12.カノジョの日記 佐保京子
(1)しょーもない人(その1)
診察室にて。喘息の気があったので、ものは試しにと漢方薬を飲みはじめていた。私はもっと食べて肥えたほうがいいらしい。いつものごとく体重計に乗る。何回目かの診察のとき、今までいちばん重かった時と軽かった時の体重の話になった。「なんだ、拒食症か?」「……はい」笑ってごまかせたのに、バラしちゃった。「流行りのものは何でもやってるって感じだな」チクッとした。何かが刺さってそこから空気が漏れていきそう、そんな不安感は力なく言葉を返す。「勝手になってたんですけど……」。ちがう、もっとさらりと受け流せ。あ、ダメだ反応してる流行りのものは何でも……同じフレーズが頭のなかをぐるぐる廻って離れない。
フン、何ヨワカッタフウナ言イ方ヲシテ。アノ医者ガ私ノ何ヲ知ッテイルトイウノヨ。私ガタダノ患者ダッタラモウ二度ト行カナイダケダワ。声を出さずに悪態づく。
2週間後、流行りのご多分にもれず風邪をひいた。高熱と喘息でボロボロだった。ボーッとした頭に、なんの拍子かまたあのフレーズがよみがえる。謂われのないことではない。でも、経験しないで済むものならそれにこしたことはないものばかり……涙があふれてきた。なんだかとっても悲しかった。好きでやってるわけじゃないよ。
たった27年ぽっちの吹けば飛ぶような人生、子どもじゃあるまいし他愛ない言葉に今さら泣いてどうする、自分に言い聞かせるけど涙は止まらない。人に後ろ指さされるようなことはいくつもあって
(むろん先生には話していない)「すれっからし」となじられて泣きもせず、開き直って生きていたつもりだったのに。同情されるのもまっぴらだし、人のせいばかりにするつもりもなく、過去のことはもうどうでもいいと思っていた。結局その日は布団をかぶって泣き続け、そのまま眠っていた。
思い切り涙を流すのは本当に久しぶりだった。泣くだけ泣いたらスッキリ、まるで大量の排尿を済ませた後のような。まだ泣ける自分が妙に愛しく、だけどやっぱり思った……流行りのものは何でもやってるって、ええそうよ、それがなんだっていうのよ、でなきゃ今の私はいないのだから。
(2)しょーもない人(その2)
話している相手と論争になって、相手を論破したりするほうか? と聞かれた。うわ、診察室をはなれても心理分析かよ、たまんねーな。生意気でヒネクレモノの私は、その質問の意図は何か、ときりかえした。別にそのことを聞いてみたかっただけだ、という面白くない答え。それを聞きたくなった理由を聞いてるのにね。つきあいがあればそんなこと自然にわかってくること、それほど親しくないからわかんないわけで、親しくなければ不躾に質問することでもないじゃない。
でも、なんか凄いや、私がこんなこときかれるようになるなんて。今でこそ「人と会話する」ことを難なくしているけど、ほんの数年前まではこうはいかなかったヒトなのだ。とにかく声が小さい、言葉が出てくるのに時間がかかる、もちろん何を言ってるかわからない、とどんな場面でも言われてしまうようになるとよけいしゃべらなくなって……。家族の中でさえ通訳や代わりに言ってくれる人がいて会話が成り立つほど。
年齢とともに少しは会話する技術もついたし、必要になれば話の要点を紙に書いて用意しておいたり、手紙を書いたりという努力はしていたので、「あーとかうーとか言ってるちょっと変わった人」程度で済んでいた。苦手意識はすこぶるあったけど、人が嫌いでどうしようもないということもなかった。でもストレスはかなりのもの。当たり前だ、コミュニケーションの取り方が違ってるんだもの。その頃から付き合いのある友達には「ちゃんと話ができる」ことをよくホメられる(家族から褒められないが、なぜだろう)。最近付き合うようになった人たちからはあまり信じてもらえないけど。
どうしてこう変わったのか、と考えてみてもこれがわからないのだ。治療を受けたわけでもないし。ただ、5年前ひどい鬱状態だったことがあって、それを境に変わっているという事実はある。冗談のようだけど、頭のネジが1本はずれてたのが、頭がおかしくなってまともになる時に、はまるところにはまったんじゃないか、という気がしている。もちろん「練習」もしたけどね。
論破して得るものは自己満足と虚しさ。言葉で伝えられるものなんて限られてるよ。
(3)しょーもない人(その3)
5月の連休中にひいた風邪が、2週間ほどたってやっとぬけたなあ、という感じになった。そういえば、この1年余り3〜4ヵ月おきに結構激しい風邪をひく。からだが学習でもしてくれたのか、今回の経過はなかなか良いほうかな。茶色い痰が出ることもなく、39℃台の熱も1日だけで済んだし。
病は何とかから、というが、まったく思い当たらないわけじゃない。私はどうしても、「義務感」や「責任感」で行動パターンがつくられてしまう傾向がある。それが如何に自分を息苦しくさせてしまうのかはもうずっと前にわかっていたつもりが、気がつくと似たようなことの繰り返しになってる(どうしてそうなるのか、という話はまた別のことなので置いておく)が、今回の風邪を引きはじめたときから、そのパターンを崩すことが2回続いた。崩す、といったって、しがらみをつくってるパターンなのだから、一気にガラガラと崩壊するわけじゃなく、第3者のほんの些細な言動なのだけど。おかげで引きはじめから体を休めることができたし、ちょっと自分でも努力してなるべく「やりたいこと」を優先に、おもに義務や責任から出てきてる諸々は「お休み」するようにした。そうしたら、気分だけじゃなく、まあなんてからだが楽なこと! Let it be. なるようにしかならないもんね。後ろめたさをそんなに感じない自分は結構無責任な奴だなあ、なんて。
色々な人たちのお陰で私はこうして生きてられるのに、それを「やりたいことだけ」なんて、傲慢不遜もいいところ。だけど、病的なほどの義務感や責任感が成り立つためには、その義務や責任でつき動かされる役割を都合よしとする人や集団が必要だ。言葉を変えれば利用する、そこまでの認識がなければその異常さに気づかない鈍感さがある、異常さに依存できる側の異常さがあるってこと。マトモな感覚の人が集まってれば、そんな責任感による役割はどこかでストップがかかるものだ。それにそんな人なんて息苦しくてうっとうしいじゃない。あ、私のことですね。
集団とはいうけど、これは恋人同志だって家族だってあてはまる。私のこの行動パターンの原型は確実に子どもの頃につくられてる。変わっていくのを願ってはいるのだけど、そう簡単にはね……。ま、いいか。
(4)しょーもない人(その4)
医院の2階のベランダや駐車場にプランターを置かせてもらって土いじりをしている。なす、しそ、ピーマン、明日葉、小葱etc. 今年で2年目になる。ずぼらな私が手入れするので、出来のほうはボチボチというところ。それでも「大丈夫なの?」と他の人には失敗に見えるらしい弱々しい芽でも、私には十分かわいいし、まわりがコンクリートばっかりだからか、雑草が生えても「こんなところでよく生えてこれたねえ」と抜かずにおいてしまったりする。私は絶対園芸には向いてないな、人をいじるより好きな気はするのだけど。
この春に不断草という菜っ葉の種を蒔き、なかなか元気良く大きくなってくれていた。が、梅雨に入るころから威勢のいい虫がついてしまい、葉を摘んで食べるどころではなくなってしまった。殺虫剤は使いたくないし、じゃ、虫を取ってつぶしますか。去年は二十日大根が、せっせと青虫退治に励んだにもかかわらず、骨と皮ならぬ葉脈だけになって全滅。今度は何とか育ってくれるだろうか。
医院の隣の家が取り壊され、更地の赤土には1mにはなろうかという雑草がむくむくと伸びている。土がひなたぼっこをしている。そんな珍しい光景と、駐車場のコンクリートの上に置いたプランターの中に入れた土から生えている虫食いだらけの不断草を見比べていたら、なんだかなあ。私の育った環境みたいだ、私だけじゃない、そこらに沢山いる人たちもか。いろんなものが生きてしまわないように、いったんきれいにして(コンクリートをしいて)、選ばれた肥料をいれた箱の中でこれまた選ばれた種をまいて、狭い所で整然と育ち、雑草が生えてくることは許さない。もちろん虫や病気に弱くなるわけだから過剰な程に手をかけて、収穫は均質でこぎれいな個体差の少ないもの。
農家の人は、生活かかってるから、「悪いなあ」といいながら虫を殺し、雑草を抜く。私はどうだ? 生活かかってるわけじゃなく、箱入り不断草をつくるため。そもそもバイト先で土いじりを始めたのは自分の精神保健(?)のためだといえなくない。こんなにコンクリートとアスファルトばかりじゃ雑草だって虫だって生活難なのにねえ。
私があれやこれやと思おうが思うまいが、虫は不断草を食べつづけているようです。
(5)しょーもない人(その5)
鍼灸学校に通って3年になるくせに、いまだに鍼が好きになれない。あと半年で卒業になるわけだが、まあ、このままでもいいかな、とも思っている。
私は10年位前から障害を持つ人たちとの“福祉的な”面からのかかわりが続いている。ボランティアだったり有給だったり、共同生活だったりと立場は変わっているが、その中で見てきたのは、援助する側もされる側も、何らかの体の症状は人との関係性の中で悪くもなり、良くもなるということ。また最近流行りの「アダルト・チルドレン」という考え方を知ってから、それまで苦痛となっていた症状や性格上の問題が変化し始めた人を何人も目のあたりにした(治った、ということではないです)。
それと私自身、延々引きずっていた抑うつ傾向っぽいところや自律神経失調症状なんかが良くなっていったのは、どこかに治療に通って治してもらったわけではない、という経験がある(程度が軽かったといえばそうかもしれないが、10代前半のうちから1週間排便がないのはザラ、低血圧、不眠、胃炎、肩こり腰痛etc. 何でもあって、自殺企図を繰り返し実は集中治療室から戻ってきた死ニゾコナイでもある。生育歴を見れば緊張の強い家庭環境、児童期の性的虐待の経験……と材料は揃ってはいるような気はするのだが)。治療に行かなかったのではなく、行っても良くはならなかったのだ。いや、今思えば「行くのをやめた」ときからいい方へ変化し始めたような気がする。(医者が楽にできない)私のからだを私自身が引き受けたときから、というべきか。
からだの問題をからだだけではないところで解決のきっかけを見ようとしてしまうから、からだのみへアプローチする鍼治療というものが、私のなかで腑に落ちないのだと思う。とは言うものの、からだの症状が一時的にでも楽になることによって、人との関係の持ち方の問題に向き合える余裕が生まれた、という面は確かにそうだと感じている。ただ私の場合、鍼で気持ちよくなったことはほとんどないのがちょっと悲しい。
東洋医学的な理論からすれば、からだの変化は心の変化でもあるはずだから、からだだけに働きかけることは間違いではないのだろうが、今は納得できていない、というのが正直なところなのである。
(6)しょーもない人(その6)
ときどき周囲の人から言われることだが、私は人との関係において「感じやすい」きらいがあるらしい。確かに、多くは理不尽なことがあるとしっかり怒ったり、悲しんだりしている。だからといって、私自身はそういう自分の性格に苦痛は感じていないし、まあ精神的に疲れちゃう状況になりやすいかもしれないが、最近はなんだかんだ言ってへこたれずにいるので、問題だとは思っていない(それが一番の問題?)。
今までにも書いたが私はいろいろと病気っぽいところがあって、でもそれはある程度人並みに何とか変わってきた(つもり)。だからこそ自分の性格ではっきりしてくる部分ってある。どうも「感じ方」そのものだけはそのままのようなのだ。感じたことを自分の中でどう捉えるか、どう処理するか、どう表現するかということは大きく変わったと思う。社会への適応性が高くなるとか、症状がなくなるなどとも言い換えられるので、メデタシメデタシであるはずなのだけど、それじゃ済まないタイプの人もたまにいて「アンタノ感ジ方ハ異常ダヨ」(とまではっきり言う人は滅多にいませんが)と忠告を頂いてしまうのだ。どういう状況やことがらの時に、どういった人から(職業とは関係ないですね)言われるかはある程度わかるようにはなっているから、言われてショックを受けることもないほどずぶとくもなりました。
でもそう言われてもねえ。感じ方を変えろ、っていうのが一番難しいんじゃない? 考え方を変えるというのとはわけが違う。感じちゃうものは感じてしまうんだから、しょうがないよ。「感じる」には「勘」みたいなものも混じっているから余計説明しにくいし。たぶんもっと感じたことへの処理能力が高ければ言われなくても済むのだろうし、もうひとつ言えば、こちらの感じ方に正当性、妥当性があったとしても、相手のそれまでの価値観や生き方を揺らがせてしまうものだとしたら、「おまえがおかしい」ということになるなんてよくあること。
人がそれぞれ感じることは、どうしてそうなのかは別としてその「感じた」レベルにおいては大切にしてあげたいな、と思う。他者が、自分が感じていること、「思いやり」なんて言葉は通用しないくらい人それぞれで感じ方は違い、他者へは思いやれてなんかないこと。うまく言えないけど、だから人とつながっていたいな、とも思うのです。
(7)月の恵み?(その1)
なんでこんなものあるんだろうか、なけりゃいいのに、と一度も思ったことのない女の人っているんだろうか。12歳で初潮を迎えて以来はや十五年、いまだに生理不順な体を抱え社会生活をおくることにもやっと慣れてきた。
「生理」とその名の通りごく自然な当たり前の現象で、1ヵ月に一度ないことが病的とされるくらいのものなのに、どうしてこう疎ましく思わなけりゃならなかったのだろう。確かに母は「女の人にとってとても大切なことなのよ」と色々と肯定的に説明してくれたし、赤飯も炊いてくれた。が、あの痛みと体が重くてたまらない感じは苦痛きわまりなく、世の中は「生理中だから」と許してくれないことだらけだ。周期が決まっていてある程度先の見通しがつくなら都合できるが、そうはいかないことだってある。痛みと吐き気をこらえつつ、ボーッとした頭とひきつり笑いでなんとか約束を果たし、迷惑をかけちゃいけない、仕事に穴をあけたくない、人に遅れをとるまいと必死になって自分を痛めつける。好きな男に会いはするけどその旨告げればいまいましそうな背中を見る(もちろんこーゆー男はちょっと考えたほうがよい)。無理すりゃ出来る、なにごとも……。しまいにはこんな自分に嫌悪感さえ覚え。
ストレスなのは生理そのものと、そのために具合の悪いことがハンディになってしまうこと。生理がそう重くない人だってほとんどが多少なりとも調子が悪くなる。合理的かつ効率的に仕事ができる人たちの尺度で世の中動いているから、その尺度の中にいるうちは生理があるからといっていいことなどあるわけない。では、種族保存のための必要悪を一身に背負えとか?
生理をおおっぴらにしたがらない文化は「現代っ子」の私にはたいして問題ではないが、次の生理が恐怖でさえある程の苦痛はなんとかしたい。一ヵ月の4分の一から五分の一を「仕方なく」過ごすのなんてもったいなさすぎる。生理痛がひどかろうとそうでなかろうと、せめて「生理がある」ことにもう少しでもプライドを持つことができたら,もっと楽に日々を生きられるんじゃないかなあ。
(8)月の恵み?(その2)
前号の文章は半年以上前に書いたもので、そこには私が生理不順で生理困難もひどいとあるが、実はこの間、ずいぶん順調に、しかもかなり楽になってしまった。とは言うものの、私なりに「生理対策」はいろいろ試していたので、良かったものをちょっと紹介します。ご参考になれば。
[1]とにかく冷やさない。特に生理前〜生理中にかけて。膝丈のスカートにストッキングとガードルではキビシイものがある。冷えを自覚していなくてもせめてこの時期だけはね。ガードルよりミニスカート用のスパッツのほうが断然あったかい。仙骨あたりへのお灸、足湯もいい(風呂の温度より少し熱めのお湯にくるぶしまで浸し、冷めないように差し湯をしながら10分位、あとは水分を良く拭き取る)。ホッカイロは下腹や腰、ふくらはぎや内くるぶしの上あたりの自分にとって一番楽になるところを選んで貼る。食べ物も気をつける。
[2]生理中は本能にしたがいワガママになる. 無責任と言われようが生理は病気じゃないと非難されようが、そうしたいのが本音なら仕事は休む、約束は断る。面倒なことはみんな手を抜く。留守電をセットしダラダラと過ごす。眠る。欲しかったものを買い、花を生ける。その時の自分にとって気持ちの良いことを求める。判断の基準は善悪でなく本能と直感。できれば生理前に洗濯、掃除、惣菜の作りおきなど済ましておくと気分的に楽。
[3]生理前3日間くらいは甘いものを絶ち、便通は整うようにする. これがなかなか出来ない。だけどそうすると不思議に痛みが軽い。肉類をやはりこの間は食べないようにすると結構いい、と言う人もいる。
[4]生理前の感情のたかぶりは出す. 女ともだちを捕まえてイラついていたことをぶちまけるとか(嫌われない程度に)、カラオケボックスや車の中で大声を出すとか。一人で泣きまくるのもスッキリする。
[5]アロマテラピー. 香りではなくオイルをお腹や足に塗ることで私はどんな鎮痛剤よりよく効いた。生理前のイライラにもかなりの効果。詳しくは専門書を見て下さい。
[6]その他. 自分の体と向き合うことを普段から心がける、基礎体温をつける、など。ある程度自己管理ができないと不可能だし、どうすると辛くなるか、どうだと楽になるか自覚できるかどうかがポイントになるやりかたでもあります。
みなさんはどうしてますか? いい方法あったら教えて下さい。
(9)月の恵み?(その3)
生理に欠かせないものといえば生理用品。最近の主流はビニルのようなナプキンと、パルプが原料のタンポンである。ナプキンの軽薄短小化はまだ進んでいるらしく、店頭には「お試しパック」にこと欠かない。使い易いのだが、このナプキンの材質は私には向かないようで、体調いかんでかぶれることがある。タンポンもいいのだが、衛生面に気を使うので面倒な時は面倒。どちらにしても使い捨てで簡単だ(ちなみに「地球にやさしい」というコピーがついている製品は見覚えがない)。
ほかに私は布製のパッドを使っている。4、5年程前に都内の自然食品店で見つけたのだが結構気に入っている。オーストラリアからの輸入モノで、フェルトに似た肌ざわりで綿100%、ハンカチ大の布を3〜4つに折りたたんで、ナプキンと同じようにして使う。粘着テープも、“高分子吸収シート”もあるわけないので、さぞモレたりするだろうと思いきや、ナカナカのモノなのだ。量の多い日でも3〜4時間は大丈夫、布の性質が体型にフィットさせもする(激しい運動時や歩き続ける場合は別)。カブレも起こらない。水洗いして何度でも使え、乾きも悪くないので、3〜4枚あればこと足りる。1枚千円前後、サイズによって値段は違うが、4年経った今でもまだまだ使えそうなので、かなり経済的だ(余談だが、生理のある女は、当然生理用品に対する費用負担が必要、子どもを産んだら手当が出るのに、生理手当ってないんだよなあ)。実際には、1日中外出する時に使うには色々と大変なので、家でゆっくりしている時や就寝時に使っている。
使った後は、洗面器に水をはってパッドを浸す。数時間放っておくと経血が水に溶け出て、比重の違いのために、底に沈む。鮮やかな赤い色の血がきれいだなあと我ながらホレボレすることがある。オフホワイトの洗面器に赤がよく映える。気をつけていると、血の濃さ、量などがその時によって多少違う。観察しているのも面白い。
で、その浸み出た血の混じった水は、植木鉢やプランターに流す。ちゃんと肥料になってくれるらしく、とても元気が良い。ついでに言うと、その良く育ったプランターのパセリなんかをおいしく食べちゃったりもしてる。こういう話は、嫌がる人と、面白がる人とはっきり分かれるので、それもまた面白いのだ。
(10)月の恵み?(その4)
月経というものが、人の生理現象として昔からどんなふうに意味づけられていたのか、という興味はずっと持っている。鍼灸学校に通う関係上、中国由来の東洋医学ではどうか、と古典を調べてみるがよくわからない。学問の浅薄な私のことなので、その道の先生に聞いてみた。すると月経異常の際にどういうツボを使ったらいいか、などの記載はあるが、他の生理現象が自然界のことにおきかえたりしながら説明するような、月経についてのものはない、という。古典に限らず、婦人科領域に関することは、お産についての研究はあっても、それに比べて月経については少ない、とのこと。
古典の中に「七損八益」という言葉がある。これは女性は七、男性は八を基数として成長老化していく、という法則である。例えば永久歯が生えるのは女は7歳、男は8歳、初潮は14歳、射精できるのは16歳、身体が最も強壮な時期は女は28歳、男は32歳、という具合。もちろん2千年も昔の話なので現代との違いは差し引いてみても、よく観察しているなあ、と思う(これは60歳代まで説明しているのだが、“女の方が一般に長寿だ”ということは書いてない)。ちょっとひっかかってしまうのは、女が「損」で、男は「益」ということ。これもまた調べると諸説あるようで、男は陽で益するもの、女は陰で消するものだから、とか、わかりやすいところでは“女は月経があるから「損」で、男は精気(精液のこと)を充満するために「益」”というもの(私は授業では後者の説明をうけている)。漢和辞典では損はだいたい損なう、という意味でよく、益は“減ったものをつぎ足す”という意味があるらしい。
う〜ん、月経は損で、射精は損じゃない、というのかあ。まあ、生命活動に欠くことのできない「血」が失われるものだから、月経のある人は損なっている、とは言えるけど。でもなぜただただ“損なう”という発想しかないかな、と思う。健康だからこそおこる出血なのであれば、これは必然性があるわけで、だったら出血の必要性や意味が説いてあってもいいような気がするのにね。男性の射精は「益」なのに。同じく古典の中では過剰なセックスや自慰は戒めていても、過剰でなければ良いものとされ、だから“精気を充満”すべき存在なのだ。
頁いっぱいになってしまったので、続きは来月に。
(11)月の恵み?(その5)
中国の東洋医学書の古典には、生理現象としての月経の説明はないらしいということや「七損八益」の言葉から考えたソボクな疑問について、前号で書きました。ひき続き、ちゃんと調べもせずにソボクな発想でいきます。
月経に限らず、性に関することをひろい読みしてみても、男の人を想定して書いてあるものかな、というものが多い。名前の残っている医家は男ばかりだし、もし男だけによって理論づけられた学問であるなら、“女は損、男は益”という見方でものごとが進んできたとしても不思議はない。男の生理は自分の体や生活の中で実感してきたものが基礎となり、女の生理は他人の観察に拠るだけで、体で感じたものではなく、おまけにそこに社会通念や、道徳が入りこんで見てた、ということもありうる。
月経が“損”なら、月経の量も回数も少ない方がベターだ、ということになってもいいのにそうはならないのは、自然の摂理に反するから。
極端な話だけど、恐いのは、月経は損、女は損な存在、ということで今の文化がつくられているのだとしたら、その文化の中に生きている私は知らずしらずのうちにそうした価値観を摺り込まれているのかもしれない、ということ。「ダンジョビョードー」がうたわれる今日、「月経異常」が増えるのも当然かもしれない(古典が書かれた頃は月経異常が少なかった、というともちろんそうではないようだけど)。
私が今後治療する側になったとして、月経異常をつらいと訴える患者さんに何をしていくのかな、と考えてしまう。月経が楽だろうと辛かろうとどっちみち損だけど、まあ、がんばって女を生きなさいよ、とは言えないよなあ。その古典には、損なっている分、女の体は大切にされるべきだ、とも書いてないし。
東洋医学はスバラしくても、そうでない部分もあるから、そこは見ないようにして、いいところだけをいかしていく、ということになるのだろうか。それとも私がひねくれているだけなのだろうか。とにかく、とても腑に落ちないことがらなので、ゆっくり自分の体と照らし合わせながらということも合わせて勉強したいなあ、と思っている。
(12)月の恵み?(その6)
何号か前に、布製の生理用ナプキンを洗いながら何度も使っており、経血が滲みこんだ水は植木やプランターにあげているということを書きました。それを読んだ女性の友人に、「何故うんちでもなくおしっこでもなく、わざわざ経血なのか? 本当に肥料になっているかどうかもわからないのに、あなたは人一倍忙しい生活をしているのに、何故そんな面倒なことをあえて?」とたずねられ、はて? と考えこんでしまった。
言われてみればその通りである。金肥ならともかく、生の血がどこまで植物の肥料になるかなんて私は聞いたこともないし、調べてみようとも思わなかった。ただその布製ナプキンのふれこみに少々書いてあったのを素直にしたがっただけ、実際やってみると他の肥料はほとんど使わず5年近く元気に育っている(これから先はどうかわからないけど)。だからまあ、いいのかな、程度で。「有機栽培へのこだわりからやっているのか?」。そりゃ、その方がいいとは思うが、別に私はそのためだけに、経血を土に返す、ということをしているわけではない。だったら堆肥をつくるもんね。
また別の友人(男性)が「よくやるよな、あれはいわば“流れた”ものなのに。理解できない」とも言ってるらしい。そりゃそうだ。妊娠の準備だったものが、うまくいかなかったわけだから。なんだかガッカリして、でも突くところ突かれてうろたえてしまいそうな不安な気分。言われて初めて気がついた。私にはこういう当然の発想ってまったくなかった。
ああそうか。私は“自己肯定”したいために経血を捨てないでおくのか。月経も経血も私のからだの一部だったものだ。私自身だ。新しい生命を孕もうと孕むまいと私のからだの営みには変わりなく、私を私として、まるごと然るべきものとして意味づけようとしているのか。
食べることも眠ることも、おしっこすることも、うんちをすることも、それぞれに大切にされているように、月経を起こすからだなら、月経も大切なことなのだ、と。
こんなことをあえてやったり、考えたりしているところに自分の病的さを感じてしまうのだけど、どこか私に限ったことでもない、とも思っている。
こんな話を女友だちにしてみても、面白がって私をけしかけてはみてくれるのだけど……。
(13)ヒミツの京子ちゃん
3年間続いた鍼灸学校の卒業式も終わり、国家試験の合格発表を待つ身となった。合格すれば、鍼灸師の資格を持つことになる。この資格を持つにはいくつかの条件があって、そのひとつが“精神病者ではないこと”である。精神病の医学的定義には3つの病気があり、その中には私も既往がある「てんかん」も入っている。
この私の既往症は、治ってるんだから資格には影響しない、と頭ではよくわかっているつもり。だけど悲しいかな、どうしても「本当に大丈夫だろうか」という不安が頭をもたげてしまうのだ。てんかんは、脳の電気的な連絡が一時的にうまくいかなくなり、意識を失ったり、けいれんをおこしたりする病気である。薬でかなり抑えられるようになってきている。最近では精神科より、神経科、神経内科の領域ではないか、とも言われ、実際鍼灸学校専用の教科書には、これだけポピュラーな病気にもかかわらず(小児の罹患率5%ともいわれる)精神科、神経科の両方とも全く記載がない。
この病気に限らず、悲しいのは病気そのものよりも、その気味悪さや無知から偏見や迷信が当り前になったり、不当な差別が横行してしまうこと。病気を持つ人自身がのびのびと当り前に生きられなくなってしまうこと。
私は14歳の時に発病した。病院から帰ったその晩、偏見いっぱいだった両親は私の前で夫婦ゲンカ。「自分の血縁のせいではない、お前の血のせいだ」「うちの方にもそういう人はいません」。その日のうちに“この病気のことは誰にも言ってはいけない”という家庭内の厳重な戒律がしかれ、2人の妹たちにも「家族にそんな病気を持っている人がいることで苦しむはず」だからと隠すことになった。就職や結婚にひびくから、と親類縁者にはもちろんである。母は中学校に出向き、書類全般の既往症の欄には何も書かないように頼み、その通りになった。「体の弱いお姉ちゃん」の大学病院への通院は“貧血のため”。こうしたことが私の人格形成に多大な影響を与えたのは言うまでもない。
20歳を過ぎて、両親の了解のもと、妹たちに病気のことを話したところ、「何それ?」と聞いたことのない病名について説明をするはめになった。時代は変わるとはいえ、てんかんがそう問題にされなくなっても、隠しておいた方が利口な病気やできごとは新たに生まれてる。やっぱり変わってない気がする。
(14)違っていること
少し前、パラリンピックの開催期間中、一緒にテレビニュースを見ていた妹が驚いたように「オリンピック選手は総理大臣から表彰されるのに、何故パラリンピックは厚生大臣なの?」と尋ねてきた。さあ、ショーガイシャがやってることだからではないか、オリンピックは文部省管轄だがパラリンピックは厚生省だ、と答えると、「スポーツとして認めてないってことなわけ?」とさらに驚いていた(後日総理からの表彰と報奨金制度の導入が検討されるという報道がある)。
妹のこういう感覚は私には意外で、けれど嬉しい気もした。彼女は進学校からストレートでいい大学、企業へと進んだ、障害を持つ人とはあまりかかわりのない生活をしているフツーの人である。少なくとも妹よりは私の方がかかわる機会は多い。どうして私はこういう方向にきたのかなあとふり返ると、思い当たることの中の一つに、前回書いたてんかんのことがある。
通院先は小児科の精神・神経外来で、てんかんを持つ子どもや、知的障害、脳性マヒであろうという子どもたちが来ていた。待合室で子ども心によく考えていたのは、自分と隣にいる障害を持つ子とは何が違うのだろう、ということだった。自分とは違う学校に通って、違った生活をしているはず。でも病気はお互い脳にあって、それもてんかんは多いはずなのだ。もちろん他人の診断名など知るわけもないが、図書館で中学生なりにてんかんについて調べた知識から周りを見回していた。
私はフツーぶっていられるが、この人たちは隠せない。だから嘘をつかずに本当の姿で、ハンディキャップを持って生きてゆかなければならない。私はてんかんであることを隠し偽りフツーを生きて、病気の不安や悩みを誰かに打ち明けることを親に禁じられ(妹にさえも)、嘘をつくのは辛くて悲しいけれどハンディキャップはない。もし本当のことを言ったとしても、やはり私には「障害」はない。
私とこの人たちは何が違うのか。
待合室に居合わせるだけの関係だったが、私には妙に親近感をおぼえ、違うのは違うのだけど、本当は私とこの人たちはあんまり違いはないんじゃないか、という気もしていた。
これは中学生のころ思っていたことだけど、こうして書いてみると、今も同じようなこと考えてるなあ、と思う。
(15)停車場にて
ときどき、コンサートやキャンプに一緒に出掛ける車いすを使う友人がいる。私は運転免許を持っていないので交通手段は主に電車になる。気力体力ともにちょっと必要なのが駅の階段の移動。もう何年も前から駅の対応は良くなり、構内の階段の移動介助をお願いすると必ず完璧な人数で手伝ってくれる。が、必ず揃うまで長いこと待たなくてはならない。駅員さんは車いすの動かし方について教育されているようでもないし、歓迎されないこともしばしば。そんなこんなで、私はたいてい階段の移動では同じ方向へ行く近くを通る人に声をかけることにしている。もちろん漫然と「お手伝いお願いできませんか」と言ったところで、なかなか手を貸してくれる人はいない。困った顔で階段の口でつっ立っている横を次々と人が通り過ぎていく。人を立ち止まらせるには、この人はという適当な勘にしたがい、その人の目に向かって訴えるのが一番である。頑丈そうでなくてもいいから、腰を痛めてるふうでもなく、逃げるように目を背けていない男性を。それでも無視されることはもちろん。一番つかまえやすいのは若いアベックの彼氏である。ウソのようにさっと手伝ってくれる。1組立ち止まってくれると、また別の組が声をかけたわけでもないのに進んで手を出してくれることも珍しくない。
先日の連休に小旅行に出掛けた帰りの上野駅のホームでのこと。遠目にもめぼしいカップルはおらず、次なる目当てを。1人でいる人に比べ2、3人で連れだっている男性たちも結構立ち止まってくれる。“みんなでやればコワクない”からね。声をかけたのは20歳前後の今どきのオシャレな学生風の2人。戸惑うような顔をして立ち止まり、「駅の人に言えばやってくれるみたいですよ」と言う。「そうなんですけど、時間がかかってしまって大変なので、申し訳ないですけどお願いできませんか。腰とか大丈夫ですか?」といつものごとくひたすら頭を下げつつ頼むと「ゼンゼン大丈夫です」と快く引き受けてくれた。
こういうリアクションは初めてだった。駅員さんが介助するのが当たり前になったんだなあ、と改めて思った。彼らは決して手助けしたくなかった訳ではなく、逆に自分の知っていることを親切に教えた。見知らぬ人が手助けするのではなく、介助すべき人(駅員さん)がするのだという頭の中のマニュアルができていたのか? 「シルバーシートはあっちですよ、そっちに座ったら!」と同じ。恐い感覚だな、と思う。
(16)大平塾(その1)
私にとっての夏は、「大平塾」と銘打ったハンディキャップを持つ人も持たない人も一緒に行くキャンプに向けての季節だ。総勢約80人(うちハンディある人が4割、子どもが1〜2割)で8月の3泊4日をすごす。
行き先がちょっと特別なのだ。長野県飯田市の大平宿(おおだいらじゅく)。中央アルプス南部の山ふところ、標高1150mのもと宿場である。江戸時代〜昭和初期に建てられた現存する20軒弱の民家に寝袋で泊まるのだ。集団離村後、地元の市民団体が手弁当で保存修復を始め、「利用すなわち保存」と一般への貸出利用を行なっている。各家にいろりがあり、かまどや薪でたく風呂も現役。電気は通っているけどガスはない。近くの人家まで車で30分はかかる山の中。ぼっとん便所……。自然は豊かだが、とても不便なところである。
障害を持つ人のための旅行、というとどうしても便利で安全なものを求めてしまう。大型バスに乗り、途中どこを通るかもわからないうちに到着、設備の整った観光地で記念写真を撮り、お膳立てされたスケジュールをこなすばかり。たしかに楽だけど、私はそんな旅行には行きたいとは思わない。もう少し冒険したっていいのでは、という思いがこの企画を始めた9年前にはあった。
大平宿の不便ついでに往復の行程も大切にしたい。特急あづさに乗り、途中で在来線に乗り換え、他の乗客の方たちのお世話になり迷惑をかけ、到着駅からはその人が楽しめる範囲で山道を歩く。巡回車を走らせ、無理なら車に乗る。民宿ではないので皆で分担して薪ひろい、ごはん炊き。都会で一人で何でもできる独身生活を謳歌している人も、他人と協力しあ槓ければことがうまくはこばない。時代がら、人格的にとても未熟な若者はいくらでもいて、下手すれば特定の人にメシ炊きや介助が片寄ってしまう。そこをクリアできるような関係性への工夫。
参加者募集のチラシには、「ここにはないものがたくさんあるからいろ〜んなことができるんだよ」と書いた。普段の生活にはないもの=大自然、不便さ、昔の人の知恵、他人と関係を持たなければ成り立たない生活、テレビや電話のない時間、自分で考えて決めること、無闇な情報や音楽からの解放、まだたくさん……。何と言っても夜更けのいろりばたの酒とおしゃべり。
大平宿という異次元に大勢で放りこまれるから発見できる自分や誰かがいる。よかったら大平で会いませんか。
(17)大平塾(その2)
先月に引き続き、大平(おおだいら)塾について書きます。大平塾はハンディキャップのある人もない人も一緒に大平宿という山の中の囲炉裏のある民家ですごすキャンプで、私はスタッフの1人。これを書いているのはキャンプ当日を2日後に控えた7月29日。スタッフと言ってもまったくのボランティア仕事で、それは理由にならないけれど、後手後手になってしまった準備や調整をバタバタとこなさなきゃならない状況で、実は大平塾のことで頭がいっぱい。
今年の参加者は、東京から約60名、地元飯田市近郊から約50名。地元からは毎年どんどん増えている。
運営は参加費だけでまかなっている。東京から交通費、宿泊費、食費込みで2万2千円。これは障害あるなしにかかわらず同額にしている。障害者の関係の旅行やキャンプは、たいてい障害を持つ人の負担額は大きく、同行するボランティアはそれより少ない額か無料であることが多い。「障害者のための」ものだから、それはそれであっていいと思うし、そうしないと人手の確保が難しくなりがちな現実もある。
私たちが一律同額にしているのは、「障害者のための」ではないものにしたかったから。大平宿という面白い場所にみんなで行きましょうよ、その中にハンディのある人がいたっていいじゃない。介助面ではみんなで助け合って、工夫もするから、電車賃の障害者割引、介助者割引をフル活用して、みんなでワリカンしましょう、というところ。
実際呼びかけるスタッフは普段障害を持っている人に何らかの関わりを持っていたり、当事者だったりする。別の見方をすれば、「介助する側、される側」という立場から出発する関係が、お互いを縛ってしまうことに疑問を感じた人が集まった、とも言える気がする。
障害を持っていようと、いまいと、肩書や所属団体がどうであろうと、その人個人とつき合いたい、つながりたいとやっぱり私はどこか願ってしまう。誰と誰との関係にあっても、「あなた」と「わたし」という2人称になれるように。介助が必要な○○さんの専属介助者の△△さん、○○さんの母親の △△さん、△△さんがいなければいられない○○さん……etc. 閉塞していくつながりはもういいよ。「たくさんのあなたにはたくさんのわたし」。
(18)Aさんの死
7月、Aさんが亡くなった。58歳だった。6月頃から元気がなく、7月に入ってからはほとんど食べられなくなって、夏バテだろうと入院した一週間後の思いがけない「衰弱死」。
Aさんは10年前までずっと山谷で暮らしていた。山谷で活動する市民グループ運営の伊豆の共同体でニワトリの世話などをするようになるが、そこでの関係がうまくいかなくなってからは、東京の民間の身体障害者施設の利用者として作業をしながら30人余との共同生活を送っていた。私がAさんと知り合ったのもその施設に入所した6、7年前だった。
Aさんはいつもアルコールに関する問題がついてまわっていた。最後に暮らした施設では晩酌に焼酎一合と約束、外に出掛ける時は職員やボランティアが彼の財布を預かり、あり金全部がお酒に変わってしまわないよう管理し、注意するのが常だった。Aさんにとっては子どものような年齢の私でさえそうすることがあった。亡くなった後、居室からワンカップの空びんが沢山出てきたという話を聞き、どこかホッとしたのは正直なところ。隠れて飲まなきゃならなかったのも辛かったろうが、酒に替わるものを得られないまま酒をセーブさせられているのも辛いよ。
「山谷(ヤマ)の人間はいわゆる野たれ死も当たり前の中で、Aさんのように誰かにみとられて死ぬのはごくまれ」と、路上生活者が増え続ける山谷の問題に30年来取り組んでいる知人は言う。
Aさんは大平塾に何度か参加していた。今年の大平で、近くの川にお骨の一部を散骨した。偶然なのかどうか、そこで一匹の野生のサルに出くわした。1mと離れていない目の前で野草を食べ、友人のポケットにあった菓子を差し出すと、「こんなもの食えるか」とでも言うように激しく手で払いのけ、こちらを気にしながらもやはり黙々と草をちぎっては口に運ぶ。散骨して手を合わせるのをやめる頃にはゆっくりと歩いて遠ざかっていった。
あのサルはAさんかな……。Aさんのクリクリした人なつっこい目がサルとダブる。
こんなものいらねえ、か……。何が良かったのか、そんなこと考えても仕方のないことなのか、Aさんとそう違わない人が沢山いるのは確かで、だからといって何か答えが出せるわけではない。
今は冥福を祈るだけだ。
(19)突然ですが……
今月はちょっと照れくさい話を書くので、「です、ます調」でいきます。 97年2月より松柏堂医院の受付でお世話になりましたが、長野県に引っ越すため、この秋で辞めることになりました。実は巷に言う「結婚」とやらをこの私もすることになったわけであります。
この数年間というもの、あまり付き合いがない人や、初対面の人にでさえ、「出会ったきっかけは? 相手の仕事は? どんなヒト? 遠距離恋愛の大変さは?」etc.と「こんなことを聞くのは失礼だけど」を加えつつたずねられ、“ホントに失礼だヨ!”と腹では思いながら答えたことは数えきれません。まあ、逆の立場だったら興味津々なのもわかるような気はしますが。
彼は東尾さんといいます。私より2歳年上の31歳、四国の生まれですが、信州大学の林業学科
(現在の森林科学科)に入学以来、長野県に住み、現在は森林組合の作業班で山仕事をしています。
出会ったのは92年。ちょっと説明がややこしくなります。これまでの号でもふれましたが、長野県飯田市郊外に「大平宿(おおだいらじゅく)」という、廃村後の昔の民家を集落ごとのこし、一般への貸出利用をしているところがあります。その活動の中心を手弁当で担ってきたのが「大平宿をのこす会」の羽場崎さん夫婦で、私はこの方たちにひとかたならないご恩があります。その頃私は心身ともにボロボロで、仕事も辞め、何もできずにいたところ、「東京にいるよりは……」とご夫妻が大平宿と自宅とに娘でもない私を置いて下さったのです。あの時の、空気も人もあたたかなところで静かにしている時期があったからこそ、今こうして元気でいられるのだと思っています。
羽場崎さんは飯田市街で登山、スポーツ用品店を営んでおり、また飯田山岳会の会長も務め、人が寄ってくるような人柄も手伝って、お店には色々な人が出入りしていました。
当時、飯田山岳会の事務局にいた東尾さんもその中の一人でした。
そういう訳で、山をやっていたわけではない私と、ハンディキャップのある人に関わっていたわけでもなく、「大平宿をのこす会」でもない東尾さんが知り合うことになったのでした。
(20)花嫁衣裳
「オネエチャンやっぱり結婚式すんのか。俺ァ結婚式なんかしなかったよ。配給ってわかるか? 式も何もなくても50年、カアちゃんと仲良くやってるよ。大安吉日に派手なことしてもうまくいかなくなってる奴なんていっぱいいるじゃねえか。本当は心さえあればあんなもんいらねえんだよ。でもあんたのダンナはいいなァ、毎日こうやって灸すえてくれんだもんナァ」。
バイト先の鍼灸院で施術中、70代の患者さんが言う。そうだよなぁ、これを両親に聞かせてやりたい、と力無く思う。
例にもれず私も、世間並みよりはかなり簡素ではあるが、結婚式、披露宴をあと10日余りで迎える身となってしまった。はじめは、お互いのごく近い親戚だけ集まって食事会でも……、と思ったが、私の母親がひたすら“花嫁衣裳を着て親戚と集合写真をとる”ことにこだわったため、親孝行のつもりでそうすることにした。……のが溜め息のはじまりだったかもしれない。
もともと私は花嫁姿に憧れを抱くタイプなどではなく、建前ばかりの美辞麗句と贅沢で飾りたてた披露宴に出席したときも嘘臭くて友だちながらも楽しくなかった。
「自分が主役になる一生に一度のことなんだから」の周りの声に、“あたしゃいつも自分が主役でいるから改めてそんな場は必要ないんだけど”と言ったところで屁理屈と返されるのがオチ。
花嫁衣裳を着るなら相応の設備のある会場にしないと、ということで会場探しから始まって貸衣裳屋で衣裳合わせやら何やら、出席者も新郎新婦の格好に合わせて着るものが決まるんだからそのための段取りが必要だからとか、会場側とも打ち合わせしなきゃ、親戚相手に会費制は無理だろう、なら引出物をきちんと用意して……etc.
何が“自分が主役”だ。親や親戚の思惑や見栄との妥協点探しや、意見調整ばかり。
会場は長野県内の自治体の作ったところにしたので安くあがりそうなものの、こんなにエネルギーを使うこととは知らなかった。みんなはこれで草臥れるわけね、と思うと同時に、数年に一度会うかどうかの親戚のためにこんなにエネルギーを使う位なら、自分にとってもっと大切な人たちにも祝福してもらえるような機会を始めから考えておくべきだった……と今頃後悔。
ずいぶん“私らしくない”ことをしてるなあ、と思う。
(21)中毒症
遠いところへ引越すときには、多かれ少なかれ誰でも不安を持つもの。私も例外ではないらしく、何よりの証コが荷づりをなかなか始めないことである。なぜ? 私は引越したくないのか……? 何年も付き合ってきた人との結婚を契機にするのだし、引越し先でも自分なりに仕事を続ける見通しだってあって、まったく知らない土地に行くわけでもなければ、未来はバラ色なのに。
私が不安なのは“現在のコミュニティから離れること”。向こうでうまくやっていけるかという未来への不安はあまりないが、ただただ感じるのは、現在の人間関係から自分を引き離すことへの恐怖である。
このままここにいたら自分はダメになる、と大学入学とともに家を出て、ハンディキャップを持つ人やそれに関わる人たちのコミュニティに飛び込み、そこを精神的基盤とした生活をして10年。しゃべることすらろくにできなかった私は、沢山の人に受け入れられ愛されながら、他人を信頼すること、自分の感情を言葉にすること、そして何より自分を信頼し尊重することを学んだ。あれほど自分に自信のない私がどんなに変わったか。たぶん、子どもの頃に親から貰うべきだったものをこの人間関係の中でつかみ取らせてもらったのだ。
なぜ私は荷づくりを始めないのだろう。なぜ私は現在にしがみつこうとするのだろう。すでに一歩踏み出しているのになぜすんなり歩き出せないのだろう。本当に自分に自信が持てたら、親離れができるように、自分が望むように生きるときには、どこででも不安がらずにやっていけるはず……。
マトモでなかった私は現在の人間関係の中にいることでずいぶんマトモになった。私は“この人間関係の中にいること”への中毒に陥っているのだろうか。禁断症状(以前のような自分に戻る)を起こすかもしれないのが恐いのだろうか。でも、「かもしれない」けど、新しい生活をする選択をした時点で、中毒は中毒でなくなりつつあるはず、と信じたい。たぶん私は大丈夫。沢山の人から沢山の大切なものを貰ってきた。あとは私自身がどうするか、ということだけ。
さて、荷づくりを始めよう。
(22)最近のいちにち
信州に住まいを移して1ヶ月。やっと体だけは慣れてきたかなあ、と思うようになった。引越したとたん、生まれて初めて手にあかぎれをつくり、足先はしもやけになる。自転車に乗れば、冷たい空気にゼンソクが誘発される始末。それらも3週間を過ぎたころにはすっかり治り、今では始終手にクリームを塗ることも、外出するときにはマスクをつけることもなくなった。
引越しはもちろん、結婚や、仕事を中断することや、前回書いたような人間関係が変わることなど、とにかく大きな変化を経験するわけだから、引越したら土地にある程度慣れるまで、絶対に無理せず、のんびりしていようと決めた。今のところ実行できている。
朝6時前に起きて山仕事に出かけるダンナの朝食と弁当をつくり、送り出したあとは掃除洗濯と引越しのかたづけの続き。枯葉や小枝のくずが作業服とともに毎日持ち込まれるうえ、男1人で何年も暮らしてきた家は掃除するところはいっぱい。水は簡易水道で、水源からひっぱってきた水を一時タンクに溜めて使っている。冬場は水量が少なくなる季節なので、洗濯機で新しい水を使っていたら、じきに水が出なくなってしまう。本気で湯船の水をバケツで汲んで使うことが必要になる。それでもたまに日中出なくなることがあるので、鍋やポリタンクに汲みおきをしている。
買い物をするにしても、ゆるやかな登り坂を2kmほど行ったあたりに、役場の支所、郵便局と小さなお店が数件点在しているだけ。もちろん品揃えも少なく安くはない。車で街まで出掛けた方がいわゆる“お買い得”である。ついつい出無精になる。集落のはずれに住んでいるので家の前の人の往来はほとんどない。自分から外出しなければ人の顔を見ることはない生活が、今の私には何とも心地好い。
夕方、ダンナサマのお帰りをみはからって風呂を沸かす。汗とほこりと枯葉まみれになって、時には体が冷えきって帰ってくる。夕飯のあとは年賀状かき。11時過ぎには目を開けていられなくなって、水道が凍らないように細く流し放しにして眠る。寝付きもいいし、眠りも深いみたい。
少しずつ、元気になってる気がする。
(23)名前
「結婚」するにあたってひっかかることが多いだろうな、と覚悟していたのが名前の問題である。東京の同世代の友人は夫婦別姓でいる人が多いものの、世の中の多くは結婚=法律上の婚姻=女が男の姓に変える、と考えるらしい。おまけに何より面倒なのが、人と違うことを素直に受け入れないとか、抵抗を示したあげく排斥するなんていうのも世の中の多くの人だ、ということである。
私は今まで私なりに懸命に生きてきたし、これから一緒に生きていこうと、パートナーと暮らすことを選択したのも今までの私。今までがあるからこそこれからがあるわけで、結婚するからといって今までのすべてを捨てる気はまったくない。私が私であることのいちばんわかりやすく大切な証が名前ではないのか。
何で男だけそのままでいいワケ? とか、戸籍制度も婚姻制度もおかしなところはいっぱいあるし、法律婚をすれば私の鍼灸師の免許も改めて書き換えなければならないとか、プライベートな付き合いのない人に結婚したことまで知ってもらわなくていいとかetc. 思うところはあるのだけど、そのあたりまで触れていたらとても字数は足りない。
私は今まで生きてきた名前でこれからも名乗りたいし、そう呼んでもらいたい。が、100パーセントそうは問屋がおろさないのが現実。
ここは都会ではないし、慎重に(?)自己主張してきているが、想像した以上に好意的に受け取めてもらえていると思う。はじめは抵抗感を示しても、「あんたを見ていて、あんたのような人ならいいと思った。田舎でもそういうことがあったっていい。頑張れ」と、年配の人にうれしいことを言ってもらったことも。
かなしいのは、以前から付き合いのある人たちが、私がいくら「佐保京子」の名で手紙等で名乗っても、違う姓の宛でくれること。私は一度も名前が変わったことなど伝えていないのに。普段リベラルな考えをぶっている人ほどがっかりする。悪気がないのは承知だが……。私は私として尊重してはくれないわけね。
結婚とか家族というものが、いかに人の意識以前の部分にふれるのかを改めて気づく機会に恵まれてる。それにしても、私が私でいるために、何でこんなに神経を使わなきゃならないんでしょうねぇ。
.(24)車
田舎ではこれがないと生活できないといわれる自動車運転免許をとうとう私も持つことができた。が、まだまだ1人で運転するのは恐くて助手席で誰か補助してもらわないと外出できないので、何だか今までと何も変わっていない。車社会とはいえ、運転するようになって初めて知った「常識」に驚くばかり。
まず、制限速度というのは、危険がない限り出しているべき速度、という意味らしいということ。教習所では、それ以下で走っていると注意されるし、加速がなければ減点の対象だし、何より他の交通に支障をきたすからダメなのだ。他人に迷惑をかけてはいけません。制限速度は、それ以下の速度でのんびり走りなさい、という意味だと信じて生きてきた私にはカルチャーショックだった。前後に車のない見通しの良い田んぼの中の直線の農道で40キロ位で走っていると、教官に「50キロは出してね」と言われる。国民性かなあと思ったのは信号待ちの交差点で、交差する側の信号が黄色になったら、ブレーキからアクセルに踏みかえて、すぐ発進できるように準備する、と教えられたこと。そんな、一刻を争わなくたってねえ、と思ったが実際周りの車はそうしてるので、その波に乗らないと「迷惑」だし追突されるおそれもある。おおこわい。
1月中旬から教習所に通い始めたので、はじめから雪道。さすがは土地柄、ちょっと降ると平日ならすぐ除雪車が出る。公道はくまなく除雪されるので結構らくちん……なのは車だけ。歩道部分は沿道住民の人手に頼るのみ。雪の降ったときは狭く交通量の多い国道ばたを雪かきする人たちの間を注意深く走らねばならない。雪の歩道は歩きにくく、雪をよけて車道を歩いたり、普段なら信号のあるところまで行って横断するところを、横断歩道のないところを強引に渡ろうとする人も必ずいるのでこれまた注意。
車を運転するようになってわかったのは、道路は車のためにあるのだということ。車のために、車が事故を起こさないようにお金がかけられているということ。すごい社会に暮らしてるんだなあ、と今さらながらに気づいた私の脳天気さは、車のスピードに何としてでもついていかないと、田舎では生活していけないらしい……。
(25)薪の風呂
我が家は薪風呂である。スイッチひとつで焚ける石油バーナーもあるのだが、事情あって使ってない。林業という連れ合いの仕事柄、焚物には不自由せず、それもタダで手に入るので、毎日1時間かけての風呂焚きが私の日課のひとつである。
薪風呂は良い。何といってもお湯が柔らかい。ゆっくりつかった後の体のあたたまりよう、心地良さは下手な温泉よりずっといい。多少手間がかかってもやめられない。
風呂焚きも面白い。火を燃やすなんてことは街中ではできなかった私にとっては余計にそう感じるのかもしれない。ナタで細かい薪をつくり、新聞紙を燃やして火を起こす。細かくて燃えやすい薪をくべて一気に火の勢いを強くしてから太い薪をくべる。風呂たきには火力と温度が必要なので、薪はケチらずにガンガンくべる。焚き口につっこめるだけつっこむ。
薪は一本で燃やしてもじきに消えてしまう。二本以上で燃えているときだけ燃え続ける。二本より三本、三本より四本の方がより火力がつく。木は自分だけで燃えるのではなく、隣にある木を燃やすことができるから、自分も一緒に燃えていられるようなのだ。2本の薪は、その隣合った面から燃えていく。炎を上げているものは近づけた方がいいだろうと薪同士をくっつけても炎は消えるか弱くなる。酸素と炎の出入りできる少々の距離があった方がいい。まるで人間のよう。
ある程度の火力がつけば、燃えるものさえあれば安定して燃え続けるのでつきっきりでいる必要もない。焚き口はお勝手のすぐ横にあり、私は夕食の支度の合間に火の様子を見ていられるのでそれほど不便でもない。でも一定の時間と手間がかかり、“風呂焚き飯たきは子どもの仕事だった”という年配の人の話はとてもうなずける。
薪割りもひと仕事である。今のところはほとんどダンナがやっており、私は練習中。栗は私でも簡単にパカッと割れるが、火力が弱い。松はヤニがあって火力が強くボーボー音までたてて燃えるがすすがよく出るので煙突掃除にえらい。火力が強くて火持ちも良いのはナラやクヌギだ、地元の元木挽きのおじいさんに最近教えてもらった。
ちなみに今我が家にある薪は栗と松ばかりである。
(26)たれ流し
私の住んでいる地域には下水道が通っていない。トイレは汲み取りで、生活排水は集落の家々の間を流れる井とも呼ばれる用水路に流される。用水路といってもきれいなもので、傾斜地なので流れも速く、水は透明である。鍬を洗うのはもちろん、近所のオバアチャンたちはぞうきんなんかも洗っている。
先日、どうも家まわりの排水がおかしいので、家から用水路までの間3〜4m程の排水管を掘り返してみた。案の定管も排水溝も泥で埋まり、近くにそびえ立つ柳の大木のヒゲ根がモシャモシャとはびこっている。これじゃあ泥がたまるわけだ、と急きょ、排水溝に並べてフタをしてあった石をどかし、石垣を組みなおして、いつでも手入れできる排水溝にする、というちょっとした土木作業をすることになった。と書くと私がすべてやったようだけど、もちろんツルハシを握って石をどかしたのは連れ合いの東尾さんで、私は出てくるゴミを拾ってまとめるだけ。庭には20坪程の池もあり、そっちの排水も手を入れた。数日で形になり、水はけもとても良くなったものの、自分が何をたれ流しているのか丸見えになってしまった。
これまでだって、このまま天竜川に流れてっちゃうんだから、と合成洗剤は使わず、米のとぎ汁は畑に、と努力はしてきた。それでも排水溝を流れる水はどよーんと濁っている。オバアチャンたちが水路で何かを洗っているのを考えると、余計下手なものは流せない。
40、50年位前までは、お風呂だって毎日焚かず、近所の家にもらい湯をし合ったり、焚くにしても、水は今ほどとり替えることもなく、アカの沢山浮いているお湯につかっていたとか。風呂の水は最後に畑にまく。食器にしても、お茶や白湯ですすいだだけのものを各人決まった箱膳の中に収納し、くり返し使っていたという。そりゃそこまですれば汚す水はずい分少なくて済むよなあ。だからといって今すぐ私にそれと同じことをしろと言われても……。でも改善の余地は大ありだ。
排水を目の前につきつけられるから、まだいい。都会では流しから見えなくなったらそれでおしまい。きれいに清潔でいられるよう洗剤をじゃんじゃん使う。環境のことを言われてもピンとくるわけない。
便利で清潔な暮らしはたれ流しの文化の上になりたっているのだなあ。
(27)山火事
2ヶ月程前、近くで山火事があった。午前10時頃、田んぼの野焼きが延焼、約2haもの植林地が燃えた。消火にあたったのは管内の消防署と市内すべての消防団。大量の水は天竜川からポンプ車8台をリレーして山まで上げる。燃えている範囲は広く、消防団員ひとりひとりが16リットルのタンクをかつぎ、無線で連絡をとり合いながら斜面をほうぼう分かれて消火にあたった。一時はかなり火の勢いは強く、火が尾根を越えることも考えられ、消防用ヘリコプターの出動要請も出されたが、それには至らずに火が出てから5時間後の午後3時頃鎮火した。
この山の持ち主は私の住んでいる借家の大家さんがわりとしてお世話になっているヨネヤのおじいさん。実はそのことは全く知らずに火事のあった晩に私たち夫婦2人でヨネヤさんを訪ねてしまった。「やい、元気な若い衆が仲むつまじいところを見せてくれりゃあオラも元気が出るで」と、もともと酒好きなおじいさんは私たちを掘ごたつに招く。すすめられるままにお酒を飲みながら、火事のことや世間話、夫婦仲よくする秘けつまで話をした。
山火事の被害に合うのは3度めという。火災保険をかけていたわけでもなく(それが一般的らしいが)、補償は一切ない。火を出した人がはっきりしていても、補償がないことには変わりがない。昔は今以上に山火事はあったという。炭焼きの火の不始末なども多く、その場合でも手ぬぐい一本の詫びで済んでいた。“お互い様”という感覚もあったらしい。しかし何より違うのは燃え広がりかたである。昔は山に普段から人が入り、手入れがされ、焚き木にできるような枝やほだ木は常に運び出されていた。森は明るく、火事といっても燃えるものもあまりない状態だったので、大きな被害に至ることも少なかったのだという。
ところが現代では間伐や除伐、枝おとしなどの手入れをすることはすっかり減り、森はうっそうとしている。たまに手入れがされても使い道のない木や枝はその場に山となって放置され、枯れてゆくばかり。「燃えて下さいといっているようなもんだ。」途中から加わった息子さんが言う。彼は勤めが休みの日は山に入って自分で手入れをするという稀な存在らしい。
とりとめなく話をした帰り際、「今日はいい酒になって良かった」と言葉とは裏腹に肩をすぼめてため息まじりに言うおじいさんに、その日知ったことに、切なくなった。
(28)苦手なもの
ここ長野県の伊那谷も梅雨本番となった。家の中から見える庭や畑の草木の姿がひと雨ごとにみるみる変わってゆく。山も田んぼもリンゴ畑も青々として、ザクロの朱色やドクダミの白が鮮やかだ。
雨が降ると、畑仕事も洗たくもはかどらないし、ダンナの山仕事も休みになって家にいるので掃除も思うようにならないけど、私はちょっとホッとする。梅雨前の気温が上がってきた時期は虫も動物も活動が活発になるが、雨天ではおとなしくなるからだ。
私は特別に虫嫌いというつもりもなかったが、やはりここは自然が豊かなところ、そうした生き物たちがあまりにも身近で、ちょっとビビッている。庭の面積自体が100坪あるので、至るところで虫やらカエルやらがぴょんぴょん飛ぶ。生い茂る雑草は少しずつ手入れするにも毛虫や蛾にまで「悪いね」と心の中で思い続けなければならないくらい。その程度なら何ともないが、庭の東側には15坪程の池がある。以前は鯉を飼っていたらしいが、去年の冬、池に水がないときにドカ雪が降り、池に降り積もった雪はシャーベット状になって、窒息死したという。でもドジョウもドブ貝もタニシもカニも健在。アメンボの類もいるから、カエルもいる。時々はセキレイなども来る。長靴をはかないと池に近よれないが、それはヤマカガシという毒ヘビもうろうろしているからだ。私はこれがどうも苦手。攻撃性が強いわけでもなく、軽く咬まれた程度なら何ともないらしく、この辺りでは毒ヘビ扱いしてないが、毒が静脈にしっかり入った場合はコブラ毒より強いという。毒の恐さもさることながら、あの赤地に黒の斑点の毒々しい姿には体がすくんでしまう。でも池の周りに草を茂らせたら余計危ないし……。
もうひとつどうしてもダメなのがスズメバチ。東京でもよく見かけたキイロスズメバチもいるが、この辺りにはそれより一回りも二回りも大きいオオスズメバチというのがブーンと低い羽音を轟かせて飛びまわっている。5、6月は巣づくりの場所を探すときで、先日も屋根裏に飛びこんできた。また5分程歩いた山つきのところに畑をつくっているが(ここはシカの通り道で耕した後に足あとが派手につき、作物がとれる頃はイノシシ対策が必要)、その石垣の間の土の中に入っていくキイロスズメバチを見てしまった。
それ以来、私だけが屋根裏にも畑にも行くことができない。
(29)元気なニンプ
妊娠して5ヶ月。今のところ何も問題はなく、私はいたって元気な妊婦である。つわりが始まった頃、これはどうも人に気をつかうことと体を横にしたいのに頑張って動くことで具合が悪くなる、と気づいてから体の欲求にしたがうように心がけたところ、ずいぶんとラクになり、つわりも軽く済んでしまった。鍼灸の仕事も畑仕事もボチボチと続けることもできた。実家の両親たちが東京と四国から遊びがてら様子を見に来ようとしていたのには、「せめてもうちょっと落ち着いてからにして」と断ったが……。
よその土地に来ての妊娠ではあるが、ありがたいことに近所の人にも恵まれ、小さな子どものいるお母さんからはマタニティウェアをゆずってもらったり、孫もいるおばあさんからは野菜やおそうざいを頂いたり、お茶に誘われたりと、私は孤独感を感じることもなくすごしている。鍼灸の仕事相手の患者さんたちはほとんど子どもを生んだことのある女性ばかりとあって、逆にこちらが教えてもらっている。
「オラんときもね、流産したらしただと思って腰から稲いっぱいぶら下げて田植えもしたけど、何ともなかった。でもこればっかりは人それぞれだからね。あんたは気をつけにゃあいけないよ」と言いつつも、電話をかけてきては「今日の調子はどう? 鍼できそう? ならお願いしてェと思ってなァ」と私を動かしてくれる。「しばらくしたら腹ン中でミミズが這うような感じがして、動くのがわかるよ」「マタニティウェアは足りそう? 何か知りたいことはない?」etc. 実母の電話でのやりとりよりも、何冊もの妊娠マニュアル本よりもよっぽど役立つし、心強い。
心身ともに安定していられるからこそ思えるのだろうが、本屋さんなどに多く出回っている日本の産婦人科医が書いた妊娠関係の本は、どうしてこう不安をあおるような、プレッシャーをかけるような書きかたをするのかなあ、と思う。異常やリスクについて説明しないわけにはいかないのはわかるが……。“妊娠は病気ではない”という文章はあるものの、まるで妊娠、出産という変化をともなう病気についての本のような気がしてくる。具体的に示していったらそれでまた沢山書けそうだ。
ちなみに、よくないとされているかがむ動作(草取り、雑巾がけなど)も股を開いてしゃがんでしまえばおなかは圧迫されず、腰もとてもラクだ。なので私は畑仕事を続けられるのである。
(30)夏のおしごと
夏がこんなに忙しいものとは思わなかった。自然豊かな田舎でのんびりマタニティ生活を……なんてとんでもない。とにかく草とり。畑も家まわりもあっという間に伸び放題。毎日少しずつできればまだいいのだが、夏といえば田舎ならではの行事も多いし、お客さんも多く、そうもしていられない。ダンナはダンナで登山のガイドや山岳遭難関係の夏ならではの仕事で何日も家を空けることもしばしば。妊娠してなかったら草刈り機だって使ってみるのになあ、と思いつつ鎌を手にする。
信州とはいえ、日中は日射しが強いのでとにかく朝が勝負。ダンナを仕事に送り出すと同時に畑に向かう。掃除も洗濯も朝できれば気もちいいが、両方とも屋内でできるので後回し。さすがに妊娠前より疲れやすくなっているため、あんまり頑張らずに、だけど下着まで汗びっしょりになってひと仕事終える。まだぬるい前日沸かした風呂の残り湯を浴びてから(ウチにはシャワーがないので)今度はその湯を使って掃除、洗濯。あまり遅い時間になると洗濯物の乾きが悪くなるからさっさと済ませ、昼食、昼寝(妊婦はとにかく眠いのだ)。夕方涼しくなってからまたひと仕事……。時間に追われた、というよりおひさまの高さに追われた生活だね。
今は身ひとつだからいいが、これで子どもの世話がプラスされるとしたら、こうはいかないだろうな。自分が畑仕事をかじるようになってみると、近所の米、野菜を自給している家がみな3世代同居なのがわかる気がする。でなきゃ農薬や化学肥料に助けを求めたくなることも……。 都会育ちの私が慣れない畑のことをせっせとやるのは、もともとじっとしていられず、やるんならちゃんとやりたい性分だから、という自主的なものだが、周りにはそうも見えないらしい。私のモンペ姿(Lサイズは突き出た腹にも十分対応する)を見た近所の人たちは、“妊婦にばかりこんなことさせて”とでも思うのか、口ぐちに「お父ちゃんは何しとるのえー。あんまり無理しんように」と言われるようになってしまった。このことを山から降りてきたダンナに報告すると、彼はとてもあせっていたようだったが、秋播き野菜は8月末までに済ませなければならないのが当地方の気候。いましばらく近所の人たちに心配とダンナへの誤解を生んでしまうのかしら……。
(31)しょせん他人事だから?
「他人は勝手なことを言う」とはよく言ったものだ。妊娠が経過するにつれ、本気で心配してるんだか、無責任なお節介なんだかわからないお言葉をかけられることがしばしば。
私は妊娠月数の割にお腹が目立たない。「お腹小さいね」。これはいい。これで済む人たちももちろん多い。が、私が定期健診でも経過は順調で私自身の体調も良い、と言ってるにもかかわらず、「本当に大丈夫なの?」とくる人たちがいる。人の話を聞いてないのか、ただの心配性なのか。大丈夫でなかったら何だっていうワケ? 不安をバラまくだけなんて、実は他人の不幸を少しだけ願ってるんだったりしてね、一見思いやりに満ちた態度の裏には……。
回数としてダントツなのは“男か女か”にまつわる話。子どもの性別は調べたのか? 知りたくはないのか? どっちが欲しいか? 顔がキツくなったから男だ、いや優しくなったから女だ、後ろから声をかけて振り返った方向からすると♂だ♀だ、お腹が前に出てこないから♀だ、etc. まぁうるさいこと。
“長男跡継ぎ”が大きく影響するような関係の中で身内が騒ぐならまだわかる。しかし、どちらが生まれようと何の利害もないはずの人たちばかりが話題にしてくることには驚いた。地方も東京も世代も関係ない。妊婦にはとりあえずこのことを話題にするのが世の中の常識らしい。後ればせながら妊娠して初めて知ったことである。
男だろうと女だろうとたとえ障害をもっていたとしても、生まれてくればもうそれだけで十分。私がどんなことをしたって、こうしたことはコントロールできるものじゃない。うんざりなのは、“どっちが欲しいか”という愚問。私くらいの世代なら、お腹の中では既に男女どちらかに決まっているということは知っているはず。それを身勝手な希望だけ言わせておしまいで、違っていたとしても何のフォローができるわけでもないくせに。大体、出産後に「どっちが欲しかった?」なんて、母親にも赤ん坊にも失礼なことを聞く人なんているのだろうか(いや、いるかもしれない……)。
妊娠中はナーバスになると言うけど。いいよ、何とでも言ってちょーだい。私はお腹の中のキミを信じるから。キミがどういう人でもここにこうして生きてるだけでOKと思ってる。気にせずにいていいからね。
(32)ツケ
2000年問題について政府が一般の人たちに呼びかける防衛策が10月末に報道された。「基本的に安全」といいながらもやっぱり何が起こるかわからないし、何が起きてもおかしくないっていうわけね、と具体的な項目を見て思う。便利と豊かさを追求し続けた挙句のコンピュータに頼りきった今の生活の中で出てきちゃったこと。もし本当に多くの人たちが困るようなことが起きたとして、そこから人は何を学ぶことになるのだろう。当面のことばかり考えて4ケタを2ケタにケチらなきゃよかったってだけのこと? まさかね。
項目にはもちろんあがっていないが原発やその関連施設とやらって本当に大丈夫なの、と心配になる。コンピュータがどう動くかわからないのはどれでも同じことなら、原発がおかしなことになる、という可能性はあるわけで、それって電気や水道が止まるよりもヤバいんじゃないのだろうか。
「日本の原発は安全です」と政府は言い続けてきたものの、事故は少しずつ起きていて、で、東海村の臨界事故のあの状態とあの対応……。「安全です」はアテにできるような気がしない。水や食料とともにヨウ素剤の備蓄など呼びかけたりーするわけないか。
原発が進められていること自体、2000年問題が出てきちゃうことと似たような話に思える。先々のことは(最終的な処分方法や場所)危ういまま当面は問題は起きないものとして動かしてしまう。ツケは次の世代の人たちが払ってくれるでしょう。今のところは便利にも豊かにもなって、潤う人たちもいるのだからそれでいいじゃない。いつか人間の手におえなくなる日がくるとしても。
前の世代から受けついだツケー払っているといえばそうかもしれない。便利でマニュアル化された世の中に生まれ育った頭を使って楽しく生き延びつつ、「胎児への影響」が懸念されるものに囲まれながらも妊娠し、順調な経過でいられるなんて、もしかしたらとても有難いこと? 妊娠したばかりの頃、義父から庭の除草対策に除草剤をまくように再三言われた時には、同居してなくて良かった、とつくづく思ったことがある。不安だらけのこの時代に生まれてくるなんて可哀相に、と思いながら産むのはイヤだ。
私は、私のお腹にいるヒトに、どれだけツケをまわさずにいられるだろう。
(33)オバァサマ
このあたりでは、お年寄りのことをオジィサマ、オバァサマと呼ぶ。身内であろうと他人であろうと関係なく、たとえば自分の母親のことを言うときも「俺方(おらほう)のオバァサマ」と言う。お年寄同士でも「へぇ、どちらのオバァサマがおいでだ?(おや? どこのオバァサマが来たのか?)」という具合。ちなみにご主人、旦那さんにあたるのはすべてオトウチャンやオトッツァン、奥さんはオカァチャン。地域で役職についている人には組長サマとか区長サマと言う。私の住む部落ではどうもオジィサマと呼べる男性は少なく、オバァサマが主流。どの年齢からこの呼び方が使われるのかはわからないが、電車やバスで席を譲りたくなるかどうか、というラインのようだ。
私はこのオバァサマというちょっとていねいな言い方が好きだ。言い方だけでなく、最近の私には近所のオバァサマ方がとても心強い存在である。もう臨月を迎えようという私のお腹はかなり重くなり、畑へ行く足どりもペースを落とさないと息切れしてしまうようになった。ゆっくりの足どり、重いものを多くは持つことができない、冷えに弱い、畑で長時間頑張るのはちょっと大変、という行動パターンはオバァサマとの共通項。畑への行き帰りでオバァサマ方と顔を合わせることが多い。どちらがどちらのペースに合わせるでもなく、並んでちょっとしたおしゃべりをしながら歩くことになる。大抵、天気や野菜の具合、今してきた作業、今日済ませたい作業の話、それと必ず私のお腹、赤ちゃんの具合の話。
それにしてもオバァサマ方は何てやさしい目で私を見るのだろう。まるで自分の直接の孫やひ孫の赤ん坊をあやす時のような顔になるのだ。皺だらけの顔がもっともっと皺くちゃになって、「あぁあぁいいお腹になってきたなァ」「こりゃぁ可愛いやや子が産まれるで」「いいやや子だ」。無条件に良いことばかりを言ってくれる。私も何だかゆったりした温かい気持ちになる。こんな暗示ならいくらでもかかっていい。
極めつけは道をはさんだ向かいに住んでいる94歳のオバァサマ。背中こそ少し曲がっているが口も頭も達者で畑仕事も現役バリバリでこなす。会うたびに、「やや子はどうだ?」とニコニコしながら私のお腹をなでてくれる。 私のお腹の皮をはさんだ 100歳近く年齢の離れた人どうしの話は何よりも安産のお守りだ。
(34)「産む」じゃなくて……
「そこらの病院じゃ自然になんて産ませてもらえんでね」と酒屋のオバチャン。「産ませてもらう」か、すごい言葉だなあ、と思っていたら、結構当たり前に使われているらしい。「下の子ん時はひどかったの。明日が病院の記念日だか何だかでとにかく今日中に産んでくれってバンバン注射打たれてね、産まさせられたの」とお隣のお姉さん(ヨメ同士は“おネエサン”と呼び合うのだ)。うわ、今度は「産まさせられる」か。何だかなあ……。
私の出産予定日は12月31日。このことが話題になると大人の女性の一部は(オバアサマの域に達していない)一瞬「2000年ベビーかも?」と喜ぶが、すぐ「そのあたりでも産ませてもらえるの?]とちょっとくもりがちな表情で尋ねる、という反応をされたことが幾度かあった。で、そのうちの一人が冒頭のオバチャン。注射とはたぶん陣痛促進剤のことである。
「畳の上で産まれて畳の上で死ぬ」ことは私が生まれる前から当たり前でなくなっていたこと。産むことについては、何がされてきたかというと、陣痛促進剤というホルモン剤を使った出産日時のコントロール。統計を見れば、出生数の多い曜日は火曜で、土日祝日はずっと少なく、時間的には少ないのは夜間で、ピークは午後にある。お産は自然にまかせて人手の少ない時に何かあるよりも、平日の日中に済ませてしまう方がいいものらしい。年末年始にいたってはなおさらだ。もちろん全部が全部の病院でこうしたことが行なわれてきたわけでもないらしいが……。
出産を目前に控えた身になってみると、やはり妊娠、出産ということはこれまでの稚い人生経験の中でも一大事であり、一つ一つの段階を大切にした納得いくものにしたい、と思う。医療の介入が必要ならもちろんそうしてもらうが、そうでないなら、私にとって一番負担なく、リラックスできて、一緒に過ごして欲しい人と同じ時間をすごす、というところで「産ませてもらい」たい。もちろん薬を使ってムリヤリ陣痛を起こすようなこともなく。
というわけで、ダンナの理解と賛成と協力のもと、健診に通っていた産婦人科のお医者さんの「自宅でも大丈夫ですよ」の言葉と、いつお産が始まってもとんで来てくれる助産婦さんのお蔭で、自宅で出産する時を待っているのである。
(35)お産がすんで
予定日より12日遅れて無事出産。今日は産後16日め。赤ちゃんと私は出産時から同じ布団でずっと一緒にすごし、私は上げ膳据え膳でかわいい赤ちゃんのことだけ考えていればいいという、とても幸せな時をすごしている。
初産で自宅分娩というどうも珍しい(?)パターンのお産を選び、無事に今日に至ることができて、改めて私1人で産んだのではないのだな、と思う。お産そのものこそ経験40年以上のベテラン助産婦さん曰く「普通じゃこうはいかない程の楽なお産」らしいが、それにしてもこの助産婦さんがずっとそばに付いていてくれて、陣痛の乗り切り方やいきみへのリードをタイミングよくしてくれたり、「昔の人は天井の模様が見えなくならんと産まれんと言ったものだが、それだけ痛いからじゃなくてそれだけ本気にならんと産まれんつうことだ」「つらいね、苦しいね、今が一番辛い時、あんたも苦しいが赤ちゃんも苦しいもんだよ」etc. 苦しさのため私が自分を手離しそうになるたびにかけられる言葉に励まされ、力を入れたり、抜いたりすることをずっとし続けられたように思う。お産の後も1週間1日おきに経過を見に来て、授乳やダンナへの沐浴の指導をして貰ったおかげで、お乳をあげることも難なくできるようになったし、それほど不安なくお産直後をすごすこともできた。助産婦サマサマです。
なくてはならないのがダンナの存在。お産の時もずっと傍らについていてくれたのはもちろん、1ヶ月間仕事を休んで、おむつの洗たくやら三度の食事の仕度のほか、家事全般をしてくれている。毎日大きく変化する赤ちゃんの様子を一番わかっていて欲しい人と一緒に見ていられる。私には何より心強い。お乳の出がこんなに良いのは彼のおかげだ。
「時が来れば生まれるもんは生まれるんだよ」。酒屋のオバチャンに励まされた。あと3日遅れれば医学的には“異常”とされるお産だった。妊娠中いくら問題なく過ごしたからといって、産婦人科医のお墨付をもらったからといって、「もしも」の可能性を皆無にすることはできないものだ。病院で産んだから100%安全とはいえないように。陣痛がいつ始まるのかも、お産が無事済むのかも、結局人にはわからない。カミサマでも何でも、何か人の意識以外の力が働いたのだと思いたくなる。
赤ちゃんの寝顔を見て思う。産ませてくれて、生まれてくれて、ありがとう。
(36)お乳を飲む人、飲ませる人
名前は「むつみ」と付けた。生まれて一ヶ月もたつと機嫌の良い時は声を出したり笑顔を見せるようになり一段と可愛くなってくる。笑うといっても、あやされて笑ってるんだか、空を見て笑ってるんだか、まだ「産土(うぶすな)の神様が笑わせてる」段階なのだろう。
可愛いとばかりも言えなくなったこともあった。覚悟はしていたけど、とにかく時間がないのだ。母乳だけだと飲み方に赤ちゃんのペースが出てしまうものらしい。今頃の時期は1回の授乳で3時間はもつという。むつみの場合は夜は4〜5時間、日中は1〜3時間間隔で飲みたがる、というのがここ数週間のパターン。
夜はとてもいい。0°C前後の夜中の寒い部屋で何度も起きるのはお互いつらいから。問題はいろいろ家事もやりたい昼間。炊事、洗濯、掃除は何とか手を抜きながらやりくりするものの、そうはいかないものもある。パッと飲んでパッと眠ってくれるわけでもなく、場合によっては1時間近くかけてしっかり飲むこともある。母乳だけなら飲みすぎになるということは絶対にないし、とにかく欲しがるだけ飲ませるように、という助産婦さんからのお達しである。こんな調子だから、私自身がお昼を食べそこなうこともあった。かってない程の旺盛な食欲で、今はほとんど母乳製造機と化している私の体は、ごはんを食べるのをがまんする程つらいものはない。それと薪ストーブの調節。もうちょっとくべといた方がいいな、と思っているときにわんわん泣かれて飲ませているうちにすっかり炎がなくなってしまって、結局また泣かせながら火を起こしたり。スイッチひとつで温度調節ができないのもこういう時はツライ。
毎日の生活をおくるのにこんなに頭を使うようになるとは思わなかった。まあ工夫すればなんとかなるもので、私がそう思うような余裕が出てくると不思議とむつみのお乳の飲み方が安定するのだ。あれもやらなきゃ、これもできない、と私があせっているときに限って何度も欲しがる。生活を工夫できるようになってわかったこと。「赤ちゃんはお母さんの鏡だからね」その通りなんだな、と思うと同時に、いかに私はむつみを思い通りに、自分に都合のいいようにあって欲しいと思っていたか、反省することしきり。
こんな母親だけど、付き合ってね。
(37)母と母の母と母乳と
夫婦2人だけで初めての赤ちゃんを育てるとなると、戸惑うこと、心配なこと、不安なことの連続になる。頼りになるのはご近所の大先輩ママ方。幸いなことに気になることがあっても「まあ、いい顔しとるし心配ないら」と一蹴され、私もそんな一言だけで落ち着いてしまう。
母や姑に電話で相談するにも、直接見えないだけに余計な心配をかけてしまいそうだし、答えを望めそうにない面もある。母たちが出産を経験した30年位前というのは「お医者様」の言うことをきいてお産をし、粉ミルクがもてはやされた時代。2人とも、母乳だけで育てた経験はない。母は大学病院で3人を産んだが、7日間の入院中は母子別室ですごし、ろくな授乳指導を受けることもなく退院、そのうち「体重の増え方が悪い」と粉ミルクを足すことに。
姑は、うまく母乳を飲んでもらえず、医師に相談したところ、「この子は母乳嫌いだから粉ミルクを飲ませるように」と恐ろしい「診断」をされ母乳で育てるのを止めたという。まったく、言葉を選べよなー。まだまだ飲むのが下手な新生児期に本当に“母乳嫌い”なんてあるのか? と思うし、自分の乳を飲んでくれないうえにこの言葉は、「母親嫌い」と言われたも同然。もし私だったら、自分を責めまくっただろう。さぞ姑は悲しい思いをしただろうに、と同情してしまう。
数値にこだわるのもひっかかる。体重なり身長なり測ったものを伝えると「それは標準なの?」と、また平均以下なのか以上なのか確認されてしまうのだ。見えないところで順調に育っているのかどうか知るには数値は参考になるものだろうが、こんなやりとりだと「ちょっと待って」だ。でも話をきいてみると、自分が粉ミルクに切りかえたときも、体重の数値のみが判断材料で、その他の見方や、努力や工夫のアドバイスもないまま専門家によって指導されたようだ。数値にこだわるのも無理ないかも。(学校のテストやら偏差値もその延長だったりして)
“おばあちゃん”のマイナス面ばかり書いたが、その点以外は電話越しでもいてくれてありがたいのは確かだ。母は自分にはできなかった母乳だけで続けていることをとても喜んでいる。まるで私を通して母自身の経験のしなおしをしているかのように。
やっぱり「今」は大切にしなきゃならない。

