3.脳死・臓器移植について
以前私は、誌上で臓器移植には反対だと書きましたが、そのことについて述べてみましょう。
「脳死臨調」が「臓器移植臨調」と言わないのは、臓器移植に反対している人はほとんどいないからです。けれども臓器移植をやろうとしないなら、「脳死」などは、初めから問題になりません。従来通りでよいのです。なぜ従来の「心臓死」が駄目で「脳死」じゃなければならないかというと、心臓が止まってからでは、心臓はもとより腎臓や肝臓など移植される「材料の質」が格段に落ちるからです。新鮮な、まだ生きている血の通った臓器が欲しいという願いが、何とか「死期」を早めることはできないものか? 「脳死」というのはうまい手ではなかろうか? こうして脳死が問題になったのでした。
「安楽死」とか「生命維持装置を外す外さない」とか「尊厳死」とかいう問題で「脳死臨調」があったわけではないことを知っておきましょう。脳死臨調の答申のように長く難しい言葉でいろいろのことを言われると、何が何だか分からなくなり、生命の尊厳と脳死は矛盾しないなどと横道で納得してしまい、もともとの「脳死」問題が分からなくなってしまいます。これが、私が敢えて臓器移植に異を唱える理由の第一点。
「サーヤちゃんは先天性の心臓疾患で、日本の高度の医療を求めて来日しました。旧ソ連の人々は必ずしも豊かとはいえないポケットマネーをサーヤちゃんのために寄付し、祈るような気持ちで送り出したといいます。さあ日本のみなさん、特にサーヤちゃんと同じくらいの赤ちゃんをお持ちの若いパパとママ、あなたの赤ちゃんも血液適合型を調べておきましょう。サーヤちゃんはあなたの赤ちゃんの心臓を待っています。愛の心臓を、なるべくなら新鮮なまだ動いているハートを、移植医一同はサーヤちゃんの御両親とともに心待ちにしています」
こんな新聞記事が出たら、平静でいられますか? 若い母親なら卒倒してしまいそうな気持ちの悪い記事ですね。札幌で手術を受けた火傷の子供のように、素直によかったねと祝福できるようなものとは、医療の質が全く異なる。これが臓器移植です。
これと同じことを日本の例えば先天性胆道閉塞症の子供たちは、外国でずいぶんやってきました。産月近くで堕胎しなくてはいけなかったその国の肌色の異なる貧しい母親は、無料で手術され、嬰児の肝臓が使われたかもしれません。「新鮮な材料」を待つことには、こうした「イヤな感じ」が必ずつきまとうことを、よく承知しておくことです。これが第二点です。
さて、わたしは「脳死」は臓器移植を実現する為にひっぱり出された問題であって、医学の進歩によって「心臓は活動をつづけているが、脳の機能は回復不能」と判断される患者さんを、どう考えるかという一般的な生命観、倫理感を問われている問題ではないということ。「生きた臓器」を移植するということは、臓器を提供する「人間の死」を前提としていることが多く、一般の(明るい)医療とは質が全く異なること、の二点を指摘しましたが、第三点は、移植をして欲しいと思っている患者さんの数が、提供される臓器の数よりも圧倒的に多い、という問題です。
移植が実行にうつされ何年かたつとわかりますが、法の整備がきちっとできたとして、移植で救われる患者さんよりも、臓器が提供されるまでもたなくて死亡する患者さんの方がずっと多いということです。いやなことを言うようですが、順番待ちで、隣りのベッドの赤ちゃんは助かったのに、うちの子は(いい臓器に)間に合わなかった、ということが起きるのです。
戦後日本で、抗結核剤であるペニシリンが稀少であり、結核患者でそれを入手できる人は、金持ちに限られていたという時期がありました。命も金次第というわけですが、これは、ペニシリンが合成して工場で作られること、医療保険で使えるようになったことなどで、数年で死にものぐるいのペニシリン争奪戦に終止符を打つことができました。
臓器はそうはいきません。ずっと常に待ちきれず死亡する患者さんが多い状態がつづきます。臓器が工場で作れるようになる日まで。もともと臓器移植は、人工臓器ができるまでの過渡期の応急医学なのですけれども、今の科学の水準では、最低100年はかかりそうですし、未来永劫できないかもしれない。つまりずっと「ちょうどよい臓器はないか」と、患者と移植医は待ちつづけることになります。
以上の三点を踏まえて、もう少し話を続けましょう。
臓器移植は実は今までにもずっと行われてきました。「輸血」です。血液といっても、血液の癌があるように立派な臓器といえます。ただ、とり出し易く、移し易く、しかもとり出された方の健康や命にそう大きな影響を及ぼさないと考えられているから、大きな問題にならず行われてきたのでした。
日本は生活大国には程遠いけれど、「薬大国」でありますから(抗生剤の世界の消費量の半分くらいを使っている。どう考えても不要不急な患者さんに抗生剤を投薬している医師が多すぎる)、輸血や補液で消費する「人の血」の消費量も圧倒的に世界一です。ものが食べられる患者さんに補液をしているのは日本だけです。それで「輸血」という臓器移植の場面でも、常に消費量が追いつきませんでした。
売血制度で、山谷や愛憐地区の人々の血液を買うことが長く行われてきました。表面的には売血制度がなくなったのですが、献血だけでは足りなくて外国から「輸血」を大量に「輸入」しています。「赤い血」を身体に入れることを普通「輸血」といいますが、赤血球を除いたいわば「白い輸血」が大量に行われているのです。病院で一見普通の点滴にみえるものの中に、そうした「白い血液」が入っていることが多いのです。
足りない臓器。血液という臓器も大量に輸入しています。移植の対象となる心・腎・肝などはどうか。数年前は、舶来の腎臓を使えば移植がうまくいくことが多いが、国産はダメである、と言われていました。外国産の腎臓はまだ生きているのに対して、日本産の腎臓は(死亡判定が遅いので)新鮮さを失い、使いものにならん、というわけです。
有名なのはフィリピンの刑務所に服役中の人が腎臓をひとつ売りに出しているというTVでも放映された事実です。腎臓は2つあって、ひとつ取り出しても直接にその人の生命活動に異常はありませんから、減刑してくれるなら、というわけです。フィリピン当局としては外資稼ぎをしてくれるなら減刑してやろうということでしょうか。
当局は関知しない? 成程、ほとんどの発展途上国では、臓器の売買、輸出を禁止する法律がこの10年くらいの間に作られました。南米産の臓器は北米向けに、アジア産の臓器は日本向けに、アフリカ産の臓器はヨーロッパ向けに、どんどん輸出されている現実があるからこそ、こうした法律ができているのです。
辻邦生の最近の小説に、ある架空の国で、街を歩いている人が秘密組織に突然さらわれ、バラバラにされ、臓器が輸出されるシーンがあります。
「それは象牙を輸出する為にアフリカ象を狙う密殺団と同じである」と。
ブラジルで町の景観を汚すといって「掃除」されてしまうストリート・チャイルド(浮浪児たち)は、同じようにバラバラにされ、その臓器が輸出されているのでしょうか。ただ埋めてしまうよりも金になるだけ可能性が高い。
ずいぶんイヤなことを書きました。
こうしたことは、「手術ができる」専門家の医師抜きには考えられませんから、承知で金を積まれればやってしまう医師たちの表情(無表情)を想像すると、吐き気がします。
一方、受け入れる日本の医師たち。目の前に命の危うい、または腎移植を待ち望んでいる透析中の患者さん。そこに臓器が着きました。臓器が不正にもってこられたことを仮に知ったとして、手術を拒否する移植医がいるでしょうか。いません。その場では拒否できません。臓器移植の先進国といわれる国々で、日本の10倍も100倍も移植が行われているのは、そうしたことが横行しているからにほかなりません。臓器移植が軌道にのるということは、そういうことです。
国産の場合はどうでしょうか。脳死判定する現場を想像してみましょう。
A先生は「脳死だ、臓器を取り出そう」と言います。B先生は「いやまだ脳死とは言えない。もう少し待て」と言います。A先生がB先生に「おまえがここで厳密さ厳正さをふりかざすことで、あそこに待っている患者がみすみす死ぬのだぞ!」と迫ったとしたら、B先生が後ずさりするのは明白でしょう。A先生もB先生もその晩は浴びるほど酒を飲むことでしょう。こんな人間としていやな選択を迫られることは二度としたくないでしょう。どうなるか。結局きわめて事務的な基準がそれぞれの病院で暗黙裡にできあがり、「脳死」の判定は当初の厳密さとは程遠いものとなっていきます。
こうして臓器移植は先進国の人々の命を救う為にたくさんの犠牲を生み、関係する様々な人々のモラルの荒廃をふくめて、人間をおとしめてゆくでしょう。「日本は単一民族で知的水準が高い」そうですが、3Kの仕事を担うべく沢山の外国人労働者が居ることはご承知の通り。この人たちから労働力を買うことは対等な契約ならよいですが、性を買ったり血を買ったり腎臓を買ったりしてはいけないでしょう。金と技術を人間をおとしめるように使ってはいけないでしょう。
臓器を資源・材料と見てしまう。私は今回わざと意地悪く舶来とか国産とか書きました。臓器を材料としてみる見方からすれば、こうした表現になり、新鮮な材料を求める勢いは押し止めることができなくなります。
私が友人と話しているとき、ふと「こいつの腎臓は丈夫そうで使えそうだなあ」と思ってしまうこと、これが人間を材料と見てしまう視線です。
どうせ死んでゆくのだから、どうせ浮浪者なのだから、どうせ精神障害者なのだから、おまえの臓器がお役に立てるのはありがたいと思え。……誰の言い分でしょうか。
つい50年前よく聞いたことがあるような……。
臓器移植法案が通過して日本でも移植医療が本格的にスタートしようとしています。そうした事態は私たちの生活や私たちの感情を人間的なものから反対の方へ引っ張ってゆく、非人間的なものへ近づけてゆくいわばモラルの荒廃、人間性の頽廃を加速するものだと私は感じているので、臓器移植がこれから大手を振って行われてゆくことに、反対です。
いわゆる脳死臨調の答申が出たとき、平成4年の6月号〜8月号(通刊27〜29号)まで3回にわたり「臓器移植について」を連載しています。興味のある方は受付でバックナンバーをもらって読んで下さい。
当時の私の記事を読み返してみて、ほぼ問題点は出そろっていて驚きます。逆にいうと反対論は、当時から今まで本質的にはあまり深化していないと感じざるをえません。もちろん、賛成論にはモラルも人間洞察もありませんから反対論だけが深化する必要はないようですけれども、それならどうして反対論が主流になり得ないのかと頭をかかえているのです。
では、当時の記事にそって反対の根拠をいくつか書いてみましょう。
第一。「脳死」という概念は、新鮮な臓器を早くとり出したいという移植医の願望から出たことであって、「脳が機能しなくなった状態を人の死としてよいかどうか」という純医学的な論争ではそもそもないこと。臓器移植の必要性がなければそんな論争はそもそも生じないということです。
つまり「一刻も早く」この人は死んだという判定をしたい為の「脳死」ですから、いくら厳密な厳格な「脳死基準」なるものができたとしても、現場でそんなことが守られるはずがない。そんなことは医師ならずとも、皆さんも少し想像力を働かせればすぐわかることでしょう。
第二。「脳死基準」を満たしていればほんとにその人は回復する可能性がゼロかどうか。この点では当時からこれまでに、「低体温 療法」などで、脳死状態の患者さんが回復した例が発表され問題になってます。また脳死状態の妊婦が無事出産したこともありました。 脳死状態のお母さんから帝王切開で無事赤ちゃんをとりあげた産婦人科の先生たちが引きあげると、出産したばかりのお母さんは手術室へ運ばれ、こんどは臓器をいただこうと移植医たちが入ってきて、今オギャーと赤ちゃんを生んだばかりの母親から心臓や何かをとり出すのです。どんなに強弁してもこれは殺人でしょう。
第一と第二をまとめて、「脳死」という概念がまだまだあまりにもあやういことに気づいて下さい。そしてその概念の成り立ちからいって、どちらに死の判定がブレやすいか、もういちど考えて下さい。
さて次は、臓器移植はイヤな感じがする、はっきりいえば吐き気を伴うというはなし。
当時、ロシアの○○ちゃんという女の子が全身火傷の治療の為に北海道の病院に入院し、1〜2ヵ月で大分きれいになおって、「日本の皆さん、ありがとう」といって帰国したというニュースが話題になっていました。覚えている方も多いでしょう。それをヒントに私は次のようなエピソードを創作してみました。
「サーヤちゃんは先天性の心臓疾患で、日本の高度の医療を求めて来日しました。旧ソ連の人々は、必ずしも豊かとはいえないポケットマネーをサーヤちゃんのために寄付し、祈るような気持ちで送り出したといいます。さあ日本のみなさん、特にサーヤちゃんと同じくらいの赤ちゃんをお持ちの若いパパとママ、あなたの赤ちゃんの血液適合型を調べておきましょう。サーヤちゃんはあなたの赤ちゃんの心臓を待ってます。愛の心臓を、新鮮なまだ動いているハートを、移植医一同はサーヤちゃんのご両親とともに心待ちにしています。」
先進医療とか、国境を越えたヒューマニズムとか、生命の尊重とかいえば、きこえはいいが、火傷の治療と臓器移植の間には、ずいぶん異なった「感じ」があるのに気づかれたことと思います。こんなニュースが新聞やテレビで流されたら、「そうね、サーヤちゃんの為に何とかしなくちゃ」と思うパパやママがいますか? サーヤちゃんを救うためには、サーヤちゃんと同じくらいの体格と年齢の子供の心臓が、それも動いている心臓が必要です。乳幼児の「脳死」のかたち。想像できますか。やっぱり一番多いのは事故による脳死状態でしょうね。新聞の呼びかけは続きます。「移植医とサーヤちゃんの御両親は訴えます。お子さんと車でお出かけのときチャイルドシートなど安全対策はもってのほか。そんなことしたらサーヤちゃんの命は救われません。お願いします、一刻も早く人身事故にまきこまれます ように。」
脳死状態の患者さんから臓器をとり出す、どうせもうほとんどは死んでいるのだから、お役に立つのならいいじゃない、そんなうるさいこといわなくても、と思っている方が多いのではありませんか? 私も心情的に、80代半ば以上の方が脳死状態になったとき、まあ本人も家族も皆納得しているのなら、とは思いますよ。でもでも、そんな年寄りの臓器は全く使いものにならんのです。移植には使われません。ですから、新鮮な生きた臓器とは、新鮮であるとは、まだ血が通ってるという意味の他に、若くて強壮な人の、という意味でもあるんです。
若くて強壮な人の突然の死を待っている、待ち望んでいる、という移植医療の陰の部分、イヤな感じ。こうした行為は果して医療行為といえるのだろうか、という思いを私たちに抱かせます。これが反対の理由の第3です。
他の人間の死を待ち望む、他の人間の不幸があって初めて自分の命が救われる。
これは医療でしょうか? ヒューマンなことでしょうか?
心臓や肝臓の移植が必要といわれた患者さんは、海外で移植を受けようと募金を呼びかけます。××ちゃんを救おう、と何千万円だかが集まります。外国で移植の成績のよい病院の順番待ち。豊かな日本の何千万円は、その順番待ちをいともたやすくのりこえます。お先に失礼、というやつです。提供される臓器の問題はあとから論じるとして、少なくとも日本人の××ちゃんを救おうキャンペーンで海外にわたった日本人の患者さんはお金の力で移植を待ち望んでいる人たちの優先順を買ってしまうことだけは確かです。これが喜ばしい感動的なヒューマニズムでしょうか。これが反対理由第3の補足です。
第4の理由。これは臓器は一体何処からくるか、という問題です。最近その伸びは鈍化しているといってもアメリカあたりでは腎なら腎ひとつの移植でも何千から何万も行われています。いくら皆がドナーカードを持っていたとしてもこれは多すぎる。「厳密な脳死基準」を満たして「正規」にとり出された臓器であれだけの数の手術ができるか? できない。よく日本人が海外に移植を求めてゆく。中には順番待ちで間に合わなかったというケースもあるけど、たいてい何とか臓器にめぐり合う。そんなにうまく入手できるの? それは、実際の移植に使われている臓器のほとんどが正規の脳死からの提供ではないからです。いうまでもなく、南半球からの輸入です。
これは、実際の南半球からの輸入と、先進国内の南北問題の二つがあります。
先進国内の南北問題。そもそも世界で一番はじめに心臓移植が行われたのは南ア連邦でした。白人が黒人を奴隷のように支配していた国。黒人の心臓がどのように抜きとられてしまったかは容易に想像できます。
「臨月近くで堕胎しなくてはいけなかったその国の 肌の色の異なる貧しい母親は、無料で手術され、嬰児の肝臓が使われたかもしれません。」
これは通刊25号に私の書いたものの一部ですが、その国の貧しい人、肌の色のちがう肌の色の異なる貧しい母親は、無料で手術され、嬰児の肝臓が使われたかもしれません。精神的肉体的障害者が、はたまた受刑者が、臓器ハンティングの対象となります。リッチなものの生命を長びかせるために地域の差別される人々の臓器が使われる、これが国内の南北問題の、弱者からの臓器の流れ。
「どうせ死んでゆくのだから、どうせ浮浪者なのだから、どうせ精神障害者なのだから、おまえの臓器がお役に立てるのはありがたいと思え」(27号より引用)といった臓器ハンティングの強要。臓器移植は募金がすぐに集まるくらいヒューマニスティクな医療だと宣伝されていますが、それは命が救われるという部分だけを故意に拡大して、そこだけが注目されるように仕組まれた『危ない技術』の一つなのです。
臓器移植の臓器は実際には、脳死判定云々で得られる臓器の何百何千倍もが、貧しい人たちの身体から抜きとられているということですが、国内的にそのようなことがまかり通っている。今回は国際的にいうと、これは勿論、南半球から北半球への臓器の輸出です。
つい最近も、もっともたくさん「臓器を輸出」しているのはインドであると報道がありました。10数年前から、南半球(いわゆる発展途上国)では、次々と「臓器売買に関する法律」が成立しています。野放しにしたらたいへんな数の臓器が輸出されてしまうという現状があったからです。全く恐ろしいことですが豊かな人々が、貧しい人々から「命」の「材料」を金で買うことが、平気で行われているわけです。タテマエではそれは人道上許されないから、それぞれの国会で「臓器輸出禁止法」が成立するわけですが、ザル法であることは前記新聞記事の通り。
“辻邦生の小説に、ある架空の国で街を歩いている人が秘密組織に突然さらわれ、バラバラにされ、臓器が輸出されるシーンがあります。「それは象牙を輸出する為にアフリカ像を狙う密殺団と同じである」と。
ブラジルで町の景観を汚すといって「掃除」されてしまうストリート・チャイルド(浮浪児達)は、同じようにバラバラにされ、その臓器が輸出されているのでしょうか。ただ埋めてしまうよりも、金になるだけ可能性が高い。”(以上、第27号より引用)。
その後も、アフリカのある国とイタリアだったと思いますが、年間3000組の養子縁組が成立しているのに、養父母の所へはその半分も子供が到着していない、という報道がありました。多分、残りの子供たちは「処分」されて臓器が使われたと思われます。
養子になるべく肌の黒い子供たちが先進国の空港に到着する。仲介業者のところへ、病院へ臓器を納入する業者から電話が入る、「何才くらいの血液型何々の子はいないか? 高く買うぞ。」 業者は養父母からもらえる仲介料よりもはるかに高く売れる臓器業者へ、子供の 「納入先」を急遽変更します。「よっしゃー、そちらへ廻すわー」てなもんでしょう。こうして、ヨーロッパで養子として育つはずだった子供は、バラバラの臓器にされて、先進国の子供の体の中へ埋められるのです。
養父母は不都合で次回になりましたという電話一本でしまいです。こうした事例がいくらでもあるということです。
このように、非人道的に売買され、強奪された臓器で移植医療は成り立ちますが、こうしたことについてはどう思われますか。
1)人間社会は何といってもその基本は弱肉強食。先進国が後進国から何を輸入しようと、それは仕方のないことだ、それが人間の自然というものだ。
2)人道上許し難いことだ、やめなくてはならない。
世界中の法律は 2)なのですが、現実はすべて 1)です。長生きしたいという欲望の前には、弱い者の命などは吹き飛んでしまうのです。
移植医療をすすめることは、臓器の略奪や輸入を増すことになるのです。最近の新聞報道では5〜6年前に比べればずっと多くこの種の記事があり、つい数日前には中国での死刑囚の臓器を売るブローカーのハナシがありました。社会的弱者(犯罪者もそうです)は、この世に役立たない、迷惑しかかけない連中は、せめてその臓器で世のため人のためになったら、というわけです。
こういう神をも恐れぬ視点を持つと、(実際社会的強者である私たちはそう思うことに抵抗を感じなくなりやすい)、もうそれはナチス等の大量虐殺の第一歩と同じです。あのとき最初に命をとられたのはユダヤ人ではありません。まず民族を問わず精神的・身体的弱者が狙われたのでした。何の基準か、とにかくその時その世の中の支配者たちの基準からみて役立たない人間は、殺してその臓器を役立つ人の為に使うべきだというわけで、当時は人間の皮膚でランプシェードを作ったり、脂肪から石ケンを作ったりしましたが、現在ではそれが臓器の再利用になっているわけです。
以上国内的、国際的に、不正に非人道的に、臓器が南から北へ持ち込まれ使われることが移植医療に反対する第4の理由です。
と、こうして書くと、『だからこそ早く「臓器移植法案」を通して「正規」な臓器をより多くとれるようにすればいいのだ』という反論がされそうです。もっともに聞こえやすい反論です。
しかし、これまで移植法案、脳死法案をつくって日本より移植しやすい欧米諸国の経験では残念ながら臓器は全く足りない。臓器を欲しくて待っている患者さんの数に対して、脳死などで得られる臓器は実にわずかなものだということです。だから第4の臓器の強奪、輸入という現実があるわけですが、ここでは反対理由の第5として別にしておきましょう。
第5の理由は、「臓器の絶対的不足」は決してなくならないということで、法案が通れば不正な臓器の輸入などが減るというのは全く嘘だということです。私は以前こんな風に書きました。
「移植をして欲しいと思っている患者さんの数が、提供される臓器の数よりも圧倒的に多い、という問題です。移植が実行にうつされ何年かたつとわかりますが、法の整備がきちっとできたとして、移植で救われる患者さんよりも、臓器が提供されるまでもたなくて死亡する患者さんの方がずっと多いのです。順番待ちで、隣のベットの赤ちゃんは助かったのに、うちの子は (いい臓器に)間に合わなかった、ということが起きるのです。
---中略--- つまりずっと“ちょうどよい臓器はないか”と、患者と移植医は待ちつづけることになります。」
順番がよくなかったですが、反対理由第5は、法案が通っても実際には臓器不足のため移植医療はうまくいかない。
それではどうするかといえば、第4で述べたように国際的国内的な弱者の臓器狩りをするしか移植医療は成立しないということです。
これまで述べてきたことをおさらいすると、
1:脳死法案は、臓器移植を推進する為に作られた法案であり、臓器移植の条件を問うている法案ではないということ。
2:従って、現場では一刻も早く新鮮な臓器をとり出す為の口実になる法案でしかないということ。
3:臓器移植を待ち望む本人や家族は、何を待ち望んでいるかといえば、ちょうど自分に移植できる臓器が何処かで出て来ないかなー、即ち事故やその他で脳死状態になる、つまり人の死を一刻も早くと願っている。これは素直に考えればずいぶん歪んだ生命観だということ。
4:3の希望を満たす為には、実際の正規の脳死状態のドナーを待っていられなくて、その国のいわゆる弱者から、国際的にみれば南半球の国々において、臓器狩りが実際さかんに行われていること。
5:法案を整備しても正規の臓器提供では、ぜんぜん足りないということがわかっているのだから、当然4の事態は起こるということ。
以上復習してきましたが、これだけのことがもう自明であるにも拘らず、移植先進国で何が起こっているのか充分知っているにも拘らず、何故日本でも移植を推進しようとしているのか?
例えば、移植法案可決にむけてとても熱心だった自民党の医系議員である中山氏は、「腎移植によって、腎透析で使われている医療費が節約できる」ということを推進理由のひとつに挙げています。移植後、生涯ずっと免疫抑制剤を飲みつづけなければいけない患者さんたちの医療費が、透析に比べてほんとに安くつくかどうかはともかく、中山議員は、提供される腎臓は正規には絶対的に不足していることを知っているわけです。
とすれば、日本で透析を受けている人たちに移植を推し進めるということは、提供される臓器を国内的にか国際的にか増やさねばならず、実際には国際的にが多いと思いますので、輸入をもっと多くしろと、公然と認めている ことになります。
実際私どもの医院に通っている透析中の患者さんが突然来院されなくなることがありますが、腎移植を受けているのです。今ではあまり公然といえないやりかたで。ところが法案さえ通れば、これまで闇で輸入し闇でやっていた移植医たちと患者さんは堂々とやりましたと言えます。腎臓は正規のものですと言っておけばよいのですから。
移植法案が通ってからかれこれ半年、新聞紙上では、国内の正規の臓器提供はさっぱり進まないと報じています。つまり「輸入」しかないわけで、これを折り込みずみの推進論であったのか、と気づくわけです。
先進国は、製品や情報を輸出する。後進国からは第一次産品を輸入する。第一次産品の中には人間の臓器も含まれる。いいのでしょうか?
さらに、「脳死体」からの臓器移植が、その臓器だけでは済まされないということもあります。
もうかなり前になりますが、私が病院の医師として働きはじめた一年生のとき、担当患者が死亡し、病理解剖をするという指導医の方針で家族を説得し、大学から病理担当医がやってきました。
病院の地下の厚いコンクリートに囲まれた、いかにも、という雰囲気の部屋の真ん中に手術用ベットが置かれ、病理医がテキパキと臓器をとり出し計測しては、必要なものと不要なものを分けていきます。まさに「腑分け」ですね。あっという間に胸から腹まで空っぽになり、今度はどうみても今回の死因とは関係ない脳ミソをとり出します。小型の電動ノコギリでフィーンと頭蓋骨を裁断し、カポッと帽子をとるようにはずして中の脳をとり出します。これは病気とは関係ない研究用の材料だなーとわかります。
この脳と先ほどの臓器のうち必要なものを「カバン」に入れて病理医二人は、「それじゃ」と言ってカバンをぶら下げてさっさと帰ります。何億円入りのカバンを下げていても慣れた銀行員には特に何ともないのと同じで、自分が「何」をぶら下げて歩いているのか何の感慨もない様子です。
呆然と見送った新米医者の私ともうひとりは、要らない臓器をポリバケツにガーと入れ、ナースの用意した新聞紙の丸めたやつを胸と腹につめ、中央を上から下までどんどん縫合します(ていねいでなくてもよい)。外された頭蓋骨も、皮膚や髪の毛で切ったところが分からないようにカバーしてもとにもどします。ナースたちが白い装束を着せ、顔に薄化粧をすると、顔だけ見えるようになっている棺に入れられ、あっという間に隣の霊安室に移動です。あとはそこで家族と涙の対面となるわけです。
私はとても許せない気がしました。家族が泣いて対面している遺体は空っぽなのだよ、新聞紙がつまっているのだよ、脳ミソまで抜かれているんだよ、と叫びたいくらいでした。まあ私は医者に向いてないのかもしれない。
でも日本人なら、私ならずともそう感じるはずで、魂が昇天していった後の屍体はもぬけのからで、ただの物体だというキリスト教文化圏とは大分異なる感じが私たちにはあります。
それはそれとして、「脳死体」から、「正規の手順」をふんで目的臓器が抜きとられ、待っている患者さんに移植されるその時、ある臓器をとり出したあとの死体には、まだまだ材料としての人間、利用できる臓器、器官がたくさん残っている。捨てるこたーないだろ、利用しよう、とこうなります。
臓器移植は目的臓器だけではすまないというはなしを続けます。
実際、臓器を実用的な、とても他には換えられない貴重な資源だという立場で、移植は行われるわけですから、現場にいて、心臓だけくりぬいた死体をそのまま「とじて」遺族に返還するのはあまりにもったいないハナシですよね。肝、腎、骨、皮膚、研究用の脳とか、いくらでも欲しいです。
脳死・移植というのは、いちどスタートしてしまえば、必然的にすべて利用できる臓器や器官全部を利用して、家族と御対面する「遺体」はもぬけのカラということになるわけです。ドナーカードを持つということは、まず、自分の 「死期」が人為的に早められることになるだろう、という覚悟をするということですし、ここでもうひとつ、自分の身体はそのときの目的臓器以外もトコトン空っぽになるまで利用しつくされる、という覚悟までしなければならないということです。
最近、粟屋剛先生からアメリカにおける“臓器産業の隆盛”がよく紹介されるようになりました。ありとあらゆる「人間の部品」が商売になります。年商何億ドルとかいうベンチャー成長産業だそうです。
いったい何処の誰からこんなに「材料」を採取しているのでしょうか。何しろ「人間」からしかとれないのですから、安定供給しようとすれば、安定的に人が都合よく「死んで」くれなければ困ります。どんな闇の流通経路があるのか、ちょっと想像してみて下さい。考えてみるとこれは今に始まったことではありません。
「赤十字」も「ミドリ十字」も 同じことをやってきて、莫大な利益を上げてきました。「血液」も立派な臓器だからです。みんなの善意をあおって無料で献血させておいて、それを病院や製薬メーカーに売り、利益はいったい誰のフトコロへ? 最近ようやく「赤十字」の利潤は何処へ、と新聞で問題になりました。「ミドリ十字」は私企業であるのにまるで公立みたいな名前をつけ、満州で生体実験をやっていた石井グループの人物たちが創業した会社です。はじめから「臓器でもうけよう」(臓器で人の社会にお役に立とう?)ということをオクメンもなく言える会社です。
戦後、日本国内の貧しい人々から血を買っていましたが、日本が豊かになると今度はアメリカなどの貧しい人たちから血を買って輸入しました。その血がエイズに感染していて、会社の利益の為にたくさんの人が被害を受けているのは御承知の通り。そういう体質の会社が、こんどは血液につづく臓器の商売を考えないわけはなく、脳死移植医療が軌道に乗れば必ず「臓器買います」の業者として現場に乗り込んでくるでしょう。
この話は、これで終わりますが、非核先進国、死刑廃止先進国、そして、非脳死移植先進国、へ向かって進んでゆきたいと心から願います。
わたしは前に「法案が成立してもまだ実施されていない、私はとてもよいことだと思う」と書きました。
それが平成11年の2月末に行われて、大きな話題になり、移植を受けた方(レシピエント)が元気に退院したというニュースが報じられています。
移植後、いろいろの方がいろんな意見を表明しています。影響力の強い柳田邦男氏や立花隆氏は従来も保留つきで賛成派でしたが、やはり実施後に言ってることは、「治療がちゃんと行われるならば」というもののようです。まさにそこが問題であり、ちゃんと行われることは実際ありえないのだから反対だ、という私のような立場が、評論家諸氏ばかりでなく、実はいちばんその声をださないといけない医師の側からあまり聞かれないのが不思議です。
私の気づいたことを挙げてゆくと。
1)柳田の救急医療の充実が先だ、というのは全くその通りですが、上に書いたように、救急患者の方がドナーカードを持っていれば、それだけで現場は色めき立ち、移植の準備がはじまってしまいますから、救急医療は二の次になります。ちょっと考えてみればわかることで、移植を前提に何人もの医師や医療従事者や運搬する人たちやヘリコプターやその他が、たいへんな手間とお金をかけて待っているのです。待っているのに、まだです、まだです、なんて言えない雰囲気になるでしょう。今回は初めてだから、評判のわるかった報道陣が、それでも沢山つめかけていたから、ブレーキには確かになったのです。日常的に移植が行われるようになり、記者たちやTVが集まらなくなったら、どんなに、さっさと手順よく事が運ぶかは想像すればわかるじゃないですか。一人の命を救うことと、そこから一刻も早く臓器をとり出すことは、どうしても矛盾することなのです。柳田の言ってる
「救急医療の体制の整備」とは患者の命を救う為ではなく、むしろ使える臓器をムダにしない為の「救急医療」になるでしょう。この場合の
「医療」は、レシピエントの為だけのコトバです。
平成11年5〜6月に二回の移植手術が行われました。反対を吠えても空しい気もしますが、ことは私たちの人生観や生命観や社会システムのことで、報道の規制とか自由とかいったレベルの問題では全然ないので、しつこいようですけれどももうすこし書いてみましょう。1)につづいてとりあげるのは、
2) 移植はドナーとレシピエントの奉仕と感謝の1:1の個人的な問題であるから、他人が反対だのなんだのと口をさしはさむな、という曽野綾子女史のクリスチャンとしての意見です。あまりの暴論でとり上げるのもイヤですが、新聞の投書などには、女史の意見に全く同感とかいうのがたくさんあるそうなので少し書きます。
移植は個人間のプレゼントでは全くありません。バレンタインの特定の彼にあげるチョコじゃないんです。女史が、愛する朱門さんが肝臓病になり、私の肝臓の1/3を切り取って彼にあげるというなら(生体間移植です)それなら、1:1のプレゼントに限りなく近いので私もトヤカク申しません。脳死移植の場合のドナーは、誰に自分の臓器をプレゼントするのかといえば、曽野さんにあわせていえば神様にでしょう。ドナーは神様に自分の臓器をプレゼントするのだし、レシピエントは神様からありがたく頂戴するのです。神は実際は何に相当するかといば、人間の、特に移植をやりたくてやりたくてウズウズしている病院や移植コーディネーター達がつくっているシステムです。自分は奉仕の精神でプレゼントするという主観はよくわかるとしても、客観的にその行為が どんなことをひきおこすかを想像しないのは無責任でしょう。もしそのことで不幸になったり人間が頽廃したりすることがあれば、クリスチャンとしてそうした奉仕はできない、と決断しなければならぬことは大いにありそうなことです。
ひとつは勿論1)でいったように、ドナーの生命自体が軽んぜられるということ。それからレシピエントだって、どんな序列で順番ができるのか、とても人為的であやしい。何しろドナーが奉仕の精神でプレゼントした臓器を前に、一人だけ助かりあとはアウトという選別が行われるわけで、あんまりクリスチャン的じゃない気がするけどなー。そして、結局臓器移植は臓器の売買の温床になるという想像力がクリスチャンとして欠けてやしないか。彼女の大好きなアフリカの人達が犠牲になっているという想像力は働かないのか。
平成11年の6〜7月の一ヵ月で3例目4例目と臓器移植がすすんでいます。名前は失念しましたが若い女性論者が、「このように移植がスタートしてしまうと、反対論はとても言い出しにくい雰囲気になってしまう。」と新聞に書いていましたが全くその通りで、うっかりすると、人命を助けることに反対する人非人と言われかねない。さて、この論者は、「移植に象徴される、生=善、死=悪、という感じが単純に徹底してしまうことが恐い」と書いていました。この間の論評の中では、いちばん哲学的なもので、もっとも印象に残るものでした。この間私たちは豊かさ=豊富な物量作戦でもって、「臭いものにはフタ」をする生き方になれすぎてしまった。在宅で生まれたり在宅で死んだりしなくなった、とよく言われる生死の生活からの隔離、こんな風潮の行きつく先が臓器移植だという感じに私は受けとりました。なにしろ片方で「生き肝」を抜いて、片方で移植して延命するという、それこそ神をも恐れぬ「生命いじり」をとくとくとしてやる人間とそれを賞賛するヒューマン!な人たち。
これも新聞記事ですが、小さな子が公園で危ない遊びをしているので、落ちないように気をつけなさいと母親が注意したら、「大丈夫だよ、つぶれたら移植してもらえばいいんだから」と子供が言ったそうです。なんだか子供たちの身体も頭もサイボーグ化してきているなー。
もうひとつ、「脳死状態の臓器工場」を考えた男性論者がありました。ある脳死状態になった患者さん?をずーっと保存?!しておいて、血液をそこから採取しつづけるといった、充分考えられる事態です。こういう状態の人を何といったらよいかわかりませんが、心臓なら一回とったらおしまいだが、血液や骨髄や皮膚や肝臓など再生しやすいものは、栄養を与えて生かして?おけば充分可能な再生工場になるわけです。自分のいざというときの為に自分のクローン人間をもうひとり作っておくと言うのに似て、ここまでくると「人間」がもうずいぶんゆらいでくる感じがします。
この論者は、臓器売買など弱者の「生き肝」が抜かれるというドナー側の 問題の他に、レシピエントの序列の問題も提起していました。昭和天皇が亡くなったとき、自衛官の若者の血が毎日何十人分も輸血されていて、それで最後あんなに長くもったというのは事実らしいですが、尊いお方にはそれだけの臓器移植が行われるわけで、民間人なら考えられないことです。移植を待ち望む患者さんの中で、有名な人、リッチ人、尊いお方たちがその順番を飛び越えてしまうこと、これはもうそうなるに決まってるでしょう。
つい最近テレビで、アメリカを旅行していたデンマーク人の若者が、どういうことでだか臓器を抜かれ、家族がかけつけたときは遺体はもぬけの空だったという番組がありました。こんなことアメリカでは日常茶飯事です。
日本でも、ドナーカードを本人が持ってなくても、家族の了解さえあれば、と、臓器狩りの推進をあらわに要求する声が早くも高まっています。

