) システムエンジニア 紫門隼人」とある。刷り込まれた会社の電話番号の横に自宅の電話番号が手書きされていた。どうも、私には一生縁のなさそうな業種のように思えるが……。まあ、いい。今後ソフト業界を扱ったミステリを書くことでもあれば取材源のひとつとさせてもらおうか。
「それじゃ。お話を続けてくださいね。お邪魔様でした」
 青年が馬車に乗り込むとたちどころに馬車は虚空に吸い込まれるかのように掻き消えてしまった。
 この不思議な出会いが超絶的な能力を持った名探偵紫門隼人との腐れ縁の始まりだったということを、私はこのとき知る由もなかった。

 向かいのホームを見ると女はすでに姿を消していた。あきらめてマンションへ帰ることにする。鍵を開けて自室に入った私を待っていたのは、ホームにいたあの女の死体だった。
(1997/11/24 17:37 by ふーまー)
 どういうことだ!
 私はミステリ作家だから死体についてはいくらでも書いたから死体など慣れているように誤解されているかもしれないが、死体を実際見ることなんて初めてである。死体かどうかは原則的には医者しか判断したらいけないそうだが、素人が見ても死体と判断できるものはやはり死体だそうだから(刑法かなんかに載っている:実の作者談)やっぱり驚いてしまう。
 どういうことなのだろう。
 ここは冷静に考えるべきだ。考えろ、考えろ。
 まず、第一点。彼女は何故私の部屋で死んだのだろう。例えば、ここにほうっておけば死体がとろけて分解して消えて完全犯罪になる…… それなら分かるが、そんな妙な部屋でないことは私が一番よく知っている。ここで犯罪を犯すメリットなんてあるのだろうか。
 第二点。彼女はどこから入って来たのか。鍵は私しかもっていない。私は鍵を締めたまま駅に出たので(ベランダからだが)彼女は入り口から入るのは無理である。唯一入れるにはベランダのザイル(英語ではロープ。ザイルは独語)経由であるが、彼女が入ったと思われる時刻は私は駅に居た。それで、そんなロープをよじ登る者がいればすぐ分かったはずだ。ではどうやって彼女は(及び殺人犯は)部屋に入ったのか。これは、だから閉ざされた空間にいきなり犯人及び被害者が入った点で、逆密室である。
 第三点。このノブ錠は鍵なしには内側からしか締められない型なので、中に犯人がいない以上、犯人は密室から消えてしまったようにみえる。ベランダから飛び降りる、あるいは、ロープを伝って降りるという方法もあるが、深夜にするには命がけの技術が必要だ。犯人にその技術があったのだろうか。
 第四点。大体、女の死因はなんなのだろう。私は近寄って、観察してみる。髪をさわると赤いものが手についた。血か?。私は顔を極力近づけて頭をみてみた。ぱっくりと割れた裂傷がある。何か鈍器で頭を殴られたのであろうか。しかし、凶器は。私の部屋は純粋な仕事部屋なので、そんな凶器らしいものは存在しない。がらんとした部屋には花瓶とか文鎮とか、ましてやハンマーとか殴るに適したものは全くない。ない、ない、ない。

 いくら考えても分からない。
 そこで、私はさっきの名探偵の存在を思いだし、彼に相談することにした。Fujita氏が怠慢こいて携帯電話の番号を名刺に書いていなかったので、私は花袋ソフトから番号を聞いて連絡しなければならなかった。幸い彼はPHSを持っていたので簡単に連絡がついた。彼は少しうっとうしそうだったが、すぐ行きますと言った。

 私はしばし部屋で待っていた。そうするうちに部屋の畳の上に変な煙が立ちのぼり、いきなり人が現れた。もちろん紫門氏だった。私は喜んで、彼に話しかけようとした。しかし、彼は私をじっと見つめ、人差し指を突きつけ、言った。
「あなたが犯人だったのですね」

<探偵、犯人を指摘する>

わー、びっくりした。びっくりした。
あの「何とか山荘」を読んだときもこの場面で本当にびっくりしたが、自分がそう言われるのがここまで衝撃的だとは思わなかった。これがどんなに衝撃的な言葉であるか、知られたい読者がいれば、近くにいる人にいきなり「お前が犯人だ」と言ってみれば少しは分かると思う。皆さんの試されんことを。

心臓のドキドキするのが少し収まったのを待って私は言った。
「何てこというですか。謎ばかりの事件でいきなり結論を出さないで下さい」
しかし、紫門氏は冷たく言い放った。
「あなたが犯人だとすれば、全ては納得できる。何故、この部屋で犯行が行われたのか。犯人の部屋だからだ。何故、鍵のかかった部屋に犯人と被害者が入れたのか。犯人が鍵を持っていたからだ。何故犯人は部屋を出た後、鍵を締めることができたのか。犯人が鍵を持っていたからだ。」
 なるほど、納得されそうだ。しかし、待て。
「そんな単純な解答はいやだ。じゃ、凶器について説明してくれ。この部屋に彼女を殺したような凶器はないじゃないか」
 紫門探偵は薄ら笑いをうかべ続けた。
「凶器が分からないということそれ自体が逆説的にあなたが犯人ということを示している。何故ならその凶器は犯人にのみ見えないものだからだ」
? ? ? 何をこの男を言っているのだ。
「駝鳥は大敵が視界に入った際、頭を砂に突っ込んで、見なかったことにして安心してしまう。それと同様、この犯行で、犯人は非常にユニークな凶器の隠しかたをしている。つまり他人にはもろに見えるのに、犯人には全く見えない。それで犯人のみが安心してしまう。その凶器こそ、犯人がいつも持ち歩いており、しかも使いやすく、被害者の頭と同様に固いもの…」
 探偵は一呼吸おいて、また私を指さした。
 「すなわち君の頭だ。凶器の証拠にほれ少し血がついている」
 
 何ということだ。確かに私が犯人であることに私自身納得してしまいそうだ。
 だが… ちょっと待ってくれよ。これじゃいつのまにか本編がなってしまった、オカルト・ホラー・スプラッタ・ぐじゃぐじゃミステリにならない。
 私は反論した。
 「あなたの言うことは結構もっともだ。しかし、記述者=犯人は、ミステリの禁じ手である。これを安易に使うのには全く賛成しない。ましてや、あなたは本邦初の魔術を使える探偵じゃないか。もっと異常極まる方向に推理が進むべきではないのか」
 すると紫門探偵はさっきの自信満々の態度がさっと引いた。
 「いかん。実は飲み会からいきなり呼び出されたので素早く解決しようと話を進めたのだ。だが、そういわれると魔術探偵の良心が…… うーん その通り。よし、ここで魔術を使おう!」
(1997/11/30 00:23 by ゆのひら)
 「事件の解決にはもってこいの魔術がある。過去の場面をテレビにそのまま再現してしまうという、その名も再現フィルム(な、懐かしい)。これで、さっさと解決してしまおう」
 そう言うと、背広のポケットから紫門氏は石を取り出した。これは「賢者の石」といって、元来は錬金術に使っていた道具だそうだが、だんだんと錬金術の応用範囲が広がるにつれ、魔術の一般的なアイテムとなったそうである。そして、彼の説明によると時間というのはらせん状に流れているので、ある時間には規則的にズレた時間が接している。つまり、今の時間には20分、40分、60分といった時間が接しており、そこをアイテムを使えば、覗くことが可能だそうだ。彼は「20分くらいなら丁度よいだろう」といい、石にマジックで20分と書いた。その石を部屋のテレビの上においた。
「とりあえず、事件は20分ほど前に起きたはずだから、そこをみてみよう。石よ、まかせた」
 すると、石は分かったいうようにピカリと光った。そして、昔のコンピューターみたいにチカチカと点滅しだし、いかにも精密な作業をしているようにみえる。点滅の速度が鈍くなり、やがて止まった。すると、突然、テレビに画面が現れた。
 
 場面はこの部屋である。人が二人いる。私と彼女だ。激しく言い争う二人。と、激高した私が女の肩をつかむといきなり、頭突きをくらわせた。何度も何度も、激情にまかせて頭突きを繰り返す。最初女は激しく抵抗していたが、そのうちぐったりした様子になった。私はそこではっと我に返ったようだった。恐ろしそうに女を見て、床にほうりだした。私の顔は青ざめており、後悔の念に満ちていた。私は急いで部屋から出、戸をバタンと閉めた。逃げるような足音が響く…

「わはははは…… やはり、私の推理どうりだ。何たる名推理、冴えわたった解決法。名探偵ここにあり」
紫門は勝ち誇ったように言い放った。
 私はかっとなった。
「何だと、なーにが名推理だ。俺は自分が何をしたか覚えてるぞ。部屋には一人で帰ったし、女と話もしていない。何が再現フィルムだ。嘘ばかっし並べやがって。調子こいてタイムマシンみたいなもんかと期待したら紙芝居以下の猿芝居をしやがって。てめえが勝手に思っていたことを映像化しただけのもんじゃないか、こんなもの。何でこんな嘘を俺につく。そんなことして何になる。あんたの魔法なんでこんなもんなんか。詐欺の道具か。えー」
 紫門は言い返した。
「時間の流れというのは正確である。その流れの一部を映像化したものも正確である。それを嘘というなら、自然の法則を無視していることになる。あんたは、人に向かって唾しているつもりだが、実は天に向かって唾しているんだぞ」
 「あんた、何様のつもりだ。昔の時間がそのままに取り出せようが、その取り出す魔法はあんたが使ったんだろう。魔法そのものが間違っていたら、映像だって間違いだろう。円周率が歴然と存在しているって言ったって、小学生が計算した円周率をあんたは信頼するか。小学生どころか、あんたは幼稚園以下なんだろう。俺はマジシャンはいくらでも知っているが、あんたの名前なんて全然知らないぞ。場末のそのまた場末でチマチマ魔術やっている奴が何言っても信じるものか」
 「いいかげんにしろ。事実は事実だ。自分が納得いかないからと言って、事実そのものを否定するなんて3才のガキでもしないぞ。あんた宝くじがはずれたからって言って主催者にこれは間違いだと文句いうか。普段しないことを、こういうときに限って言うなんて、あんたは俺に恨みであるのか。えー」
 「恨みだと。あんたの言ってることは、歩行者にいきなり車をぶつけて、歩行者に、あんた俺に恨みがあるのかと、言い放っているのと同じことだぞ。こんな低能な奴に推理を頼むなんて。なんて俺は馬鹿なんだ。馬鹿、馬鹿、馬鹿。俺の馬鹿。こんなに苦しいときに、頼りになると思ったのに、やって来たのは、実は、三流、低能、無能、愚鈍、魯鈍の場末のマジシャン。真面目に生きていて、人に極力迷惑かけないように生きていたのに、何でこんな目にあうんだ。悲しいよ、俺は悲しいよ〜」
 紫門は絶句した。そして一瞬の後、つぶやくように話しだした。
「三千年、三千年…… 三千年もの間俺は生きてきた。幸福になる為頑張ってきた。いくつもの苦難、艱難を乗り越え不死の力を手に入れた。そして二千年の苦行を堪え、魔術を身に刻んだ。これらの苦難を経れば、俺は自分が幸福になれると信じていた。その為に三千年生きてきた。この三千年こそ俺の誇りの筈だった。…… なのに、なのに、ああ、あんまりだ。ここまで言われるなんて。三流だと、無能だと、愚鈍だと、あんまりじゃないか。三流文士に三流って言われるなんて。それじゃ。俺は六流じゃないか。ひどいよ。三千年間一所懸命に生きてきた人間に、あんまりの言葉じゃないか。三千年間生きて、結局俺が得た言葉はそんな言葉だったのか。情けないよ。おれはほんとうになさけないよ」
 そして紫門はおいおいと泣き始めた。涙は滂沱と尽きることない。まさに男の号泣であった。
 しかし私だって泣きたい気分だった。
 「おい、あんたは勝手に感慨にひたっていればいいだろうだけど、俺はどうなるんだよ。自分の部屋に死体があるんだよ。このままじゃ本当に俺が犯人じゃないか。第一発見者だし、密室だし、やっぱり俺が一番怪しいよな…」
 だんだん俺も感極まってきた。
「あんた、三千年生きたといっただろう。俺だって35年生きてるんだよ。頑張って生きているんだ。そりゃ、怠慢野郎さ、俺は。作家にデビューした後、ない才能を何とかあるようにつくろって今までやってきたんだ。仕事場がないと仕事できないなんて出版社にゴネて、社員寮の一室をもらて、実は仕事もせずに住居にしてしまったし。そんなに世話になっていながら原稿の一枚もできずに、できましたよなんて口ばかり言って、今日もいかに編集者をごまかすか、いかに逃げるか、そんなことばかり考えていた。原稿書く努力もせずに。
 だから、部屋に死体があっととき一瞬喜んだんだ。これでネタができるって。でもよく考えりゃ、全然深刻なんだよな。死体どうすりゃいいんだよ。棄てるにしたってどうしたらいいんだ。バラバラなんてしきらねーぞ。なー。今あんたしかいないんだよ。さっきはひどいこと言い過ぎたよ。な。謝るから、何とかしてくれよ」
 しかし、頼み(?)の紫門氏は「魔法は正しいんだ。ぼくの魔法は正しいーんだ」と泣きじゃくるばかりである。
 
仕方がない。自分でなんとかしよう。まず、先のビデオを検討してみよう。どう考えても、自分はあんなことしてないので、あれは間違いである。しかし、犯罪捜査の際、あのビデオのような激情による犯行というのが最大公約的な結論にはなりそうである。あれに対する反論は……
 そうだ。あのビデオ、何かおかしいところがあった。
 思い出した。あのビデオのラストシーンだ。女を絞め殺した後、私は戸を閉めると、そのまま逃げ出していった。鍵はどうなるんだ。明らかに鍵は締めていなかった。それなのに、私が部屋に入るときには確かに鍵を開けた。だからこそ密室であったのだ。
 間違いだ。やはり、あのビデオは間違いであったのだ。
 私は紫門氏の肩をもってゆさぶり、今の推理を言った。
 紫門氏はキョトンとした顔をした。しかし、段々と真剣な顔になってきた。そして、急に立ち上がると、「分かった!」と叫んだ。実に嬉しそうだった。
 「結論から言えば、ビデオの内容は確かに間違っている。どうして、そういうことが起きたのか。私の魔術には間違いはない。そうなると、解答は一つしかない。そう、賢者の石が壊れていたのだ」
 ん。テレビの上の石が怒ったように光ったぞ。それにしても、立ち直りのはやい人ではある。これが三千年間めげずに生きられた秘訣なんだろうな。
 「では次にやることはただ一つ。石を変えて魔術をすればよい」そう言って紫門氏はテレビの上の石を取りポケットに入れた。そして違うポケットから同じような石を取り出した。「何にでも不良品というものはある。しかし、こっちの石なら心配いらない。ほら、ここにJASマークがついている」
 紫門氏は私に石を突き出した。たしかに小さなJASマークがついている。しかし、JASマークって、品質保証の意味だったっけ。まあ、どうでもいいけど。
 紫門氏は石にマジックで「推理」と書いて、テレビの上に置いた。
「また、再現フィルムですね」と私は言った。
「いや、また同じことをするのも芸がない。今度の魔術は、この石が周囲の状況,情報を全てインプットして判断し、それから最も納得のいく結果の推理を進め、それを映像化するという奴である。こっちのほうが映画みたいで面白い」
 おそらく、さっきの時間の魔術「再現フィルム」に自信を失ったからなんだろうなあ、とは思ったが、そんなことは勿論口にせず、魔術の進行を私も待った。
 石はまたチカチカと光りだした。こころなしか、さっきより賢そうな光りかたである。光の速度が段々遅くなり、急に「分かったぞ」というふうに強く光った。そしてテレビにいきなり画面が出た。

 駅である。丁度、紫門氏が活躍している場面が映っている。女はそれを呆れたようにみている。カメラは女をクローズアップして捉えた。彼女は最初はただ紫門氏を見ているだけであったが、急に凍りついたように立ち止まった。そのうち、段々表情が変わってきた。興奮しているように、顔が上気しだした。体全体も何かエネルギーが集まっているような印象を受ける。獲物に襲いかかる直前の獣のような気配だ。と、突然それは起きた。彼女はロケットのように突如駅のホームから飛び立ち、そのまま加速をつけ、私の部屋に、開いた窓から突っ込んでいったのである。場面は部屋のなかに移る。頭から突っ込んできた彼女はそのまま壁に凄い速度でぶつかり、跳ね返って床に落ちた……仰向けになった彼女は既に絶命していた。
 私たちは呆然としてお互いの顔を見つめあった。
「……素晴らしい……」 どちらかということもなく、言葉が漏れた。
 紫門氏は続けた。
「謎は解けた。解けてみれば何という簡単な謎だったのだろう。彼女はどうやって入ってきたのか(窓からだ)、凶器は何なのか(壁だ)、犯人は誰なのか(そんなのいない)この作家アパート準密室殺人事件の謎はこれで99%解けた。」
 「ちょっと待ってくれ。これはあくまでも推理だ。実証が大事だ」
私は凶器と思われる部屋の壁を調べた。確かに、ぶつかった後と思われるへこんだ後があった。完璧じゃないか! 私は叫んだ。
 「見事だ。万人に納得のいく結論だ。素晴らしい。何と素晴らしい推理だ。まさに名探偵。そうだよ。実は僕は最初からそう思っていたんだ。この人こそ、完全無欠、唯一絶大、天衣無縫、天涯孤独な名探偵だと。期待通りだったよ。有り難う。こんな、感動したことはないよ……」
 ん。今、紫門氏は何か気になることを言ったよな。99% ? 
「あ、そうだ。99%って何だ。今の推理でまだ解けていない謎が残っているのかい」
 紫門氏は私の問いに答えて言った。
「ああ、後1%単純な謎が残っている。本当に単純な謎だ。君も今見たろう。つまり、何故彼女は突然ロケットのように飛んだかということだ」
「それは困る。せっかく、殆ど事件は解決したのに。小さな謎が残っているせいで難癖がいつまでもついてしまうのはミステリによくあることなんだよ。すっきり解決というわけにはいかないのか」
 すると紫門氏は、ふふふと満足げに笑い出した。
「私を誰と思っているのかい。名探偵は趣味にして仮の姿。本職こそ大魔術師。魔術師は錬金術師のヴァリアント。ということは、科学者ということさ。科学者にとって、こういう謎こそ最も特異とする分野。見ただけで分かったさ。簡潔明瞭なトリックだよ。物理学を少しだけでも知っていれば簡単に解答できる。つまり、物理学トリックいう奴だ。さあ、ではその残った1%の謎の解答を話そうか」

        <読者への挑戦>
 (読者なんて本当にいるのだろうかという当然の不安を感じつつ…)

 迷走を続けた本小説も一応解決編に入ろうとしている。各writerのミステリにしよう(かな)という最小限の努力によって、何とか物語は収拾はつきそうである。といって、通常のミステリと違い、話があちこち飛び、分かりやすいようには流れなかったので、解決編に入る前に、大体謎そのものが何であったかという読者の当然の疑問に(読者がいるとしたら)答える親切は必要であろう。それを以下に簡単に述べよう。

 1 1%の謎について:探偵紫門氏は自信満々に単純な物理学トリックだと述べた。確かにこれはその通りである。物理にあまり詳しくない人には苦しいかもしれないが、一応「エントロピーの法則」の応用とヒントを出しておこう。
 2 被害者の謎:ミステリにおいて死体のみとして登場する被害者はありえない。(筈だ) 当然彼女はこの部屋に関係している人である。また、当然物語のどこかに既に(同僚が)登場している。この謎は簡単であろう。
 3 再現フィルムの謎:紫門氏をヘボ魔術師のままにしておくのはFujita氏に対して失礼である。実は再現フィルムは間違っていないのである。つまり魔法は成功していたのである。ただ、解釈を間違えただけなのだ。とはいえ、「私」が犯人でないのも本当である。では、真実は何なのだろうか。

 謎の手掛りは全て本編に示されている。読者はここで全てを解答できる筈である。さあ、解決はすぐ目の前だ。

 などと書きつつ、確かに作者は解答(らしきもの)を持ってはいる。しかし、ミステリは、納得できる解答であれば、どんな解答でもよいのである。読者が100人いれば100解答があり、100人犯人がいていい筈である。特にこれはリレー小説なので、いわゆる何でもありの世界だ。解答はHPでなく、読者の頭のなかにある。
 何でもよいです。書き込み、大募集。
 (解答を考えるのを作者が面倒くさがっているわけじゃないですよ。念のため)
(1997/12/08 16:50 by ゆのひら)
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<もう一つの終わり>
「いかん。実は飲み会からいきなり呼び出されたので素早く解決しようと話を進めたのだ。だが、そういわれると魔術探偵の良心が…… うーん その通り。よし、ここで魔術を使おう!」の続きから…

 と、紫門探偵はおもむろに魔法陣を描いてなにやら怪しげな呪文を唱えだした。--ふんぐむるなうくとるぅ〜いあいあはすた〜--(どっかで聞いたことのある呪文だな…)物凄く、とてつもなく、いやおうもなく、むしろ嫌な予感がした。そして魔法陣から紫色の煙が立ちのぼるに至ってそれは予感ではなくなっていた…(もしや彼を呼んだのは大間違いだったのではないだろうか…)しかし、もはや覆水盆に帰らず後悔先に立たず…目の前の魔法陣からなにかトンでもない生き物が現れつつあった。
「わははは、やったぞ!」
「一体何を呼び出したんだね!」
 そう言っている間にも目の前の物体はまるでステレオグラムの画像の如く徐々に鮮明になる。やがてそれはゼリーが固まるように硬度を取り戻し大きなタコになった。鳴呼!それはまぎれもなくタコだった。
「ただのタコじゃないか…」
「クトゥルーです!先生はしらないのですか?この方は人類が地球に現れる以前に地球を支配されていたすごーい方なのです!ラヴクラフト読まないんですか…まったく」
「このタコが…?そういえばなんかのゲームで見覚えが…」
 マグネタイト10くらいで仲摩になりそうなくらいー弱そうである。ぬめぬめとアホそうに巨体をくねらせる大ダコに猜疑のまなざしを向け、
「で、こいつが何の役に立つの?」と思い切り皮肉を込めて紫門探偵に訊いた。
「この方に頼めばこんな事件なんてものの数秒で解決です!」
「…君、本当に探偵なのか…」
「一応S級にランク付けされてます」
 …清涼院なんとやらの小説に出てきそうな奴だ…
「もういいや…手っ取り早くこれに犯人を聞きこう」
 あまり知能が発達しているように見えないので近寄りたくなかったが、2歩ほど歩み寄り、こう言った「おい、この部屋で起こった殺人の犯人を教えてくれ」
 タコは「〆&~\@◆」と言った。何を言ってるのか分からない…
「紫門探偵、通訳してくれ」
 紫門探偵はタコに近寄ってごにょごにょと囁いた。会話らしきものをしているように見えるが…
「どうだい紫門探偵、犯人は分かったかい?」
「全然分からん!大体こいつが何言ってるのか分かりません!」
 そう言って突然げしげしとタコを殴り始めた。まさにその名のとおりタコ殴りである…
「やめたまえ!タコが可愛そうじゃないか!わざわざ自分で呼んだくせに…」
「だってだって!」
 もう嫌だ…どうして私がこんなアホの相手をせねばいかんのだ…大体こんな探偵を最初に出したのだれだ。執筆者出てこい。と叫びたくなるのをこらえて、
「もういいから異次元にでも帰してあげたまえ…」
 そう声をかけると、何を血迷ったか彼は逆立ちをして叫んだ。
「閃いた!突然ですがぼくの推理を聴いてください」
 お前は暴れはっちゃくか!という突っ込みが喉まで出かかったが、どうも相手の思うツボにはまるようで不愉快だったのでグッとこらえた。すると彼はニャンコ先生のようにキャット空中3回転を決めつつ大リーグ養成ギブスをはずしながらオラオラオラオラオラオラ無駄無駄無駄無駄無駄無駄と謎のスタンドを出現させた(ようにみえた)!執筆者はかなり薬が回っている。さっき打った覚醒剤のおかげでまるでジョジョの奇妙な冒険のように強引な展開だ。
 トンでもないスタンドだった。トンでもすぎて筆舌に尽くし難い。ともかく凄いったらすごいのッ!と思わず原田宗典のような文体になっちゃうくらい凄いスタンドだったのだ。四角くて丸い形状の匣に平べったくて分厚い扉が付いており、虹色の匂いを分泌しながら空中浮かんでいるのだ。もしかしたらそれはスタンドなんかではなく、もっとなにか他の存在かも知れない。けれど私の乏しい知識ではスタンドとしか表現しようがない。手が無数に生えている太陽のような生き物にも見える。
 そいつはおもむろに口をひらいて話し始めた。
「まず、第一点の疑問から解決しよう。彼女は何故君の部屋で死んだのだろうという疑問だ。ここで犯罪を犯すメリットなんてあるのだろうか、と君は思ったね」
 そいつの声は音ではなく匂いと色だった。嫌いではない感覚だ。私は頷いた。
「どうして君の部屋で殺人が行われたのか?理由がない?それならこれは殺人ではないのだよ。ただ単に人が死んでいるだけなのだ」
「死んでいるだけ?事故だったとでも?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。第二点。彼女はどこから入って来たのか?簡単だよ。入ってきたのではないのだから」
「どういうことだ?」
「最初から部屋の中にいたんだよ。これによって第三点。犯人は密室から消えてしまったようにみえる。という部分も合理的に答が出る。そして疑問第四点。死因だが…殴られたと見られるぱっくりと割れた裂傷、これがポイントだ良く考えろ」
 わけが分からない。どう考えても分からない…私はもういちど頭を冷やそうとして書きかけの原稿が置いてある机に向かった。
 紫門という私が勝手に創造した男の話。そこから物語は始まっていた。そのときだった…書きかけの原稿を何気なく読んでいたそのとき、私はなにか恐ろしい事実に気が付いてしまった。
 解ける…謎がすべて…解ける…そうではないか。
 紫門は薄笑いを浮かべて窓際で煙草をふかし始めていた。このスタンドみたいなのは紫門とは無関係なのかもしれない。
 私はスタンドに話しかけた。
「一つ聞かせてくれ。最初から部屋の中にいた…ということは今もここにいるということなんだろうか…」
 私の声は震えていたと思う。
「そうだ」
 犯人はここにいる…そうなのか…やはり。
「私の推理を…いや…こんなのは現実離れしすぎている…だからこれはあくまで小説の中の出来事に決着をつけるための『お話』ということで聞いて欲しい」
 そう断わって、私は話を始めた。
「この彼女は私が駅で出会っていた女とは別人だ…そして彼女は人間じゃない。紫門氏も人間じゃないのかも知れない」
 ひと呼吸おいて彼を見つめた。
「二人は夫婦だった…しかし紫門氏が離婚を切りだしたんです。理由は私には分かりません。なんらかのトラブルがあったのでしょう。しかし彼女には既に子供がいた…」
 紫門氏は驚いていた。その表情でぼくは今の話がかなり真相に近いことを悟った。
「何故彼女がこの部屋にいたのはそれで理由が付きます。紫門氏の友人はこの世界で私ただ一人だからです。待っていれば必ずぼくのもとへ現れる。そう考えて何日も前から私が扉をあける隙を見計らって私の部屋に隠れていたのです。造作もなかったでしょうね、なんせ彼女は人間じゃないんだから」
 さっきまでのスラップスティックな展開はどこか遠くへ去り、沈黙と奇妙な推理が始まっていた。
「そして彼女の死因。これは…おそらく殴られたり、誰かから危害を加えられたのではない。もっとこう…やはり事故というのでしょうかこの場合?」
 そう私は誰ともなく問かけた。
「言ってもよろしいでしょうか?最後の答と犯人を…この場合犯人と呼んでもいいのか分かりませんが…」

【読者への挑戦】
 さあ、ここで問題です犯人は誰でしょう。もはやここまで無茶苦茶な話になると誰が犯人だってどうでもいいや、こんなのミステリじゃないや!と思うのは当り前です。でも誰かが書かないとこの話、終わらないので終わらせちゃいます。

「彼女の頭の裂傷、あれは何だと思います?」
 指を指した方向では死体がうつぶせに転がっている。私はそれに近づいて、
「良く観察すればわかったんです…これは内部から破裂しています。裂傷の部分が外側に盛り上がっているのが分かるはずです…そしてこれが何を意味するのか分かりますか?」
 分からないと言って欲しかった。だが他の二人はすでにもう何もかも理解しているようだった。
 「もういいですよ先生」紫門氏はあきらめたように目を伏せ、静かに言った。
「これが彼女を殺した真犯人です…さあ出て来なさい…わが子よ」
 その瞬間女の死体が血飛沫と肉片を飛び散らして腹の中から3才くらいの小さな子供が、裸体をさらしてゆっくりと起き上がった。母親の節くれだった芋虫のような内臓を咀嚼し、その唇の端からは腐った昆虫の体液のに似た黄色い汁がねっとりと付着していた。
 そうなのだ、あの頭の裂傷は出産の名残だったのだ。そしてこの子は紫門氏の子だった…
 瞳はどこか虚ろで白痴じみていた。相変わらず肉片を咀嚼するくちゃくちゃという音が、部屋の中で響いていた。
「難産だったんですね…」
 なるべく嫌悪感を押し殺してそう言うと、紫門氏はかぶりをふって、
「違います…彼女は寄生されただけにすぎない…わたしたちは宿主を殺して生まれて来るのです…あの駅の女こそ私の妻」
「ヨンデイル…」ふいに少年がゆらゆらと窓際に移動し、誰かが止める間もなく、飛んだ。
 それを狙って紫門氏はナイフを投げた、それは右足に突き刺さり少年の絶叫とともに夜へと消えた。「まもなく蒼列車が来る…」そうつぶやき、紫門氏はふらふらと部屋を出て行った。
 残されたのは私と化け物だけだった。
「どういうことなんだ…」
「彼は夜の旅行者なのだ、ああして何度も同じ夜を巡り続けるのだよ」
「お前は一体何なんだ?」
 その問いには答えず、化け物は、消えた。私は頭が狂いそうだった。私の脳の中で走り回っていた化学物質は分解されつつあった。だが、その最後の閃きで異界からの言葉を聴いたような気がした。それはこう言った。
-アダム・カダモンだ-と…

 目を覚ますと、また夜だった。薬をやった後はいつもこうだ。記憶の収集がつかないのだ。
 窓からの夜風に誘われて外を見ると、駅のホームに人影を見つけた。一人の男だった。どこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せない。隣にはトランクを持った背の高い女がいる。
 しばらくすると、少年がどこからともなく現れ、彼に歩み寄り、こう言った。不思議なことにその言葉は、はっきりと聞こえたのだ。
-この方がぼくの新しいお父さんなのですか-
 目を転じると少年はいつしか姿を消していた。
 薬のやりすぎだ…
 小説を書こう、また出版社から催促されるのはご免だ。
 窓から見た先ほどの光景を思うと、なんとなくストーリーが浮かんだ。
-あの男を主人公にしよう-
 そうして私はまた幻想の夜へと旅立つのだ。そう…小説のタイトルは…
-夜の旅行者-
 私はゆっくりワープロにそう打ち込んだ。
(1997/12/09 19:14 by ひろ)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(あるいは、またひとつの結末)

「私を誰と思っているのかい。名探偵は趣味にして仮の姿。本職こそ大魔術師。魔術師は錬金術師のヴァリアント。ということは、科学者ということさ。科学者にとって、こういう謎こそ最も特異とする分野。見ただけで分かったさ。簡潔明瞭なトリックだよ。物理学を少しだけでも知っていれば簡単に解答できる。つまり、物理学トリックいう奴だ。さあ、ではその残った1%の謎の解答を話そうか」からの続き。


「さて、中端さん。人間の体がなんの推進装置もつけていないのに、ロケットのごとく空中を飛んでいくことなどありうると思いますか?」
 紫門隼人は、鼻の下を人差し指の背で擦りながら、勝ち誇ったように笑った。私は首を振った。そんなことなどあるはずがない。ロケッティアもジェームズ・ボンドも光速エスパーもみんな小型ロケットを背負っていたから空を飛べたのだ。スーパーマンやウルトラマンはロケットなしで空を飛ぶが、彼らは地球外生命体であり、一種の超人なのである。東丈が空を飛べるのは念力で自分の体を持ち上げているからであって、これも超人の部類に入るであろう。
 ところで書き忘れていたが、私の本名は中端滓弥というのだ。
 ミステリを書くときのペンネームは火鳥橋弥。
 ときどき囃子滓人という筆名でポルノ小説なども書いている。「すべてがMになる」や、その続編「すべてがSになる」はSM小説の極致といわれている名作なのでお読みになった方も多いのではないか。
 私は本名をかたくなに隠している。それなのに紫門が私の本名を知ってたので一瞬ぎょっとなってしまったのだが、すぐに彼が魔術師であることを思い出した。私は何でもすぐに忘れる癖があるのだ。おそらく彼は人知の及ばぬ方法で私の本名を見抜いたに違いない。
「ところで中端さん。パソコンのなかにあったあなたの書きかけの原稿を読ませてもらいましたよ。ほら、私が主人公の『夜の旅行者』を。私はこの作品に今度の事件解明の鍵が隠されていることに気づきました」
「どうして、私の頭のなかで作りあげたフィクションの世界が、現実の事件と関わりを持つというのだ」
「ミステリに登場する名探偵が潜在的に犯人を知っているように、現実世界における犯罪の被害者もまた、潜在的に犯行のおこなわれる可能性に気づいているものだからです。よくあるでしょう。自分が殺されたら誰それを疑え、と友人にいい残して殺されるケースが。
 犯罪の兆候は、日常生活のなかでの本当に些細な異変でしかないかもしれません。普段気軽に挨拶をかわす人間が急によそよそしくなったり、反対に口をきいたこともないような隣人が挨拶の声をかけてきたりとか、愛人からの電話の回数が多くなるとか、手紙の類が一度開封されているのではないかと思えるようなことがたびたびあったりとか、乗物に乗ると親切に席を譲られたりとかいうような……。
 しかし、そういった些細な違和感が被害者の心のなかで、澱のように堆積していくことにより、自分が得体の知れない犯罪の対象にされていることに被害者は無意識のうちに気づいてしまうものなのです」
「だからといって、私の小説がどうして今回の事件を解く手がかりになるというのだ?」 私は紫門の話を遮った。探偵の長講釈につきあっていられるほど私は暇じゃないのだ。下手すると私が犯人と断定されかねないこの状況のもとでは。
 紫門は呆れたような顔で私の目を覗き込んだ。
「ふふふふふ。まだ気づいてないようですね、中端さん。今回の事件の本当の被害者が誰かということを!」
 私の背中を冷たい汗が流れた。そんな! まさか!
「中端さん。あなたは『夜の旅行者』の最初の稿で、突然姿を消してしまった少年を描いてますね。その少年の動きはぎこちなく、まるで生きているようには見えなかったという。少年が姿を消したとき、そのそばにあったものというのが……」
「ひ、緋色のスーツケースだ……」
「あなたの頭にはスーツケースに入ることができる生命を持たない少年のイメージがあったはずです」
「そ、そうだ。最初のうちはそのように話を展開するつもりだった。ただ、それでは当たり前すぎておもしろくないので、変更したのだ」
「スーツケースに収まる無生物の少年、それは腹話術の人形と考えてまず間違いないでしょう。ミステリで腹話術の人形といえば、我孫子武丸作品に登場する鞠男が有名です」
「いや、ほかにも少年マガジンに連載されていた漫画で、腹話術の人形が探偵という作品があったぞ。こちらのほうが読者数が多いはずだ」
「あなたはその人形の名前を思い出すことができますか?」
「い、いや……」
「ほら、ご覧なさい。名前を思い出すこともできないような作品が有名だとはいえないでしょう。たとえ物理的には多くの読者の目に晒されていたとしても。
 ともかくも、今回の場合、鞠男という名前が重要なのです。それは、あなたの頭のなかにはマリオというフレーズがわだかまっていたからなのです」
「マリオ……マリオネットかっ!」
「その言葉に心当たりはないですか?」
「そういえば、このマンションの一階に人形職人が住んでいるのだ。先日回覧板を届けた際、何気なく工房を覗いたら作りかけの等身大の人形があった。その男が普段作る人形は関節が固定式のマネキンのようなタイプなのに、その人形は関節が可動式だった。おや、マリオネットのようだなと思って、首を伸ばして覗き込むと、その男はあわてて人形にカバーを掛けてしまった。そのときの狼狽ぶりが妙に気になっていたのだ」
「あなたはそのとき、無意識のうちに犯罪の臭いを嗅ぎつけてしまったのですよ。その無意識で捉えられたイメージが変形して、作品中に無生物の少年の姿を借りて噴出したのです。
 次にあなたの作品に登場する蒼列車ですが、これがなにを意味するのかは簡単明瞭ですね」
「『青列車の謎』……クリスティだな」
「そのとおり! クリスティの『青列車の謎』といえば犯人は……」
 私はここで紫門がしゃべるのを制した。これ以上しゃべると『青列車の謎』のネタバレになってしまう。
「ちょっと待ってくれ。ネタバレ改行を入れるから」
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「おいおい。どこまで改行を入れるつもりですか? あまりこんなことをすると、たんなる枚数稼ぎと思われますよ」
 む、見抜かれていたか。
「じゃあ、続けてくれ」
「『青列車の謎』といえば、探偵以外の乗客全員が犯人だったという作品ですね。あなたは無意識のうちに、これから起こる犯罪を予知していたのです。その予感が蒼列車というフレーズを作品中に書かせたというわけです」
「そんなことがあるわけはない」
「中端さん。あなたは作家だ。一般人の生活とは昼夜が逆転したリズムで生活を送っている。あなたが深夜に起こす生活騒音は、階下や隣近所の安眠を妨げている。彼らがあなたを恨んでも仕方がないことなのです。
 しかも、あなたは他人の生活を覗き見るという悪癖も持っていた。あなたは卓越した登山技術を駆使し、深夜このマンションの屋上からたらしたザイルにぶらさがって他人の部屋を覗いていましたね。しかも、その覗き見た他人の秘事をなんの脚色も加えずに作品にしてしまうという頭の悪さだ。このマンションの住人は全員あなたに嫌悪感を抱いていたのですよ」
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だあぁ! そんなはずはない。このマンションの住人はみんな作家である私を尊敬しているはずだ。今日だって隣の奥さんが、今晩はどちらかへお出かけですか、お出かけでなかったら夜食をお持ちしますよ、と優しい声をかけてくれたんだぞ」
「いつものことですか? それは」
「いや、ここ二、三日のことだが……」
 そういって私ははっと気づいた。そうか。私が部屋に確実にいるかどうか確かめていたんだ。おそらくは私を罠にはめるために……。
「ホームにいた女。あれはマリオネットの人形ですよ。ばれないように暗いほうのホームに立たせておいたのです。あなたをおびき寄せるために。それが証拠に女はひとことも口をきいてはいない。嘘だと思ったら読み返してみなさい」
「しかし、あなたの魔法で映し出された映像では、女は表情を刻々と変えていたではないか?」
「あれは光の当たる角度によって生じた錯覚にすぎません。ほら能面が顔のうつむき具合を変えるだけで表情が変わって見えるのと同じ理屈です」
「なぜ私を外へおびき出すのに、わざわざ人形を使う必要があったというのだ?」
「それは、あなたのほうがよくご存じなのでは?」
 あー、そうなのだ。私は女癖が凄くすごーく悪いのだ。深夜女が一人で歩いているのをみると、すぐに押し倒したくなるのだ。さすがに近所に住む女性にはそんなことはできないけれども。今晩声をかけた最初の女にはスーツケースで逃げられてしまったが、女が逃げてなければ私はレイプしていたことだろう。
「人形がロケットのように私の部屋に飛び込んだ理由は?」
 私はおそらくは青ざめているだろう顔の上で両手を拭うように動かしながら尋ねた。
「人形があなたの部屋に飛び込んだのは単なる偶然ですよ。おそらくは、このマンションの屋上から勢いよくテグスでひっぱって人形を回収するというのが当初の計画だったのです。そうすると、あなたの目には、女の姿が掻き消えたように見えるからです」
「なぜ、そんなことをするのだ?」
「考えてもみなさい。あなたの目の前から幽霊のように消えた女が、死体となって部屋のなかに転がっていたとすると、あなたはどうする?」
「泡食って部屋から飛び出すね。たんなる死体だったらまだ我慢するが、幽霊といっしょにいるのはごめんだ」
「そして、隣の部屋に助けを求めにいくんじゃないかな。隣の奥さんには夜食のことで優しい声をかけてもらっているからね」
「おそらく」
「連中もそう考えたのだ。たぶんあなたが隣の部屋に飛び込んだのを見計らって死体を運び出すつもりじゃなかったのかな。そうすれば警察に通報したあんたが笑い者になるからね。やつらはあなたを笑い者にしてこのマンションから追い出す計画だったのだ。ところがその計画に齟齬が生じた」
「齟齬?」
「そう、私の存在、そして私の闘いだよ。やつらの計画には私というファクターは存在していなかったのだ。ひとりの目ならごまかせてもふたりの目をごまかすことは難しい。一度女が人形だと見抜かれてしまえば、計画を再度実行することは叶わなくなってしまう。やつらは私がいきなり現れたので、すぐに計画を中止して人形を回収しようとした。ところが私は得体の知れない怪物と闘い始めた。やつらは私たちの動向を一部始終見守り、あなたと私が別れの挨拶を交わしている隙に、勢いよく屋上からテグスをひっぱって、人形を屋上に回収しようとしたのだ。ところがここにも予想しなかった因子が働いていた。例の魔界馬車だよ。馬車が舞い降りてきたとき、車体の一部がテグスを僅かにかすめていた。その疵のために、引き上げる途中でテグスが切れてしまい、人形がこの部屋に飛び込んでしまったという訳なのだ」
「よくもまあそのような西澤保彦も真っ青の妄想推理をくっちゃべることができるもんだ。は、呆れたよ。おまえの推理には裏付けがひとつもない。証拠を見せてみろよ。え〜、証拠を」
「マンションの住人たちはあなたに恥をかかせて追い出すことだけが目的だった。したがって殺人を犯したりするはずはない。しかし、どのようによくできた人形だろうと、間近で見られたら死体だといって欺くことはできない。と、するとそこの死体は……」紫門はここまで一気にしゃべってから死体に向かって「もういいでしょう!」と声をかけた。
 すると女の死体が肩を小刻みに震わせながら起きあがった。両脇から大きめのビー玉が転がり出す。ビー玉を押しつけて脈を止めていたのか……。なんという古典的なトリックだ。
「くっくっく。ああ、可笑しかった。笑いを堪えるのにずいぶん苦労したのよ」
 そういいながら女は、額に爪を立てて顔の皮膚をばりばりと剥がした。その下から現れたのはよく知っている女の顔だった。このマンションの五階に住む女子大生。彼女は、私がいつも利用している古本屋でバイトをしていた。
「特殊メイクだったのか……」
「そうよ。私はこう見えても女優の卵。特殊メイクをしてくれる知り合いには事欠かないわ」
「なぜ、きみがこんなふざけた計画に荷担しているのだ」
「中端さん。ご自分の胸に手を当てて考えてみたら?」
 あ〜、そうなのだ。私は好みのタイプの女性を見かけると、ついついストーカー行為を働いてしまうのだ。勤務先に待ち伏せしてみたり、無言電話をかけたり、マンションの部屋の前で座り込んで夜を明かしてみたり。稽古を終えた彼女が劇団から帰る跡をつけまわしたこともある。彼女のバイト先の古本屋に一日中いたこともたびたびある。私は書架の陰から、彼女がかいがいしく働く様を、じっと見守るのが好きだった。しかし、これらの行為は紛れもなく私の純愛の証なのだ。彼女もわかってくれていると思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。私は肩を落とした。
「わかったようね」
 女が冷たくいい放った。
「じゃ、私の推理が正しかったことが証明されたようなので、これで帰ります。中端さん、さようなら」
 紫門が帰りかけたので私は慌ててひきとめた。
「ちょっと待ってくれ。これではまだ、あの最初の再現フィルムの謎が解明されていないではないか。私が頭突きで女を殺していたシーンが映っていた謎が。それとも最初の魔術は失敗していたとでもいうのか」
「ああ、あれ。魔術の失敗ではないですよ。ただ、あのシーンは殺害シーンではなかったのです」
「どういうことだね?」
「今回の中端追い出し計画にあまりにも多くの人間が関わりすぎたことで生じた、ちょっとしたアクシデントだったのです」
「???」
「いいですか。最初の計画では、ひとつの班が屋上で人形をひきあげているあいだに、別の班が死体役の彼女をあなたの部屋にセットする手はずでした。ところが人形は屋上にではなくて、あろうことかあなたの部屋に飛び込んでしまった。慌てた屋上班のひとりがあなたの部屋に人形を取りに行ったのですが、人形はすでに死体セット班の手によって運び出された後であり、あなたの部屋で横たわっていたのは人形ではなくて、死体の扮装をした彼女だったのです。
 人形だと思って運びだそうとしたら、彼女がびっくりして目を開けた。なにすんのよ、とでも怒鳴ったことでしょう。そこで男は彼女にあやまったのです。そう、頭突きに見えたのは、たんに男が彼女に対して頭をしきりに下げているところだったのです」
「しかし、再現フィルムに映っていたのは私のようだったが」
「世の中には、自分に似た人間が三人はいるといいます。このマンションのなかにあなたと似た男がいたところでなんの不思議があるでしょう。心当たりはないですか?」
 あ〜、そうだ。今思い出したぞ。四階に住むあの男だ。いつもサングラスをかけていて、私と合うたび妙に目をそらそうとする男。輪郭や鼻の形が私と似ているといつも思っていたのだが、あの男ならサングラスをはずすと私そっくりになるのではないだろうか。
「しかし、その男がなんで私を追い出そうとするのだ?」
「自分と似た男が近所に住んでいて、しかもそいつの性格が悪かったとしたら、十分憎悪の対象になるのではないでしょうか? 近親憎悪に近い感情かもしれませんね。おや、部屋の外にみなさんが来てるようですよ。追い出し計画が成功していたなら解消されていたであろう彼らのあなたに対する嫌悪感が、行き場を探して膨れ上がっているのを感じますねえ」
 紫門が愉快そうな口調でいい終わると同時、錠が解除され、入口のドアがゆっくりと開いた。嫌悪を露わにした住人たちが部屋のなかを覗き込もうとしている。中央に見えるのは管理人の夫婦だ。彼らが計画に荷担していたのでは通常の施錠は無意味化してしまう。本格推理では完全な反則技だ。しかし、この作品は本格推理ではないので私はそれを指摘することができない。廊下に大勢の人の声がする。どうやらマンション中の人間が集まっているようだ。私はこんなにも嫌われていたのか。今更ながら慄然となる。
 やつらが入ってきた。やつらの手には、包丁やら、ナイフやら、棒きれやら、思い思いの武器が握りしめられている。山登りで体を鍛えてはいるものの、これだけの多人数を相手に生き延びることができるとは到底思えない。私は身を翻して、ベランダに向かって突進した。二階からなら怪我ひとつしないで飛び降りる自信がある。
 私がベランダに出たとたん、庇から黒い物体が私の顔に飛びついてきた。
 うっきぃ!
 猿だ。屋上の檻で管理人が飼っている猿のmitoだ。顔に爪を立てる。こいつも、断りなく密室トリックにつかったので怒っているのだろうか。私は必死で猿を顔から引き剥がした。
「マジ切れ!」
 貧弱な体格の若者が、赤い大文字(タグが使えない方は残念)で叫びながらバットを振り上げ襲いかかってきた。資料収集のバイトに雇ったことがある先斗町大学に通う学生だ。確か名前を町本落史とかいった。おまえの恨みを買う覚えなどないぞ。あ〜、そうかあ。以前小松菜だと偽ってチンゲンサイを食べさせたことを恨んでいるのかあ。私はひるむことなく町本に向かって踏み込んでいき、バットの根本に近い部分を肩で受け止めた。武術の心得のない者は後ろに下がってバットを避けようとするが、それは間違いだ。バットでぶたれる衝撃は先端になるほど大きいので、懐に飛び込んだほうがダメージが小さいのである。とくに今のように相手が非力な場合には……。私はバットを肩で受け止めるや、町本の鳩尾に肘を打ち込んだ。あっけなく頽れる。
 きゃあ!
 絹を裂くような悲鳴があがった。見ると、町本と同じ大学に通う夢岡である。町本がバイト中に、何度か遊びに来たことがあるので知っているのだ。町本と夢岡はその筋の関係があるという。ここでいうその筋というのは、やの筋ではなくて、ほの筋のことである。今の悲鳴を聞くと「ほ」の噂は正しいのではないかと思われる。夢岡は感じ悪い色の掲示板を振りかざして突進してきた。私は町本から取り上げたバットで、掲示板ごと真っ向唐竹割りに殴りつけてやった。掲示板はふたつに割れ、夢岡は頭から血を流して仰向けに倒れていく。ざまを見ろ。今度から掲示板は感じいい色にしなさい。
 マンションの住人たちは私があまりにも手強いため狼狽えはじめた。しめた。このままでいくと逃げられる! そう思ったとたん、どろどろした液体がべしゃっと顔にかかった。わっ、これは私がキッチンに隠しておいたシチューではないか。なんてことをしてくれるんだよぉ。せっかく一週間分の食事として作っておいたのにぃ。呆然となった隙に、まわりから一斉に殴られてしまった。
 ブラックアウト――

 フェードインした景色は味気なくも薄汚れた白色をしていた。私の部屋の天井だった。私は何人もの人間に手足を押さえつけられて、床に横たわっているのだった。ふいに天井の白色とは別の白色がちらちらしてきた。ミニスカートの女が私の顔の上をまたいで白いパンティを見せつけているのだ。普段なら喜ぶべき状況なのだが、こんなときには素直に喜べないものだ。女はしゃがみ込んで私の顔を覗き込んできた。
「ねえ、わたしを覚えてる?」
 女の顔には見覚えがあったが、どこの誰だかは思い出せなかった。
「あいにく、女の顔をいちいち覚えているほど純情じゃないんでね」
「きぃ! くやしいわ。あなたは二十四歳だといってわたしに近づいてきたのよ。あんなことやこんなことも一杯したくせに〜」
 あ〜、そうだった。思い出した。京都でひっかけたOLだ。私は童顔なので年齢を偽って若い女をナンパすることがよくあるのだ。しかし、あんなことやこんなことがどんなことだったのかは思い出せなかった。
「許せないっ!」
 女はそう叫んで、手にしたカッターナイフの刃を私の右頬のあたりに当て、横にすっと引いた。すぐには痛みを感じなかったが、しばらくすると激しい痛みが襲ってきた。
「次は私の番ですよ」
 覗き込む男の顔に見覚えはなかった。
「あんたなんか知らんよ」
「お忘れですか? 私はMHKの集金人ですよ。あんたには随分酷いことをいわれましたよ」
 あ〜、思い出した。私はMHK受信料の不払い運動家なのだが、以前異常にしつこい集金人に罵詈雑言を浴びせかけて追い返したことがあった。そいつがこいつだったのだ。
「じゃ、私はこの辺にしましょうかね」
 カッターの刃をちきちきと鳴らしながら左頬に押し当てる。そのとき視界の端に、紫門が腕組みをして所在なげに立っている姿を捉えた。
「紫門。助けてくれよ。このままじゃ俺は殺されてしまう。俺とお前の腐れ縁はこれからもずっと続くはずじゃなかったのかあ」
 私は『この不思議な出会いが超絶的な能力を持った名探偵紫門隼人との腐れ縁の始まりだったということを、私はこのとき知る由もなかった』という文章を引き合いに出して、紫門に助けを求めた。(ざくっ)
「ああ、あれはミスディレクションですよ」
 紫門はあっさりと答えた。(ぐさり)
「そんなあ……。それにこのまま終わると、『読者への挑戦』に書いてあった『エントロピー保存の法則』が全然生かされてないじゃないかあ」(ぐさり)
「ああ、それもミスディレクションですよ」
「『読者への挑戦』でミスリードするのは反則じゃないかあっ」(ぐさっ)
「ミステリは様々な既成概念をうち破ることによって、新たなトリックを発明してきたジャンルですよ。そういうことがあってもいいのではないでしょうか?」(ぐさ)
「そんなこといわずにさあ。助けてください。紫門さまあ!」(ぐさ)
「あなたはパソコンのデータを消去して、一度は私の存在をこの世から抹殺しようとした人間ですよ。そんな人間を私が助けるとでも思っているのですか? 甘い甘い。蜂蜜をかけた井村屋の羊羹のように甘すぎますよっ」(ぐさ)

 もう幾本のナイフが私の体に突き立てられたことだろう。意識が朦朧としてきて、これ以上話の続きを物語ることなどできそうにもない。
 でもこれだけはいっておきたい。
 こんなラストは嫌だ!
 こんなラストは嫌だ!
 こんなラストは嫌だ!
 今度こそ誰にも迷惑をかけないで生きていくことを誓います。リレー小説に乱入してメタにしたりなんかしません。チャットで偽名を使ったりなんかもしません。
 だから、これを読んでる誰か、もっとちゃんとしたラストを書き込んでください。
 お願いしますぅ。
 お願……

       (あるいは、またひとつの結末  サブタイトル『中端最後の事件』――完)
                                     by mf
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(1997/12/11 19:24 by ふーまー)
<夜の旅行者 いままでのあらすじ>

 侘びしい駅で謎の女からスーツケースを受け取って旅に出た紫門氏は、旅の途中でタクシー運転手から啓示を受け、突如自分が名探偵であることを自覚する。そして丁度その頃ミステリ作家の「私」は、見知らぬ女が密室状態の自分の部屋で死んでいるという怪事件に出会い、困惑する。「私」から呼び出しを受けた名探偵紫門氏は、得意の魔術を駆使して、快刀乱麻の名推理を披露する。解決は間近い。

       ………………………………………………………

「…簡潔明瞭なトリックだよ。物理学を少しだけでも知っていれば簡単に解答できる。つまり、物理学トリックいう奴だ。さあ、残った1%の謎の解答を話そうか」紫門氏はそう言うと一息ついた。…しかし、次の言葉がなかなか出てこない。沈黙の時間が続いた。そして、アーとかウーとかうめきながら部屋のなかをせかせかと歩き始めた。
「…いかん。数式を用いて物理的,論理的思考を話し出そうとしたら、頭が回転を拒否しだした。私は元々文系なんだ。文系科学者なんだ。数字が出だすともうダメなんだ。大体麻雀の点数の計算も暗算できないほどなんだから。真実は頭のなかに明瞭にあるのに、うまく言葉にすることができない…」彼はイライラし始めた。
「解答があるのに答えられない。何と苦しいんだ。まるで、ブドウの実の下の狐のようだ。うーん。そうだ! 私は魔術師だ。理系が得意な奴に説明させればいいんだ」
そういうと彼は部屋のなかにマジックで妙な文様を書き始めた。なるほど、これが魔法陣というやつか。しかし、それで何を呼び出すつもりなのか。紫門程度ならよいが、象とか鯨とか、或いは吸血鬼みたいな奴じゃ困るぞ。あ、もう変な呪文を唱えだした。
「おいおい、待ってくれよ。私は一般人なんだ。まじめに暮らしている人の部屋に妙なものを出現させないでくれよ」
 呪文を唱えながら紫門は答えた。
「心配いらない。今日の私は非常に冴えている。バイオリズムは最高調だ。今なら出来る、この大魔法。この時を逃して、古の世界の支配者、知恵あるものの象徴、伝説の賢者クトゥルーを召還する時はない! 私は彼を呼び出すために今まで生きていた」
 いかん。自分の世界にひたりきっている。それに、何やら魔法陣からモクモクと嫌な臭いのする煙が立ちこめ、部屋に充満しだしてきたぞ。遠い世界からのうなり声のような音も魔法陣の奥から響きだしてきた。それをみるうち、私にも妙な期待感が生まれてきた。当たり前だが、魔物の召還なんて生まれて始めて見る。わくわくと軽い興奮を覚えながら、私は魔法の進行を見守った。緊張感はどんどん高まってくる。
 「いでよ、クトゥルー!」紫門は叫んだ。
 わ、いきなり私の上に重たいものが降ってきた。と同時に、目の前が真っ暗になったぞ。それに何だかネバネバするものが体中に絡み付いてきて、無秩序に蠢きだした。微かにする異臭は潮の香りか。私は驚愕のあまり、ジタバタして、「わー、何だ。何だ。助けてくれー」と部屋を転げ回った。しかし、私の上に降ってきたものも同じように驚愕してジタバタしていたようで、私が転がると同時に私から離れた。顔を拭うと、私の目の前にそのクトゥルーが居た。…居た。…確かに居た。…居る筈である。しかし、これは、…タコである。どうみても単なる大ダコである。所在なげに8本足をニョロニョロ動かしているこの一見まぬけな生物を昔から人はタコというのではなかったっけ。実はタコこそ、古代の世界の支配者クトゥルー? 意外な正体…!  な、わけないか。
 「おい、紫門君。これは一体どういう訳だ。何かのギャグなのか?」
 私は振り向いて紫門氏をなじった。しかし、一瞬で言葉が出なくなった。紫門氏は顔を真っ赤にして、ブルブル震えだしていた。その顔は憤怒の形相であった。紫門氏はツカツカとタコに近づくと、いきなりタコをげしげしと殴り始めた。
「何で、天井から落ちて来るんだよ〜(げしげし)。俺がせっかく魔法陣作ったのに〜(げし)。ひとの苦労を何だと思っているんだよ〜(げしげし)。ひとの親切にはきちんと応えなさい、ってお母さんから習わなかったのか〜(げし)。この野郎、俺の魔法陣を馬鹿にしやがって〜(げし)。俺を無能な魔法使いと笑ってるな〜(げしげし)。このタコ、タコ、タコ〜」何だか訳が分からないが面白い擬態音で紫門氏はタコを殴り続けていた。そのうち、軟体動物を殴る手応えのなさに憤ったらしく、いきなり足を一本つかむと満身の力を込めて、胴体から引きちぎった。「○*●※…!」タコ語は分からないが、「痛え〜!」という風な叫び声をタコは上げた。今まではいきなり呼び出されて全く状況が把握できす、ポカンとしていた状態らしかったが、さすがに足を一本引き抜かれては、猛烈に痛いんだろう、足をバタバタと激しく動かし、暴れ出した。そして、痛さのあまりか、真っ黒な墨を吐き出した。わ、部屋が汚れてしまう。私は紫門氏を羽交い締めにした。「落ちついて、落ちついてくれ〜」紫門氏はタコの別の足を握ったまま、まだじたばたと暴れていたが、私がきちんを関節を決めていたので無駄な動きは封じ込められ、だんだんと動きが止まって来た。しかし、まだ「魔法は正しいんだ、魔法は正しいんだー」と喚いている。私は紫門氏をなだめた。「その通り、君の魔法は完璧だ。堪能させてもらったよ。定型的な魔法なんて誰でもできる。魔法陣から魔物が出てくるのなんて、いくらでも見たことあるけど(おいおい)、そこでフェイントをかけて、魔法陣からではなく、いきなり天井から出すなんて、見事な技だよ。驚いたよ。こんな遊び、よほど余裕がないとできないに決まっている。素晴らしい。ワンダホー。まさに大魔術師の技だよ」出会ってまだ短いが、大体この男とのつきあい方は分かってきた。
 紫門氏の動きが止まった。私が体を離すと、向き直って、いつも立ち直りの早さで明るく答えた。
「その通り、よく分かったね。まあ、君なら分かると思ったよ。玄人にしか分からない芸。やはり、やってみて良かった。これぞ大魔術師の大魔法、君もみられて幸運だよ」
「そうだ。本当にラッキーだと思うよ。…しかし、ちょっと教えてくれよ。このタコ、一体何なんだい。何かのギャグなのか」
「タコだなんて、何て失礼なことをいう! この方こそ、古より幾星霜の年を生き延びた世界で最も知恵あるものの眷属、その名も、賢者オクトパス・ハッポン氏である」
 やっぱりタコじゃないかいなと思いつつ、そう言われよくみると、座っているのに(?)私の腰の高さまである巨大さ、それにR2-D2を思わせる賢そうな丸い頭、確かに賢者のおもむきはある。そのハッポン氏、紹介されるも、目をうるうると潤ませて、何か山ほど文句を言いたそうな風情。しかし、さっきの紫門氏の凶暴ぶりをみたあとでは、文句など切り出せる状態ではない。
 紫門氏はハッポン氏に向かって言った。
「先生、今日は解決してもらいたい事件があるんですよ。密室殺人事件というやつですが、いえ、密室のほうは解けたんです。あと、人間がロケットのように飛ぶというのが。ほら、物理トリックという奴ですよ。これにもってこいの何かの法則がありましたよねー。あれを分かりやすく教えて頂きたいんですよー」
 ハッポン氏は、しばし目を閉じて黙考した。そして、目を開けると、厳かな雰囲気で、「♯○&×…」と語り始めた。

………「君、分かるね」紫門氏は真剣な表情で尋ねた。こんなタコ語など分かるわけない。
「分かるわけないでしょう。親族、身内、どこにもタコはいません、タコの知り合いもいません。ましてや、タコ語など習ったことも聞いたこともありません」
 紫門氏は愕然とした表情を浮かべた。そして額に青筋が立ってきた。手が震えだしてきた。悪い徴候だ。「分からん…俺にも分からん。大誤算だ。タコ語を喋るタコがやって来るなんて。せっかく呼びだしたのに。全身全霊をかけて完璧な魔法をしたのに。くそ〜!」
 ハッポン氏はおびえた表情を浮かべた。
紫門氏は詰め寄った。「日本語を喋れ、ここは日本だぞ。日本で外国語を喋るなんてて非常識なことはしないでくれ。」勝手に呼び出しといてそれはないだろうと思ったが、勿論口には出さない。
 ハッポン氏は必死の表情で、「&※●#◎…」と急いで喋る。
 紫門氏の顔は怒りのあまりか、段々蒼ざめてきた。そして、低い声で静かに話し始めた。
「なあ、おい。俺は頼んでるんだよ。恥を承知、無知を自ら認めてあんたの言葉は分からんと言ってるんだ。日本語、日本語を喋ってほしいんだ。ここは日本、今あんたは日本にいるんだ。日本語なんて簡単だろう」
 ハッポン氏は怯え、後ずさりしだした。震えた声で、「◎*@※…」という。
 プツン、という音が私にも聞こえた。紫門氏がキレた。
 「このやろ〜。何で俺の言うことがきかない〜」 そう叫ぶと、またタコの足を一本つかみ、ブチッと切った。そして、その足で、「何でだ〜。何で俺の言うことをきかない。どいつもこいつも聞かない。何で、皆俺の女房の真似をする〜。俺がバツイチなのがそんなにおかしいか〜」と喚きながら、タコをげしぼしと殴り始めた。タコは慌てて、逃げようとするが、そこがタコの悲しさ。慌てるあまり、足がからまり、全然進めない。そして、また紫門氏に足をつかまれ、引きちぎられた。「○×◎×〜!」…「痛〜い」というような悲痛な叫びがまた響き渡る
紫門氏は激高したまま、叫ぶ。「さあ、痛い、と言え。ここは誰でも、痛いというんだ! さあ、言え。今言え。さっさと言え〜」そして、またタコ足でどべだびと殴り出す。あんまりだ!。私は後ろから、叫んだ。「おい、あんまりだよ。これはタコじゃないか。何千年もタコやってた奴にいきなり日本語喋れだなんて、あまりに無茶だよ」しかし、紫門氏は「馬鹿なこと言うな! このタコ野郎。タコはみんな瀬戸内海、明石の産って決まっているんだ。みんな日本人なんだ。日本人は日本語喋るんだ。」と言い返す。「おい、頼む。もう止めてくれ。そりゃ、明石にタコはたくさんいるよ。でも、日本語喋る奴なんてみたこともないよ」紫門氏はしかし納得するわけもない。「何故、努力しない。赤ん坊だって努力して喋るんだ。みんな努力して言葉喋るんだ。猫だって日本語でにゃ〜と鳴くんだ。」そしてげぼどらと殴り続ける。もう何が何やら分からない。
 大ダコは足で頭をかばいながら、目に大粒の涙を浮かべ、私を救いを求めるように見つめる。 可哀想じゃないか! 何の罪もない動物をこんなに虐めるなんて。動物愛護の精神にも反している。しかし、紫門氏を取り押さえようにも、タコ足をぶんぶん振り回しているので、危なくてとても近づけない。私は、走ってタコに抱きついて叫んだ。「タコを殴るんなら、俺を殴れ〜」紫門氏は躊躇もせず、私ごとタコ足で殴った。☆! 痛え〜!タコ足なんて軟らかいから大したもんじゃないと思っていたが、大ダコの足だけあって一本が大人の腕の太さくらいある。それで全力で殴られるんだから、痛いの何のって。私は振り向き「やめろ〜」と叫んだ。しかし、紫門氏、もう目がすわっている。そして、また更なる一撃を加えようとして、タコ足を振りかぶった。わー、あわてて私はタコから離れ、逃げ出した。わが身が大事、逃げるが勝ちだ。大体、私にタコをかばう義理なんてない。それに私はタコが好物でよく食べていた。今更、タコ愛護なんてのも変だよ。うん。もうつきあっていられない。勝手にしやがれ。
 私は台所に退避した。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ぐびりと一口のんだ。あー、うまい、蘇るよ。奥の部屋からは、タコと紫門氏の喚き声が聞こえてくる。「喋れ〜、痛いと言え〜」「◎●*&×〜!」「まだ分からんか〜、よし、二本で殴ってやる〜、二刀流だ〜(びしべし)」「○×○※…!」「喋れ、頑張れ、努力しろ〜、努力の努の字って、女の又に力って書くんだ〜」…ああ、毀れている。何でこんな毀れたやつが探偵役なんだよ。責任者出てこい、ほんとに。私は座り込んでビールをまた飲んだ。
 …それにしても、と私は思った。作者、滅茶苦茶しやがるな。リレー小説の面白いところは、自分でキャラつくらなくていいとこと、いいかげんに終わっても続きがちゃんと出てくるとこだろうけど、それにしてもこれはひどい。人のキャラだと思って。本来なら、これだけ毀れた人物出すと、何か作者まで毀れているように思われるもんな。でも、自分で出したキャラじゃないから、もともとこういう人物なんですよ、って言えばいいだけだもんな。自分の作ったキャラじゃ、ここまで毀しきらないよなー。タコだって虐めすぎだよ。ひろさんにも悪いよな。まあ、タコは足を引き抜いても、また生えてくるからいいか。いや、そういう問題じゃないよなー。それにいつまで続くんだよ、このタコの章。解決編に全然行きつかないじゃないか。リレー小説にしては、今の量だけでも言外な長さだよな。本当なら、もう適当なところで切り上げていい筈だよ。でもタコ殴りの途中で止めて、はいどうぞ、って渡されても次のwriter困るだろうしなー。などと、妙なことを考えているうちに、いつのまにか奥の部屋の騒動は収まっていたようだ。私はおそるおそる覗いてみた。
 ここに感動的なシーンが待っていた。この長い「夜の旅行者」中、最も感動的な場面が待っていた。この章に呆れて、途中で投げ出した人にはこの感動は訪れなかった。喧噪のなか、パソコンに向かっている読者諸君、あなたたちは幸運だ。今ひととき、日々の雑事を忘れ、このブラウザのみを見つめよ。そして、泣け。心からの慟哭に今はただひたろうではないか。…部屋のなかでは、紫門氏ともはや足が一本もないタコが向かいあっていた。タコはおどおどと何か喋っている。それは、微かだが、はっきりと響いてきた。
「イ…タ…イ」
 紫門氏は握っていたタコ足をぼとりと落とした。「…今、何を…」
「…イ…タ・イ」
 まさに奇跡の瞬間、あのヘレン・ケラーの「…ウオーター…!」の叫びにも等しい、幾多の艱難を乗り越えて、得た響き。ついに、異人種との会話の扉が今開かれたのだ…
 
 紫門氏は大タコに抱きついた。そして、大声で泣き出した。「よかった。よかった。俺の魔法が実った。俺の魔法はタコにも言葉を与えられるんだ…」殴ってただけじゃないか、なんて突っ込みは勿論入れてはいけない。さて、紫門氏は少し離れ、スクっと立つと言った。「さあ、語ってくれ。物理トリックの謎を。時間がない。早く終わらないと、飲み会が終わってしまう」一応、会話の必要のおおもとの理由は覚えていたんだな、と感心はする。
 タコは、もとい、ハッポン氏は自信ありげに、「…イ・タ…イ…イタ…イ」と答えた…… 私は凍りついてしまった。そうだよな、急に50音話せるようになる訳ないよな。
 しーーん。
 深刻極まる沈黙が部屋を満たす。
 しばらくして、紫門氏は静かに「ん…、何?」と訊き返す。
 ハッポン氏は、怯えきった表情で、「イ…イ・タ…イタ・イ…」と言う。
 ぶつん、また、紫門氏のキレる音が鳴った。
「この野郎〜、状況は全く変わらないじゃないか〜。いいかげんにしろ〜。何のために俺が努力したと思ってるんだ〜!」紫門氏は、また足を引き抜こうとしたが、もう足が残っていないことに気づき、「この野郎、首を締めてやる〜」と言って、タコにつかみかかった。しかし、つかみかかったものの、タコの首がどこにあるのか皆目見当つかず、更に逆上した。「ちくしょう〜」と喚き、タコをつかんで持ち上げた。大タコだけあって重たく、紫門氏よろよろしたが、根性で窓まで持っていき、「おとといかえれ〜」と叫んで、窓の外に放り投げた。軟体動物だけあって、タコは地面にぶつかると、ぽーんと気持ちよくバウンドし、鞠のように跳ねながら、夜の闇の奥に消えていってしまった。
 「ぜえぜえ…」紫門氏は窓に手をかけたまま、荒い息を吐いていた。しばし経って、呼吸も落ちついてから、こちらを振り向いた。紫門氏は、私が握っている缶ビールを見ると、俺にも寄こせというように指で合図をした。私は急いで持っていった。紫門氏はそれを奪うと、一息で飲んだ。
「ふー、生き返るぜ」紫門氏は感無量といった感じで、言葉を吐き出した。そして、私に空缶を渡し、続けた。
「…世界の平和は守られた。凶暴凶悪な古代魔物は今去った…ふー」おいおい、あんたが呼び出したんじゃないか。それにあいつ、相当弱かったぞ。そして、さばさばした表情で言った。
「とりあえず、これで一件落着だ。辛い対決だったが、勝ててよかった。また、いずれ会おう」え、それは困る。
「ちょっと、待ってくれ〜。ちゃんと謎を解いていってくれよ。少々、数式が間違っていてもいいよ。最後の謎が解明しないと事件は終わらないんだ。なあ、最後の頼みだよ。あんた名探偵なんだろ」
 あ、そうだったんだ、という表情を紫門氏は浮かべた。
「そうだ、物理学トリックの説明が残っていたんだ。なんだ、この章は全然話が進んでないじゃないか。もう、飲み会やってるのに、勘弁してくれよ。誰のせいだい」
 あんたのせいだ、とはやはり言えない。
「しかし、乗りかかった船だ。確かにきちんと最後まで解明していく義務はあるよな。俺は名探偵なんだから。うん、ちょっと正確な数字には問題があるが、さっさと正解を話してしまおう。数字さえ絡まなきゃ、こんな謎なんて簡単に説明できるんだから…よし、今から正解を説明するぞ… (以下次号)
(1997/12/14 16:16 by ゆのひら)
………………………【 夜の旅行者 解決編 】………………………
 
     <いままでのあらすじ>
 「私」は、自分の部屋で見知らぬ女が準密室状態で死んでいる事件に遭遇し、困惑する。解決のために呼ばれた親友である探偵紫門氏は、綿密な推理を展開する。そして、この事件の謎はほぼ次の3点に絞られた。
 1:密室状態の部屋には、彼女はロケットのように飛んで入らねばならなかった。どのようにして、そのようなことが起きたのか。
 2:被害者である彼女は何者か。何故この部屋で死んでいたのか。
 3:絶対に正しい、時間の魔術「再現フィルム」では、「私」が彼女を殴って、犯罪を犯している姿が映っていた。「私」の知らぬところで何故そのようなことが起きたのか。
 謎1の解明には物理学の知識が必要なので、紫門氏は最も信頼する探偵八本氏の応援を得る。しかし、八本氏は純日本人(兵庫県出身)であったが異国暮らしが長かった為、日本語を話せず会話が成り立たなかった。二人はお互い苦笑いをし、再会を約して別れた。紫門氏は、独力で謎を解決することを決意した。
 
紫門氏は続けた。
「ブラウン運動という現象がある。コップの水に花粉を浮かべ顕微鏡でみると花粉が永続的に動いているのが観察される。これは、花粉そのものが自律的に運動しているからではなく、水の分子が動いて花粉にぶつかり、それが動かしているからである。しかし、水の分子は全て活発に動いているのに、水を入れたコップは静止して動かない。何故と思う?」
「それは、分子の力が小さすぎてコップを動かすほどの力を持たないからでは」
「いや、水の分子一つで花粉を動かせるのだ。しかも、水の分子の数の量というのは膨大なものなので、分子全て合わせたエネルギーはコップが爆発するくらいある」
「…では、どうして」
「ここで分りやすく、激しく運動しているパチンコ玉が入っているコップを想像してみよう。パチンコ玉は、一個のままでは壁にぶつかり、反射し、コップも動いてしまう。しかし、パチンコ玉が10個入っているとしよう。パチンコ玉は無秩序に動くので、お互いぶつかったり、反対の壁にぶつかったりして、干渉しあい、結局力の総和は減ってしまい、コップは動きにくくなってしまう。玉が100、1000、と増えるにつれ、力の総和は零に近づき、コップは動かなくなるんだ。このように、分子の運動は、それが集まると、総体で運動が静止する方向に流れる法則を持っている。これは熱力学の根本的な法則で、運動は常に静止、拡散する方、すなわち、エントロピーの増大する方向に流れるんだ。そのため、例えば坂の途中に岩が置いてあったとして、長期間みてもこれは壊れるとか下に落ちる方向にはいくが、坂を上ったりとか凝集して熱を持つとかいうことは確率上、起こり得ないのである。
「だが、ここで問題になるのはそれがあくまでも確率の問題であるということだ。宝くじを例にとるまでもなく、確率的に低いということは、起こらないという意味とは違う。
「さっきの、10個パチンコ玉の入ったコップを例にとろう。パチンコ玉はランダムに動いているので、コップは動かない。しかし、ある1つのパチンコ玉の動きの方向に、偶然もう一つ別の玉の動きが一致したとする。この偶然が残りの8個にも起き、10個が同じ向きに動いたとする。そうなると何が起きるのか?」
「…コップはその玉の向きと同じ向きに動くのでは」
「その通り、激しく動く。おそらくコップは吹っ飛ぶであろう。10個全部でなく、6個程度でもいいと思う。とりあえず、物質は動く分子で構成されている以上、突然無秩序に動き出す危険性を常に内包しているわけだ。
「勿論、岩が勝手に坂を逆さに転げていくようなことは滅多に起きることではない。しかし、物体が生物の場合は、少し事情が変わってくる。生物には意思がある以上、その運動には意思の存在が関わってくる。つまり、生物がわが身に何か起きてほしいと願ったとき、自らの物質レベルに何らかの作用は当然起こり得るのだ。
「さて、あの時の駅の場面を思い浮かべてみよう。あれは彼女にとって実に異様な事件であった。いきなり、目の前に魔術師が降ってきて怪物と戦ったわけだからね。それに僕は『危ないから隠れるように』と叫んでいる。彼女はそういう奇怪な事件に遭遇し、身が凍り付いてしまうような恐怖を覚えたであろう。当然彼女は思った。早く逃げたい、早くこの場から。しかし、足はすくんで動かない。彼女はあたりを見渡す。その時、目に入ったのは当然この駅に向けて開いている君の部屋の窓だ。あそこに逃げたい、あそこまで逃げれば安全だろう。と思うのは自然だ。
 彼女は思う。ああ、あの部屋に行きたい。あそこに飛んでいきたい。勿論、通常の場合、これは夢のような願望に過ぎない。しかし、あのときの彼女の状況は極めて切迫していた。今にも争いに巻き込まれ、怪物に喰われかねない状況であったからね。願いは極度に強かった。そして、願いは聞き届けられ、奇跡は起こりつつあった
「あの時の彼女の表情を覚えているかい。彼女に突如戸惑いの表情が走った。自分の体で何か奇妙なことがおきつつあることを知ったのだ。でも、それは逸楽の表情に変わってきた。彼女の体を構成する粒子が彼女の意思を知り、それに応えて彼女を救おうと動き出したことを理解したのだ。
「そして、奇跡は起こる。彼女の体を構成する分子の運動のベクトルが全て君の部屋の向きに一致した。歓喜の念に包まれて彼女は飛ぶ。……後は君も知ってのとおりだ。」
 紫門氏はそう言って、私を見た。しかし、その顔には今までの陽気さは消えていた。それどころか、今までにない複雑な感情がこもった表情を浮かべており、私を戸惑わせた。しかし、私にはまだ疑問の残るところがあったので、尋ねた。
「なるほど、今ので彼女が部屋に飛んできた理由は分かったよ。でも、その運動は確率の問題と言っただろう。こういうことは本当に起こり得ることなのか」
 紫門氏は私から視線をそらし、床に倒れている彼女を見た。一瞬、哀しそうな表情が浮かんだ。
「そうだね、確率から言えば……彼女の体格なら、構成する分子量は主に炭素と水分子だろうから、合わせて3000モル程度。ならば、分子の量は、2×10の26乗個程度だろう。これに3次元のベクトルが一致する確率をかけると10の30乗くらいか。そうすると、10の30乗くらいに一回、そういうことが起こるわけだ。おそらく普通の人が一生の間に一度経験するかしないか程度の低い確率の現象であろう。しかし、そこに意思の力が関与する。そして、それはあの映像通り、最も本人の望むときに起きたというわけさ。彼女の体の全粒子のベクトルが奇跡のような確率で一致し、君の部屋へ飛んでいったわけだ…そしてこういう状態になってしまった。」
 紫門氏はまた彼女を見つめた。私は紫門氏の口調が段々と苦渋に満ちものになってているのに気づいた。また、それと同時にどうしてだろう。あれほど、快活だった紫門氏の生気が徐々に失せてきた。今、部屋に立つ彼の姿は、紫門氏の抜け殻を感じさせるものがあった。
 部屋の雰囲気が重苦しいものになって来た。…私はわざと陽気に言った。
「しかし、凄いことがこの世に起こりうるものだ。人があんなに見事に飛ぶなんて。ほんとにこれこそ魔法だよ…」
「もう彼女を救えそうにない…」ぽつりと彼は呟いた。紫門氏は目を閉じ、暫し黙考した。そして目を開け、言った。
「…ああ、魔法なんだ。この世にある筈のない魔法。…そして、やっぱりなかったんだ」涙声まじりに紫門氏は答えた。
 私は紫門氏の変わりように戸惑った。…ふと、思い当たることがあった。「ね、ひょっとして、君はこの女を知っているんじゃないのか…」
紫門氏は痛切な表情で女をみつめた。「いや、僕は知らない。でも、君は知っているんだ。よく知っているんだ…」そうして彼は私の方に向いて言った。
「僕は君をずっと知っていた。君の心のなかにいた。そうして、僕を呼ぶ声がするとき本当に嬉しかった。君が僕を呼ぶのは、君が辛い時だけだったね。だけど、君の辛さは僕の辛さだった。君の苦しみを和らげ、無くしてしまうため、僕は一生懸命がんばる、君が悲しいとき、僕は君を楽しませる為には何でもしようと思っていた。それが僕の喜びだったんだ。…でも、だから本当のことを言おう、…僕はもう魔術師ではない。もう魔法で君を楽しませることはできない。… 僕は今分かったんだ。僕はもともと魔法使いなんかじゃなかったんだ、しかもどうやら詐欺師だったんだよ。でも、一つ言っておこう。僕が魔法使いの姿で現れたのには理由があるんだ。実は君には魔法、幻視の力があったんだよ。さっき、見せた魔法。あれは僕の力じゃない、君の魔法なんだ。そして、ああ、魔法の時間は終わった。僕は消えていく…もう君には会えない。君と会うことはもうないんだ……全ては終わってしまった…ああ、あと一つ。スーツケースは置いていくよ…」
 話しているうちに、だんだんと紫門氏の体が色褪せていき、透けてきだした。そして、枯葉が落ちるように、私の影の上に重なり、ふっと姿が消えた。紫門氏は消滅してしまったのだ。

 私は一人取り残され呆然とした。何が起きたのか全く理解できなかった。私は部屋のなかを急いで見渡した。どこにも紫門氏はいない。
「…どうなっているんだ」私は一人ごちた。夢だったのか…。しかし、部屋の床には彼女の死体がちゃんとある。
 この女、結局何者だったんだろう。私は改めて彼女の顔をよく見てみた。すると私の脳裏にふと幽かに響くものがあった。この女、駅で見たとき、全く見覚えのない顔だった。しかし、今彼女の死に顔を見ると、それは記憶のなかに確かにあった顔のような気がする。しかも、それは重要な顔だったような…私に、この部屋に大事な関わりを持つ人だったような…私は彼女の顔を凝視した。

 突然、彼女の瞼が開いた。そして、いきなり立ち上がり、私に指を突きつけ叫んだ。
「この卑怯もの!」
 私は驚愕のあまり、言葉も出なかった。できることはただ立ち竦んで彼女を見つめることだけであった。
「こんなところに来たばっかりに、こんな奴のところに来たばっかりに。頼まれて仕方なくやってきた、嫌だったのに、来たくもなかったのに…」彼女はヒステリックに喋り続ける。
「私は怖ろしい。壁に頭をぶつけて痛みのあまり呻くことも出来なかった。そして頭に、頭蓋のなかに血が満たされてくるのが感覚できた。脳が、体全体が悲鳴を上げていた、でも激痛で指一本動かすことも出来なかった。今、急に痛みが無くなった。体も目も口も動かせる。しかし私は理解できる。私の脳の一部が死んだのだ。痛みを司る部分が死んだのだ。今も脳が機能を失いつつあることが実感できる。私が私でなくなりつつある…何故、あなたは私を放置した。重症の私を調べもせず、死人と信じ込み、一人で喚き続け、私に治療の機会を与えなかった。病院に連れていくことも考えなかった。一人で馬鹿な喚きを続け、私を死体にする時間を稼いでいた…」
 私は愕然とした。
「いや、そんなことはない。君を死んだと誤解していたことは謝る。しかし、私は急に部屋に見知らぬ女が死体として存在していることに狼狽したんだ。それで、友達と事後処理について相談していたんだ…」
 すると、彼女は衝撃的なことを叫んだ。
「何を言っている。あなたは一人だった。ずっと部屋に一人でいた。一人で、下らぬことを叫んで暴れていた」
 そして私を憎悪の眼で睨み、言い続けた。
「それに私を見知らぬ女とは何を言う。私は今日この部屋に行くことを伝えていた。前にもあなたには会った。あなたも私に会った。あの出版社で、あなたが編集者に『またホラーですか』と罵られていたとき、あなたは追従笑いを浮かべていた。その部屋に私もいた。あの編集者はあなたを馬鹿にしていた。見限っていた。浅い詞藻は尽き、もう書くものなどないことを知っていた。それで、原稿の催促に助手の私を寄こした。あなたは最低の臆病者。嗤わせてもらうことに、あなたは恐れていた。あなたがもう終わってしまっていて、原稿など書けないことを知られるのを。そんなもの皆知っているのに。だからあなたは、駅で私を見て、原稿を書いていない、もう書けないことをごまかそうとした。それで、ものすごく下らない芝居で私を避けようとした。
「駅で、あなたは私を見るなり、スーツケースを振り回して、暴れ叫んでいた。怪物が来るとか、危ないからここから隠れろ、とか。
「私は呆れ、一足先にマンションの部屋に行くことにした。このマンションは社員寮、それにあなたの部屋は会社の仕事部屋。私は鍵を預かっていた。私は部屋に入って待っていた。あなたへの最後通告を突きつける為に。しかし、窓の外でまだ喚き声が続いていることを知って私は恐くなった。本気だ。本気で狂っている。私の出現を契機として。私は恐怖にかられ、部屋の鍵を締めた。そして私は怯えながら過ごしていた。そうして、あなたの足音が響いてきた。私は、その時、気づいた。馬鹿! あなたは鍵を持っている。私は慌てて、部屋のチェーンを締めに行った。あまりに慌て、部屋で転び、頭を強く打った。皮膚が裂け、脳が振盪し、激痛で全く動けなくなった」
 私は少しずつ思い出してきた。確かにこの女は見たことがある。いや何度も見たことがある。そう、あの編集者の助手みたいなことをしていた。あの時も、『ホラーに逃げちゃ困りますよ』と彼が言ってる側で、小さな嘲笑を浮かべていた。
「ああ、また脳が死んでいく。脳が壊れていく。皮膚の感触が消えてきた。私に触れているものの感覚が私から離れていく。冷たさも、熱さも、衣服の感触も分からない…
 −でもあの時、意識はあった。あなたが部屋に鍵を開け入ってきたのが分かった。でも、その時あなたは普通であった。何の興奮も、狂気もなく、平穏な風情だった。私は「助けて」と心で叫んだ。あなたは私に気付き、私を調べた。ああ、そうだ。その時分かった。あなたは私を認めたくない。私が来るのを心から拒否していたんだ。原稿など書けないことを知られるのを拒否したのだ。あなたは、私の顔を見るなり、急にまた変わった。急に自分をシモンと呼び出し、勝手な一人芝居を始め出した。私を死体と決めつけ、病院に運ぶことも考えずに、なぜ死体が出現したのかとの、下らない推論を喚いていた。そして無駄な時間が過ぎていった。あなたの望む通り、私は死体になる道を突き進んでいったのだ。」
 彼女の言葉はやがて呪いのような叫びに変わってきた。私は身を切られるような悔悟の念に迫られ、身の置き所がなかった。
「ああ、脳がまた死んでいる。順に機能を失っていくのが分かる。手足の感覚もなくなってきた。目も見えにくい。闇がせまってきた。私の周りを真の闇がうごめいて私を捕らえようとしている。私は恐い、死が確実に見えてきた。ああ、言葉も失われてきた。今自分が話したことも覚えていない。私から湧き上がって出てくるのはもうお前への嘲りと憎悪の言葉しかない。
「私は悔しい。どうして突如自分がこの世から去らねばいけないのか、全く理由が分からない。お前のような男のせいでそうなるのが悔しくてたまらない。
「お前の芝居を見ていて分かっていた。この男は弱者。何の能力もなく、生きていく方法さえ知らない。そのくせ不平だけは言う。何らの努力もしないくせに、自らを高めることもしないのに、社会に出て、少しの接触をして、傷ついた、傷ついたと言っては自らの部屋に引き込む。それが続き、親も友人も離れ、ついには自らの幻影で自分を慰めるしかなくなる。情けない奴。部屋だって、部屋を借りる甲斐性も無くなり、他人の好意に泣きついて、騙しとった。その部屋も、貧しい蟹のように、自分に似せるあまり惨めな風情になってしまう。どうして、どうしてこんな部屋で…
「お前が唯一、仕事にしていた作家業。どんなに馬鹿にされていたのか、知っていたのか。お前が自分の才能を恃んで書いたもの、最初は稚拙なふりをしたギャグものと思っていたら、それがお前が本気で書いたものと知って皆呆れていた。嘲笑していたんだ。しかも、そんな低能なものだって、すぐにネタが尽き、お前は一行さえ書けなくなっていた。社の者がお前に微笑むのをみて、みんなお前に好意があるとでも思っていたのか、あれはお前を嘲笑していたんだ。ひっそりと皆に隠れるように生きてきて、安心していたろうが、実はいつも人はお前を指さして嗤っていたんだ。ああ、喋れば喋るほど、情けなく、悔しくなる。そして、憎悪は燃え上がる」
 彼女の言葉を圧倒されて聞いていた私に違う感情が芽生えだした。私が隠していたもの、逃げ出そうとしていたものを、何の容赦もなく引きずりだす言葉…止めてくれ、それ以上言うな、私にも憎悪の情が盛り上がってくる。
「私は最後通告に来た。お前の恐れは正しかったよ。今日は、原稿の催促じゃなく、お前が書いてないのを確認して、解雇する予定だったんだ。お前の最後の自負は簡単に崩れる筈だった。能力のないものが偶々世に出ても、また押し返されるだけのことと言いに来た…お前はくずだ。何らこの世に用がない…お前はこの世に椅子を持っていない。」
 ああ!、と彼女は叫んだ。心を引き裂くような叫び声だった。「もう駄目だ、脳が殆ど働かなくなってきた。もう目が見えない。私を完全に漆黒の闇が包んだ。無限の闇だ。意識もぼんやりしてきた。私が私から離れていく。怖ろしい、何と怖ろしい感覚。
「私はお前を憎む。永遠に呪ってやる。お前は私の死体を壁に塗り込めよ。死体は春には生き物を脅かす腐った悪臭を放ち、夏には忌まわしい屍蟲の寝床となって這いまわらせてやる、秋には腐汁と毒で全てを腐らせ、冬には凍った骨で憎悪の音を響かせやる。一年をありったけの術咀で満たしてやる。全てを術咀で満たしてやる
「さあ、もう言葉も失われてきた。お前は自分の手で、最後の勤めをせよ。この哀れで惨めな私にとどめを刺せ、私の憎しみを成就させよ。私の死とお前の心を道連れに」

 彼女が言い終わると同時に私は彼女につかみかかり、彼女の肩をつかんだ。彼女の瞳は既に何も見ていなかった。彼女の要請に加え、私には彼女への強い憎悪の念が燃え上がっていたことを告白する。そして、私は満身の力を込めて、彼女の頭に自分の頭をぶつけた。何度も何度も。この痛みこそが私に必要なんだ…この痛みを感じなければ…
 私の腕のなか、彼女は確実に絶命していた。息はなく、脈も感じられない。私は彼女の生を止めた顔を見つめた。私に途方もない哀しみと悔悟の念が走る。…だが、この殺人者の顔を私は既に見ていた。私はこの私自身の顔を確実に見て知っていた。…そう、あの魔法。ズレた時間をみせる魔法って言っていたっけ。あれにはただ20分と書いていた。そうか、魔法は成功していたんだな。あれは、20分後を映していたんだ……だが、そんなことどうでもいいことだった。私の心にあらゆる感情が走った。自分が何を考えたらよいのかも分からなかった。もうこの部屋には居たくない。私は彼女の体を離して、部屋から出ていった。
 
 冷え切った夜の街を私は力無く歩いた。意識しないうちにいつも散歩で寄っていた公園にたどり着いた。深夜の公園、もちろん人は誰もいない。私は水銀灯の下、ベンチに座りこんだ。絶望、悔悟…そんな感情が寄せては引いていた。そして、寒さに身を縮めているうちに、混乱していた思考は徐々に収まってきた。
 …どうやって生きていこう。
 …どうやったら生きていけるのだろう。私は呟いた。
 私は自分の影を見つめた。しかし、もう応えるはずもない。
 私は既に彼女の死が自分に途方もない重さで覆い被さっているのを知っていた。私の弱さでは押し潰されそうなほどの重さ…
 …自首してみようか…自首するば楽になる。だが、自分が楽になることなど、勿論許されることではなかった。
 私は両手を固く組み合わせ考えた。…そうだ、逃げれば更に罪は重くなるだろうな。逃亡の日々、そこには怯えと恐怖が常に纏いつく、憔悴と疲弊の日々。よし、全力で逃げよう。常に離れぬ悔悟と術咀を背負って。安心も眠りも消えた日々を過ごそう。もはや、私に安楽な眠りは消えた。怠惰な暮らしは終わった。これからは呻吟と苦しみの彷徨が続く…  しかし、いつしか来るのだろうか。私の再生の日が。燭光が差し、凍結した彼女の魂が和らぐ日が。…もちろん今は望むべくもない。だが、今は逃げてみよう。全ての忌まわしく、重苦しいものを背負って。
 私は立ち上がり、公園を出た。
 この公園から道路はすっきりと直線に延びている。両脇に深い眠りに落ちた家々が続いている。道を歩いているとき、私には今まで感じたことのない不思議な感情が生じて来た。全てのものが、私から切り離された、もう縁のないものとして胸に迫ってきたのだ。長い影を引く電柱、家の壁、街灯、街路樹、ブロック塀、生け垣、窓の花鉢、そしてまっすぐな道路。今まで見慣れたものが、全く違ってみえる。私は知った、自分が既にこれらのものから切り離されたことを。もう、これらが戻れない世界であることを。
 私は暗い階段をのぼり、部屋に戻った。
 部屋は寒々と感じた。まるで小さな廃虚のようであった。部屋には女の冷たい死体が転がっていた。そして、今はこの死体のみが自分と外の世界を結んでいる細い絆のように感じられた。…今はこの死体を一緒に持って行こう。
 私は部屋に置き去りにされていた緋色のスーツケースを開けた。そして、彼女の傍に置いた。まだ、彼女の死体は硬直はしていなかった。顔には自分の運命に全く納得いかない憎悪と術咀が刻まれていた。私はせめてもと瞼を下ろし、目を閉じさせた。そして、死体をスーツケースに詰めた。スーツケースを閉めるとき、自分の再生への願いを込め、祈るように力強く閉めた。ケースと心の奥深く、重く厳しい音が響いた。

 私は駅に向かった。今は深夜。しかし、夜行列車があるだろう。それにまず乗ろう。そして行けるとこまで行ってみよう。
 駅に着いたとき、私に孤独と寂寥感が迫ってきた。…人は結局は孤独なんだ、こういう侘びしい駅にひとり佇んでいると本当にそう思う。
 …夜の駅は、汚れた蛍光灯の明かりだけが僅かにホームだけを照らし、暗闇の圧力に打ち拉がれているようだ。本当に何という夜の暗さだろう。瞬く星々は夜を少しも明るくせず、闇の壁に貼り付いた小さな銀色の玩具のようだ。山の端近く光を滲ませている三日月はあまりにか細く、闇に怯えるように震えている。何の救いもない夜…
 スーツケースを置き、私は列車を待った。ふと私に既視感が迫ってきた。この暗い駅…、謎めいた細面の顔の美しい女性、渡されるスーツケース。そう、それは確かに私は経験した。紫門よ…、君なのか、それとも私なのか、あのスーツケースを受け取ったのは。
 やがて、線路の軋む音が遠くから聞こえてきた。蒼い列車が見えてきた。乗客は皆眠りについているのだろう。客室全ての明かりの消えた夜行列車が駅のホームに緩やかにすべりこんだ。
 こんな本線から隔たった山間の小駅には降りる人もないだろうと思っていた。しかし、列車が止まりドアが開くと、一人降りた乗客がいた。服装からすると女性のようだった。彼女は静かな足どりで私に近づいてきた。白く細面の顔、神秘的な腕、謎めいた雰囲気、体中に纏う諦念の情……ああ、私はこの女性を知っている。
 彼女は私の前に来て、立ち止まった。そして彼女は白い手をのばし、スーツケースの取っ手を掴んでその重さを確かめた。彼女は、哀しい微笑みを浮かべ、私を見た。そして幽かな声で囁いた。「…死体をつめたんですね…」
 今、私のなかで凍ったまましまい込まれていたものが、ゆっくりと解けていくような感覚が迫ってきた。分かる、全てが理解できる… 私はうなずいた。
 彼女は幽かな声で続けた。「ひとつの謎が解けましたね。でも、この謎は解けなくてよかったのに…」
 私は何と答えてよいか分らなかった。ただ、彼女の無限の哀しみを感じさせる瞳をみつめていた。
「今夜はあなたを見送らせて下さい。永劫の旅のなかで、私はずっと傍観者でした。そして哀しみのみを見つめて来ました。哀しみは何処に行っても、底知れず、尽きることはない。でも、だからこそ、あなたを見送りたいのです」
 発車を知らせるベルの音が鳴った。私はスーツケースとともに列車に乗り込んだ。列車はまた緩やかにホームから離れ始める。彼女は窓越しに、ずっと私を見つめていた。彼女の言う通り、尽きることない哀しみを見続けてきた、深い哀惜に満ちた瞳だった。

 私はシートに腰をおろし、目を閉じた。…そう、確かにあの日、彼女は私に緋色のスーツケースを渡し、去っていった。私にはあの時何も分からなかった。…あの不思議な、謎めいた彼女はいったい何ものだったのだろう。
 答は今容易に分かった。「運命」だったのだ。そしてスーツケースは「謎」そのものだったのだ…
 列車は微かに揺れながら闇のなかを進み行く。
 そして、私はひたすら、自分の心に沈潜していった。
 私は人生を考える。私たちは闇の奥から一人きりで生まれ、謎のみを伴にして旅を行く、孤独な夜の旅行者のようなもの。ある謎は解決し、ある謎は解けないまま、旅を続けていく、やがてまた闇のなかに消えて行く日まで。
 そして彼女も白くか細い腕に謎を抱え、永劫の闇を旅する孤独な夜の旅行者。
 私たちは遠い昔から知らぬ間に彼女に出会っていたのだろう。病院のベッドで、校庭の木陰で、街の雑踏で、教会の椅子で、酒場の片隅で……そして彼女との束の間の邂逅の際に、小さな謎をそっと受け渡されていく…… 謎は燈明のように人生の闇を幽かに照らしていた。幾つ解決し、幾つ解けなかったのだろう、私のこの暗く長い旅の過程で…… そして、謎が全て失せてしまったとき、私はまた元の無限の闇のなかに戻るのであろうか。
 
 私は目を閉じたまま思い浮かべる。暗く明かりの消えた侘びしい駅に彼女は一人佇んでいる。彼女は自分の腕をみつめる。その腕に、今また小さな謎が僅かな光を帯びながら芽生えつつある。やがて、孤独な魂が傍を通りかかり、それに触れるであろう。そうして、そこからまた新たな物語が紡がれ始めるのだ……


                                        夜の旅行者 了 
1997/12/20 22:07 by ゆのひら)



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