6.近代医学を癒すもの(秦洋一氏のエッセイにふれて)
雑誌「みすず」の平成6年9月号に掲載された、秦洋一氏のエッセイ「近代医学を癒すもの」の内容にそって、いまの医学や医療にまつわる私の感想を述べてゆきたいと思います。秦洋一氏は、科学、医学関係の新聞記者ですが、このエッセイでとてもゆき届いた考察をされてます。私の普段から言ってることと重なることが多いので大いに共鳴したわけです。
科学・医学の担当記者には、例えば、日本の薬の認可基準は他の先進諸国に比べて著しく甘い。アメリカの基準では日本の新薬の98%は落第、といったまっとうな取材記事を書いたとかと思うと、次の週の同じ欄で、骨粗しょう症には大量のCa剤を早くから飲むのがよい、といった取材記事を平気で書くという神経の持主が多い。医学医療に対する批判と期待・夢が、別々にあって(それはそれ、これはこれ。)その関連を自分や読者の生活に即して考える習慣がないようです。こうした中で秦氏のいわば「夢を売らない医学記事」は出色のできで目にとまったのです。こうしたまっとうなエッセイが、新聞紙上でなく、あまり人目につかない地味な雑誌にしか掲載されないのはとても残念なことです。
さて、エッセイの冒頭のエピソ−ド。北欧のある経済学者がT.V.で話している。「景気に限らず、人間社会の営みに完全なものはありませんよ。もともと社会を構成している人間そのものが不完全な存在です。しょっちゅう病気には罹るし、いつかは死んでゆく。その時期がいつになるか、くよくよするよりも、今を精一杯生きていくことの方が大切ではないでしょうか。……今さわがれているエイズは、性行為によって病気をうつす厄介な感染症です。しかし考えてみると、生命活動そのものが、不完全な人間を性行為を通じて再生産していく、一種の性的感染症みたいなもの!!」
“生命そのものが不完全なものだ。北欧の市民たちは、そのことを深く知っているように思える。”
北欧の人々の現実感覚。「病気や体の障害がおきても、治らないものは仕方がない。“だましだまし”つきあって生活をおしすすめよう。こうした考え方を経済的にも社会的にも支えているのが、高度に発達した福祉であるという構造がよみとれる。つまりは医療の限界を福祉で包み込んでいる姿だ。」このように秦氏が語る内容は私たちに何を考えさせるだろうか。
初診の患者さんが息込んで「先生、治るでしょうか?」と私に問いかけることがよくあります。私は何と答えたらよいのでしょうか。こうして息込んで私の返事を待つ患者さんは、たいていもういくつかの医療機関を通過しています。どこへ行っても納得できるコトバもきかず、いろいろ薬や検査を経ても納得できる成果が得られなかった方々です。慢性……としかいいようのない診断名のついているこうした患者さんたちに、「私の漢方的手段で治りますよ。今までの現代医学的アプロ−チはあまりに不適切でした。」と自信をもっていえるケ−スも多々あります。しかし一般には、現代医学でもてあましている難しい病気は、漢方医学でも難しい、という当然のことには気づいてほしいと思います。「夢のような切り札」がこの世に存在する筈はないのです。そんな技術を私が持っていたら私は「ノ−ベル幸せ賞」を何回も受賞しているでしょう。私がそんな時患者さんに言うのは、「どんな病名がついてもこれまで何十年も貴方を支えてきた身体や内蔵じゃないですか。ダメだダメだとばかり思わず、よくやってくれてるネ、と誉めてあげなさい。子供や亭主の操縦法と同じです。誉めて誉めてケナさないこと。そうすりゃずいぶんよくなるのになあ。」ということです。
何から何まで具合がわるい、病院ではこんなに大変な診断名がついたと思っておられるかもしれないが、こうして具合がわるくなってからも何年も生命活動と社会生活を送れていて、ここまで歩いて来られた貴方は、ほんとは丈夫なんですよ。
貴方の夢見ている健康な自分は、いろいろ具合わるいことがあっても何とか生活していた、こんどの病気になる前の自分ではなく、いつの間にかこの世に存在するのかどうかもわからない「理想の夢の健康体」です。
どうしてそう思いがちになるか? それは皆さんが病気になったと思うのが、「病院で病名がつけられた時」だからです。自分が具合わるいな、と思っている間はまだ「正式の病人」ではないのです。皆さんはある日、診断名という医学書の目次の頁に突然はさみ込まれます。分厚い医学書にはさまれて手足と頭だけ出してジタバタしている図を想像して下さい。こうして皆さんは日常的な今までの積み重ねの身体から強制的に「立派な病気」へと連行されます。(出世? します。)
ですから「治りますか?]という切実な問いは、強制連行された地点から日常生活へ、先生のくすり一服でピョンと一足とびに戻ってこれますか?という問いです。考え方を転換して下さい。これまでの生活を茫然と見失ってしまうのではなく、病名をつけ生活主体としての皆さんを骨抜きの「病名人」にしようとする現代医学に対抗すること。どんな病名がつこうと「他ならぬ
この私の病名」です。50年も60年も生活人として立派にやってきた貴方じゃありませんか。一般的な病名にその実績を吸いとられてはあまりにミジメです。
「“医療不信”という言葉が日本のマスコミに登場してから久しい。日々の紙面を見ていても医療事故は頻発しているし、ソリブジン事件などの大規模な薬害も報道されている。医学記者として日常の医療現場を見聞する機会が多いが、病院への不信や恐れは根深い。しかし、こうした不信感は果して本物だろうか。そうだとすれば、病院や診療所には閑古鳥が鳴いていてもいいはずだが……。人はそれでもなぜか病院へ行く。よく考えてみると日本人の医療不信は、医療への期待感、つまり“医療過信”の裏返しなのかも知れない。」
どうして大病院の外来待合室はああも混んでいるのだろう。一般の開業医でも処置や検査や投薬が多い先生の待合室ほどいまだに混んでいるのはどうしてだろう。これは余談ですが、当院の待合室は時々閑古鳥が鳴きますが、サリン以来、連休の直前までの1カ月余りは、ほんとに閑古鳥が鳴きつづけました。東の要所である霞が関と西の要所である横浜渋谷を攻略されて、地下鉄日比谷線をライフラインにしている本丸の当院は、落城寸前でした。ヒマな診療室で考えます。空襲警報が鳴りつづける50年前の東京の病医院の外来はガラガラだったのではないか。理由は多分、サリンのように外出するのが恐いのではなく、非常時には病気が病気でなくなってしまって、皆元気だったからだと。震災の神戸はどうか。皆が日常をとりもどすのと並行して医療機関が忙しくなったようです。(勿論外傷は別ですよ。)それにしても震災のような大災害で精神的に不安になった人々に心のケア−が必要だと叫び立てる精神科医は少しおかしいのではないか。オ−ム一般信者の社会復帰には心のケア−が必要だというのも、一般論としてはその通りですが、精神科医や心理セラピストが登場せねば、と気張るのは滑稽です。何でこう日本の医者は皆を患者にしたがるのでしょう。
サリンのことで脱線しましたが話をもとにもどすと、 医療不信の種を医療側は沢山まいておきながら、皆さんは優しいものだから益々医者は胸を張って仕事をしているじゃありませんか。日本人は一人残らず患者にしてみせようと豪語しているようにみえます。
マリリンモンロ−は、身体的なことは内科の主治医にすべてゆだね、精神的な問題は精神科医に、経済的なことは弁護士にすべて任せて仕事をしていたといいます。個人主義がすすむことを私は祈ってますけれども、自分が自分を引き受けるという覚悟と度胸が身につかぬまま、核家族になり単身になりと放り出された時、私たちは知らず知らずモンロ−的になってゆくのではないか。身体と精神と経済を他人にゆだねてしまって、一体何が残るのでしょうか。
先に述べましたが医療は、皆さんの苦痛や病気を、皆さんの苦手な医学知識(病名)へ封じ込めようと虎視タンタンとねらっているのです。予防医学と称して日本人のすべてを成人病という病人にしようとねらっているのです。その手に乗るか、という心構えが今ほど大切な時はありません。
「近代医学の目ざましい技術的発展は、医療が進歩すれば、命や健康の問題は直線的に解決されるかのような無限の幻想と期待を生んできた。しかし、このような認識には明らかな誤りが含まれている。……近代医学は抗生物質の発見による感染症の克服によって、伝統医学に代わる現代の位置を確立したといわれる。しかし感染症が昔ほど脅威でなくなったのは、必ずしも抗生物質のせいだけではないらしい。結核は、ストマイ等の抗生物質の開発で克服されたと考えられがちだが、実はその発見以前から工業先進国では結核の罹患率や死亡率は下がっていた……」
結核を例にとるまでもなく、赤痢、チフス、コレラといった昔から恐れられていた感染症(伝染病)が、激減したのは、抗生物質が発見されて使用されたからではありません。栄養水準の向上と上下水道完備など環境衛生がゆきわたった先進国では、(不幸にしてそのような病気になってしまった人には、抗生剤は必要不可欠ですけれども)そもそも大流行などしません。現在、それらの病気が恐れられているのは、いわゆる発展途上の国々であって、それらの地域では「赤痢をなおすより、井戸水を治そう」といわれています。歴史的にみると、赤痢、コレラ、ペストなどは、世界各地で猛威をふるってきましたが、よくみると、その流行で町や国が全滅することはありませんでした。やはりその時代、その地域の中で犠牲になったのは、栄養状態(抵抗力)のわるい、衛生のゆきとどかない低所得層の人々でした。王侯貴族は、美食つづきで、痛風や糖尿病(成人病!)にはなっても、伝染病にはかからなかったのです。現在、先進国で伝染病が恐くなくなったのは、皆さんが昔の王侯貴族以上の生活をしているからです。
先進国の医者たちが方向転換を強いられたのは明らかです。癌や膠原病その他難病はたくさんあるけれども、それらの病気の人達だけなら病院が3時間待って3分診療などと混みあう筈はないのです。 そこで登場したのが、させられたのが「成人病」というわけのわからぬ病気(予防医学)です。「正常値」の設定の幅次第で、患者の増減は医療側が決定できるという仕掛けです。
その成人病は、じゃ医薬が有効かというとこれもそうはいえない。日本の東北地方で50歳くらいで脳出血でたおれた方々が最近減少したのは、これも薬の為でもなんでもなく、食生活が豊かになり蛋白質や脂肪をたくさんとれるようになったからです。こんどはとりすぎて脳血栓や心筋梗塞が増加してきたのですけれども、クスリ、クスリ、お医者様、ではないのです。病院で一日かけて、血圧やコレステロ−ルのくすりをもらうよりも、同じ時間、運動し、美食をほどほどにする方がはるかに長命につながります。
「近代医学のもうひとつの成果は解剖学の発展による外科技術の進歩だ。とくに脳外科の普及で、戦前・戦後を通じて、日本の成人の最大の死亡原因であった脳卒中の死亡率は激減した。ただしこの成果も手放しで喜んでいるというわけにはいかない。……気がついてみたら、命はとりとめても、体の麻痺や言語障害のある障害者の大群を生んでいた。……さらに大きな問題は、なぜ日本では障害を持ったお年寄りが、悲惨な生活を送らねばならないのかということだろう。これは医学では解決できない疑問だ。つまり近代医学というものは、栄養や環境の改善から、障害者の介護まで含めた、広い意味での福祉の支えがなければ、人々の暮らしを支えることができなかったし、また、これからも決してできないと思う。」
この文章にあるように「医療」というものは対象が生身の人間ですから、『滅菌された手術室とキラキラ光る医療機械と専門家たちのテキパキした仕事』という皆さんが抱く「きれいな医療」でことがすむわけではありません。 人生の流れの中で、どんなに摂生し、健康に気をつけていても、人は病気になるときはなってしまいます。医療に世話になる段階が済んだら、それからは、ハンディキャッパ−としての日常が始まらなくてはなりません。それはどちらかといえば「クスリ・クスリの医療」ではなく、「ヒト・ヒトの福祉」です。
現在、厚生省や大蔵省の官僚たちは、もうこれ以上医療に金を使っても平均寿命などの伸びは期待できない、お金の使い方を医→福祉へ転換していこうと考えています。その為の政策が性急にすすめられ、年寄りの病院追い出しが大問題になり、現実に相談もたくさん受けます。医→福へ重点を移していこうとするのは全く正しいのですが、福の体制が整っていないのに強行しているのはどうも……。
さて、製薬メ−カ−、医療機械メ−カ−の売り上げが、 年間10兆円どころではない現在、そちらの伸びはほどほどにして、治療から介護へお金をまわせないものか。皆さんの健康保険から集めたお金が、薬屋・機械屋にまわりすぎている。成人病という「予防医学のおとし穴」に国民全部を引き込んで不要のクスリと検査で暴利をむさぼる、そんな空しいことは早く止めてほしい。もっと実質的な仕事、それは「寝たきり老人」などというコトバを生まない地盤をつくること。一日中車で営業してまわり、空しいクスリをドクタ−に買ってもらう為に空しい接待ゴルフをするセ−ルスの若者たちを、もっと実感のあるずっと喜びのある仕事に就けるような政策はとれないものか。
皆さんが毎月差し引かれる健康保険費とそれから勿論税金の一部が医療とその周辺に使われるわけですが、医療費が突出するのではなく、福祉という人が人を手助けする、介護する、という大枠の中で、医療(クスリや手術に代表される)はそのほんの一部、ないしは周辺であってよい、というのが、現代医療のこれからの姿でしょう。
「ニクソン大統領の時代に米国は人類の限界に挑戦した。その一つは西暦 2000年までに人類を月に打ち上げること。もうひとつは米国人の癌の死亡率を半減させることだった。前者、つまりアポロ計画はあっさり達成された。しかし癌死亡率半減という目標には完全に失敗した。米国は70年代に、癌の診断と治療に膨大な費用と人力を投入したが、1980年代の半ばには達成は絶望という評価がはっきりしたため、対癌戦略の大幅な変更にふみきった。癌対策の予算の重点は、積極的な診断や治療から、栄養のバランスの向上や禁煙の維持という、癌予防の啓発活動へシフトされた。」
以前にもふれたことがありますが癌保険が登場するなど、癌の恐怖はあおられすぎています。4人に一人が、やがては2人に一人が癌死の時代がくる、といわれれば、憎き恐ろしき癌というふうに思いがちですが、かりに80歳を越えた方の死因を老衰と一括してしまえば、癌がそんなに多い病気でないことがはっきりします。癌死の比率が高まったのは他の病気で亡くなる方が減ったからであって癌がどんどん増加して現代人にとりついているわけではありません。つまり癌というものは、高齢になると加速度的に増加するものなのです。正常細胞が何らかの弱点をもつとそこをついて遺伝子変化がおこり癌細胞という人間にとってありがたくない細胞がせきを切ったように増殖するのが癌です。「せきを切ったように増殖する」というところがミソで、少々の癌細胞やその候補者は、中年すぎれば誰でも持っているのです。
「せきを切ったように増える」そのきっかけは何か。もしきっかけがひとつで、目に見えるものならそれを避ければよいのですから簡単ですが、はっきり言えることは、若い人の癌は、偏食、過労、ストレス、です。タバコは無関係だというのが私の立場。偏食だの過労だのストレスだのとつまらない、そんなこと他の病気と同じじゃないの。全くその通り。なってしまうととりかえしのつかない癌も、なるときはいたって平凡な原因の積み重ねによると考えられます。
それから高齢は、それ自体が引き金です。くりかえしますが、このエッセイでも述べられてますが、同じ年齢で比較すると昔と比べて癌は決して増加してません。何よりも4人に一人とか2人に一人とか宣伝する癌保険の会社が成立していること自体、全体が高齢化し掛け金を払う人及びその支払い続ける年数が長くなっているからで、若い世代の癌は別に増えているわけではない何よりの証拠です。
治療よりも予防という政策はそれなりに評価できることですが、その予防が予防病を生み、誰もが癌恐怖にビクビクする方がよほど恐いのです。では、これから問題の多い癌検診についてふれます。
「癌にまつわるもう一つの神話は、よく言われる生存率の向上だろう。例えば日本では、初期の胃癌なら80%以上は助かると早期発見が強調されている。しかし、この表現には落とし穴がある。一つには、胃癌が早く見つかれば見つかるほど見かけの上で生存期間が長くなることだ。もっと大きな落とし穴は、検診によって早期に見つかる癌には、そのまま放っておいても臨床的に人の命にかかわる病気には進行しないものがかなり含まれていることだ。その反面では、臨床的に急速に進行する悪性の胃癌は、検診ではなかなか見つからない。半年に一回の検診をしていても、発見されたときにはすでに周辺の組織に広がっていたのが、話題になった逸見氏の癌だった。
あっさり言えば、日本の癌の早期発見の実績は、世界のどの国より進んでいるが、癌の早期発見や、手術、抗癌剤の発達にもかかわらず、癌による死亡率を目に見えるほど低下させているわけではない。米国の癌克服戦略の見直しを受けて、国際対癌連盟は、胃癌や肺癌を含む固形癌の集団検診は、公衆衛生上の政策としては勧告できないという結論を出している。」
引用が長くなりましたが、最近、欧州連合の健康白書で「EU加盟12ヵ国のうち、喫煙者の率が最も高いギリシャとフランスの平均寿命が1位と2位である。」というデ−タが発表されました。また欧州1位の喫煙率のギリシャよりも更に高い喫煙率なのは日本ですが、御承知のように平均寿命はギリシャなどよりずっと上です。
世に言う、「身体に害がある」「癌になりやすくなる」といった危険因子(リスク・ファクタ−)は、かくの如くいい加減なものです。誰かが言い出したことが時流にのるか、トレンディになるかどうかというだけのことであって、人間の病気とか寿命といったあまりに多岐にわたる因子が関係していることを、いくつかの指標で表すことはできないということです。タバコについていえば、長くタバコを吸ってきた人は癌になり やすいのと、長く生きてきた人は癌になりやすいとの間には、平均寿命に差異をもたらすほどの差はないということです。
癌の検診は、早期発見早期手術が叫ばれてから久しいのですが、残念ながら癌死の割合を下げることに失敗しています。この文章にあるようにイギリスやアメリカでは早期癌の検診から手を引きました。私が胃癌検診についてイギリスが手をひいたと読んだのはもう10年以上前のことですから、やっても仕方のないことはやらないという合理性はやはり日本より遙に徹底しています。日本では胃Baや胃カメラの検査術が世界をリ−ドしてきたという実績もある為もあり、よけいに癌検診が盛んで、一向やめにする気配のないのは残念なことです。最近は胃の次は腸だとばかり直腸ポリ−プをとりまくっていますが、いつまで続く流行なのでしょうか?
「こうした国々では、医学の進歩そのものに懐疑的であるということではない。むしろ、医学の進歩の遅々とした歩みを見据えながら、人間社会のほかのすべての課題とのバランスを取って行こうという発想だろう。癌の治療のほかに、日本で大きな焦点になっている脳死=臓器移植は、欧米ではいまやふつうの医療行為だ。しかし、その米国でも移植は反省期に入っている。臓器提供者の数が圧倒的に不足しているという単純な事実に直面しているからだ。臓器提供の候補者になる人々のほとんどは、交通事故と銃器による被害者だ。このような犠牲者の発生に期待する医療のあり方は確かに不健全だと思う。ただし、米国での議論の焦点は倫理的な問題ではなく、臓器移植にかける費用よりも、交通事故対策や銃器の規制をした方が社会的価値が高いのではないかという論争だ。いかにも米国らしいが、これも、医学の効用と他の社会的価値とを秤にかけたバランス感覚だろう。」
最近では胃の検診だけでは物足りずに、直腸検診が流行しています。10年くらい前でしょうか、米国のレ−ガン大統領が何回も直腸癌の手術をして助かっているという報道が続けてなされた時、そのうち日本でもと思ってたらその通りになりました。直腸ポリ−プなどはあっても当たり前のもの。悪性のものなど滅多にないのにとりまくっています。食生活が欧米化すると直腸癌が増えるというのは確かなのですが、先手を打って良性ポリ−プまで癌の予備軍とみなしてとりまくるというのは全くデタラメです。先手を打つなら食生活の欧米化一辺倒の見直しこそ第一歩。癌に対して医療ができることよりも、食事内容の方がはるかに大きく影響することはわかりきっているのに。食生活を日本食にするという当院のような食事指導にいくら時間をかけても、医療としては認めてくれない。ポリ−プをとることの方が、恰好いい、医療らしい、というわけです。医療というものに対する皆さんの期待や夢、それを提供する医学界、すべて、とんでもない大間違い、
錯覚に陥っているとしか言いようがありません。代表的な例は臓器移植でしょう。臓器移植のひとつ前の時代にスタ−トした人工腎臓・透析はそのよい例といえます。透析の機械のまだ不足していた時には、腎不全であの人は助かりこの人は死亡するという残酷が現出しましたし、もっと問題は、透析医療がいちどいきわたってしまうと、投資した医療機械を有効に使う為、透析をするほどの腎炎でない人まで、透析の対象にされてしまった悲劇が起きていることです。
「死」を機械や他人の臓器で何とかしてしまうという発想は、「生」も技術や資本(お金)にゆだねてしまうという発想です。生や死に対する「畏敬の念」がすっかり野暮なものになってしまったようです。
充実した生と充実した死は、私たちの命を機械技術中心の現代医療に売り渡すことで得られる筈がない。もっとも大切なものを他人や機械に売り渡したもぬけの殻の働きバチが一体どんな経済活動をして、何をつくるつもりなんでしょう。
「インフォ−ムド・コンセントという、きわめて当たり前の考え方が医学の内部から成長しなかった事情、そして今もなお多くの医者がインフォ−ムド・コンセントの実践に戸惑っている事情についても、著者らは医者の職業倫理と「善行モデル」を分析しながら明快な解説をしている。「善行モデル」というのは、患者の医療上の幸福を達成するための判断と責任はすべて医者の裁量の範囲だとする、家父長的な意識に立った考え方だ。これに対比して著者らが提起しているのは、医者の裁量によって得られる医学的な利益よりも、提供された情報をもとにした患者の選択の価値そのものを尊重する「自律モデル」である。
二つのモデルによる分析は、医学の文脈を離れて考えてみても実に興味深い。例えば、患者をこども、医者を親と置き換えてみれば、最近大きな話題になっている「こどもの権利」の登場の背景や意味をたどるためのいいモデルになる。」
「説明と同意」と訳されたりしているインフォ−ムド・コンセントは、情報を詳しく提供された(インフォ−ムド、informed)患者側が、同意する、納得して、時には拒否するということです。「公開と納得」と訳した方が目指すものがはっきりみえてくると思います。
最近、患者Aさんから聞いた母親のエピソ−ド。母親は84歳。直腸癌が発見されました。医師を交えての説明会。子供たち全員が集まりました。医者が言うには、「手術をしなければ三ヵ月。手術や抗癌剤を使えばもう少し延命できる可能性がある。どうしますか?」、Aさんは何もしない方がよいと心中思っていたが、長男が断固として手術を主張。結局手術され、半年で亡くなりました。
いろいろな問題が見えてきますが、インフォ−ムド・コンセントは、確かに形の上では十分実現されて、非の打ち所がないよう
です。しかし結果としては、84歳のおばあちゃんが、しないですむ苦しみを受けてから旅立ったことになりました。何の為のインフォ−ムド・コンセントでしょうか。
医者側は、あんな手術は無茶苦茶だ、と非難されない為の防波堤にインフォ−ムド・コンセントを使った、と言われても仕方ない。何でもやりたいのです。切って切って切りまくりたくてウズウズしているのです。国民皆保健という恵まれた制度があるからこそ、余計に、医者側は、「やらない勇気と決断」を持つようにならなければいけないし、患者側が、だからこそ、より一層、金の問題にわずらわされないという好条件の下で、人間としてどちらを選ぶか、母親の幸せはどっちなんだという選択を自由さの中でしなければいけないのです。
友人のドクタ−の母親のエピソ−ド。母親は77歳で腹水がたまりました。癌専門のその友人には診察するまでもなくわかります。いちど母親を入院させましたが、仲間の主治医に一切の検査はしないでくれ、手術や抗癌剤はもってのほかと言えました。ただ腹水を減らす処置のみをして退院。それから二年余り、2〜3回入院しましたが苦しむことなく母親は旅立ちました。これは、友人がドクタ−で、そのひと言で他のスタッフが余計な処置を控えたからできたことです。これが特殊なケ−スであるのがまだ日本の実情です。第一、このドクタ−も、同じ病気・年齢・症状の患者さんが赤の他人だったらきっと手術、抗癌剤をやってます。
『ただし気になるのは、わが国独得と言ってもよい医療への過大な期待感、つまり「医療過信」だ。インフォ−ムド・コンセントは近代医学の限界つまり不完全性への認識を前提としながら、患者の選択によって利益と危険性のバランスを取っていこうという発想だと見ることもできる。だから、インフォ−ムド・コンセントの考え方は、「医療過信」とは本来的には両立し得ないものだ。
「医療不信」と「医療過信」が奇妙な形でない混ぜになった、アンバランスな医療観を育てた大きな原因の一つは、マスコミの報道にあるのかも知れない。外の人には分かりにくいが、これはマスコミ内部のよく言えば分業、ありようはセクショナリズムのせいだ。片や社会部は「事件」でなければ「美談」としての医療を、科学部は「新知識」としての医学を、家庭面では「健康の知恵」という医者のアドバイスの受け売りをするという、バラバラな報道で紙面を飾ってきた。マスコミが、癌を筆頭とする“現代病”への恐怖をかき立てる一方で、医学の進歩についての期待を語ってきたという点については、ニュ−スの発信源である医者の方にも責任の一端がありそうだ。』
医療に対する過大な期待、上意下達があたりまえとおもっているお上に対する弱さ、先生の前では何も言えないか、又は自分を失ってすべてゆだねてしまうダダッ子になるか……。とにかく疑問があれば 納得するまで質問する。短時間では答えにくいこともあるので、時には私も無愛想になるかもしれないが、とにかく患者さんに親しく向きあおうとしない医師には大病院であろうと開業医であろうと近づかない、という患者さん側からの行動・選択が第一歩です。
権威や、お上や、新聞報道によわい、よわく育てられた私たちは、「画期的な医学上の発見・発明」が報じられる度に、何か嬉しい感じ、自分を守ってくれる感じが、幸福感が増した気がします。しかしあり体に言えば、こうした発明発見の発表は千にひとつも10年後、いや3年後にまでも生きつづけ、利用され、発展されることはないのです。皆一時の打ち上げ花火です。どうも新聞の科学部や社会部は、一定の期間に一度は「夢を売る」記事を載せねばならぬように思ってるらしくて、周期的に「夢」が出てくるようです。それだけのことです。すっごーい!なんて夢々思わぬように。中国では、中国が世界的に不人気になる時期がつづくと、「画期的な遺跡の発見」が発表されます。医学界とて同じこと。予算をたくさんもらっているのですから、「やっぱり癌はわからない」とは発表できないのです。それだけのこと。
『しかし、市民の医療への過信を報道のせいだけにすることも、正当ではない。インフォ−ムド・コンセントを実践しようとしている、少なからぬ医者たちがこぼしているのは、いくら説明しても「先生にお任せします」・・・・・・自分で方針を決めることができない患者が多いという苦言だ。アムステルダムの自由大学の勤務医にこの話をすると、「そんなに多いなんて、信じられない」と絶句して首を傾げた。国際的に見ても日本の患者には、自分の頭で考えようとする気構えが不思議なほど薄いようだ。
欧米にも、「お任せ患者」がいないではない。お年寄りには結構多いらしい。しかし医者も看護婦も、こうした患者には概して冷たいォ。「だって自分のことなんでしょう。私たちに聞いてもだめ。自分で決めてください」。これがふつうのやり取りだ。スウェ−デンで老年医学の仕事をしている女性の医者が、「手を後ろに組んで」患者と付き合うことが大切だと強調していたことを思い出すォ。手を出す方が簡単だけれど、ここががまんのしどころだという。こどもに対する教育とよく似ている。』
ある有名女子大のエリ−トお嬢さん。生理が乱れたので大学内の健康相談室へ行きました。訴えをきいた女医さんは躊躇なくホルモン剤をくれたというおはなし。その生理の乱れはいつからどのくらい続いてどのようなものか。それで困っているのか? ボ−イフレンドが居て避妊に気をつけながら性生活をしているのかどうか。等々よくよく相談するのが女子大学の健康室に勤務する女医の仕事のはず。それくらいはよくあることだからと、生活上の注意をコメントしたり、身体の生理的振幅(身体の融通性)のことをはなしたりするのが仕事のはず。「心配ないわ」で帰すのならいいが、心配あってもなくても一応「おくすり出すわ」が習慣になってる医師たち。悲しいことに、これがキャリアウ−マンを輩出する女子大における健康観の教育のようです。 いろいろある薬の中でもホルモン剤は服用後それが身体に及ぼす変化(都合のよいものを効果といい、都合の悪いものを副作用という)が、はっきり出るという種類のものです。こういう「薬」がつくられると、薬は身体の生理(メンスのことをこう呼ぶのは最近で、ここでは身体の メカニズムのこと)を変化させる力のある偉大なものと短絡的に思ってしまい、すべての「薬」に対する夢が拡がります。が、サリンを思い出すまでもなく、つよい、くっきりした作用のあるものはすべて「コワイ」のです。効果=副作用なのです。
当の学生さん、生理が乱れたら母親に相談しないのかしら。「お母さんだって未婚の頃それくらいのことあったわよ。2〜3ヵ月様子みたら?」とは最近の母親は言わないらしい、すぐに「病院に行ってらっしゃい。」
どうぞ皆さんは、「手を後ろに組んで」専門家と称する医師と付き合って下さい。
『インフォ−ムド・コンセントの考え方の基礎になっているのは「自立した患者像」ではない。「患者による自律的な選択」が実際に行われるかどうかということだけがポイントだ。患者は、強い自己主張というよりは、むしろ静かに選択をすることが多いはず。医者は、そのような選択を妨げないように注意しながら援助するという役割になるだろう。自立した患者がインフォ−ムド・コンセントを育てるのではなく、逆に日本では、インフォ−ムド・コンセントの実践が自律的な選択をできる成熟した患者を育てるのだと私は受け止めている。
国民皆保健の普及のお蔭か、生まれる所も病院、病気で療養する所も病院、死んでいく場所も病院……ゆりかごから墓場まで日本人が医療のお世話になるようになったのは、たかだかここ三十数年のことに過ぎない。医者のお世話にならなくても人の生活をそれなりに営むことは今でもできる。病院に行かないという選択もあるはだ。欧米の医者がよく言うように「病気は自然の経過をたどる」。「人生も自然の経過をたどる」というのが、コモンセンスというものだろう。病院に行かない、という選択を考えるゆとりさえ持てば、逆に医療に何ができ、自分が病院で何をしてほしいのかがはっきり見えてくるはずだ。インフォ−ムド・コンセントが問いかけているものは、生活の場での、成熟したコモンセンスの実現であるという見方もできるだろう。』
一般の方々の「医療への過信」と、「成熟した患者と医者の関係をつくる困難さ」。
今回は少し異なった面から考えてみましょう。身体の仕組み(生理)と病気になったときの身体の仕組み(病理)の教育が決定的に不足しているということです。かくいう私自身、医学部に入ってはじめて、尿は血液をこしてつくられるものであり、大便とは全く異なった通路を通って出てくるものだと初めて知ってビックリしたくらいです。それまでは何と なく腸の中で水分と固体分が分かれて片方はオチンチンから、片方は肛門から出てくると思ってました。腎臓の病気でもした方でない限り、皆さんの多くもそう思っているでしょう。
地球上の生涯行くこともない川の名前や世界で何番目の長さとかは教えられても、身体の中の川の血管というものはだいたいどんなものか、皮膚を切ったらどうして血が出るかは教えられていない。血を見るとキャ−、と叫んでトリ肌がたつだけ。まして最近のように、ドロだらけになって遊び、膝小僧はいつも血を流してカサふたができており、冬になれば、手がガサガサで、アカ切れなんて言葉もあったし、シモヤケも普通だった、といった子供時代を過ごしていない若者たち。精神的な痛みには妙に敏感であたらずさわらずらしいけれど、肉体的には仕組みも知らないし体験も浅く、どのくらいでどのくらい相手が苦しいのかもわからない。
経済や政治のこと(社会の仕組み)なら最低限の知識は教えられているけれども、身体の仕組みの教育はほとんど時間をとっていない。まして、管理された生涯を送るように、身体の や血や痛さからは目をそらせるように仕組まれた衛生的ブロイラ−人生の私たち。何かあれば、本文にあるようにゆりかごから墓場まで医任せ、人任せ。
英語や数学の時間を削っても「人体の仕組み」の時間をもっと増やせ、というのが私の提言です。
3回ほど、連載を休んで小柴胡湯問題にからめて、患者さんは賢い消費者にならなくてはいけない、医療側には、売らんかなではない新しい医療の供給システムが望まれていることを述べました。
秦洋一氏のエッセイにもどります。
『現代の医療は、病院という日常生活から切り離された非常に狭い環境で育ってきた。そこで医者が出会うのは、治療の対象として抽象化された患者だ。市民はいったん病院に入ると、生活者としての人格を剥奪された存在として扱われやすい。人生経験の豊かなお年寄りが、大学を出たばかりの医者に「おじいちゃん」とか「おばあちゃん」とか気軽に呼ばれているのは、一つの表れだろう。患者は患者で、なぜかおとなしく“患者”としての役割行動をとってしまう。病院という環境の中では、人と人との関係が日常の人間関係とはまったく別物になる。
私が今提案したいのは、医療の場を、病院ではなく、地域全体の生活の場に置き換えて考え直すことだ。一つには在宅医療にもっと力を入れることだろう。そうすれば病を持った「生活人」としての市民の姿が見えてくる。在宅医療の現場を見れば、患者の暮しを医者の力だけでは支えきれないことがはっきりする。
「ゴ−ルドプラン」と通称される現在進行形の日本の福祉政策のモデルになったのは、デンマ−クやスウェ−デンの北欧の社会だったことに改めて思いを馳せる。限りある人々の営みを地域の福祉で包み込み、またその福祉を医療が支えていく……北欧社会に生まれた人類の知恵は、明日の日本の医療と福祉の姿を大きく変えていくことになりそうだ。』
ここには、これからの医療福祉に関する、根本的な見方とアイデアが示されています。
この数ヵ月、この分野では将来の私たちの生活を 大きく左右するようなできごとがいくつもありました。ひとつは薬害エイズにからんで、菅厚相のような新しいタイプの政治家がでてきて、ようやく厚生官僚たちの固いスクラム(!!)をほんの少−し崩しはじめたこと。製薬メ−カ−と厚生省と医師の馴れ合いとリベ−ト攻勢が第一で、消費者(患者・生命)は二の次だということが、これでもかというほど明るみに出てきたということ。もうひとつは、「介護保険」の問題。給与から、税金は別にしても、健康保険や厚生年金(国民年金)の掛け金をバッチリ引かれている私たちから、さらに別立てで介護保険料をとろうというわけです。また、高給をとり、退職金をドッサリ持ってゆく官僚の天下り先をふやそうというのか。健保組合が数年ぶりで赤字になったという記事が追い打ちをかけます。待ってくれよ、これまでの10年以上分の黒字は何処へいったんだよ。答、株に投資していてバブルがはじけスッカラカンになりました。私たちが自分の病気や老後のために預けるお金が、きちんと自分たちに戻ってくるならとやかく言わない。何処に投資され何処で運用益を得たり損金を出したりしているのかわからないものをおいそれと出すわけにはゆかないよ。それから前回に書きました医療の現場における「定額制」の開始。
三つに共通していえることは、消費者(患者)が何を望んでこうなったのか、ということはおいてけぼりで、勝手に世論なるものをでっち上げて、業界や政治家及び自分たち自身の為に都合のよい作文を書いている官僚たちの姿です。
私たちは、自分の病気、健康、老後の為に何を公に望み、何を公に託し、何は私で結着をつけるから公には頼らないのか。高齢化社会という脅し文句に踊らされない見識が今何より必要とされてます。
『アムステルダムで家庭医の一人に会った。案内をしてくれたのは、藤原かすみさんという元朝日新聞の出版局にいた人だが、実はこの家庭医が彼女の主治医。オランダではすべての市民が家庭医に登録されていて、救急医療でもない限り家庭医を通さなければ、大病院での診療を受けることができない。高度医療へのゲ−トキ−パ−役だ。ところがこの門番さんの患者への態度はなかなか厳しい。藤原さんは数日前から、ひどい鼻風邪を引いていて診察を受けたが、日本の医者とは違って薬はまったくくれなかったと言う。この日も取材の間中ぐすぐすやっていたので、面白半分に、なぜ薬を出さないのかと訊いて見た。返ってきた答えは……ご承知のように風邪のウイルスに効く薬はありません。頭が重くて眠いのはごく自然な現象だから、鎮痛抗炎症剤を出すまでもないでしょう。鼻水も風邪ですから仕方がない。温かくして寝ていれば、そのうち治りますよ。
実にお見事な回答だった。これは医学の常識だ。日本でも、改まって医者に訊けば同じような答えをするはずだ。その証拠に、自分の家族が風邪を引いたら「卵酒でも飲んで静かに寝ていなさい」ということになる。ところが、患者にはずっしりした薬袋を渡す。医療制度の違いと言えばそれまでだが、医者の常識がそのまま実践されている姿を初めて見た。』
ここでは、日本でも、開業医はやがてこうなるだろうというシステムが紹介されています。ひとつは、開業医は家庭医として決められた範囲の住民の病気やケガのプライマリケア−を担当し、そこで手に負えない場合のみ病院に紹介するという、開業医と病院のきっちりとした機能分化。開業医と病院の外来が同じことをしているのに両方とも混み合うという非効率が避けられています。もうひとつは、「風邪」が例になっている患者と医者の関係。ここに書いてあるように、日本の医者は、家族や知人にはそう簡単に薬をのめとは言わないが、患者さんには山盛りの薬を出すのが普通です。風邪に抗生物質を投与するのは日本の医師だけの不可思議な流儀ですが、たいがい、風邪に併発するかもしれない肺炎や髄膜炎の発症を未然に防ぐという説明です。かりにこの説明がほんとだったとしても、千にひとつしかない肺炎や髄炎の可能性の為に、風邪に不要な、かえって副作用のある抗生剤を 999人に投与していることになります。癌の早期発見早期手術を思い出させる。ジュ−タン爆撃的医療。これなら医者はいらないよ。私は開業18年、風邪には漢方薬しか出していませんが、「あのとき抗生剤を出してくれなかったからこうなった」とあとから訴えられたことなど一度もありません。重篤な感染症を疑わせる発熱は病院に紹介すればよいので、その区別が医師の役割。だれにでも抗生剤を出すのは、従って、医学的必然性ではなく、経済的必然性であることは明らかです。
『そう言えば藤原さんは、少し前に海外旅行をして飛行機の中で耳が痛くなってなかなか治らなかったという。耳鼻科の専門医に紹介してもらおうと、この家庭医に相談したら、それは低圧のために鼓膜に耳垢が押し込まれているせい。耳の中にサラダオイルを少し垂らして置きなさい。耳垢が柔らかくなるから自然に治るでしょうと、あっさり追い返されたそうだ。オランダの患者たちは、どうやらこれで納得しているらしい。
オランダに住む日本人たちの医療への不満と不安は、日本では定期的に受けていたがん検診をやってくれないことらしい。しかしなぜか、オランダの住人たちは一向に気に病んでいるふしはない。それはそれで何とかなっていくということだろう。この国のがん死亡率は日本よりも低い。もちろんオランダでがんのために死んでいくお年寄りは結構多い。しかし、日本とは違って、ぎりぎりになるまで自宅で生活するのがふつうだ。この国での在宅死亡率は今でも六割を越えている。』
前回に引きつづいて、日本人がオランダの「家庭医」に不調を訴えたところ、専門の病院に紹介するまでもないとあっさり追い返されたとあります。つづいて「オランダの患者たちは、どうやらこれで満足しているらしい」と書かれているところがミソ。皆さんはどうですか? このような合理性に皆さんは耐えられますか? 自分が具合が悪い以上、必ず病名がつき必ず薬をもらえる筈だと思い込んでいませんか? 病名はつかなくてもいい、私はとにかく苦しいんだからせめて薬をちょうだい、いろいろ説得して薬をくれない先生は冷たい医者、二度とあそこには相談にいかない、という人がまだまだ多いのではありませんか? 今日本の医療は制度として薬をあまり使わない医療へと少しずつ少しずつ転換がすすんでいます。皆さんの医療に対する考え方、幻想、夢も少しずつ冷静に、冷めてゆかなくてはならない時代にきています。
後段の癌検診については、先進国では早期癌発見の為の癌の検診制度はどんどん減少廃止されています。早期発見早期手術が全く皆さんの寿命を伸ばすことに役立っていないことは、最近の近藤先生の「患者よ癌と戦うな」などで立証されていますが、欧米ではそのことがはっきりするとさっと手を引く合理性が発揮されますが、日本という風土では、日本の医学会という風土では、いちど行政がはじまるとそう簡単には予算を減らせないのです。近藤先生の説に医学会がまともに反論しないので、数人の良心的な医師が同じ 「文芸春秋」誌上に近藤先生に対する回答のようなものを書きましたが、ほぼ全面的に近藤先生の説を支持しています。
いっこくも早く癌検診制度が廃止されることを希います。特に最近の直腸ポリ−プの摘出の出鱈目さは目に余ります。富士見病院の子宮摘出は決して過去のことではないのです。これでもかこれでもかと病気を作る検診制度がいったい誰の為のものなのか、皆さん冷静に考えて下さい。
『もう一つ気がついたのは、この国では在宅で暮らすための支援制度の網の目が非常にこまかいことだった。地域のあちこちに訪問看護ステ−ションがあり、家にいても医療と介護サ−ビスを必要なだけ受けることができる。その費用のほとんどは国民保険でまかなわれる。訪問介護の対象はお年寄りや病人、障害者だけではない。お産をするときにも、一週間は看護婦が24時間体制で派遣され、買い物から炊事までやってくれる。だから、この国の自宅出産率は今でも何と80%以上だという。……中略……
オランダや北欧と比べて、もう一つ問題だと感じることがある。日本の医療現場が患者に提供できる「選択肢」が貧し過ぎることだ。インフォ−ムド・コンセントをもとにした治療方針の選択は、患者の実際の生活にとっては一つの出発点に過ぎない。どのような治療を受けるにしろ、受けないにしろ、患者は病気と長く付き合っていかなければならない。その後の患者の暮らし全体をどのようにして支えていくのか。つまりは、社会全体の福祉政策の貧しさが「選択の幅」を狭めていることになる。』
一昨年の秋、1994年の雑誌「みすず」9月号に掲載された、秦洋一氏の「近代医学を癒すもの」を、16回にわたって分載しながら、現代日本の医療とそれをとりまく私たちの生活をめぐって書いてきました。長い連載になり大部分は引用させていただきましたが、これでも全文は引用できず、このようなエッセイ全文が一般誌(紙)に載らないことを重ねて残念に思います。
ここに書かれていることは、病院から家庭へという流れです。ようやく日本でも行きすぎた病院信仰に歯止めがかかり、在宅出産、在宅死が再び増えつつあるようです。
いつの間にか、結婚式も葬式も在宅ではやらなくなりました。お金を払って、専門業者に委託したほうが面倒くさくないという理由です。勿論、昨今の都会のような住宅事情では止むをえないのですが、 その点を差し引いても、人生の節目というか、もっとも大事な行事を人にやってもらう、「じぶんちではしない」というのは、よく考えてみるとおかしいのではないですか。結婚式も外注ならその続きの出産も外注というわけです。
妊娠がわかったとたんに、他人の敷いたレ−ルに乗って「管理」されながら10ヵ月過ごし、「管理下」に産むというのは、感覚的に「イヤだ」と皆思うようになればいいな。一方、葬式の手前の死亡は、癌や高齢でいちど自宅へかえしてあげようと、せっかくよい選択をしても最後になると又、病院にもどるというのはどうしたことでしょう。医師という専門職が側にいないと天国への切符がもらえないとでもいうのでしょうか。
総じてこの連載では、私たちの一生の中で重要といえばこんなに重要なことはない誕生・病気・死亡を、私たちひとりひとりが自分の方にとり返すということがテ−マだった気がします。
専門家と市民の間の溝はそう簡単には埋まらないよ、とはわかっていますけれども、方向性は、私たちひとりひとりが自分が生と死を含めて主役になるのだという知恵と覚悟を養っていくことにある、ということだけは、何回でも言いたいと思います。
(勝手な引用を許して下さった朝日新聞の秦洋一さんに感謝致します。)
