ご質問の回答集のページ

(NO1)

お答え 1 :先祖供養(せんぞくよう)というのは、自分の身内だけの供養をいいますが、我が生命の真のあり方からすれば、遠い近いの差こそあれ、全生命はひとつにつながっていますから、先祖供養(せんぞくよう)というのは、家族的利己主義ということになり、我が生命の真のあり方から外れていることになります。ですから、21世紀の地球一体生活時代にはそぐわないことになります。
 また、先祖供養というと、生きている人が一方的に、亡くなった人へ供養するいうことで、一方通行という感じがします。
 これに対して、先祖「ぎょう」という字養道(せんそぎょうようどう)というのは、その第一歩は父母、師長から始まりますが、自分の父母だけではなく、一切の生命の世界の尊重、礼拝を意味します。それは、神仏の世界をも貫くものです。自分のまわりすべてが自分の親、先祖です。そして、せんそぎょうようどう≠ノより、亡くなった人が子孫のために霊界で働けるようになります。いわば、双方向通行のようなものです。ですから、先祖ぎょう養道こそが真の幸福と繁栄の元になるものです。(先祖ぎょう養道の始祖は常不軽無学大士です。)
(リンクページにジャンプ後、プラウザ左上の「戻る」ボタンを押すと、元に戻ります。)


お答え 2 :自分自身が創造主というのは、勿論、人間が宇宙を創造したという意味ではありません。自分の人生の全ての面(経済的、肉体的、精神的)に関して、自分がその創造主、責任者という意味です。
 例えば、病気は神が与えて下さった試練として、その病気を甘んじて受け入れる考え方がありますが、これは病気を神のせいにして、自分の責任を認めず、従って、自分の反省、懴悔がありません。自分を改善しようとしません。この考え方こそが傲慢で思い上がっているのではありませんか。その結果、いつまでたっても病気から離れることができません。

 そうではないでしょう。病気を作ったのは自分自身でしょう。病気にもいろいろ原因がありますが、自分の心得違い、思い違いにより病気になったのだから、自分の考え方、行動のどこに間違いがあったのか、狂いがあったのか、それを探して改善していくのが、真に謙虚な人間の姿といえるのではありませんか。そして、自分を磨いて向上させていくのが、現代の信仰ではありませんか。
 もうひとつ別な面からいえば、自分が創造主というのは、因果応報、あるいは行の一念三千という真理から、自分のしたことが自分に帰ってきている、ということです。


お答え 3 :人間が神仏によって動かされた時代は終わったということです。人間こそが神仏を動かしているのです。ここに人間の尊厳があります。これは今発見された真実ではなく、釈尊の御教えに「天上天下唯我独尊」(自分なるものが最も尊いという意味で、釈尊一人が尊いという意味ではありません)とあるように昔からそうなのですが、まだ時機がきていなかったので、真実をあらわせなかったのです。神仏は尊いに違いありませんが、神仏中心の教えはいわば仮の教えです。人間こそが神仏の始まりなので、人間中心の宗教…人間が人間をお互いに礼拝する生活…が真実の教えです。

 これは宗教における革命です。例えば、天動説が地動説に変わったように、今は真実顕現の時代で、人間礼拝の宗教の時代が必ず来ます。その時が地上天国の始まりです。

 因果応報、善因善果、悪因悪果という真理を突き詰めていくと、結局はすべて自分の責任、人間自身の責任ということになるのですが、神仏中心の教えは、人間をないがしろにするがゆえに、人間の責任を忘れさせるが故に、人間世界を破壊します。例えば、地球環境を守るのは人間自身であって、神仏ではないということです。これは当たり前のことでしょう。人間に主体性があるのです。

 人間が責任を負わなければならない時代に、神や仏を第一義とする宗教は、人間の主体性を無視することになるので、人間の世界を混乱し、やがて破壊するということになるのです。ですから、人間中心、人間礼拝の宗教が必要です。この考え方は一見、神仏を冒涜しているように見えますが、そうではなく真実なので、本当に神仏の守護があり、功コが現れるのです。そして、これこそが釈尊の真実の御教え(仏説)なのです。

 詳しくは、常不軽台学先生の著書、「末法の癩人」(末法は人間世界の夜明け)(右クリックメニューから、「対象をファイルに保存」を選んで下さい。LZH形式 12.5KB、解凍するとhtmファイルになります)をダウンロード(無料)してご覧ください。


お答え 4 :総法号を唱えるだけでストレスが解消するというのは、信じられないかも知れませんが、まず試してみて下さい。必ずスッキリします。
 ストレスだけでなく、他の多くの問題は自分自身の心得違い、思い違いがその要因になっているわけですが、総法号は懴悔の方式なので、消しゴムで消すように自分のカルマが消えていくのです。これは長い間の多くの体験によって実証されています。

 この総法号の方式は、私の恩師が開かれた大荘厳懴悔道=iだいしょうごんさんげどう)の一部分です。これによって、その問題の原因が霊的なものにある場合、病気の根本原因六種(factor.htm)に明示してありますが、例えば、憑依霊によるとか、自分の業による場合は、これは懴悔滅罪の大法で解決します。
 しかし、それ以外の場合は(例えば、不摂生や外傷など)、医薬で治りますから、やはり医師は必要です。

 要は問題の原因によって使い分けることですが、例えば、病気で医師の診断を受ける場合でも、その誤診を防ぐには、やはり懴悔滅罪の大法が必要です。なぜなら、自分の因縁が医師をして誤診せしめるので、誤診の責任は医師ではなく、自分自身にあるからです。
 もちろん、医師の立場からすれば、患者との前世からのつながりがあるはずなので、そういう意味で医師としての責任はあります。


お答え 5 :法名(戒名)が無料なわけは、小冊子「懴悔滅罪入門」右クリックメニューから、「対象をファイルに保存」を選んで下さい。LZH形式 30.6KB、解凍するとhtmファイルになります)に書いてありますが、要するに、仏説による「父母孝養・師長恭敬」では、自分の回りすべてが自分の親ですから、自分の親に対しておくる法名(戒名)でお金をもらうのはおかしいということです。


お答え 6 :南無先祖「ぎょう」という文字養道というのは、法華経血脈法統図のページに簡単に記してありますけれど、「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華経」とともに宝號≠ニいわれるものです。
 宝號≠ニいうのは、例えて言えば、危急の際に『お父さん、お母さん』と助けを呼ぶようなもので、あなたのお子さんが『お父さん、お母さん』と必死で叫んだら、あなたは飛んででも助けに行くでしょう。まず、そういうものだとお考え下さい。(神仏とは即ち父母の異名なり。父母その子を加護したもうなり。

 そして、「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も七百年以上も昔のもので、「末法には白法隠没して大白法あらわる」という釈尊の予言通り、すでにその役目を終え、南無先祖「ぎょう」という文字養道という大白法が顕れたということです。今後は南無先祖「ぎょう」という文字養道≠ェ末法万年の闇を照らす大御宝號となります。
 詳しくは、常不軽台学先生の著書、「あなたへのお手紙」(わが生命のまことのありかた)(右クリックメニューから、「対象をファイルに保存」を選んで下さい。LZH形式 20.4KB、解凍するとhtmファイルになります)をダウンロード(無料)してご覧ください。


お答え 7 :教祖の常不軽台学先生の出身は韓国というのは本当です(本籍は岩手県胆沢郡)。恩師紹介のページに略歴を記してありますけれど、出身地にこだわることはありません。先祖の絵図を見るとわかりますが、32代前の先祖の数は85億人を超えます。これは現在の世界人口(約64億人)をはるかに超えています。つまり、世界中が一つにつながっているということです。
 例えば、前世に韓国に生まれていれば韓国人、アメリカに生まれればアメリカ人です。そして、生まれた国でそれぞれ子孫を作ってきたわけですから、世界中が自分と血のつながりがあるといえます。この先祖「ぎょう」という字養道の考え方が世界の和合につながります。ですから、出身地にこだわる必要は全くありません。


お答え 8 :イラク攻撃 については、信仰の面から私は賛成できません。
 一つには、前述の答え7にも関連していますが、生命の世界は世界中が一つにつながっているということ、二つには、生命の真のあり方のページにも書いてありますが、人間は民族や地域に限定せず、生まれ変わり死に変わりします。たとえば、私(倉田 修一)の過去世は、中国の南方系の生まれだ、と恩師に言われたことがあります。
 そうすると、普通に考えると、中国に私の子孫が生きているということになります。同じようにあなたの前世がアメリカ人やイラク人だったとしたら、そういう国々で、普通は結婚生活をして子孫を残してきているわけですから、あなたの子孫がそれらの国々で現在生きていることになります。自分の子孫が生きている国にあなたは爆弾を落とせますか? 普通はできませんね。私は米英の行為を疑問に思います。

 人間の思想、行動は宗教がその元になっているわけですが、21世紀の地球一体生活時代には、対立を超えた宗教…南無先祖「ぎょう」という文字養道が必要だと感じています。


お答え 9 :日蓮が本仏か?
 日蓮聖人は私たちにとって先祖の一人には違いありませんが、本仏であるというのは誤解です。(正確に言えば、日蓮聖人も私たちと同様、本仏の一人ということになりますが)
 なぜなら、日蓮聖人はその御書の『諸法実相鈔』(文永十年、御年五十二才著)の中で、「本仏というのは凡夫なり」とおっしゃっているからです。つまり、私達一人一人が本仏だということです。

 その一部を紹介しますと、……経に云く、『如来秘密神通之力』是なり。『如来秘密』は體の三身にして本佛なり。『神通之力』は用の三身にして迹佛ぞかし。然れば釈迦佛は我等衆生の為には、主・師・親の三コを備へ給うと思いしに、さにては候わず。返って佛に三コを被らせ奉るは凡夫なり。そのゆえは如来というは天台の釈に、『如来とは十方三世の諸佛・二佛・三佛・本佛・迹佛の通號なり』と判じ給えり。此の釈に本佛というは凡夫なり。迹佛というは佛なり。……とあります。

 もし日蓮一人を本仏とし、第一義とするならば、それは権力主義の始まりです。
例えば、浄土真宗の人達は親鸞が第一義と言うでしょうし、クリスチャンはイエスこそ救世主だと言い、イスラム教の人達はアラーを唯一全能の神とするでしょう。つまり、そこには対立が生まれ、争いが生じ、やがて人間の世界が混乱し、破壊されていくのです。

 ですから、偉大な人を崇拝し、目標とするのは良いですが、その人を唯一絶対の神とするのは現代にはふさわしくありません。一人一人が本仏なので、人間礼拝(先祖「ぎょう」という文字養道…お互いがお互いを神仏として敬いあい、拝みあうこと)こそが人類が和合し、世界平和が達成される唯一の大道なのです。

 ですから、最初の『日蓮聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ』というのは、時代錯誤です。
「私たち一人一人が本仏」ということは、自分が創造主であるということです。ということは、宇宙をつくったのは、自分だという意味ではなく、自分の人生を創造しているのは、他ならぬ自分自身だということです。自分の人生に関しては自分が責任者です。


お答え 10 :なぜ南無妙法蓮華経ではいけないのですか? 勝手にお題目を代えて、日蓮聖人がお憤りにならないでしょうか?
 日蓮聖人が初めて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えられた鎌倉時代は、各宗各派が乱立混在し、どれが正しいか、どの経典を読誦信奉したら良いか、民衆が疑い迷っていたのです。
 その時、「法華経」こそ正統であり、これでなければ今、日本国を安定させ民衆を救うことはできない、ということを深く覚悟された日蓮聖人が、このお題目を唱えて、総ての国民が「妙法蓮華経」を信奉するよう覚醒と奮起を促されたのです。
 しかし、すでに「法華経」が諸経の王であることが判明し、大衆に理解されてこれを信奉する者が多くなった今日では、その旗印となり合言葉となったお題目は充分お役目を果たしたものなのです。

 今日では、その「法華経」の教理を実生活に生かして、実践活動に入るべき「時」なのです。
 その方法を釈尊は、「法華経」の結経たる「仏説観普賢菩薩行法経」で次のように明らかに説き示されておられます。
 『未来世の諸の衆生等の大乗無上の法を行ぜんと欲せん者、普賢の行を学し普賢の行を行ぜんと欲せん者の為に、我今当に其の所念の法を説くべし。若しは普賢を見及び見ざる者の罪数を除却せんこと、今汝等が為に当に広く分別すべし。阿難、普賢菩薩は乃ち東方の浄妙国土に生ぜり。』
 ここに示された「大乗」とは言うまでもなく「法華経」、「普賢」とは前述の通り、「東方浄妙国土(日本国)に生ぜり」と言われた仏の化身、普賢菩薩(日本神道的には天照大神)です。

 そして、「普賢の行を学し普賢の行を行じ」とは、その子孫であるわれわれ国民が未来仏であり、神であるという自覚を持ち、反面、真に仏たり神たり得ないのは、いかに罪業が深いかを知り、その勉学、修行、実践をする(まず懴悔滅罪をする)ということに外なりません。
 これはすでに、「法華経」の勉学を卒業して、これを社会で生かすべき段階ですから、もはや教科書である「南無妙法蓮華経」を唱えている時ではありません。
 そのことを明示され、経典の修行法をさらに具体化された常不軽無学大士並びに常不軽国明老師の御教導に従うことがわれら信者をはじめ、すべての日本人、いな世界のすべての人々に与えられた使命であり、務めであるのです。

 「南無先祖「ぎょう」という字養道」の「御宝号」については、主管常不軽国明先師が、昭和三十年夏、過去四十数年に亘る心血を注ぎ骨肉を削っての「法華経」の信行活動と、二十一日間の苦行祈願により仏勅霊感を賜わって、天授開顕(昭和三十年十二月二十日、天照皇大神宮に参拝、ご奉告)されたもので、「将来、天命を享けた聖人(次のお役の方)がこれ以上のものを唱導されるまで、身命を捧げて受持し奉る」と宣言しておられます。

 要するに、「南無妙法蓮華経」が「南無先祖「ぎょう」という字養道」に成長発展したのは、蓮の花が実を結んだのと同様、至極自然の成り行きで、御生前にこのことを予見されて、「寿量品の南無妙法蓮華経は文の底に沈めたり」(観心本尊抄)、「来生は常不軽菩薩となって現れる」(寺泊御書)と言い残された日蓮聖人が、その御遺志が実現された、というより御自身で生まれ変わられてご遺業を完成しようとしておられることに御満足こそすれ、御嘆きや御憤りなどされる道理はありません。「南無先祖「ぎょう」という字養道」と御唱えしてこそ、日蓮聖人もお喜びになるということです。(このお答えは昭和45年4月29日発行『浄妙世界』第1号より転載したものです。)


お答え 11 :サンゲって一体何ですか?
 ここでいう懴悔というのは、何か悪いことをしてその罪を「ざんげ」するという意味ではなく、すべての事柄は自分に責任があるということを認めることです。自分の一念、思い、行動が周囲に影響を及ぼし、それが自分に返ってきます。自分自身の善悪の言動がそのまま、自分と廻りに影響を及ぼしているので、一切が自分の責任であることを認め、それを南無先祖「ぎょう」という字養道の実践によって、良い方に変えていくことを「さんげ」と言っています。

 人はだれでも幸福になりたいと思っていますが、現実には病気、貧乏、争いに満ちた生活をしています。また、物心共に恵まれて、こういう厳しい時代にも何の心配もなく幸せに暮らしている人も大勢います。その差は結局、過去世と現在に自分が発してきた想念と言動の結果というほかはありません。
たとえば、いつも人の幸せを願っている人と、今の自分の想いが『身とは殺・盗・婬…』ばかりの人とでは、その人生の結果は当然違ってきます。人生の創造主は自分自身ですから。

 そして日常生活で、会社や家庭や学校で、憎い、悔しい、ねたましい≠ネどの思いを持ったことありませんか。もしあれば、人の性質は生まれ変わっても簡単には変わりませんから、過去世にもそういう思いで暮らし、大凶作の年には、他人に対して殺・盗・婬をしてきた自分だったということが言えるわけです。そして、経文(仏説観普賢菩薩行法経)にありますように、心得違い、思い違いなど不知不識に犯してきた罪咎もあります。その結果が現在の自分の生活を作っているわけです。

 仮に善なる思いだけで生きてきたとしても、生きている以上は他の生命の犠牲の上に生きているわけですから、他の動植物は人間の役に立つことでそれぞれの懴悔滅罪になっているとしても、人間としてのさんげ≠ェ必要です。
 ですから、悪い想念を発してきたことと、他の生命の犠牲の上に生きているということから、何も悪いことはしていなくても、懴悔は必要です。詳しくは、ダウンロードコーナー(「あなたへのお手紙」、「末法の癩人」、「懴悔滅罪入門」があります)で小冊子をどうぞ。


お答え 12 :生まれ変わりについて
 いくら説明しても、転生輪廻ということを眼で見て確認することはできませんから、これは信じてもらうしかありません。生まれ変わりを信じた方が未来に希望が持てて、人生観が明るくなります。
 キリスト教では生まれ変わりを認めていません(聖書には生まれ変わりを暗示している箇所もあります)が、仏教ではたくさんその事が経文に出てくるので、当然のこととして受け止められています。

 例えば、妙法蓮華経提婆達多品第十二には、あれほど釈尊の邪魔をする提婆達多(だいばだった)も前世は釈尊のお師匠様で、提婆のおかげで仏になれたと説かれています。そして今世(釈尊の在世当時)は、形を変えて(釈尊を苦しめることによって)、釈尊の悟るのを助けています。ですから、提婆も未来に仏になれるという授記を与えられるわけです。(因みに、提婆達多品は恨みの念を浄化させる経文です。)

 また、生まれ変わりの実例は世界中にたくさんあります。以前に『大法輪』という宗教誌に載っていた話ですが、あるアメリカ婦人に催眠術をかけて、『年齢退行』ということをしたそうです。「あなたは昔に帰って今九歳です。きょうは秋祭りですね。学校は休みなの?何曜日?」「日曜日なの」(三十年前のその日は本当に日曜日であった)…。こうして六歳にし、一歳にし、それからさらに誕生前に帰す……。その婦人は百数十年前、アイルランドにいたと話したそうです。現世ではアイルランドに行ったこともなく言葉も知らないのに、その地方の方言で、今は存在しない昔の地名を話し、そしてそれが実在していたことが確認されたということです。

 生まれ変わりという事を肯定すると、いろんなことが納得できるようになります。たとえば、世の中の不平等はたくさんありますが、これも現世の努力の結果ということだけでは説明のつかないものがあります。健常者とそうでない人がいるという不平等、貧乏な家庭に生まれる子と裕福な家庭に生まれる子の不平等、人によって様々な能力の違いなどの不平等、これらはすべて前世からの引き継ぎや過去世のその人の言動の結果によると考えると納得がいきます。つまり、前世があると考えると、一見不平等に見える事柄も、実は平等であってバランスがとれているのです。不平等を創り出しているのは他ならぬ自分自身であったことがわかるのです。

 ここで一つ問題になるのは、肉体的な問題です。例えば、生まれつき耳が聞こえず、口がきけないという場合ですが、これについては、妙法蓮華経隨喜功コ品第十八に、法華経を信じ世の中に弘めていけば、百千萬世ついにおしには生まれないという意味のことが出ています。逆に考えますと、生まれつき肉体的な障害がある場合は、そうなるにはそれだけの事を過去世にしてきたということです。自分の出したものが自分の受け取るもの…因果応報ということです。冷たいようですが、これは宇宙の法則なのでしかたありません。それだけに功コを積んでいけば、来世はそういう不幸にあわないわけですから、生まれ変わりを信じることは未来に希望が持てるわけです。

 現在の不幸は過去世に原因があるのなら、過去のことは直しようがなく、現在の状態に甘んじるほかないのかということになりますが、これについては、仏説観普賢菩薩行法経には「佛の語に随順して懴悔を行ぜん者は、…一弾指の頃(指を一回はじく間)に百萬億阿僧祇劫の生死の罪を除却せん」とあって、ちゃんと救いの道が説かれています。これが南無先祖「ぎょう」という字養道であります。

 私の恩師(常不軽台学先生)は転生輪廻について次のような事をある時の法座でおっしゃっています。
 先生が岐阜に行かれた時の新幹線の車中でのことだそうですが、たまたま同席した人に、『色即是空、空即是色』の意味を聞かれたそうです。そこで先生は、「生まれたためしのない者は死んだためしがない。死んだためしのない者は生まれたためしがない」とお答えになったそうです。簡単にいえば、生まれ変わり死に変わりする(生まれれば必ず死に、死ねば必ず生まれる)ということです。霊界と現界の循環です。

 そういうわけで、転生輪廻の法則は新たな意欲と未来への希望をもたらし、人生に有益なので、信じていただきたいと思います。
 因みに、私のすぐ前の前世は、これは母の霊感でわかったことですが、高橋和四郎という名前で、昭和23年1月27日に死亡しています。そして私は一年十ヶ月後に、和四郎の養女であった母の長男…倉田 修一として生まれ変わってきたというわけです。


お答え 13 :信仰と医学の関係
 信仰というのは自分の懴悔ですから、信仰で病気が治るというのはおかしくはありません。むしろこれが本当の治し方です。病気の原因のページを参照していただきたいのですが、信仰でなければ治らない病気と医学でなければ治らない病気があります。ここで扱うのは悪霊にたよられて病気になった場合とか、自己の行為の「報」(むくい)によって、病気になった場合です。これは南無先祖「ぎょう」という文字養道の信仰…修行によって、間違いなくすべて完治します。懴悔滅罪です。

 また、医学でなければ治らない病気にしても、信仰を持つことによって、たとえば、良い医師にめぐり合うとか、良薬や良い治療器具に恵まれるとかして、その病気が早く治るように順序がついてきます。
 また、手術をする場合でも、南無先祖「ぎょう」という文字養道の信仰によって、難しい手術でも成功し、快復も早まります。私が関係した事例では、脳の手術が二件ありますが、正式な念願の方法によって、いずれも通常より短い時間で手術が済み、現在はお二人とも職場に復帰しています。
 そしてもう一つは、誤診を防ぐことができるということです。誤診というのは医師の責任のように思われますが、事実は自分自身の因縁が医師をして誤診せしめるので、自分の因縁がなくなれば誤診はありません。この懴悔滅罪の信仰によって、因縁は善縁に変わります。

 また、医師が懴悔滅罪の信仰を持って診察にあたれば、誤診はなくなります。このように正しい信仰と医学とは相反するものではなく、融合するものです。


お答え 14 :自分が本仏なら、何を拝む
 自分が本仏ということを聞きますが、それなら何を拝むのですか?…

 拝むというのは、この信仰としては、もちろん御自分の家の御宝體様(御本尊)を拝むわけですが、それは自分の父母祖先を礼拝しているように見えて、実はそのまま神仏の世界を貫いて、一切生命の総合体を礼拝していることになります。人間礼拝が基本です。
 信仰というと、特定の偉大な人物(たとえば日蓮聖人とか親鸞上人)を信仰の対象として拝むものと考え勝ちですが、今はそういう時代ではありません。先師先コを尊崇するのは大切ですが、特定の人物崇拝は、「こっちの聖人が偉い、いやあっちの上人が貴い」ということになって争いが生まれます。信仰の名において争いをしているのでは、功コのあるはずがありません。信仰とは争いを滅するものです。
 現代は世界が一体となって生きていく時代ですから、宗教にもお互いにお互いを認め合い、敬い合い、対立をなくす理念が必要です。

 そこで、自分が本仏ということは、自分の一念が自分の人生のすべてを創造する元になるので、自分に主体性があり、自分というものが尊いということです。思い上がっているということではありません。そして、誰も彼もが本仏ということになりますから、お互いに尊く拝み合う人間礼拝の世界(仏国土)が現出します。
 そして、自分が本仏という意味は、自分という人間は神仏に動かされたり、あるいは誰かにあやつられた存在ではなく、自分の人生は自分自身が決定しているということです。自分の想念、言動のよしあしがそのまま自分の人生を創造します。
 自分の想念、行動が、経済、家庭、健康、仕事など自分に関するあらゆる面を決定します。日蓮聖人を拝んだから仕事がうまくいくとか、健康になるとかそういうことはありません。自分自身が自分の全てを作っているからです。この故に我身如来というわけです。
 自分に関しては自分が決定者、創造者ですから、善も悪も自分が作ってきたわけです。この自分の責任を認めてサンゲしていくところに、大いなる功コが現れます。これをひとことで言うと、仏説による父母孝養・師長恭敬≠フ行践ということになります。

ページトップ質問の回答集2

質問コーナーへ戻る 目次のページ予定とバックナンバーのページ