遺文「宗教音楽研究会合唱団」

                        遠山信二  

 宗教音楽研究会合唱団は、昭和二十二年二月一日に発足した。
 その日はわが国初めてゼネラルストライキが予定され、それがマッカーサー司令官の命により中止されるという騒然とした日であった。
 しかしそんな事とは全く関係なく、その日の午後、東京数寄屋橋の銀座教会には百数十人の若者が夫々の期待を込めて集まって来たのだった。そして予め日本放送協会から借りておいたメンデルスゾーン作曲オラトリオ「エリヤ」の楽譜を二人で一冊持ちながら、第一回の練習が始まったのである。
 こうして書くと「宗研」が一夜にして、でき上がったようにおもえるが、そこには勿論、様々な経過があったのは当然である。
 終戦直後の日本の合唱運動は、特にキリスト教音楽に関しては、アメリカとの関係を無視しては考えられない時期であった。特に年末の「メサイア」の公演等は、多大な費用がかかる為、アメリカの主催により、日本のキリスト教関係の合唱団が寄り集まって行われたのである。
 しかしそんな状態の中で、一部の人々が、寄せ集めではなく、一つの合唱団を作って、この様な素晴らしい宗教音楽を、徹底的に練習した上で発表会を持ちたいと云い出したのである。
  その時、そんな人々の声を聞き、その相談にのり、実現の為に行動を始められたのが、当時クリスチャンのアルト歌手として、「メサイア」の常連のメンバーであった、河野清先生である。
  そして、河野先生、私、それに銀座教会の故三井牧師と聖歌隊の人々、更には私の兄、一行(音楽評論家)と弟(故人)も加わって夫々の仲間に声をかけた結果、予想以上の人々が賛同して、「宗研」は希望にみちた出発をすることができたのである。
 私は今静かに考えて見ると、何故この様な計画がスムーズに運ばれ、そして又、多くの困難を伴いながらも、期待以上の順調な発足が出来た事の意味を問わずにはいられない。

 終戦後一年半になろうとするその頃、東京の焼跡にも少しずつ文化は復興しようとしていたが、一般的には、やはりアメリカ的な娯楽が先行していた。そんな風潮の中で、宗教音楽等という、固苦しく、なじみのうすいジャンルに一体どれ程の人数が集まってくるかと云う不安があったにも拘わらず、フタをあけて見れば、発足当日に百五十名を超え、その後数ヶ月にして三百名を越すと云う勢いに発起人達は驚いたり、喜んだりしたのだった。
 一体彼らは「宗研」に何を期待し、何を求めてあつまったのであろうか。彼らは皆夫々各自の立場も違い、考え方も違っていたに相違ないが、それと同時に、終戦直後と云う、或る極限状態に於ける共通の思いがあった事もたしかである。
 当時、若者は先ず生きる事に精一杯であったと同時に、一体これから日本はどうなるのか、そして自分の去就に迷っていた状態だった。一夜にして敗戦を迎え、今迄の価値観がすべて変ってしまったこの当時、若者達は何を信じ、何を目的とするのか迷わずにはいられなかったに違いない。
  その様な時代だからこそ、我々は声を大にして若者達に呼びかけたのだった。「人間の声さえあれば歌が唄える。その声を集めて共に唄うことによって最高の合唱を作る事ができるのだと・・・・・。」この呼びかけは大きな効果があったと思えた。
 事実その通り、まだ譜のよめない人達が繰返しおぼえるだけで段々と銀座教会の中に素晴らしいハーモニーがひびく様になるにつれ、メンバーの眼が変ってきたのだった。「宗研」のメンバーがそこに見出したものは別に目新しい理論ではなく、しかしながら確固として存在する不滅の美であり、大きさであり、感動でもあった。
  この様に、ある不思議な力に引き寄せられて、若者達は土曜日の練習を待ちかねて、銀座教会へと足を運んだのであった。
  これはたんに趣味のため、教養のため、と云ったものをこえて、彼等が生きて行くために、なくてはならないものであり、すなわちそれは生きる事の一部であったのである。当時会員の一人であった、民俗音楽の研究家として名高い小泉文夫氏(故人)も、その研究の中に於いて、全く同じ言葉を残されているのである。

 以上が「宗研」創立の頃の状況であるが、それから早くも来年には四十年の月日が経った事になり、その間に「宗研」も大きく変っていったのである。
  残念ながら会員は減り、その活動も様々な困難をかかえる様になった。
 その原因は色々あるが、一口で云えば、何と云っても日本社会のあまりにも急激な変化であった。云う迄もなくその結果若い者達の変り方は、今更ここに説明の必要もない程のことなのであり、そしてこの様な現状は「宗研」の様な合唱団体にとって決してありがたいことではないのである。
 
世界的にクラシック音楽の支持者が減少した昨今と云っても、まだかなりの支持者は存在している訳で、合唱の場合にもそのことは云える事であって、合唱愛好者の意識が変ってきつつあることを見逃してはならないのである。ここでいう合唱愛好者とは、アマチュア合唱団員の事であるが、そのアマチュアの求めるものが変って来たのである。即ち、総ての面で高度成長をめざして走りつづけた昨今、日本のアマチュア合唱団の技術も目を見張る程に向上を成し遂げたのであった。その事自体決して否定する訳ではないが、それが昂じると、そこにまた色々な問題が生じて来たのである。
 そもそもアマチュアとは、生活の第一義として仕事を持って居り、それの余暇に音楽活動なり何かを行うのが本筋であって、そこにアマチュアとしての意義が存在するのである。
  彼等は本来の仕事の余暇に音楽を求め歌を唄いたい願っているのである。その故にそれに伴う練習を忠実に果す事が時折り困難になることがあったとしても、そのような場合こそ仲間の会員達はそれを責めたり排除する事なく、むしろ互いに助け合い、励まし合ってこそアマチュア運動といえるのではないだろうか。

 「宗研」の合唱運動は日本の合唱、特に宗教音楽の底辺から出発したものであった。「宗研」はその後も底辺より頂上に達したわけではない、一体頂上とはどんなものなのか私としては考えたこともないのである。
 しかしながら終戦直後に創立され、その後生れたKAY合唱団等、数える程しかなかった宗教音楽の上演団体も現在では人数等はかならずしも多くはないが、多くの合唱団が設立され、それぞれかなりの水準の高い演奏を行っている状況を見る時、「宗研」の果たした役割は決して小さいものではなかったと自負するのである。

「音楽の世界」 昭和六十年十一月号より