5.慢性病とおくすり

(1)お薬でなんとかなるというのは大間違い


 慢性病という場合、実際入院が必要なほど日常生活に支障をきたした経験のある方と、ドッグや検診で
(たとえば血圧のように)予防的にいわば慢性病の診断をされている方と、二通りあります。

 前者の方、たとえば、インシュリンで血糖をコントロールしている方や、膠原病でときどきは入院を必要とする方、神経科から服用していて、時には入院が必要な方などは、その病院と当院の2カ所を受診していることは、正解です。最近では、難しい病気に病院のほうから漢方薬を出すことが多いので、漢方薬は他でもらっていますから、とはっきり言ってください。それでも断れずもらっている方は、それを見せてください。その処方をいかすように指導します。どうみても不適切な場合は、処方しなおします。

 後者の方は、特別な場合以外、ほとんどの場合、当院だけにしてください。検診を受けて、標準値から外れている項目ごとにお薬がある、それを服用すれば、一つ一つやがて標準値に戻る、と考えていませんか? と皆さんに聞くよりも、そのように指導してそのように色々の薬を出す先生が今だにたくさんいる、ということが大問題なのですが……(薬を出すことが医師の仕事と思い込んでいる先生には近づかないこと。何種類もの薬を出し、他の医師から服用しているかどうか確かめないような先生からは離れましょう)

 高血圧とコレステロールと心臓の薬、これが循環器内科の先生。めまいの薬が耳鼻科の先生。頭痛の薬が脳外科の先生。胃潰瘍の薬、肝臓も少し数値が高かったのでこの薬、これは消化器科の先生。からはじまって、痒い肌には皮膚科の先生、膝の痛いのは整形外科の先生と……と、薬を見せてもらって錠剤をクリップしながら確かめていると、カルテが1ページ埋まってしまうような方もいます。こういう方は、ご自分は病気だらけの弱い人間と思っているでしょうが、なかなかどうして、私どもに言わせれば強者です。なぜなら、そんなにたくさんのお薬を飲んでも生きているからです。 お薬で生かされているのではないのですよ。お薬を飲んでも、身体が強いから大丈夫なのです。

 人間の身体は、検診の項目の数の足し算でできているのじゃないですよ。もっともっとたくさんの要素が複雑にからみあって、生命活動を推し進めているのです。ですから、一見無関係に見える項目も、根は同じということが多いのです。 私たちが検診の結果を見る時は、全体の項目を見て、その方の身体の歪み、生活の歪み、体質的な弱点等のある傾向を判断します。それはしばしば古来漢方の世界で言われてきた診断基準で、ピタリと言い当てることができます。ですから、それに添って漢方処方を組み立てられれば、何も色々の薬を服用する必要はないのです。さっきの例のような患者さんでも、基本的には当院だけで用は足りるはずです。

 今までの話をもう少し展開してみましょう。私は「皆さんはたくさんの薬を服用して生かされていると思っているかもしれないが、実はそれほど薬を服用しても生きているくらい人間は丈夫にできているのですよ」と、皮肉っぽく書いたのですが、これを読んだある病院の先生から、「よくぞ言ってくれました。患者さん用のパンフであんなこと言ってのける先生は、エライ!」とお褒めのお手紙を頂きました。
 実は、大半の心ある先生方は皆そう思っているのですが、口にはそう出しにくいと感じておられます。そして「世界一の薬大国日本は永遠に不滅です」は、何故なのでしょうか。
 皆さんは、現代合成医薬品に疑問をもたれて来院されている方々なので、こんなことを率直に書けるわけです。

 今、大学病院の各科の先生に「ほんとうに必要な薬、明らかに有効有用な薬、ないとホントに困る薬は、どのくらいありますか?」というアンケートを出したとします。恐らくほとんどの先生が20種以上の薬は挙げないでしょう。

 別のアンケートの仕方でもよい。「ある経済的事情により、先生が使える薬が20種類と決められているとします。どうぞその20種類を選んでください」でもよい。同じ科の先生たちはほとんど同じ20種類を選ばれるでしょうし、20位以下は先生一人一人によって、急に選ばれる薬はバラついてくると思われます。つまり、そんな薬はあってもなくてもよいのです。
 しかも各科で共通に挙げる薬が多いはずですから、全体として現在の医療に必要な薬は、せいぜい100種類以内でしょう。いま日本で厚生省が公認し、病医院で実際使われている薬は、大体8000種類くらいです。

 どういうことか考えられますか? 平静によく考えてみて下さい。「素人には分からない」じゃ、済まされないですよ。服用するのは貴方であって、医者じゃないのですから。一つ考えられるのは、厚生省が新薬を認可する時の評価基準が甘いのではないか、ということ。これは間違いなく世界一甘い。次から次へと薬が認可され、使われます。最近新聞でごらんになったかも知れませんが、少し基準を厳しくしようなどと、今頃寝とぼけたことを言っています。冗談じゃない。誰にのませているのか? 犬や猫の薬じゃないんだぞ。次から次へと厚生省が認可し、病医院で使われはじめる薬のうち、10年以上使われ続ける薬はいくつもないのですよ。そんな薬がどうして皆さんの寿命を長くすることができますか。

 たとえば10年の歳月をかけ、何10億円の開発費を使った新薬のテストの最終段階で、何か不都合が生じた時、貴方が企業の責任者だったら、どうしますか? 「副作用」とか「効かない」とか、不都合な部分をなるべく消してしまいたい、と思うでしょう。だから臨床試験を積む時に、批判的な先生には頼まないし、お金で解決つくなら、いくらでも出すし、政府・厚生省にはウンと献金するでしょう。そのときスッポリ抜け落ちているのは、誰が服用するのか、というごく素朴な良心です。認可する方も「企業が大変だからまあ認可しよう。でも10年くらいで恐らく市場から消えてゆくだろう」くらいの気持ちでしょう。

 ウーン。なんかガックリしちゃうなあ。でも皆さんが服用している大方の薬は、みんなこんなもんですよ。

 では、何故こんなにおびただしい種類の薬が使われているのか? 第一は、厚生省が薬として公認する基準が甘いということ。第二の理由は、やはり需要があるからでしょう。必要があるから開発されるわけだし、開発すれば売れるから(医師が患者に渡すから、患者は何でも薬をもらいたがるから)、メーカーは「次の売れ筋は、次の売れ筋は……」と消費者の病気動向をにらみながら開発するわけです。消費者(患者さん)には、本当にそれらの薬が役立っているのでしょうか。

 思い出すのは、食品です。当院の食事指導をしている幕内先生は、玄米を中心に食べればおかずはそんなに多種類必要でないという立場です。身体に必要な栄養素を大方揃えた米・玄米のような「主食」があれば、文字通り他は副菜でいいという考え方です。それに対して、現代栄養学では一日に30〜50種類を食べなくてはいけないといわれます。実際、日本で日常的に食べられている食品は、数え方にもよりましょうが数百種類でしょう。そんなに必要かな? 昔みたいに一汁一菜に戻るか? その方がいいのなら……。

 はてさて。ところで薬は食品ですか?(医食同源とは言いながら)食品が多様になる。あれも食べたい。これも食べてみたい。あれは美味そうだ。これは一つの文化であり、人間として生活水準が上がれば、衣食足れば、グルメ志向になるのは、ある意味で当然でしょう。地球の裏側までマグロのトロを捕りに行ったり、「いけす」と称するものを東京の店の真ん中において、そこで泳がせている魚を「新鮮な生きづくり」として食べさせるようなグルメブームは、馬鹿馬鹿しいと一笑にふすだけの見識は欲しいと思いますが、こんな「バブルを食べる」ようなことでも、やがて文化として定着すれば、世界に冠たる日本料理の多様さと称されるようになるのだと肯定的な評価もありましょう。

 動物虐待で話題になっているフランス料理のフォアグラだって、中国料理だって、ずいぶん「バブル」を食べているじゃないかと……。

 そうです。皆さんは薬グルメなのですよ。あれも飲みたい。これも服用してみたい。あれは効きそうだ。あれはよさそうだと言われるから是非試してみよう。おいしそうな薬だ! 「薬喰い」というコトバがあるほど、日本人は薬好きといわれます。「民族の伝統・知恵で、文化のひとつだ」と言ってニコニコしていてよいでしょうか?

 考えなくてはいけないのは、「薬喰い」の時代の薬は、生姜やニンニク、卵酒や当時は稀な牛肉であったり、せいぜい民間薬や漢方薬など、自然に生えているものでした。今は違うのですよ。合成医薬品です。薬=ヤクですよ。決して身体が自然に欲するようなものじゃないのですよ。得られるメリットが余程大きくない限り、副作用よりも圧倒的にメリットが大きいと判断された時のみ、限定して服用すべきものばかりです。

 Aさんの手の小指が腫れました。「先生、薬ください」「炎症を止める薬を出しましょう」 一週間後「先生、今度は薬指が腫れました」先週と同じ薬を出すとAさんは納得しません。「先生、この薬は小指の薬では?今日腫れたのは薬指ですよ。別の薬ください!」 クスリ指だから別のクスリだとシャレで喜んでいる場合じゃありませんよ。さすがにAさんはおかしいと皆さん思いますか?

 前回は、薬の消費者、患者さんである皆さんが、とても薬好きで、どんなことでも薬が何とかしてくれるという信仰をもっているという話をしました。

 こんな例は如何ですか。「先生、鼻つまりで困っているんですけど」「そうですか。じゃ、これ服用して様子みて下さい」 2週間後、「先生、まだつまるんですけど」 先生が同じ薬を出すと、「先生、違いますよ。この前つまっていたのは右の鼻です。今日は左の鼻がつまっているんだから別の薬をください!」

 笑い話として一笑に付すことができるでしょうか。
 病院には、小指と薬指が腫れた時、それぞれ別の薬が用意され、右鼻と左鼻がつまった時の為に、それぞれ別の薬が開発されているのでしょうか。

 話がそれますが、漢方に詳しい患者さんたちは、鼻水がやたら出ると小青竜湯、鼻がつまって困る時は葛根湯と思っている方が多いようです。考えてみて下さい。鼻に炎症がおきた時、鼻水が出たり、鼻がつまったりするのですよ。ひとつの状態の両側面なのです。ですから小青竜湯と葛根湯を使いわけるのは、症状じゃなくて、そうした症状の出ている原因によるのですよ。漢方の世界では細かい症状に応じて生薬の組合せをいろいろできますから、何にでも応じられるという便利さは確かにありますが、これが「何でも薬で」という傾向に拍車をかけるようであれば困りますよ。

 さて、それでは「血圧が高いといわれました」「それじゃ降圧剤を出しましょう」 一年後、「先生、血糖値が高いといわれました」 検査すると標準値より高い。「それでは降血糖薬を出しましょう」 こうして、この方は降圧剤と降血糖薬の服用を続けることになります。

 このような服用の仕方は、全国津々浦々、皆さんも医師も当然のように行っている健康管理です。けれども、これが長寿や生活の質の向上につながるというはっきりしたデータは、まだ何も出ていません。何しろこうした健康管理が医師によって行われるようになってから、まだ日が浅い。一世代たっているかどうかです。むしろ、ひとつひとつの薬剤の副作用、明らかに健康を損ねる副作用のほうが、いくつも報告されています。

 高血圧と糖尿病の話でいえば、別々の薬をそれぞれ用いることは、右鼻のつまりと左鼻のつまりを別々の薬で治そうとしているのと同じだ、ということが、現代医学的にもだんだん明らかになってきました。恐らく、動脈硬化を促進する成人病、高血圧・糖尿病・高コレステロール血症・痛風などは、研究が進めば、こうした分類とそれぞれの検査値を下げるための投薬が、実は見当違いだということになるでしょう。遺伝子レベルでそのことがはっきりするかどうかはともかく、このような分類でない全然別の分類、例えば漢方医学でやっているような分類と投薬のほうが、現代医学的にみても妥当である、と判明する日がやがて来るように思います。

 どうして先進国の中で、日本がとびぬけて一人当たりの薬剤使用量が多いのか? 例えば抗生物質などは欧米の国々の少なく見積もっても5〜6倍。多分10倍くらい大量に使用されている。皆さんの身体の中へ入っている。有り難がってかどうか知らないが、皆さんは服用してしまう。使いすぎてMRSAのような致死的な問題が大きくなっているのは、ご承知の通り。もっと日常的には、皆さん毎日服用している血圧を下げる薬、コレステロールを下げる薬も、他国の10倍くらい皆さんは消費しています。

 医師の側は病気を見つけたら、それに応じて投薬することを当たり前と思っている。まず生活を直すことから、とは考えない。検診でひっかかる程度のことにも同じ態度でのぞむ。投薬した薬の副作用が出ると、例えば炎症を抑える薬を出して胃を痛めると、他の方法を考えるのではなく、さらに胃薬を出して対処しようとする。

 これを「恥の上塗り投薬」と私は言う。降圧剤には服用している患者さんを「鬱的」にさせる副作用が多い。それでも、止めてみたらとは考えず、抗鬱剤を重ねて出す。血圧がわずかに標準値より高いというだけで、降圧剤を服用させられ、ましてや抗鬱剤まで服用するハメになる患者さんは、ちょっときつい言い方をすれば悲劇を通りこして喜劇ですよ。こんなことがいつまでも続いてよいはずがない。

 こうした検診項目ごとに薬があるから服用して下さいというやり方をしている先生方は、検診項目が科学の進歩で日々増加しているとき、検診項目が多くなればなるだけ、そのぶん薬を出すつもりでしょうか。そのうち何百種もの薬を、毎日患者さんに服用してもらわなくてはならなくなる……。人間、身体、病気についての考え方が、根本的に間違っているのです。

 一方患者さん側はどうか? もともと薬が好きな上に、次から次へとくる検診やドックのお知らせと、次から次へと健康不安をかきたてる新聞雑誌。これでもかこれでもかという「日本は世界一の長寿国」の宣伝にキリキリ舞して、「自分の身体は自分が一番よく知っている」ことをすっかり忘れてしまい、身体のことは「何か」に委ねて、色とりどりの薬がみんな解決してくれると思ってしまう。特に戦後結核が克服されたのと、抗生物質の出現が時期的に一致していた為に、薬信仰はますます強固になってしまった(医師も同じ)。実際は、平均寿命が伸びたり結核が克服されたのは、生活水準が上がり、衣食が足ったからであって、医薬が足ったからではありません。

 もうそろそろ、医者と患者も、コミュニケーションは薬・注射しかない時代は終わりにしましょう。先生と納得できるまで病気やその予防や生活のことを話し合えば、必ずしも薬はいらないということが当たり前になってほしい。診療時間が一人当たり長くなっても診療所の経営が成立するように診療代を上げてほしい。薬価差益で経営が成立するような保険制度はやめてほしい。製薬関係のマンパワーは、人手がいくらでも要る老人対策のほうに回してほしい。薬という「モノ」「商品」は、もうたくさん。病気には、特にお年寄りには、薬よりも生きた人間の介助、マンパワーのほうがずっと必要なんだから。

 これまでわが国が薬の種類も量も、先進国の中で図抜けて多く消費している薬消費大国である理由について述べてきました。ひとつは薬の開発と認可の基準が甘いこと。これは勿論、皆さんの幸せにはつながらない。次は皆さんの薬に対する信仰が大きすぎること。身体のどんな症状も薬が何とかしてくれるという思い、信仰が強い。それに乗った形で商売上手の薬メーカーが次から次へと薬という商品を開発し、甘い厚生省がそれを認め、「患者の病気は生活を正すことから」とは思っていても、「そんなことに時間をかけるよりも、何でもはい薬、はい薬、と薬を出した方が患者も納得するし……」と思っている医者が控えているという構図です。

 もうすこし脱線して、この薬漬け大国日本の現状を述べてみましょう。

 私などは、イギリスの「揺りかごから墓場まで」という福祉が理想であると、子供のときから教えられていた世代です。医療に従事するようになって感じたのは、予防医学と称して、医学が、医者が、人々の「揺りかごから墓場まで」何かと介入し支配してゆく有り様でした。

 生まれる前の胎児診断の段階で、重症の障害児と分かった場合、その両親に「間引き」するかどうか尋ねるという(こういう選択の迫り方は、私にはたいへん残忍な行為に見えますが)ことから始まり、男・女などはとっくに分かっていて、無駄なく生まれ、無駄なく間引きされる。

 生まれてから4〜5才まではいろいろ問題になっている予防注射・予防接種のオンパレード。伝染病を克服したのは薬やワクチンであるとの確信がゆるがないから、「ワクチンしてもしなくても、あまり変わらない」といった冷静な当たり前の意見が通らない。 その後の「揺りかごから墓場まで」の当局の健康・病気への介入・お節介は、さしずめ小〜中学校の給食でしょう。
 お役所仕事らしく栄養がそろっていなくてはいけないから、「パンとひじき」とかあるらしいですね。パンとひじきを、先われスプーンで食べさせるんです。それでも、「家では作れないし、バランスよい食事は与えられないから、食べる作法・しつけも含めて、学校でお願いします」っていうPTAがまだいるんです。行政と業者は既得権を守ることしか考えませんから、給食廃止なんて絶対認めようとしません。

 まあ、そんなこんなで、身体の健康について、自分勝手にやれや、と当局がうるさくないのは、20代前後でしょう。まあその時期は、入試というパズルのような頭の検診で、頭の健康が大分損なわれるわけだけど……。
 そしてもう、30代になると、定期検診が始まるのですよ。一体、これは何ですか。ちょっと数値が外れていると、☆マークがつけられ、「再検査して下さい。」これが生涯つづく。伝染病が克服されて、もう少しほっといてくれると思ったら、当局が今度は「成人病」と言い出して、ますます私たちの身体・健康に介入してくる。これは一体なにごとか?

(2)予防医学の功罪

 「予防医学」の功罪について。私などが学生の頃は、まだ目に見える具体的な貧しさが、層として日本にありましたから、貧しい衣倉住で発病し、入院して治癒したとしても、退院して再び貧しい衣食住にもどれぱ、再発は必至。医者って何て無カなんだろう、と「良心的な医者」は考えたものです。それなら医者じやなくて、魯迅のように国手とか国医にならねぱなあ.中国の伝統的なコトバでいえば、良医じやなくて良相にならねばとまあ、30年前の学生は、純粋でしたね。

 さて、「予防医学」っていうと、本来それは「伝染病」が病気の主流だった、人類の敵だった時代に、声高に叫ばれた「スローガン」でした。
 「伝染病」の予防に、手洗いや消毒が有効なことがわかってき、やがて顕微鏡で伝染病の原困たる細菌が発見され、「防疫体制」がしかれたり、「法定伝染病」などという壊かしいコトバもありましたねえ。まさに伝染病(疫病)を防ぐのは、体制であり法津でありといった社会運動、生活運動だったわけです。

 先に述べたように、伝染病が先進国で減少したのは、医薬が足りたからではなく、衣食が足りたからだ、ということを含めて、予防医学がの歴史的役割を果たしたことは、事実です。

 ところが、現在間題になっている予防医学は、成人病です。伝染病は、手を洗い、うがいをし、栄養と睡眠をとって、生ま物を食べずに、海際で防疫体制をしき、これでコレラの流行あるやなしや、というふうに原困と結果が見やすい。これに対して「成人病の予防」というのは、そのことが本当プラスかどうかは、何十年もたたなければわからない。何十万人もの人体実験をしなけれぱわからない。
 現在、多くの成人が隆圧剤やコレステロール・血糖の薬を服用したりしていますが、まさに大規模な人休実験が行われているわけです。しかし現在長命でお元気な80歳くらいの方々は、青壮年の頃から「成人病の予防」なんて、してこなかった人たちだ、ということは覚えておいてよいでしょう。

 20〜30年後に脳卒中になるかもしれないから、血圧を下げようという発想は、常識的に考えておかしいでしょう。そんな長期にわたる健康管理を「薬」でやるのは間違いだ。それは食事や生活習償の間題だ、と思いませんか? 薬は、狂ったバランスをとりもどすために、長い人生の間に短期的にときどき用いるべきものでしょう。人生の半分服用しつづけるといったもんじゃないでしょう? 「管理」というのはイヤな言葉ですが、自分が自分の健康に責任をもつ管理(食習償など)ならともかく、他人
(医者)の「管理に身をまかせる」となると、その手段ばどうしても「薬」ということになります。

これまで、わたしは「薬がなんでもしてくれる」というの間違いだ。 そう思いたがる傾向がどうもよろしくないのではないか、ということもありますが、そもそも薬にみんなが夢をみるほどの「凄い不思議な力」なんて無いということも書いてきました。

 ハナシは行きつ戻りつしながら、予防医学の話まで進んでいます。伝染病の消毒、防疫に代表される予防医学を、成人病と称する現代の慢性疾患にそのままあてはめることの「あぷなさ」を、みなさん考えてください。

 「今のままの生活を改めないのであれば、あなたの寿命は××年縮まるであろう。いま私の言うことをよく聞き、明日よりココロをいれかえ、清く正しい生活を送れ!これが守れない時は、おまえの生活は呪いと疫病がとりつくであろう」「ははあ、おそれいりました」と平伏する患者さん。

 何ですか、これは、いったい。みなさんが聞きたがっている、人間ドッグなど受けたがる心の中には、このような御宣托が欲しいという気持ちが根強くあるでしょう?みなさんが飢えから解放された生活の中から望んだことは、昔の皇帝が望んだのと同じ不老長寿でした。神ならぬ身の医師は、心ならずもいくつかのデータをもとに、あたかもあなたの人生の見取図を見おろしているかのように、神の視線を得たかのように、ふるまいます。医師は占い師でも牧師でもないのに。皆さんがあんまり期待するから、ホントにその気になって血圧ひとつはかって、貴方の生活をあれこれ支配・管理する医者ばかりになったじやないですか。

 まるで牧師に繊梅するように、「きのう飲んじやった」と告白する糖尿や肝炎の患者さんがいます。そのたび私ば、貴方の生活・人生を差配している司祭じやありませんと、逃げだしたくなります。

 振り返って、現在の医師からこのような健康と病気の司祭としての役割を取ってしまったら、何が残るでしようか。 従って、失業におびえる医師、自分の存在理由を確保したい医師の手にかかる指導は、ますます微に入り細にわたり、その言い方は限りなく脅迫、恫喝に近くなります。

 生まれる時はもちろん医師まかせ、生きている間も医師まかせ、この観点から見ると、「脳死を死」とする法津は、死ぬことさえ医師の判断にしか任せられないという、医師の更なる人生管理の完結。そんなに何から何まで他人任せの生って、いいことなんでしょうか?

(3)かくあらねばならぬは辛い

 皆さんが不老長寿を望む.その健康観はますます純化して、少しのファジ一も、少しの凹凸も、こと健康に関してば認めない。ばかの分野では柔軟なことの言えるインテリの方も、こと逮康のことになると、とたんに融通のきかぬ恐がり屋になるのは滑稽なほどです。まして欠陥などという言葉は、皆さんの辞書にはない。あったとしても、それは「うちの子」ではなく、いれぱ、見たくないもの、収容して隠してほしいもの。完全無欠という実際にはない状態を、自分や子供たちの身体やこころに押し付けてしまう。理想のモデルをテレビや健康読本でよ一く危強している皆さんは、自分や我が子の身体やこころに何か起きた時、較べるのは理想のモデル。せめて普段着の自分と較べてくれれば、立ち直るきっかけもつかめようが、いきなり健康記事の理想モデルと、実感を欠いた数字の羅列や病名のあいだに放り込まれた「あなたの病気」ば行きどころがない。立つ瀬がない。一気にこじれてしまいます。「あなたの病気」を飼い慣らす主人にあなたがなるように、もっと言えば「自分の病気」を利用して生きてゆくくらいの「賢くずるい主人」になるように相談にのるのが私どもの仕事。できもしない生活指導をことこまかく「ねばならぬねぱならぬ」といいたて皆さんをよけいに混乱させ自身を失わせる医師やドッグの指導からは離れましょう。

 裸足の健康法でやっている保育園では、こどもが足に怪我をする。そうすると、「破傷風になったらどうするの。そんな野蛮なところにうちの子はやれません」。極端にいうと、こうした健康観が不老長寿の願望と結びついた時、健康は自然には育まれるものではなく、買わなくては得られないものだという「健康は商品」の時代が来ます。

 健康を売る側、商売にしている側にとって、いちばんこわいことは、皆さんが、そんなもの買わなくていいや、ほっといてくれ、と言いだすこと。そう言わせないため商売側は 「薬をのんでないとおまえは危ない」を徹底的にたたきこもうとします。「危ないおまえ=患者と呼ばれてしまう人」の数は多ければ多いほどいいこと。儲かること。みんなに薬をのませるには、その必要性を科学的にできれば数字で表したい。血圧などは身近でよろしい。その作戦は見事に当たりました。不況知らずの製薬会社。バブルのような降圧剤をみなさんが喜んでのんでいるからですよ。

(4)しっかり「もらってゆく」患者さん

 バブルのようなお薬をバブルのようによく服む皆さんが、何故、副作用で身体をこわさないかというと、自分では服まないでタンスに服ましている。昔はタンスのこやしと言われた着物、のかわりに、いまや薬がタンスのこやしになっている。 これは、お年寄りに多いことは前から言われてるし、そのお薬の服用率は(棄却率は)何%という研究もあるくらいです。これだけとっても、降圧剤を服用している群と同じ形の偽薬を服用している群とで、脳卒中や心筋梗塞などの発病率に差があるか、という疫学研究が、いかにあてにならないかわかります。

 それはともかく、タンスに服ましているのはお年寄りだけかと思ったら、若い人にも結構多い。漢方薬を服用しはじめても、それまでの先生にはっきり言えないし、その先生に叱られるから、黙ってもらっていようという方も多い。そうなると服用してもらってると思って、いろいろ血圧測ったり検査している方はバカみたいですね。
 どうして、「もらってタンスに」が平気で行われるかというと、保険でお薬がタダ同様だからです。本当は高い保険料を税金と一緒に支払ってるのを忘れて、(あるいはそれだから余計に)服んでも服まなくてもお薬をかかえて帰る。それで気がすむのならいいじゃないの、安いものだ、という見方は、皆さんをバカにしているのかどうか。
 医者の側からいうと、とにかく患者さんにわたしてしまえば収入になるのだからあとは野となれ山となれ。ほんとにわかってる先生は「どうせ山のように服用しても副作用おきない程度のお薬ですから、つまり副作用がないということは作用もない、薬として人を動かす力のよわいものですから人に服まれてもタンスに服まれても大差ないのです。」と言います。これはわかっ ているいい先生です。でも、診察室でこれを言ったら 皆さんその先生の所へは行きませんね。

 「この薬は効くぞ−」と嘘かホントか大声で言って「服まなくちゃいかんぞ−」と言われて皆さんがたくさんお薬をもらって帰り、タンスに服用させて、皆さんけっこう長生きする。こういう構図が定着しているわが国は平和ではでありますが、少なくとも合理的ではありません。これからの若い患者さん達は、どのようなかかわり方を医療機関としようとしているのでしょうか。

(5)あなたの寿命はのびるのか?

 最近こんな疫学研究がとりあげられ一部の話題になっています。簡単にいえば、健康や病気に関心が深く、検診やドッグをきちんと受け、血圧、コレステロ−ルその他必要な処置、服薬、生活指導を受けている方々が100人。もう一つの別の100人のグル−プは、ドッグは受けない、薬は服まない、要するに医療機関には生涯通してあまりお世話にならない、なりたくない人達。

 それでそれぞれの100人を長期にわたり追跡調査したところ、寿命の平均がどちらが長かったかというと、研究をした人達も含めて、驚いたことには、後者の野放図グル−プの方が長命だったし、生活の質もずっと上だったのです。

 そもそも、血圧は140で降圧剤を使った方がよいのか、180ではじめて降圧剤を使った方がよいのか、といった研究をしている研究者たちは、野放図グル−プははじめから寿命が短いという前提でやってるわけで、もし、こんな研究に少しの真実でもあればメシの喰いあげです。また製薬会社がそうした研究をバックアップしている以上、製薬会社の望みは、国民がくまなく全員が「わが社の薬」を服用することですから、140でも薬を使った方がよいという方向に、即ち、「薬を服用した方がいいよ」と言われる人々の範囲を広くとる方向に結果が傾くのは当然です。ですから健康管理とか早期発見とか早期予防とか、口当たりのよいコトバに惑わされているうちに、国民のほとんどが、降圧剤、コレステロ−ルの薬を筆頭に何かしら薬を服み、骨粗鬆症といわれてはあわてて牛乳を飲み出し、といった具合に一億総ナントカになっていくわけです。

 で、この研究の画期的なことは、ここ数十年で先進国の世界で常識となってきた「慢性病のコントロ−ルは薬でできる」、「成人病は薬で防げる、予防できる」、「それらは長命につながる」といった、 現代医療を支える柱とも根ともいえるお題目が、そしてそのお題目の上に行われてきた健康指導、健康管理が、そもそもナンセンスだったのではないかという、あまりにも根本的な疑問を提出したことにあります。
 こういう研究は、絶対に医学界が認めませんから主流にはなりません。認めたらいまの医学のほとんどは崩壊し、医者のほとんどが失業し、製薬会社のほとんどが潰れるからです。
 けれども、頭を冷やして考えてみれば、思いを巡らせてみれば、この意外な研究結果に当惑した研究者たちが考えた如く、どうも、病気や寿命のことを気にしすぎる人々は抵抗力(免疫力)が低下するのではないか、という疑念は、棄てがたい実感のような気がするのです。

(6)「成人病予防」を冷静にみなおす

 (5)では、自分の健康に気をつけ、服薬したり、ジョギングしたり、禁煙したり、節酒したりしている人々の方が、身体や健康に無頓着で野放図の人々(つまり健康雑誌・健康番組はみない、私ども医療機関での指導は受けない、ドッグは勿論受けない人々)の方が元気で長命である、という驚くべき調査結果をお伝えしました。勿論、無作為に選んで研究したので、もともと後者は元気で病気知らずの人々だった、のではありません。

 この研究結果をみて、嘘だ、でたらめだと製薬メ−カ−を筆頭にした現代医療を担っている人々のほとんどが無視することはわかりきったこととして、私たちはどんなことを考えなくてはいけないでしょうか。

 現代における、医療、医学、健康、健康観、健康産業、etc、あらゆる問題性を含んでいますから、実に様々なことが考えられます。

 なかでも一番大きな問題は、病気や外傷は医者の勝手で増やせないけれども、『病気の予防』は、医者でも製薬メ−カ−でも牛乳メ−カ−でも「創りだす」ことができるということでしょう。消費者たる患者さんは、具合がわるいことが起こらなければ病院に行かないし、薬も服まない。けれども薬や牛乳や健康食品のメ−カ−は、具合のわるい人々だけでは消費が伸びないから、「よりよくなる為に」、
「病気にならない為に」、「服んでおかないと病気になるよ」という宣伝をくりかえします。経済用語でいう「需要を創出」することはいくらでもできるのです。そして、疑り深い人々には、医者が科学的と称して、コレステロ−ルや血圧を数字であらわし、こうした宣伝の尻馬に乗ります。医者、医学者が業界の利益のためには、自分の栄達のためにはどんなに盲目になるか、そのためにエイズになった不幸な人々もいる、といったことを新聞記事で何度読んでも自分のこととは結びつかない。

 こうして、ほんとに予防を必要とする高血圧の患者さん1人に対して、10倍〜100倍の人々が降圧剤を服用しています。

 どうして寿命が延びたのか、冷静にその理由を考える時期がきている。ほんとに医薬が国民ひとりひとりにゆきわたったためだったか? 予防医学、成人病検診が寿命の延びにほんとに貢献しているのかどうか。たとえば25年まえ、「男性は胃癌よりも肺癌が、女性は子宮癌よりも乳癌がトップになるでしょう、食生活のアメリカ化がこのまま進めば」と予測されていました。どうですか。そのとうりになりました。食生活はこんなにはっきりと癌に影響しているのに、薬や検診はなんと無力だったか。検診、予防、服薬のすすめ、こうした医療の姿を冷静にみなおす時がもうきています。


(7)在宅血圧から24時間血圧へ

 多消費の典型として、血圧計−降圧剤のおはなし。

 血圧が高いと降圧剤を出しますが、病院で計測すると確かに高いけれども自宅ではそうでもない。そういう方に降圧剤を出すのは間違いだ、こういうのは病院高血圧とか白衣高血圧といって真の高血圧とは違うのだ、という考え方がありました。だから「在宅で測定しよう」と、家庭で計れる血圧計を提唱した先生がいました。この提唱は、「降圧剤を服用しなくてはいけない人を減らす」、つまり「服用しなくてもよい人が降圧剤をのまされすぎてる」という全く正しい善意から出発したものでしたが、そこは抜け目ない業界、残ったのは一家に一台、いや一人に一台という「血圧計の大量生産、大量販売」と、降圧剤の適応を減らすどころか、「私も高い私も高い」と皆が高血圧患者になってしまったという皮肉な結果でした。

 そういえば、私も人並みに運動しようと運動クラブに属していますが、そこでは入口に電動血圧計が置いてあって、測定した数字を自分のカ−ドに書き入れないと運動を始めてはいけないのです。「私はわかってますから」と言っても「規則ですから」とインストラクタ−は、血圧測定を拒否するなんてバカみたいな野蛮人、といった目つきです。まるで私は戦争中の「非国民」のようです。いつの間にか日本は、老若男女や階層を問わず一億総血圧病になってしまいました。実に実にバカげたことです。

 いくえにも錯覚が重なっていて解きほぐすのは大変です。官民一体となって走り出した「血圧で健康度がわかる」という大錯覚は、火の玉一丸のような国民性の日本では、いともたやすく全国民を「血圧病」にすることができました。

 くりかえしますが、「健康」はよく売れてる健康雑誌やテレビをみてもわかるように、「金儲け」になるトリックです。その時「予防医学」を提唱してきた真面目な医師達がみんな、その金儲け産業の走狗になってしまったのです。

 「予防」は、医学的には感染症(伝染病、例えばコレラ、近くは結核)に限られるべきです。これらの病気が先進国で陰をひそめた現在、いわゆる慢性疾患に「予防」を当てはめてしまった医師達の錯覚と健康の産業化。「成人病」という、よく考えると何だかわからない病を想定し、その予防を想定する。
 これらが作り出した最大の病気は「予防病」という病気ではないでしょうか。一度走り出してしまうと予防病は、病院血圧でも在宅血圧でも満足せず、「24時間血圧」へと走り出します。

 24時間血圧計

 血圧がなにか健康状態を表現しており、特にその人の生命予後を決定する重要な数字であると、徹底的に教育した製薬メ−カ−と研究者たち。教育された医師とみなさん。こんな特異な国は日本だけです。降圧剤をこんなに多くの医者が安直に投与し、多くの人が喜々として服用しているのも日本だけです。

 先にお話ししたように、血圧は日本の国民病となりましたが、予想通り、心配していた通り、24時間血圧計が登場しました。

 私は、ほんとに治療したり経過を見ていなければいけない高血圧は現在の高血圧患者(降圧剤服用患者)の100人に1人もいないくらいだと思いますが、何しろ国民の血圧の平均が10下がると国民の平均寿命はこれだけ伸びるといった、どう考えても目茶苦茶な出鱈目なことを発表する研究者が居て、それをそのまま新聞に書く大新聞の大バカ科学記者が居る日本のことですから、24時間血圧計を国民全部につけて看視することこそ医者の責任だと誰もが思ってしまいます。死ぬときのスパゲッティ症候群はもうやめてくれ、ゆっくり死なせてくれという世論はようやく市民権を獲得しつつありますが、24時間血圧計的発想は、生きてるうちから皆さんをスパゲッティ症候群にすることです。国民のブロイラ−化。「私の身長と体重と知能指数と血圧はこれこれです」と書いたゼッケンを貼りつけて、生きている、生かされている私たちの姿です。何でこんなことにならなければならないの? 医者や医療はおせっかいし過ぎじゃないの?

 ところで24時間血圧測定をやってきた患者さんがいます。その方は私の所で測定するとだいたい160/90くらい(最高血圧160、最低血圧90)の方です。高血圧ともいいにくいけれど、まあ現在では降圧剤を出す先生の方が多いといったところの血圧です。24時間血圧計は、1時間に3回つまり20分おきにあの腕にまいた帯が自動的に締まり、 血圧を測定して自動的に記録します。つまり24時間で72回測定するわけです。で、この患者さんの最高血圧は、170〜80でした。最高血圧が170で最低血圧が80ではありません。最高血圧が1日のうちで170のときもあったし、80しかないときもあったということです。恐らく昼間活動的なとき、或いは何かストレスで緊張したとき最高血圧170、最低血圧100くらいだったでしょうし、夜ぐっすり眠って夢にもうなされていない安静時に最高血圧80、最低血圧60くらいだったのでしょう。

 人は誰でも一日周期或いは一年周期といった生理的変動、生理的リズムのもとに生きているのです。その24時間の一ときだけをとりあげて降圧剤を出す、しかも朝一錠服用すれば24時間しっかり効く降圧剤というのが最近のキャッチフレ−ズです。最高血圧が80のときに降圧剤が効かなければよいが、とは素人でも思うでしょう。

 
何の為の24時間血圧計

 すでに述べたように、一日24時間の血圧の変化は、人にもよりますが、相当の幅で自然変動をしているようです。そうだとすれば今までのように、病院で、家庭で、一日に一回測定した血圧をもとに、統計を出したり、降圧剤の効果を推測したりしたこと自体がどうも当てにならなくなる。

 24時間血圧計の登場は、皆さんの血圧の知識をかなり根本的にかえ、降圧剤への安易な信仰にかなり冷水を浴びせるはずだが、実際はそうはならないでしょう。

 何故か。それは「在宅血圧計」の普及が皆さんの本来の血圧を示し、不要な降圧剤の投与を減少させる筈だったのにそうはならず、かえって、一家に一台、血圧計の大量販売と国民総血圧不安病から降圧剤の益々の大量消費につながった現実があったのと同じく、こんどもそれを繰り返すのは必定と思えるからです。

 絶対に売り上げを減らすわけにはいかない製薬メ−カ−は、今度は研究者に、こう言わせるでしょう。一日のうちの血圧の日内変動がどんなに大きな幅でおこっても、この薬を朝一錠服用しておけば、高い血圧は下がるし、低い時は上げる作用が働いて、ちょうどほどほどの幅で変動するようになる。現にこういうデ−タがある、とグラフを示すでしょう。

 こういう都合のよい薬は、あるとして、身体の自然な復原性・恒常性(病気の場合は自然治癒力)に大幅に依存している考え方で、どちらかというと漢方薬のような複合処方が何故効くかという時に使われる説明です。身体はその時々に必要な薬効を受けとり、不要なものは受けとらないという身体の自然性に対する熱い信頼です。

 もし、降圧剤がそんな働きまでするのなら降圧剤でもない昇圧剤でもない、また、その両方でもある別の名前をつけてほしい、血圧安定剤。
 そして、それまで身体の自然復原力に対する信頼がある のなら、何もいじらなくて身体の24時間自然変動のままに任せたら、と思います。

 医療を供給する側も、消費する皆さんの側も、そろそろタ−ニングポイントに近づいているのを感じているのではないか。豊かに手に入る物量をどんどん投資しきれいな設備の病院をつくり、あらゆる予防薬を雨アラレの如く身体の中に放り込むことが、私たちの豊かさなのか?

 これ以上、この路線を更に続けるとすれば、「24時間血圧計」に象徴される24時間予防体制、国民総背番号制下における24時間各個人の血圧、コレステロ−ル、血糖値、心拍数などのモニタ−システム、大型コンピュ−タによる国民の『生きながらのスパゲッティ化』しかないです。

(8)こんどはコレステロ−ル!

 これまで「成人病とその予防」という誰もが無前提にいいことだ、と思いがちな医療には、実は大きな落とし穴、錯覚があるということを「高血圧」を例に述べてきました。ひとつは下げなければ生命が危険な高血圧はそうあるものではない。それらの人々の予防は確かに必要だが(そしてその実効をあげるのは実際にはなかなか困難なのだが)そのことを拡大して解釈し、予防という名のもとに治療すべき高血圧症の範囲をどんどん拡げ、ついには国民成人2人に1人は高血圧とかいうように、無際限に製薬会社主導としか思えない「成人病の乱造」即ち「降圧剤の乱用」ぶりは誤りであること。実際どこから治療をすべきかという「高血圧症の定義」は研究者の発表ごとにくるくるかわり、とても信頼できない。それから第二には24時間血圧計で明らかになってきた自然変動の幅の広さ。「降圧」とは何だったのかの根本的な疑問。

 血中のコレステロ−ルにしても全く同じです。いちど検診を受けたり頭痛や何かで受診した患者さんに、日本の医療機関は「薬をのむ必要はありません、心配いりません」とは決して言わないようです。タブ−なのです。手ぶらで患者さんを帰すことは病院の利益につながらず、無能な医者なのです。また、医療側には手ぶらで患者を帰しても、あの患者はきっと他の医療機関へ行って薬をもらうに違いないと、という根強い患者不信、蔑視がある。「血圧」がどうしても高くなければ、仕方ない、高コレステロ−ルでいこう、というわけです。総コレステロ−ル、善玉、悪玉、いろいろ言いますが要するに治療すべき高脂血症の幅を広くとるかどうか。広くとれば成人のほとんどは患者として投薬しなければならなくなる。

 昨今メバロチンというコレステロ−ルを下げると称する薬が超ベストセラ−になり、医療費を押し上げてしまうというので厚生省があわてた事件がありましたが、この何百億売れた(医者が患者に処方した)メバロチンは、どこから高コレステロ−ル症にするかという検査値の正常値の幅を、何ミリグラム縮めるか拡げるかで売り上げがガラッとかわってしまいます。そんなもんなんですよ。皆さんがありがたがったり気にしたりしているコレステロ−ルの数値なんてものは。でたらめな医療を変えてゆくのは、結局は賢い消費者たる皆さんです。

 善玉・悪玉、いろいろ意味ありげな名前をつけては皆さんを迷わせます。分析が発達するにつれ、検査項目はこのように、ますます多くなり、皆さんのドッグや検診の項目は細かく増えつづけ、何頁にもわたるようになりました。皆さんの寿命や病気がその分詳しくわかるようになったのでしょうか?

 それらがひとつづつ、みな皆さんの寿命や病気と相関関係があるのでしょうか。もしそうだとすると、例えば総コレステロ−ルの高値(=悪いことだ)と善玉コレステロ−ルの数値が高い(=良いことだ)が同時に出た場合、いったいどう解釈するのですか。

 それぞれの平常値をはみ出てれば何か決まり文句をいうというやり方になっている検診方式はもうやめてほしいと思います。例えばうんと痩せていて、総コレステロ−ルの高い人にはこんな説明があります。「あなたは標準体重を大分下まわってます。もっと栄養価の高いものを多く食べるようにしましょう。」「あなたはコレステロ−ルが標準よりも高いです。炭水化物や脂肪を減らしましょう。」一体どうすればいいのですか。滑稽でしょう。こんなことに皆ひっかかっているのですよ。馬鹿馬鹿しい、と一笑に付すことが一番正しい。

 結局、あ−だこ−だ細かいこといっても、寿命や病気と関係ありそうな数値は総コレステロ−ルと中性脂肪の二つだといわれてます。さて高コレステロ−ルと高中性脂肪がどんな組み合わせで、どんな循環器疾患と関係するか、いろいろなデ−タが次から次へと出てきます。高コレステロ−ルは心筋梗塞は増やすけれど脳血栓は減らすとか、いや逆だとか、中性脂肪が単独に高いのは病気と関係なさそうだとか、いや両方共高いと脳血栓が増えるとか、いや低い時の方がかえって死亡率は高いとか。

 大まかな二つをとりあげただけでも様々なデ−タがでてきます。ハイリスクグル−プ[最も危険度が高いとされるコレステロ−ルの数値をもった人々]がもっとも心筋梗塞になりにくいとかいったデ−タもでてきます。

 これらの混乱は何故おきているか。勿論こうした疫学的研究の精度は低いということがいえます。前号で述べたように、こういう結論を出せ、といわれればどうにでも結論を変えられるのです。もうひとつはクスリによって上げ下げできるとして、薬でコレステロ−ルを下げたからといって、動脈硬化が防げるのかといった問題があります。だんだんわかってきたことですが、動脈硬化はやはり遺伝的に決まっているその人の体質であり、それを薬でかえることはかなり難しい。少しでもやれることがあるとすれば、それはやっぱり長期間にわたって食生活や生活習慣をかえていくことにあるとしかいいようがありません。

 「薬でどうにかなる」という夢を売買する場が病院です。今まで述べてきたようなつまらぬ子供だましの夢をみるのはもうやめましょう。

(9)算術医の書く通信簿がまだ必要ですか?

 「先生、私やっぱりダメです。」と人間ドッグや検診の成績表を私に見せる患者さんは、学期末に「あまりよくない成績表」を両親に見せてウナダレテいる子供にそっくりです。どれどれ、と見ると私から見れば、何もそんなに深刻ではないことばかり。もし深刻な検査結果が出てるとすると、それまで私は見過ごしていたのかと逆に問題になります。そんなことはまず 100%ありません。項目がひとつ(或いは2つ3つ)「正常値」から外れてるから私の通信簿はダメなのです。あれだけダイエットしたり運動したりしたのに。私の身体には欠陥があり、私の人生は落第なのです。ぐしゅん。

 まず第一に、大人になってもまだ通信簿に数字や評価をつけてもらって喜んだり悲しんだりしている自分を滑稽だと思いませんか? 子供達の学校の成績表が、子供の全体的な発育・生活からみれば、そのほんの一部のことしか評価していないのと同じく(成績表でその子のすべてが評価されていると思ってないでしょうね!)、貴方の検診の通信簿も、身体の健康状態や生活のほんの一部(一説には約3%)を評価しているにすぎません。ましてや、「正常値」の範囲を一歩越えるともうダメで一歩内へ入るともう安心、なんていうことは数字は連続しているのですから、ちょっと考えてみただけでもおかしいでしょ。

 その「正常値」の決め方の根拠がまたでたらめなことは何回も書きました。だいたい人生60年も今までやってきた貴方が、項目いくつかの「異常」で明日から生活をかえるなんておかしいですよ。60年も堂々と生きてきた実績に比べると、薬だの運動だのダイエットなどが貴方の身体にこれから及ぼす影響など比較するのも恥ずかしいくらい小さなものです。

 検診の数字のデコボコを全部「正常値」の中へ入れることを「医者の使命」としている同業者(これを金儲け医とは別の意味でもうひとつの算術医と呼びましょう)が多い中で、私はほとんどの患者さんの場合そんな健康管理はいやらしいおせっかいで、皆さんをかえって病弱にしてしまうという立場をとっている少数派です。