人形
relay 1999/08/22-2001/11/01
古書店というのは、ふだんぼくたちが生活している空間とはほんの少しだけずれた時間が流れている場所だ。
最近はやりのリフォーム済みの古本を扱ったおしゃれなチェーン店なんかのことではない。いったい、いつからそこに店を構えているのかと、一歩足を踏み入れた瞬間から不可思議な気分になる、本好きならば判ってもらえるだろうあの雰囲気を持った店々のことだ。
だから、そのような場所で本を買うのにはじゅうぶんな注意といったものが必要なのである。そう、わかりやすい例でいうならば、カードが添付されている占いの本などはぜったいにだめだ。前の持ち主の思いが澱のようによどんでいて、それが古書店という特別な時間の中で得体の知れない魔性に変貌していたりもするのである。
だから、古書店で本を買う時には、レジに持っていく前に、まず頁をパラパラとめくってみるとよい。妙な書き込みがないか、特定の頁が開きやすくはなっていないか、またしおりとして変なものが挟み込まれてはいないか、そういうチェックをまずはしてみるとよい。
妙な書き込みのある本や、特定箇所が必ず開くという本は、前の持ち主が何かの思い入れを持っていた可能性が高い。そのような本は、例え以前からずっとさがしていた初版本だろうと、今は絶版で一般のルートでは入手できないものだろうと買ってはならない。
また、本の間に挟み込まれた写真、手紙、メモの類も同様だ。うっかり家に持ち帰ったりしたら、とんでもない目にあうことにもなりかねない。
以上は、古本を買うようになって知り合ったある古書店の店主が教えてくれたものだ。
「それなら、この店の本はすべてそういうチェックをされているということだから、大丈夫じゃないの?」
とぼくが言うと、店主は首を振って、
「本というのは生き物なんだから、店先に出しておくことで、わしにも理解できない変化をするんだよ」
と嘆息したものだ。
それ以来、店主の教えにぼくはしたがってきた。だから、その日帰宅してからそれを頁の間に見つけた時は、ほんとうに首をかしげたくなるような思いがしたのだ。その日もいつも通りに買う前にチェックを行ったつもりだったからである。
買ってきた本は、先頃ちょっと話題になったミステリで、新刊書店にはまだ平積みにしているところもあるハードカバーだから、そんなにかわったものではない。しかし、その頁の間にはさまっていたものは、どうにも首が傾げたくなるものだった。
一枚のサービス版の写真、そこには振袖の紅色も鮮やかな一体のおさげ髪の日本人形の上半身が写っていたのだ。いや、それだけなら、べつにおかしいものではないのだろう。しかし、その写真の裏に毛筆で黒々と書き込まれた文字は、ぼくを妙に不安にさせた。
「彩乃 − 十二歳の誕生日」
いったい、どういう意味なのだろう?
(1999/08/22 21:30 by 書庫の彷徨人)
二、三分考え込んだ後、「( ま、どうせ考えてたってラチが開く訳ないんだからな…。)」という線でひとまず妥協し、とりあえずお茶にして、落ち着いてから店主に相談しに行こうと決めた。ヤカンの蓋を開けると、昼間の光に、水道管から出た赤サビの薄い層が目に映る。この付着量がそろそろ気になる水準に達しているような感じを受けたが、結局ちょっとすすいだだけで湯を沸かす。もうちょっとでヤカンから湯気が出てきそうになった頃、やっと買い置きの紅茶パックが切れていることが確認できた。なぜ空き箱だけを戸棚にとっておいたのか、そのときの自分に聞いてみたい気になる。流しに転がっているインスタントコーヒーのビンの中にはティースプーンに四分の三ほどの粉がこぴりついているが、これがそんな状況になったのは少なくとも四、五日前だ。「( このビンにお湯を注いで振っても、さすがに『飲みたい』感じのやつはできないぞ。)」とは思いつつ、一応やってみているところが『ぼくの持ち味』だと言えそうだ。ビンを傾けてコーヒー湯をちょっとなめてみただけで、ぼくは、なにか、もう取り返しのつかないことをしてしまったような気持ちになった。そのときだ。あの叫び声を聞いたのは。
(1999/08/23 by わるもの堂主人)
「あんぎゃあああ〜〜〜!!」
どんがらがっしゃん、がらがらどすん!!
最初の叫び声で何が起こったのか大体の見当はついたが、それに続くひどい物音に、ぼくはアパートの戸を開けて顔を出した。
予想通りの光景だった。階段の踊り場で、人ひとりが見事にでんぐり返っている。……実は、よく知っている女性だ。幼なじみの夏子である。
「おい……大丈夫かよ?」
「あたたたた……」
ぼくは彼女が起き上がるのに手を貸してやった。特に怪我をしてる様子もない。抱えていた本の束がほどけて、ひどい音を出したようだ。普段から男勝りの夏子だが、そそっかしさは度を超している。
「何しに来たんだよ?」
「何って、あんたに借りたこの本、返しに来たのよ」
「ああ、そうか……何もいっぺんに全部持ってこなくても……」呆れながら散らばった本を集め、部屋に運び込む。しかしコーヒーが瓶の底にこびりついてる状況では、いくら夏子でもさすがに招待できる環境ではない。
「どうせ、あんたの部屋は《腐海》に呑み込まれてるんでしょ」
………反論できない。そこで、さっきの問題の本が目に止まった。
「そうだ、ヒマだったらつきあえよ。古本屋に行くところなんだ」
古書店に入ってみると、店主の姿はどこにも見あたらなかった。不用心だな、と広くもない店内を見渡す。夏子はといえば、積み上げた本の背表紙を胡散くさげに眺めている。− 昔、宝物のように大切にしていた本を泣く泣く手放したとき、近所の古本屋で1冊1円だったことを根に持っているそうな。まあ仕方ないことではあるのだが……。
向かいの喫茶店にでも入るか、と店の扉を開けた瞬間 − ぼくの体は凍り付いた。
いつも寄る喫茶店がない。かわりに、稲穂の実った水田……。
「おい……」ぼくは恐る恐る、後ろの夏子を振り返った。「ここらに水田なんてあったか?」
「……お母さんが子供だった頃は、ここら一帯、田んぼだったそうよ……」
視線を夏子の顔から外し……もう一度ぼくは凍り付いた。今出てきた古書店、鉄筋2階建てじゃない。木造平屋のふるめかしいたたずまいだ。
「ど、どうなってんだ?」ぼくは電柱に寄りかかった。− 木製の電柱。
「あっ!」夏子が頓狂な声を上げた。「あたし、この風景見たことある!」
「どこで!?」
「お母さんのアルバムで……」
(1999/08/24 23:33 by Lepi)
空を見上げると、青空をバックに銀色の大きな飛行機が飛んでいた。その美しさに見とれながらも、妙な点に気付いた。
その飛行機は、主翼が真横に水平についている。どうやら、かなりでかいプロペラ機……今時あんな飛行機、あったっけか?
飛行機の横で何かが光った。
「危ない、焼夷弾がくるぞ!」
え? しょーいだん……??
「早く逃げろ! 彩乃!!」
突然耳元で爆音が鳴り渡り、ぼくはすごい勢いで引き倒された。
「ばっきゃろ〜、何やってやがる、気ぃ付けろい!」
外国人みたいな髪の色した兄ちゃんの罵りが、バイクの轟音と共に遠ざかっていった。
通行人が歩道にへたり込んだぼくをちらと見やり、すぐ目を逸らして歩み去っていく。
「あんた、何やってんのよ!」真上から夏子の大声が降ってきた。「まったくもう、いきなりふらふらと車道に踏み出すんだから、危なっかしいったらありゃしない!」
車道の向こうには、いつもの喫茶店があった。
「なあ…あの田んぼはどこいったんだ?」
「はあ? あんた……大丈夫?」
喫茶店でコーヒーカップを前に、ぼくは未だに呆然としていた。
「まったくもう、あんたは人のことそそっかしいだの何だの言って、自分はぼけっとしてふらふらしてるくせに、ああ、まったく……」
夏子の機関銃のように繰り出されるぼやきを聞き流しながら、ぼくは例の写真を眺めていた。
あの光景は確かに夏子と一緒に見たと思ったのだが、夏子は見ていないと言う。すべては、ぼく一人が見た単なる幻なのか?
確かその中で「彩乃」と叫ぶ声が聞こえた。この写真の裏にある名前だ。
古書店の店主が言ってた「本の間に挟み込まれた写真、手紙、メモ類をうっかり家に持ち帰ったら、とんでもない目にあう」ということになってしまったのだろうか。
これは……調べなくちゃならない。
ふと外を見ると、その古書店の店主が、缶コーヒーか何かを手に店に戻ってくるのが見えた。
(1999/10/03 09:26 by Lepi)
「おじさん。実はこの本のことで聞きたいことがあるんですが」
喫茶店から出たぼくは早速、店に戻ってきた店主に昨日買った本をどこで入手したかを尋ねた。
夏子もついて来ている。
古本屋の店内にはあいかわらず他の客の姿はない。
さっきの不思議な経験のこともあり、ぼくは少し興奮していたらしい。
店主は常連のぼくの様子がいつもと違うことに気づいた。
「なんだか話が長くなりそうだな。ちょうどひと休みしようと思っていたところだ。入りなさい」
店主は店の奥にある事務室のようなところにぼく達を通した。
ひと昔前の事務所のようにノートや帳簿らしきものが机の上に散乱している。
せまい事務室なのに応接セットらしきものまであった。
ぼく達はその古びた応接セットに腰かける。
「お茶でいいかね」
店主は事務室の片隅にあるガス台に薬缶をかけようとした。
しかし、一刻も早く、本について知りたいぼくは喫茶店でコーヒーを飲んだばかりだからと辞退する。
「そうか。じゃ失礼して、わしだけ頂くよ」
店主はぼく達の向かいに座ると今買ってきた缶コーヒ-を飲みはじめた。
「それで話というのはなんだね」
一口飲んだ後で店主が聞く。
ぼくは昨日買った本を出すと挟まっていた写真を見せた後で、さっき経験した不思議な出来事を話した。
そのため、この本をどこで入手したか知りたいということも。
店主はぼくの話にうーんと唸った。
まあ当然の反応といえるだろう。
横で一緒に話を聞いている夏子がこっそりとぼくの足を突つく。
変な話はよせというつもりらしい。
「ふむ、この本にそんなものが」
話が終わった後、問題の本を眺めつつ、店主は考え込む。
「店頭に出す本は全部、点検したはずなんだが。すまない、わしのミスじゃ」
店主はぼくに向かって深々と頭を下げる。
「いや、何もおじさんのせいじゃありませんよ」
予想外の展開にぼくは却って恐縮した。そうだ、それにぼくも買う前にチェックしたつもりだったのだ。
それなのにこの写真は本の間に挟まっていた。
もしかすると、この本は『古本屋の店先で理解のできない変化』をとげた本ではないのか。
「それでこの本はどこで手に入れたんですか」
「たぶん個人で持ちこんだものだと思うが。今から帳簿を調べてみるか」
そのとき、机の上にある電話が鳴った。
「はい、久木書店です」
店主が電話に出る。二言、三言話した後、
「何!すぐ行く!」
店主は電話を切ったあと、ぼく達に向かって
「すまないが、孫が事故にあったらしい。今から病院に行くんで。本については明日調べるということでいいかね?」
すまなそうに言う。
「うわ、大変。おじさん、店、閉めなきゃ」
その話を聞いて夏子まで慌てる。
店主は店の方へ走っていった。
「ねえ、今日はもう帰ろうよ」
夏子がまだ座ったままのぼくに言う。どうやら、そうするしかないようだ。
ぼくはテーブルの上に置いたままの本を取り上げると立ち上がった。
(1999/10/11 21:51 by みどりのたぬき)
仕方なく、ぼくたちはアパートに帰った。ゆっくりと考えてみたかったし、夏子から返してもらった本を片付けなければならない。
途中のコンビにで紅茶パックを買う。これでしばらくは大丈夫だろう。夏子は冷たいウーロン茶がいいと言うのでそれも買う。
アパートに戻ると、早速とっ散らかった本をまとめる。夏子が持ってきた本だ。全部で二十五冊あった。どうしてこれを一度に持ってこようと思うのか、不思議でならない。夏子は時々こちらが思いもつかないようなことを、やってのける。
文庫本からハードカバーまで。ほとんどが、あの古書店で買ったものだ。
「あっ……そうそう。なんか変なメモが挟んであったよ」
買ってきたばかりのウーロン茶のペットボトルを、ラッパ飲みしながら、夏子が言った。
「メモ?」
本にメモなど挟んだ覚えはない。
「どの本だったかなぁ?」
夏子がどっこらしょと立ち上がって、ぼくがせっかく本棚の前まで運んだ本の山をバラバラに崩し始めた。
「ああ、これこれ」
夏子が指差した本は、なんとあの意味不明な写真が入っていた本と同じ作者のものだった。
桜井 智之。最近、ここ二、三年本格ミステリを書く大型新人として、注目されている。
夏子に貸したのは、桜井 智之のデビュー作だった。
(1999/11/14 14:56 by あづみ)
「おい。本当にこの本にはさんであったのか」
ぼくは夏子に聞いた。少し焦っていたかもしれない。
「な、なによ。大声なんかあげて、あなた変よ。さっきもボーとしてたし」
「すまない。でも間違いないんだね、この本に」
「そうよ。『誕生日に会いに行く』ってメモがね」
「誕生日?」
むろん、ぼくはそんなメモを書いた覚えはない。前の持ち主が書いたのだろうか。否・・・それはない。
ぼくは読んだ本しか貸さないはずだ。その時メモなんかなかった・・
いや、はたしてぼくはこの本を読んだのか。
確かに作者は知っている。桜井智之。彼のデビュー作だ。話の筋も覚えている。いわゆる、歴史的ミステリーというやつで、戦争を舞台にした物だったと思う。
でも、おかしい。何か違和感を感じる。
(1999/12/20 13:30 by オスカー)
ミステリー作家、桜井智之、不可解なメモ・・・。
「あっ、そうだった」
夏子の話を聞いていて、すっかりそのメモを見た気になっていたが、まだこの本を開いてさえいないことに、ぼくはようやく気が付いた。まずは自分の目で確認してみなければならない。夏子のことだから、自分で挟んでおいたメモを、コロッと忘れてしまっているということがあるからだ。
「どの辺だったんだ?」
そう聞きながら、ページをパラパラとめくっていく。
「うーん。わりと後ろの方だったかなあ。ああ、そうそう、最後に犯人の妹が自殺しちゃうところ!!」
後ろの方というより、本当に最後じゃないか。ぼくはブツブツと文句を言いつつも、夏子の言うシーンを探しにかかった。しかし・・・
「おい、犯人の妹なんか、自殺したんだっけ?」
どこをどう探しても、肝心の自殺のシーンは見つからず、ましてメモなどどこにもなかった。そればかりではない。『犯人の妹が自殺した』というそのシーンの記憶が、ぼくの頭の中からポッカリと抜けていたのだ。そもそも犯人の妹なんて、出てきていたのか?
「何か別の本と勘違いしているんじゃないか?」
「そんなことないわよ。だって、あんたから借りた本の中で、ミステリーは桜井智之のだけだったのよ。あんたこそ、ストーリーもろくに把握しないで、私に貸したんでしょ」
「そんなはずは・・・」
おや? ぼくはたったの今まで、この本のストーリーなどほとんど覚えていたし、夏子に説明できるくらいの自信もあった。それが、何度ラストのシーンを読み返してみても、一向に見覚えがないのだ。おかしい。いくら何でも、数分のうちにきれいさっぱり忘れるなんてことがあるはずがない。やはり、ぼくの勘違いだろうか? それとも・・・
「とにかく、この本にメモなんかないよ。他の本も探してみるか?」
納得できない様子の夏子に、ぼくは仕方なくそう言った。
「うん。探して見ようよ」
夏子は、床に散らかっている25冊の本を手当たり次第にめくりはじめた。
「貸した本の中に、桜井智之の本は、これ1つだけだった?」
まだ例の本を手に持ったまま、ぼくは夏子に問いかけた。
「たぶんね」
素っ気ない返事に、ぼくはふともう1冊の『桜井智之』の方へ目をやった。あの人形の写真の挟まった本である。古書店の店主に結局大した相談もできないまま、また持って帰ってきてしまったのだ。何を思ったのか・・・いや、何も考えていなかったに違いない。ぼくは、何者かに操られたように、その本の『あの』ページを開いた。
何ということだろう!!
「彩乃 ― 十二歳の誕生日」という言葉の下に、同じような筆書きでこう付け加えられていたのだ。
「誕生日に会いに行く」
(1999/12/26 11:33 by Frau Oberstein)
誕生日・・・彩乃とはいったいだれなのだろう?
まさか、この人形の・・・
いや、そんなばかな。
写真を見つめているうちに、不可思議な錯覚に陥りそうになっているのを感じた。
(2000/01/01 01:153 by 書庫の彷徨人)
新たに文字が加えられる。こんなことは現実には起こりうることではない。しかし、今それは現実に起こっているのだ。
古書店というどこか日常生活とかけ離れた空間に、この本が長い時間彷徨っていたためであろうか。それとも前の持ち主の強い想いがこもっているのだろうか。いずれにせよ気持ちのいいものではなかった。この本について調べなくてはならない、そんな強い思いに駆られた。
「 彩乃 ・・・」ぼくは呟いた。
この人形の持ち主なのだろうか、いや、この人形自体が彩乃かもしれない。では文字が出てくるのはどう証明するんだ。考えれば考えるほど分からないことだらけだった。どうやらどこまでも続く螺旋の渦の中にぼくは迷い込んでしまったらしかった。
考え続けていて、ぼくは古書店の店主を思い出した。そうだ、店主は本を買い取る際に記録を付けていたのだ。
「商売上、何か不思議なことに合うかもしれないんでね。その時あわてても遅い。どういうルートを本が辿ってきたか、いざという時に必要かもしれんからね。」
そう言っていた。
ぼくは走り出した。後ろから夏子の声が聞こえる。
「ちょっと、どこに行くの?」
それには答えず、ぼくは走り去った。
(2000/01/12 10:11 by オスカー)
ぼくが走り去った後で、夏子がくだんの写真をしげしげと眺めてつぶやいたことなど、知る由も無かった。
「ああもう、ろくに人の話を聞かないんだから。そのメモってこの写真のことだ、と言おうとしたのに」
夏子は「誕生日に会いに行く」と追加された写真を手にしていた。
そして同じ本の別のページに、「彩乃 − 十二歳の誕生日」とだけ書かれた、同じ人形の写った写真が挟まれたままになっていたことを、夏子もぼくもまだ気付いていなかったのだ。
考えてみれば、間抜けな話だった。
夏子の言い草ではないが、古書店の「臨時休業」の張り紙の前で、ぼくは自分のそそっかしさに呆れていた。
どうしても本の入手記録を見たい、と思って駆け出してきたのだが、まさか家宅侵入罪を犯すわけにもいかない。
しょうがない、と古書店に背を向けて歩き始めたが、ふと人の気配を感じて古書店を振り返った。
一人の若い女性が、さっきのぼくと同じ様に、古書店の張り紙を見つめている。やがて彼女は商店街の向こうへ歩き始めた。
不思議な雰囲気の女性だった。清楚なワンピースにひかれたが、今の季節にしては薄着であることが気になった。真夏の入道雲の下、ひまわりの横に立っていると絵になりそうな……。
突然ぼくは、あることに思い至ってぎょっとした。
彼女の髪型が、写真の人形を連想させたのだ。
「へっ、まさか! 気にしすぎだよな……」口に出してつぶやき、頭を振る。目を開くと、女性の姿はもう人ごみに紛れていた。
セミの鳴き声が聞こえたような気がした。が、それはすぐ雑踏の音にかき消されていた。もちろんまだセミの季節ではない。今見た女性のイメージから、そんな気がしたのだろうか。
そういえば、今ぼくが立っている場所は、さっき不思議な幻を見た場所だ。
そこでぼくは、もう一つの手掛かりを思い出した。いや、手掛かりとなるかどうか分からないが、あの幻の中で夏子は「お母さんのアルバムでこの風景を見たことがある」と言ったはずだ。
あれがただの幻視ではなく、何らかの意味があるとしたら……。夏子に確認せねば!
勇んでアパートに帰り着いたぼくが見たのは、2枚の人形の写真と、「バカ」と大書きされた夏子の書き置きだった。
(2000/03/11 19:51 by Lepi)
「おい、夏子、いるか?いたら返事しろ」
どん、どん、と夏子の家の玄関をたたきながら大声で叫ぶ。道行く人は僕の方を見て何か言っていたし、家から全力で走ってきたため僕の背中は汗でびしゃびしゃだった。背中を走る汗が気持ちわるかった。ぼくの家からさほど遠くないところに夏子の家あるのだが、それなのに僕の背中はびっしょりだった。まだ春だというのに「むしむし」として夏のように暑かった。
「ちょっとあなた、夏子さんならいませんよ」中年の女性だった。ちょっと太目の女性で、この暑いのに長袖のトレーナーに、ジーパン、それにハイヒールとちょっと奇妙な取り合わせのファッションだった。じろじろ見る、僕の視線に気づいたのだろう。
「ちょっと、じろじろ見ないでくれる。私はね隣の住人よ。あなたがうるさいからここに来ってわけ」
腕組みをして僕を吹き飛ばすかのような激しい鼻息が聞こえた。
「すみません」
「そうよ、最初からそうゆう風にすればいいのよ。うるさくしないでよね」
「はぁ、ところで暑くありませんか?」額の汗をぬぐりながら、服をぱたぱたと動かし風を入れる。
「暑い?そんなわけないでしょう」
「そうですか」
そう呟きぼくは方針を変更し、他の場所に行くことにした。夏子はどこにいるのか分からないから、ひとまず彼女のことは後回しにしよう。これから病院に行って古書店の店主に会ってもいいし、暑くて疲れたから家で休んだっていい。とりあえずこの場所を離れることにした。
(2000/04/25 14:34 by オスカー)
「夏子くんには会えたかね?」
病院の白いベッドの上であぐらをかいた古本屋の店主の第一声はそれだった。
ぼくは驚愕して訊ねた。
「どうしてあなたが知ってるんですか!」
「ふん」
古本屋はあたまをボリボリと、右手で掻きながら口を突き出して言った。
「君はどうして、こんなおもしろそうな事件を僕に早く言わなかったんだ」
そして、言い終わるとプイと視線を窓の外に向ける。
「ふん」
また古本屋が息を漏らした。
「・・・さっき、夏子くんがここに来たよ。ずいぶんと慌てていた。僕に一通り事件のことを話すと、君を探しに行くと言って部屋を出て行った。しかし、君が夏子くんと会ってないとすると・・・これは深刻だな」
「・・・夏子がぼくに・・・」
ぼくはがっくりと頭を垂れた。
「ふん。僕に早く教えなかった罰だ。・・・しかし君のその落胆したまぬけ面を見ているとこっちも多少罪悪感を感じる。よし、夏子くん探し、僕も協力しよう」
窓からぼくに向けたその表情は、ニコニコとうれしそうに微笑んでいた。
(2000/07/05 18:09 by まりすけ)
「ところで、大丈夫だったんですか?」
店主の笑顔を見て落ち着いたぼくは、店主が座るベッドに肝心の
事故に遭ったという孫の姿がないのに気が付いた。
「ああ、裕樹かい?ピンピンしてるよ。今日は念のために入院するらしいが、
今息子とお菓子を買いに行った」
店主は立ち上がってサンダルを履いた。余程急いで来たのだろう、左右で色が違う。
ぼくは店主に今までとは少し違ったイメージを投影し始めた。
「夏子くん、さっき気になることを言ってたなぁ」
店主は病院の自動ドアを通るあたりで思い出した。外は柔らかい風が吹いている。
背の低い木々がその緑の葉をさらさらと揺らしている。
「何を、夏子は何か見つけたたんですか?」
「写真を持ってた。古い写真だったようだが。田んぼと電柱、女の子。詳しく見た訳では
ないが」
夏子の母親のアルバムにあったという写真だろう。しかしなぜそんなに慌てる必要が
あるのか?
「今日がその誕生日だと・・・」
ぼくは耳を疑った。店主の声が頭の中で繰り返しながら夏子の声となり、
そしてあの人形の冷たい声へと。
「今日・・・?」
風はやがて渦を巻き、ビニールが舞い上がる。
「おじさん、あの本の話、聞かせて下さい」
(2000/07/21 17:06 by がじゅまる)
「わしは耳が聞こえんのじゃあ・・・・・」
おじいさんとはそこで別れた。
(2000/09/09 01:39 by 俺)
何がなんだか訳がわからなくなった。
店主と話していたと思ったら
いきなり相手が見知らぬおじいさんに変わった。
しかも周りを見まわすとまた過去にタイムトリップしたようだ。
場所はどうやら戦時中の病院廊下。
廊下には戦争で負傷した人達が何人もいた。
診察室からしくしくと女の泣き声が聞こえてきた。
(2001/02/16 16:36 by 猫目4)
「く・る・し・い」
途切れ途切れの声が背後から聞こえた。声につられて後ろを振り向くと、中年の女性が床に座り込み、身体全体を震わせていた。額には脂汗が流れ、唇は紫色に染まっている。呼吸も荒く、どう見ても普通の人間がするような状態ではない。
「誰か医者は・・・医者はいませんか!」
ここが病院だということはわかっていた。廊下には負傷した人達がたくさんいた。診察室からはなにやら女の鳴き声が聞こえる。
だが、誰もこの女性を助けようとは思わないようだ。もちろんそんな余裕なんかないのかもしれない。傷ついた人間が他人を助けるなんて、あまっちょろい考えだと思われるかもしれない。
でも、この女性は僕に助けを求めているんだ。僕が助けなくてどうするんだ! 僕にだって何かできるはずだ。
「今、医者を呼んできますから」
僕はそう言って廊下を走り抜けようとした。すると先ほどの老人が、「無駄じゃよ。もう医者は死んだんじゃ」
老人は震える指を前方に差し出した。そこには倒壊した建物があった。病院は半分以上が爆撃によって倒壊していたのだった。
ぼくは無力だった。
(2001/04/13 14:52 by オスカー)
もう、何も考えたくはなかった。
一体なぜ僕がこんな所にいるのか?
なぜ、僕だけが?
僕の、頭の中で、怒り、恐怖、悲しみ、苦しみ、全ての感情が交差しているように感じた。
そもそも、これは夢ではないのか?
だいたい、こんなことがあるはずはない!
「そう、これは夢なんだ!」
夢からさめると、いつものように僕の部屋の風景が目に飛び込んできて、顔を洗い、歯を磨き、朝ご飯を食べ・・・・・・・・、とにかく普通に、現実に戻っているんだ。
そうだ、そうにちがいない!
その後、古本屋に行き、また立ち読みをする。
きっとそうだ!!
僕は、何十回もそう頭の中で考え続けた。
ここは何処なんだ?なぜ夢とわかっていて、そんなことばかりを考えるんだ?
夢なんだから考える必要はないじゃないか!
僕が、そう思っても、頭が勝手に・・・・・・・・・・・・。
そんなことを考えて、もう何十分になるだろう・・・・・・・・・・?
いや、何時間になるだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
とにかく、今の自分は、ブラックホールにでもいるような気分だった。
「これは夢なんだー!!!!!」
と言い終わった時、
またしても・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2001/04/16 22:46 by ひかる)
またしても、背中にベトつくシャツの不快感を覚え、僕は目前の風景に驚きを隠せなかった。病院の窓の外には、夏のような入道雲と青い空。そして、あの銀色のプロペラ機が遠く光っていた。夢であって欲しいという僕の願いは潰えた。
「今は『いつ』なんですか?」
僕は老人に訊ねた。
「―――ん?」
耳が聞こえないと言った老人の言葉は嘘ではなかったらしく、老人は、
「医者は死んだ。」
と、聞き取りづらい言葉を残して去って行った。
それにしても暑い。まるで真夏のようだ。泣き声の女性は、まるでそれが自分のあるべき姿たとでもいいた気にうずくまっていた。僕は彼女に
「僕は、この世界の人間じゃあないから…。」
と言い残し、病院の廊下を出口に向かって歩き出した。
事実、憶測でしかないが僕は本来ここに居るべき人間ではないのだろう。そして、彼女を苦しみから救う術は無く、同情して泣いてやるくらいしかできそうもない。しかし、それが彼女の苦しみの救いにもならない事はわかっていた。
僕がなぜこんな世界に迷い込んでしまったのか。それは僕がこの場で考えても、おそらくわからないだろう。ならば、僕が今すべき選択は、僕の世界に戻る方法を探すことか、ここで『彩乃』の謎に立ち向かうかのどちらかなのだろう。
病院の外に出ると、そこは桜井智之の戦争を舞台にした歴史的ミステリーさながらの光景である事に気付いた。
「まるで本の中の世界に引き込まれたようだ。不思議の国のアリスじゃあるまいし。」
苛立ちながら独り言を言ってみた。そうしないと、暑さと混乱で自分を見失ってしまいそうな気がしたのだ。
その時、見覚えのある若い女性が僕のいる方に向かって歩いて来るのが見えた。あの古本屋の張り紙を見つめていた清楚なワンピースの女性だ。あの時は不思議な雰囲気だと感じたけれど、今はそう感じない。むしろ、ここにいるのが自然に見えた。写真の人形を連想させた彼女は、僕の本来の世界とこことを結ぶ唯一の接点だった。僕は意を決して彼女に話し掛けようと思った。
(2001/05/27 03:54 by 並木)
蜃気楼のように、舗装されていない路面と足元が揺らぐ。僕の額から汗が流れ、それを腕で拭った瞬間、目の前の女性は蝋燭の炎のように揺らいで消えた。そして代わりに現われたのは古本屋の主人だった。店主は振り返って僕に
「どうしたんだね。急に立ち止まって…。」
と言った。僕は店主の腕に触り、ここが僕の時代であるよう祈った。
「ちょっと、ビャクリの世界へね。」
店主に心配をかけないように笑ってジョークを言ったつもりだったが、店主に僕の姿がどう映ったのかはわからなかった。
「ビャクリって、『ソフィーの世界』の異次元かい?」
訝しげに店主が聞いた。異次元というにはちょっと語弊があるようにも思えたが、さすが長年古本屋を営んできただけのことはある。僕は改めて店主を尊敬した。
写真に書かれていた『誕生日に会いに行く』という言葉から連想したのかもしれない。主人公ソフィーは、実はヒルデという女の子の誕生日プレゼントとして彼女の父親が書いた物語の中の登場人物だった。バークリーの哲学思想を捻って書かれた小説で、ビャクリはバークリーの言葉遊びで作られた『あちらの世界』の地名だ。僕はまさに、ソフィーにでもなった気分だったのだろう。僕はあちらの世界をビャクリと呼ぶことにした。僕のいるべき現代とはっきり区別をしたかったからだ。
「ビャクリとは厄介な…。」
店主が唸るように呟いた。本は古書店という特別な時間の中で得体の知れない魔性に変貌していたりもすると僕に教えてくれた店主の険しい表情は僕を不安にさせた。
(2001/05/28 02:23 by 並木)
「ほんとうに、やっかいなことになったものだな」
突然、背後から聞いたことのない男の声がひびいた。
驚いて僕が振りかえると、そこには、ついさきほども写真で見た顔をした人物が立っていた。
「桜井智之!!」
思わず叫んだぼくを無視するように、桜井は古書店主である久木を見つめてこう言った。
「あの写真は、どうやら、ぼくの著作を選んで潜んでいたらしいですね。久木さん、あなたならあれによって何が起こっているのか理解できているはずですよね。作家というのは、どうにも因果な商売です。書物という媒体に自分の世界を作ってしまうんですからね。そう、ビャクリといえばいえるのかも知れない。そういう言い方をするなら、作家は誰でも自分だけのビャクリを持っているんですよ」
その声を聞いて、店主は、何かひどくおびえた様子でこう言った。
「まさか。おまえが、作家の桜井智之だというのか?いや、そんなはずはない。お前は、ただ、わしの夢の中に住んでいるだけの男じゃないか?」
桜井は満面の笑みをたたえて言った。
「そうですとも。作家になる夢を途中であきらめ古書店の店主におさまったはずのあなた。あなたの夢への執念が、形になった者こそこの私、桜井智之なのですよ」
ならば、ならば、あのぼくが体験している戦時下の風景は……。
桜井は、今度はぼくを見つめてこう言った。
「気づいたようだな。あれは私が、いや久木が体験した風景なのだ。そして、その写真こそは」
そこまで聞いた時、ぼくは目が眩むような閃光を感じた。
(2001/10/07 01:04 by 書庫の彷徨人)
眩しい閃光の後、また僕の周りにあったはずの風景が変わっていた。
──そう。それは……
「……ビャクリ……」
戦時下の、あらゆる建物が倒壊し、破壊された世界。また僕はこの世界にやってきていた。
さっきまで目の前にいた、桜井智之も、店主もそこにはいなかった。
「……………」
…というより、人間がそこにはいなかった。一人として生きた人間がそこにはいなかった。
屍達が辺りに、まばらに点在していた。
「…………………」
立っているだけで、ゾッとするような世界にいつの間にか僕は立たされていた。
『そうですとも。作家になる夢を途中であきらめ古書店の店主におさまったはずのあなた。あなたの夢への執念が、形になった者こそこの私、桜井智之なのですよ』
『気付いたようだな。あれは私が、いや久木が体験した風景なのだ』
「………………」
──これが……、これが店主の体験した風景…?
いや……、違う……。
これは……、作家への夢を捨てられなかった店主が思い描いた、物語の中の風景……!?
そうなのか……? そうじゃないのか……?
いまいち釈然としない…。この世界は──ビャクリは何故、存在するんだ──?
ぼくはこのまま呆然と突っ立っていても何も始まらないと思ったので、少しだけ歩を進めることにした。今回ぼくが迷い込んだビャクリには、何もない。今までにきたビャクリには何かしらあったはずなのに、今いるビャクリには、ただ屍が無数に転がっているだけだ。──そして、おそらくは米軍の戦闘機によって爆撃されたであろう無惨な残骸となった建物達。
歩いていくと、足に死体がぶつかってしまう。
あまりにもリアルな死体の感触に、歩くことを──人生という長い道のりを歩くことを──諦めたくなってしまうが、なんとか自分の心に鞭打って、なんとか歩を進める。
もう、10体ほどの死体を踏んづけてしまった頃だろうか…。
ぼくの目の前に、ある見覚えのある建物が飛び込んだ。
それは、ただの一瞬しか目にしたことのない、うろ覚えな物なのだが、何故か際だったその雰囲気がぼくにはっきりと認識させた。
そう。前のビャクリで見た、あの爆撃によって崩れた病院。
『医者はもう死んだんじゃよ』
不意に、あの老人の言葉が頭の中に浮かんでくる。
何故か、その時ぼくは妙に不安な気持ちになった。意味もなく、何かに恐怖しそうになる。
しかし、ここに──この病院に入らねば、何かが始まらないまま終わってしまう気がした。
幸い崩れた病院の入り口は、そのままの形で残っていて、中にはいることは出来た。
戦時下を思わせる貧乏くさいひび割れたガラス戸を力一杯押し引っ張って開けると、病院内へと続く道が現れた。
中に入り、長い廊下を渡っていった。
床は戦争の傷跡が残っているように、ところどころひび割れた箇所が多かった。
そして、ある病室の前にぼくはきた。
病室の前にあるネームプレートには、こう書かれてある。
『202号室:久木 彩乃』
──彩乃……!? あの写真の女の子と同じ名前……!
ただの偶然か? ……しかし、この『彩乃』という少女の名字……。
『「久木」 彩乃』
久木……。古書店の店主の名字だ……。
ぼくはその病室の前に立ち止まって、固唾を一つ呑み込んだ。
ゴクリ──という音が、静かな病院内に妙に大きくこだまする。
ぼくは、病室のドアに手を掛けた。
(2001/10/17 00:58 by みすちる)
薄暗い部屋だった。真ん中に粗末なベッドがあり、その脇に中年の男女が佇んでいる。
そして、ベッドには一人の少女が横たわっていた。
ぼくがドアをくぐって中に入っても、誰も顔を上げなかった。
ベッドに近づき、少女の顔を見る。写真の人形の顔が脳裏を駆け抜けたが、所詮人形は人形だ。いや、それよりも……あの古書店前で見た若い女性の面影が……?
ぼくは顔を上げ、脇の男女に訊こうとした。彼女は誰なのか、そもそもここはいつ、どこなのか……?
「駄目だよ、君の姿は見えない」
背後からの声にぼくは飛び上がった。
ドアのところに、さっきの桜井智之が立っている。
「ぼくらはこの時間の人間じゃない。ここの人たちには認識されないんだ」
「……じゃあ……ここは一体……彼女は……」
「ここは1945年。彼女が久木彩乃」桜井智之は少女を見やった。「久木彩乃は6月15日、12歳の誕生日の日に亡くなったんだ」
もしかするとこの男性は古書店の店主では? ……いや、今が1945年なら、歳が合わない。
「間に合わなかったんだよ……」桜井智之はうつむいて言った。「私は……いや、まだほんの子供だった久木敬三は、彩乃の誕生日に間に合わなかったんだ」
ぼくは殴られたようなショックを感じた。誕生日に……写真には「誕生日に会いに行く」と確か……いや待て、そうだとしたら、あの人形の写真は久木敬三 − 店主自身のものだというのか!?
再び世界がぐにゃりと歪むような感じがして、あたりの様相が一変した。
戸外にいる。さっきの悲惨な戦場とは異なる、のどかな郊外の風景。別のビャクリだろうか?
いや、この風景は……いちばん最初に見た、古書店を出てすぐに見た幻じゃないのか!?
その時と異なるのはただ一点、桜井智之が横にいることだけだった。
「1945年6月15日、O市を襲ったB29は500機を越えていたという」
「びぃにじゅうく?」
桜井智之はゆっくりと上を指差した。
抜けるような青空が見える。紺碧の空をバックに、銀色に光る大きな飛行機が飛んでいた。最初の幻でも見たやつだ。
「ボーイングB29スーパーフォートレス。この頃までに、日本中に爆弾を落としていった。広島と長崎に原爆を落としたのもあいつだよ」
「まさか……まさか、これから……」
「ああ、良かった!!」突然その場で聞こえるはずのない声が飛び込んできて、ぼくはずっこけた。
「やっと見つけた! 見つけたけど、ここ一体何なのよ!?」
「夏子……一体全体なんでお前がこんなとこにいるんだ?」
「だってあんたが気にしてたこの写真を見せようとして……」夏子が示したのは、あのお母さんのアルバムにあったというやつだろう。「でもなによ、ここってこの写真そのまんまじゃない!」
そこで初めて彼女は桜井智之に気付いたようだ。
「あら? あの……もしかして……」
「やあ、申し訳ない」桜井智之はおどけて会釈した。「その写真のせいでキミまで巻き込んでしまったようだね」
「あのう……桜井智之さんじゃないですか?」
「本物じゃないぜ、たぶん」ぼくは二人から眼を背けて言った。「久木書店のおやじさんの、夢の具現化だか別の人格だか知らないけど……」
桜井智之はにやりと笑ってぼくの方を見た。「だけどこの私が本物じゃないと、どうして分かる? 今ここにいる私と、東京の出版社にカンヅメになってる私と、どちらが本物だろうね? それに私が本物じゃないとすれば、その私と同じ場所にいるキミは?」
ギョッとして自分の体を盗み見した。いや、だからといって夢の中の自分が現実ではないとは……
夏子があっと声を上げた。道の向こうを一人の女の子が歩いている。同じだった。夏子が持ってきた写真と、まったく同じ光景だった。
(2001/10/23 23:09 by Lepi)
「久木……彩乃…」
そう。夏子の持っている写真に写っている女の子は久木彩乃で、そして俺の目の前の道を歩いている女の子も、久木彩乃だ。
ウウウウウウウゥゥゥウウゥゥウゥ!!
突然空襲警報が鳴り響いた。
アメリカ軍戦闘機からの、焼夷弾投下の時間──!?
上空を飛ぶB29の姿はもう無かった。
その代わり、別のアメリカ軍戦闘機が上空をけたたましいエンジン音と共に飛び交っていた。
戦闘機の腹が左右に割れ、そこから昔ながらの貧乏くさい焼夷弾の投下!
焼夷弾は地面に落ち、火を放ち、あるいは屋内を燃やし、あるいは逃げ遅れた人を焼き殺していった。
「………………」
僕たちは死なない。
焼夷弾が僕の上に落ちてきたとしても、ここの世界にいるはずのない僕たちは、別になにもケガをしない。
しかし、辺りは焼夷弾のせいで火に包まれる。
ウウウウウウウウゥゥゥウウゥゥゥゥウウ!
未だ空襲警報も鳴り続けている。
そして、全ての家屋が燃え、生きている人間もいなくなったように見えた。
ただ、僕と、夏子と、桜井を残して。
「みんな……みんな死んじゃったの…?」
全てが焼け焦げていく凄惨な光景を目の当たりにして、いつも元気いっぱいのはずの夏子が絶句していた。
「…これが1945年の日本なんだ」
桜井は独り言のように呟く。
「………………」
僕はなにも言うことが出来なかった。
そして火はおさまり、僕たちの眼前には黒く焼け焦げた、焼け野原が現れた。
焼夷弾から発せられた火は、全てを残酷にも食い尽くした。
もう残っているものはなにもない。
僕たちはここにいるべきでない人間。
僕たちを除けば、ここはもうなにもないところなのだ。
とてもとても空虚な世界。
しかし、その空虚な世界には、一人の女の子が、少しだけ長い髪をなびかせながら立っていた。
傷ひとつ負わず、綺麗なありのままの服装で、女の子は立っていた。
女の子の名前は、久木彩乃──。
(2001/10/29 01:46 by みすちる)
彩乃の姿は不思議にゆらめいていた。過去の悲惨な現実の中で、彼女の姿だけがまるで夢のように浮かび上がっていた。
「まだ……まだ終わっちゃいない。間に合わなかったわけじゃない……」
桜井智之のしゃべり方にこれまでの淡々とした口調とは違うものを感じ、思わず横を見ると、彼の姿もまた彩乃と同じようにゆらめいていた。時おり老人や少年の姿がだぶり、それにつれて声も変化した。
− 戦争が始まってすぐ、久木彩乃はO市のN中央病院に入院した。
− じゃが6月15日、彩ねえは具合が良くて、誕生日だったこともあって家にもどっとった。それをわしは知らなんだ。
− 夕方ボクがN中央病院に行った時は、もう遅かったんだ。
「いや、まだ間に合う!」
轟音が響いてきた。上を見ると、あの銀色の飛行機が頭上を通過していこうとしていた。その下部がぱくりと開いているのが分かる。あのB29とかいう飛行機は、いったいどれほどの爆弾を積んでいるのだろう。もう一度……もう一度、空襲前の光景が展開されていた。
「危ない、焼夷弾がくるぞ!」
ずっと向こうで誰かが叫んでいる。
「早く逃げろ! 彩乃!!」
突然ぼくたちの傍らから一人が飛び出した。桜井智之 − から、その姿はいつの間にか幼い少年に変わっていた。
「間に合った!」 少年は女の子の元へと駆け寄った。 「彩ねえの時間に、間に合った!」
少年が女の子をかばうように飛びつき、そしてすべてのものが強烈な閃光に包まれた…………
* * *
ぼくと夏子は空漠たる灰色の空間にいた。そしてぼくたちの左右には、二つの 「時間」 が流れていた。
「まことに残念です……」 病室で包帯を巻いた医師が中年の男女に話している。 「主治医の中野先生も空襲で……」
「せっかく今日は誕生日だったというのに……」
そこへ少年が駆け込んでくる。
「彩ねえ、彩ねえは!?」 男女は悲しげに首を振った。
右手に見えているその光景は、少し前に見た病室の 「ビャクリ」 の続きに違いない。病室へ駆け込んできたあの少年が幼い頃の久木敬三であり、これが彼の実体験だったのだろう。
この空間を見渡すと、ぼくが仮に 「ビャクリ」 と呼んだ世界の意味がわかるような気がした。
病室の光景を含む時の流れは、ずっと未来 − ぼくたちにとっての 「現代」 までつながっていた。そこに垣間見える久木敬三の時間の中で、彼は毎日を必死で生き抜き、しゃにむに働き続け……それはまさに戦後日本の姿そのものだったかも知れない。その過程で夢をあきらめ、悲しい記憶を封じ込め……そのたびに、いくつもの 「ビャクリ」 が分岐していった。
彩乃の実家にひときわ立派な人形があった。久木敬三は彩乃の遺品を預かることを断り、代わりに写真をもらい……だが、彼はやがて悲しい記憶を無意識的に封じ込めたのだ。
後に、戦時中を舞台にした桜井智之のミステリーが彼の封じ込めた記憶と 「共鳴」 し、複雑にもつれた 「ビャクリ」 が延びていった。それは大きく弧を描き、1945年へ、さっきまでぼくたちが見ていた時代へとつながっていた。
そして、そこから大きな幹が分岐し、ぼくたちの左手に延びていた。そこには、病室に始まるのとはまったく違った光景があった。空襲の時、久木敬三少年が飛び出していって彩乃をかばった、その先に続く時間だった。
桜井智之 − とよく似た、若き日の久木敬三に違いない − と、あの古書店の前で見かけた若い女性 − こちらでは12歳で世を去った久木彩乃の、成人した姿なのだろう − の二人の男女が仲良く歩いている。
たぶんあちらの時間も実在しているのだ。その時間もしっかりと未来へ延びているのが分かった。無論、その過程で様々な 「ビャクリ」 を分岐させながら……。
桜井智之 − あるいは久木敬三が、おどけて手を振ったように見えた。
− ありがとう。きみたちはきみたちの時間へと帰りたまえ……
そんな声が聞こえたような気がした。複雑にからみあった 「ビャクリ」 が少しずつほどけていく。そしてぼくたちは、ぼくたちの本来属する時間へと……
* * *
「ふむ、この本にそんなものが」
話が終わった後、問題の本を眺めつつ、店主は考え込む。
「そうか……この写真が……。店頭に出す本は全部、点検したはずなんだが。すまない、わしのミスじゃ。この写真はわしのだよ。長い間、ずっとなくしてたものなんだ」
夏子とぼくは、ちょうど缶コーヒーを手に戻ってきた久木書店の店主に、奇妙な写真のことを尋ねていた。
「えー、おじさんのなんですか? その人形は?」 夏子が無邪気に尋ねる。
「忘れてたなあ。どうしてなのかなあ……」 店主はいわゆる遠い目で天井の方を見やった。 「彩乃という名の義理の姉がいてね。わしは彩ねえ、彩ねえと呼んどった。じゃが、戦争が終わる直前、十二歳の誕生日の日に死んだんじゃ。その遺品に、何となく雰囲気の似た人形があってな。その写真なんだ」
そこで店主は壁にかかったカレンダーをながめた。
「そうか……今日か。今日が誕生日なんじゃ。十二歳の誕生日に会いに行くはずだったんじゃが、はたせなんだ。今からでも来いって、その写真の人形が呼んだんじゃな」
その言い方に不安を感じ、ぼくたちは出かけるという店主の後についていった。が、その向かった先は夏子を驚かせた。
「え、ここってお母さんのおばさんのお宅だわ」
「彩ねえは養女でな。戦争前にここのお宅からうちに来たそうじゃが」
それであの写真が夏子ん家のアルバムにあったのか……。ぼくは得心するとともに、夏子もある意味で最初から無関係ではなかったことに驚いた。
「あらあら、まあまあ!」 玄関でぼくらを出迎えたおばさんは、心底驚いたようだった。 「敬三さん、いったい何年ぶりかしらね? それに夏子ちゃんも! お母さんは元気?」
居間に入ると、質素な仏壇があった。鴨居に何枚かの写真がかけられており、軍服を着た古い写真もある。だが、ぼくの目はその下の床の間に吸いつけられた。
あの人形がこちらを見ている。ぼくたちが「ビャクリ」で見てきたことも全て知っている、そう言いたげに見えた。
脇の写真立てに、見覚えのある写真が入っている。
田んぼを背にした女の子の写真。
「彩乃さんの写真はそれ一枚しかなくてねえ」 思わず手を伸ばしたぼくに向かって、おばさんが言った。 「ほら、夏子ちゃんとこにも同じ写真があったわよね」
夏子は照れ笑いのような曖昧な顔でうなずいた。 「ビャクリ」 の中で彼女が持ち出してきた写真は、今は手元になかった。
夜も更け、店主の息子が車を運転して迎えに来た。裕樹という名の孫が一緒に乗っていて、店主は愛しそうに抱え上げて車に乗り込んだ。ぼくたちも送ろうと言ってくれたが、方向が逆だし意外とすぐ近くだったので、丁重に辞した。
「これで……良かったのかしら?」
車を見送ってから、夏子がぽつんとつぶやいた。
「うん?」
「あたしたちが見たことが本当なら……おじさんは過去を……1945年のあの日を、変えたことになるんじゃないかしら。でも、変えられた過去というのはどこか別の世界にあって、今のおじさんは変えられた過去のことは知らないわけよね。それで良いのかしら」
「う〜ん、そいつは分かんないなぁ。あの過去が本当に変わったのかどうかも含めてね。ただ言えるのは、今ここにいるぼくたちにとっては過去は変わっていない。もちろん、おやじさんにとっても。だけど、おやじさんにとっては何か変わったんじゃないかな。
どこまで現実でどこまで幻だったのか見当もつかないし、あのおやじさん − 桜井智之の姿を借りてた別人格の方じゃなくて、こっちにいるあのおやじさんが、どこまで認識してるのかも分からないけど……こっちのおやじさんにとっても、心の奥に封じ込めていた悲しい記憶に決着をつけたというか……心の中で、過去を変えたのと同じことだったのかも知れないね」
夏子は数瞬間考え込んでいたが、くだけた表情に戻ると大きく伸びをした。
「ん〜……出来ることなら、あたしも変えられないかなあ、過去を」
「一体どんな過去だよ、お前が変えたいなんて言うのは」
「うっさいわねぇ」
ふとぼくは昔テレビか何かで聞いたセリフを思い出して口にした。
「過去は変えることは出来ない。だけど、これから先のことは……未来はいくらでも変えられるんじゃないかな。我ながら偉そうなセリフだけど」
「ほんと、ぜんっぜん似合ってないわよ」
「うるせぇ!」
舌を出して駆け出した夏子を追いかけながら、ぼくは後ろを振り返った。あの人形のいる家を。今日見た複雑な幻を。背後に蓄積された、過去の膨大な時間を。
2001年の6月15日も、あと数時間で過ぎようとしていた。
(2001/11/01 00:06 by Lepi)