安倍晴明はハレー彗星を見たか?


 中国の陰陽五行説をもとに日本で成立した陰陽道は、当時の人々にとっては未来を見通し操作する技術であり、いわば科学でした。 飛鳥時代に設置された陰陽寮は、陰陽部門の他に暦、天文、時刻を知らせる漏刻の部門からなっていました。 陰陽師たちはそこに所属する国家公務員でしたが、しだいに天皇や公家に対して私的な奉仕もするようもなります。
 その陰陽師の代表が皆さんご存じの安倍晴明です。 このページでは晴明の時代に起きた天文現象を通じて、その活躍をたどっていきます。

1.花山天皇の退位


 若くして即位した花山天皇は、寵愛していた女御(にょうご)が亡くなってからは、悲嘆にくれる毎日を送っていました。 そこに目をつけた藤原兼家とその子の道兼らは、天皇をそそのかして花山(かざん)のふもとの花山寺(元慶寺:がんぎょうじ:の別名、上の地図参照)で出家させてしまいました。 そして、兼家の孫にあたる皇太子を即位させ、一条天皇としたのです(このページ下方の系図参照)。
 「大鏡」には、この夜の出来事を安倍晴明が天文観測によって知った、という有名な話があります。 天皇の一行が土御門通を東へ向かって、ちょうど安倍晴明の家の前を通り過ぎた時、晴明は天変が現われたのを見て、事が定まってしまったのを知った、というのです。 晴明の家は現在の御所よりは西になりますが、当時の御所よりは東に位置していました(現在の清明神社のやや東南に当たります;平安京探偵団の安倍晴明邸宅跡周辺マップ安倍晴明を探せ2参照)。 この天変の正体についてはいくつかの考察がありますが、詳しくは作花さんの陰陽師安倍晴明の見た星をご覧ください。


左:現在の元慶寺。右奥が本堂。 右:元慶寺の垣根越しに花山を望む

 天変の正体はともかく、天皇退位後は出家した花山寺にちなんで花山院と呼ばれ、奇矯な振る舞いもありましたが風流者として知られました。 平安から江戸時代にかけての天皇は譲位後の御在所の号が追号として用いられることが多く、かつては花山院天皇、大正時代以降は花山天皇というふうに呼ばれています。
 花山寺(元慶寺)は六歌仙の一人としても知られる僧正遍照(へんじょう)の発願で建立された寺で、元慶元年(877)に定額寺(じょうがくじ;官寺に準じた寺)に列せられた時、年号を寺の名前につけました(ちなみに、仁和寺や建仁寺も創建時の年号から名づけられました。 延暦七年(788)に最澄によって比叡山に開かれた寺は、はじめは比叡山寺一乗止観院と称していましたが、弘仁十四年(823)に延暦寺の名を賜りました)。 元慶寺は中世には衰微しましたが、江戸時代に再興され今に到っています(上の写真。現在は「げんけいじ」と読んでいます)。 又、花山の山頂には京大の花山天文台があって主に太陽の研究が行われているのは、どういう縁によるものでしょうか。

2.「大鏡」の世界

 「大鏡」は、大宅世継(おおやけのよつぎ)と夏山繁樹(なつやまのしげき)が、洛北の雲林院(うりんいん;場所は上方の地図参照)の菩提講(ぼだいこう)で久しぶりに出会って、若い侍を交えて昔語りをする、という設定です。 この時、世継は何と190才、繁樹は180才にもなろうかという老人で、二人のうち主に世継が、自分の生きた平安前期から藤原道長の全盛期までの歴史を、鏡に映し出すように明らかに語っています。
 「大鏡」の成立年代は花山天皇の事件があった1世紀くらい後の院政期頃という程度しか分かっていなくて、作者についても諸説あります。 世継が雄弁に話す様子を繁樹は、「天の川の水をさらさらと押し流すようだが(天の川をかき流すようにはべれど)、時々は事実と違ったことも混ざっている。」と評しています。 今なら、立て板に水、と言うところですが、当時はこういう表現があったようです。

 雲林院は遍照の働きかけによって官寺となり、前出の元慶寺の別院として栄えましたが、応仁の乱などで衰え、その旧地には大徳寺が建てられました。 現在は、大徳寺の塔頭として小さなお堂があり(上の写真)、又、その周辺の地名(北区紫野雲林院町)としても残っています(詳しくは、観世能のページ雲林院参照;能の舞台にもなっているそうです)。

天皇家と藤原氏系図:太字は天皇で、数字は即位の順番を示す。赤字は女子で、二重線は婚姻関係を示す
 話を花山天皇が退位した後、一条天皇の時代に戻します。 一条天皇即位とともに摂政となった兼家が没すると、次にその子の道隆が摂政となりました。 長徳元年(995)に道隆が亡くなり、すぐ下の弟の道兼が摂政につきますが、直後に疫病のため亡くなってしまい七日関白といわれました。 そこでチャンスが巡って来たのがその下の弟の道長で、ライバルは道隆の息子の伊周(これちか)のみでした。
 この伊周について「大鏡」は次のような話を伝えています。 兼家の兄弟で天台座主(てんさいざす)だった尋禅(じんぜん)のお付きの僧で、人相を良く見るものがいた。 藤原氏の有力者について占っていく中で、道長については最高の相で限りなく繁栄する人相なのに対して、伊周は雷(いかずち)の相である、と言った。 雷の相とはどういうことかと尋ねられると、ひとしきりは大変高く鳴る、つまり一時は権勢が強いが、最後まで成し遂げることがない相だと説明した。 実際、伊周はすぐに大臣になりましたが、花山上皇に矢を射かけるという事件を起こし、左遷されてしまいます。 これについて、語り手の翁である世継は、

雷は落ちぬれど、またもあがるものを、星の落ちて石となるにぞたとふべきや。それこそ返りあがることなけれ。
(雷は落ちてしまっても再び天空に返りますから、伊周公の場合は、雷ではなくて星が地に落ちて隕石となるのにたとえるべきでしょうね。隕石こそは落ちたら二度と再び天へ返り上がることはないのですよ)。
と辛らつなことを言っていますが、こんな所に隕石が出てくるのは面白いですね(科学的に見ても、雷は一瞬の内に雷雲から地上へ、そして地上から雷雲へと何回か往復しているので、間違ったことは言っていません)。

 話は飛びますが、ゲーテの『ファウスト』では、ワルプルギスの晩(5月1日の前の晩に、魔女たちがブロッケン山に集まってどんちゃん騒ぎをする)に様々な人や物がしゃべりますが、その中で、鬼火ども(政変で成り上がった連中)とふとった人たち(破壊的な革命的人物)の間で、隕星(一時調子よく行ったがたちまち失脚した人々)が、次のように言います。

星の光、炎の光を放ちながら
わたしは天から降ってきた。
わたしは今は草の中に転がっている――
誰か抱き起こしてくれないかしら。   (高橋義孝訳)
隕石は実際に落ちた場合は、メッカのカーバ神殿をはじめとして崇拝されることが多いのですが、世の東西を問わず、このような皮肉な見方もあったのです。

 さて、こうして権力を握った道長は娘の彰子(しょうし)を一条天皇のもとに入内(じゅだい)させ、そのサロンに紫式部が女房として仕えることになります。 一方、清少納言が仕えていた道隆の娘定子(ていし)の勢力は衰えて、定子は若くして世を去ってしまいます。 ただし、こうした人相による予言が本当にあったのかは分かっていません。

3.安倍晴明の虚像と実像

 安倍晴明は伝説の上では安倍晴明は狐の子とされ、花山天皇の前世を見通したり、蘆屋道満(あしやどうまん)の術を見破って藤原道長を助けたりと超人的な活躍をします。 又、一条戻橋の下に式神を封じて待機させていたとも伝えられています。 しかし、こうした伝説は晴明の死後に色々な立場から付け加えられていったらしいのです(こうした展開をはじめ晴明伝説については諏訪春雄氏の『安倍晴明伝説』に詳しいです。この節は主にこの本によりました)。
上:一条戻橋と、細い溝の間!を流れる堀川。 一条戻橋と東寺の築地の位置は、平安京造営当初の原位置を保っているとのことです。

 それでは、晴明の実像はどのようなものだったのでしょう。 亡くなった時に85才(数え年で)だったという記録を信じれば、延喜二十一年(921)に生まれたことになりますが、生誕地や前半生については分かっていません。 信頼のできる資料の上に晴明が登場するのは天徳四年(960)のことだと言いますから、もう40才になっていたはずです。 晴明はこの時まだ陰陽寮で学ぶ学生に過ぎませんでしたが、火事で失われた節刀(せっとう;指揮権の象徴)について天皇に言上しています。

 しかし、これ以降の晴明は、花山・一条天皇や藤原道長とも深く結びつき、歴史書にも度々登場します。 とはいえ、その活躍は伝説や小説と違って、病気の原因や治療方法についての占い、建築や外出などの日時の決定、そして、泰山府君祭(たいざんふくんさい)・玄宮北極祭(げんきゅうほっきょくさい)などといった種々の儀礼や祭祀をとりおこなう、というような仕事が主でした。 花山天皇が退位した年の二月には、「太政官の役所の東の庇(ひさし)のうちに蛇がいる」とか、「家鳩が、太政官の役所にある右大臣兼家の椅子や机のまえに集まっている」というような些細な出来事についても晴明が占っていますが、これは花山天皇と兼家の緊張関係をも示しているとされます。
 又、天文博士は、彗星の出現などの天変があれば、それについての占いを添えて内裏に密奏(密かに報告)することになっていたので、そうした仕事もしていたはずです。

 天元元年(978)に雷によって安倍晴明宅が破損した、という記録もあります。 有名な陰陽師の家が天災にあったことを当時の人はどう思ったのでしょう。 又、時には晴明もミスをすることがありました。 藤原実資(さねすけ)の日記「小右記(しょうゆうき)」によると、一条天皇の時代の永延二年(988)、ケイ惑(けいわく;ケイは蛍に似た字です;火星のこと)が軒轅女主(けんえんじょしゅ;しし座のレグルス)に接近したことがありました。 天皇・皇后ともに重い物忌みに入り、天台座主の尋禅が熾盛光(しじょうこう)法を、安倍晴明がケイ惑星祭を執り行うことになりました。 しかし晴明は決められた日に行わなかったために、始末書(過状)を提出するように命じられたといいます。
 このように、歴史の中の晴明は超人的な能力を発揮しているわけではなく、あくまでも陰陽寮に属する国家公務員としての活躍だったのです。

いつの間にか新しい建物が建っている晴明神社。
本殿は、鳥居の左奥。

4.ハレー彗星出現

 永延三(989)年の六月に突然、彗星が現われました。 現在ハレー彗星と呼ばれているこの彗星の記録は日本や中国に残っており、「日本紀略」には「六月一日庚戌、其日彗星東西天に見(あら)はる」(六月一日はユリウス暦で7月6日にあたる)、「七月中旬、連夜彗星東西天に見はる」とあって、別の記録では尾の「長さ5尺(5度)ばかり」とあります。 (ユリウス暦8月16日、現行のグレゴリウス暦で21日午前4時の京都の空のシミュレーションが作花氏のページの989年のハレー彗星で、ご覧になれます)。 ハレー彗星の記録は、中国では紀元前からありますが、日本ではこの4回前の回帰が「日本書紀」に「天武十三年秋七月二十三日壬申(684年9月7日)、彗星西北に出づ。長さ丈余(10度以上)」とあるのが最初です。

 天変の中でも彗星の出現は特に恐れられましたが、この時は「扶桑略記」に「永延三年己丑八月八日、改めて永祚(えいそ)元年と為す、彗星天変に依るなり」とあるように、何と改元が行われたのです (当時は一年の途中で改元された場合でも、遡ってその年のはじめから年号が変わるので、記録上は永祚元年六月にハレー彗星が出現したことになります)。 飛鳥時代から平安時代初期にかけては、めでたい雲が見えた(慶雲:704〜708年)、白い亀が現われた(宝亀:770〜780年)、というような瑞兆によって改元する、という例もありましたが、平安時代中期からは、天変や地災(地震や洪水など)を理由にして改元するようになります。 永祚二年には再び改元され正暦(しょうりゃく)元年となっているように、この頃は2〜3年で改元を繰り返していて、改元自体は珍しくありませんが、「彗星出現により」と明記されていることが注目されます。

 彗星出現によって改元した例は、他にも平安時代末期の嘉承(かじょう:1106〜1108年)や久安(きゅうあん:1145〜1151年)があります。 久安の彗星もハレー彗星で、永祚改元の時から2回後の回帰です。 ちなみに、天武天皇の時の出現から永祚改元までは305年、永祚改元から久安改元まで156年で、いずれも76の倍数より大きくなっています。 それはハレー彗星の回帰の平均周期は77年に近く、しかも、木星や土星の重力の影響で、それぞれの回帰の周期は平均から±4年程度までのばらつきがあるためです。

 安倍晴明は、永祚改元の時には69才でした。 「日本紀略」には、この年の二月十一日に皇太后詮子(せんし)の気分がすぐれないので、円融法皇が天台座主尋禅に尊勝法を、安倍晴明に泰山府君祭を行わせた、とあるように、晴明はこの年も陰陽道の第一人者として活躍してました。 ただし、晴明とハレー彗星を直接結びつける史料は残されていません。 しかし、彗星の出現というような重大な天変について、晴明が無関係でいたとは思えません。 もちろん改元そのものを決めたのは道長をはじめとする有力者ですが、晴明は果たしてハレー彗星を見たか、見たとすれば何か占いをしたか、そしてその占いが改元に何らかの影響を与えたのか、と想像するだけでも楽しいでしょう。 晴明の関与はともかく、平安時代には彗星の出現が何度も朝廷を揺るがし、それが改元という形となって歴史に残されているのです。

謝辞:898年のハレー彗星の見え方を計算して下さった京都コンピュータ学院の作花一志氏に感謝します。


主要参考文献

学研ムック,1993, 「陰陽道の本」,学研
神田茂, 1935, 「日本天文史料」
ゲーテ 高橋義孝訳 「ファウスト」 新潮文庫
諏訪春雄, 2000, 「安倍晴明伝説」,ちくま新書
橘健二 校注・訳,1986, 「大鏡一・二」, 小学館
東京大学史料編纂所編, 1928-34, 「大日本史料・一条天皇」
森本角蔵, 1933, 「日本年號大観」, 目黒書店

この文章は、天文教育普及研究会「天文教育」2002年7月号の記事に、加筆・減筆・加画像・修正を加えたものです。

2003年3月19日 初版
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