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(方位磁石でないことは確か) 臼井正+宮原健吾+京都天文めぐり*平安京プロジェクトチーム |
1. はじめに 平安京の東西南北は、かなり正確に真の方位と一致しています。 当時、北極星(こぐま座α星;ポラリス)は、歳差運動によって天の北極から10度近くも振れていたので、何も考えないで北極星の位置を測ると大きな誤差が出るはずです。 また、磁石の指す北は真北とズレていて(偏角)、しかも場所や時代によって変化するので、そのズレを測るには結局、別の方法を使わなければなりません。 又、方位磁石の長さはせいぜい10cm程度なので、角度の1度は2mm以下になってしまい、精度は出ません。
それでは、平安京の南北(または東西)は、どうやって決めたのだろう?、という話が 京都天文めぐりの勉強会で西村昌能さんから提起されました(参考文献 1)。それをきっかけに調べたところ、このページで紹介する『周髀算経(しゅうひさんけい)』という書物に2つの方位決定法が書かれていることが分かって、2002年6月にはそのうち太陽を使った方法を実際にやってみました 。
その後、このページ(の前身)を見て下さった京都市埋蔵文化財研究所の宮原さんから連絡を頂き、詳しいお話を聞くことが出来ました。 それによると、古代の都の方位については更に謎がある、とのことでした。
平安京のあちこちを発掘した結果をもとに、色々な地点(道路など)の実測の場所と、『延喜式』に書かれた造営計画とを比較して、両者が一番合うようなフィッティングをした。 すると、平安京全体は、西に角度の22分55秒振れていた(1分は1/60度で、1秒は1/60分;西に23分は1000m真北行って西に7m進むくらい)。 さらに平安京内部の各地点の振れは、どこも2m以内の範囲におさまっていた。 つまり、平安京内部の各地点の位置関係は非常によく決まっているが、全体としては真北からある程度ズレていることになる。
他の都では奈良の平城京の振れが西に21分6秒(参考までに朱雀大路の振れは西に22分44秒)で、平安京と同程度の振れ方をしている(平城京の振れの数値は内田賢二氏の計算結果(参考文献 2)を使用しました)。 また、平城京西京極大路(西辺)をそのままの振れで延長するとそのまま平安京東京極大路(東辺)につながるということでした。 一方、平安京 の前の10年間だけ都だった長岡京は、西に7分の振れで一番真北に近い。 平城京と平安京の振れがほぼ同じなのはどのように考えたらよいか、とのことでした(中国や朝鮮半島の都の正確な測量データはないそうです)。 上の地図では、角度のズレをものすごく大袈裟に描きましたが、実際にはこのくらい小さなスケールでは全く分からない程度です(この地図では、平城京西辺と平安京東辺の関係は再現されていません)。平城京と平安京が共に23分ズレた可能性としては、
1.単なる偶然
2.正確に真北を測った後、わざと西に23分ズラした(当時は三角関数はないので、150歩真北へ歩いて1歩左に進むと決めていた?;tan23′=1/150)
3.奈良盆地の測量の基準線を、平安京まで延長した
4.天体を使って方位を決めるとき、系統的に西に23分ズレる方法があるか?(我々は思いつかないですが)
といったことが考えられます。方位は天体を使って決めたと考えられますが、それについては
A.どうような方法で方位を決めたのか?
B.誤差はどのくらいか? 長岡京の振れ程度の精度が出せるか?
C.その方法で系統的に西に23分ズレるか?
という問題があります。以下に紹介する文献や計算によっても考えるわけですが、誤差などそれでは分からない部分は実際に観測して考えよう、というのが基本方針です。
これは、進行中のプロジェクトで、まだ答えは出ていません(というか、よい考えのある方は、メールを下さい)ので、現状報告の形になりますが、ページ構成は次のとおりです。平安京の東西南北はどうやってきめたのだろう(現在地) :以下、文献の紹介です
太陽を使った方法を実際にやってみました(その1) :2002年6月の観測結果 (今となっては、ここを飛ばして(その2)を読めば十分です)
太陽を使った方法を実際にやってみました(その2) :2002年10月の観測結果
ピラミッドの東西南北はどうやって決めたのだろう :別の方法があるかな?
<付記> 我々の研究チームは、その後2008年3月に恭仁京(くにきょう)の測量をしました。 恭仁京は平城京のすぐ北の都で、聖武天皇が一時的に都を移した所です。 都が他所に移ってからは山城国分寺になって、現在は塔と大極殿(国分寺の金堂)の礎石が残されているので、その方位を測ると、ほぼ西に1度の振れでした。 地理的にも時期的にも平城京と平安京をはさむ恭仁京で違う方位が出た、ということは、平城京と平安京の振れが同じくらいなのは偶然だ、という可能性が高まったことになります。
また、研究会「古代東アジア交流の総合的研究」で、日本の都城の方位の話をしたところ、奈良文化財研究所の方から、平城京の振れは場所によって結構違いがある、また、下ツ道が平城京の基準線となったとすると平城京では天文観測はされなかったのではないか、との御指摘をいただきました。
太陽や周極星を使った方位決定の実験も進んでいますので、これらの点を含めて、このページも書き直したいのですが、なかなか時間がとれないので、気長にお待ちください。(2008.6.9)
2. 『周髀算経』 『周髀算経』は髀(表ともいう、垂直に立てた棒のこと。英語ではノーモンという)を使って宇宙の構造(蓋天説:がいてんせつ)を計算した周代の数学書という意味ですが、実際には天文書という方がふさわしい内容となっています(参考文献 3)。 成立年代は明らかではありませんが、周代から後漢ころまでの雑多な知識をまとめたもので、現在の形になったのは3世紀初頭とされています。 ノーモンは主に、太陽の影の長さを測って、冬至や夏至の日を決める、つまり1年の長さを決めることに使われました。 その高さは伝統的に8尺とされ、周代では1.6m、隋・唐では2.4mに相当します。
この書は隋・唐の国立算学校で使う10冊の教科書「十部算経」に含まれていて、日本でも養老令の解説書である『令義解(りょうのぎげ)』(9世紀はじめ)に「およそ算経は、(中略)、周髀、(中略)をおのおの一経と為せよ。学生は経を分ち業を習え」とあるので、少なくともその頃には日本にも入っていたことになります。
2ー1. 太陽を使う方法
『周髀算経』の太陽を使う方法について大意を紹介すると、まずノーモン(黒い縦棒)を垂直に立てて、それを中心に、水平な地面に円(緑)を描きます。 日の出と日の入の時に、円と太陽が落とす影が交わるところに印をして、2つの印を通る直線を引くと(図中の青い線)、それが東西線になります。 この場合は、地平線まで山などの障害物が無いことが条件になります。
薮内清氏は右のような方法(インディアン・サークル法;ネイティブ・アメリカンではなく、インド人がこの方法を使っていたらしい)も考えておられます。 この場合、太陽が昇って影の先端がちょうど円の上に来たところに印をします。 午後にも同様にして印をつけて、2つを結んだ直線が東西線になります。 この時は、上の場合と違って影の先端の位置を見ることになります。
<測定誤差について>
ここで、太陽を使った場合の測定精度を考えます。まず、太陽の視直径は30分(1度が60分なので0.5度に相当する)あるので、どこまで正確に影を測れるか、という問題があります。
また、太陽の影の軌跡や南中高度(太陽が真南に来たときの高度)は季節によって変化しますが、これは太陽の通り道(黄道)が天の赤道とは約23度傾いているため、太陽の赤緯が変化することによります(アストロアーツの6月21日 夏至の日の太陽参照。太陽の南中高度は、90度−(その土地の緯度)+(太陽の赤緯) で与えられる)。 この赤緯が1日の内でも変化することより、方位のズレが生じます。
この太陽の赤緯の変化は春分、秋分のころが最大で、1日で23分程度変化します(アストロアーツの基礎知識 - 2.天球と座標系の114.gifでは、横線が赤緯、太線が黄道で、春分:うお座、秋分:おとめ座のあたりが黄道と赤緯のなす角度が一番大きい(約23度=黄道傾斜角)。 一方、夏至:ふたご座、冬至:さそり座のあたりでは、黄道は赤緯と平行になって赤緯の変化がゼロになる)。 これを球面三角法を用いて方位のズレに換算すると、5ー7分程度になります(日の出、日の入を観測すると7分、インディアン・サークル法だとそれより少し小さくなります)。
例えば、春分の日の出にちょうど太陽の赤緯が0度で真東から昇るとすると(大気の浮き上がりなど細かいことは考えないで)、12時間後の日の入には赤緯は+12分程度になっていて、太陽の沈む方位は真西より北側に14分ずれてしまいます。 日の出と日の入の方位の2等分線で北の方位を求めると、結局、真北から東に7分ずれることになります。 夏至、冬至の1ヶ月前と後でも1日の赤緯の変化は12分ほどあり、3ー4分の方位のずれが生じるので、夏至、冬至頃に観測する必要があります。 ただし、こうした注意点は、元代の郭守敬(1231〜1316)が気付いたものらしく、『周髀算経』には書かれていません。
2ー2. 周極星を使う方法
『周髀算経』によると、まず、八尺のノーモン(左図の黒い垂直棒)を立てて、縄(水色)をノーモンの先端につなぎ、北極の中心付近にある大星(当時の北極星はこぐま座ベータ星; *)の方向に向けます。 冬至の日の酉の時刻(午後6時)には最も西の端に移動するので、縄を引っ張って地面にあてて目印をして、明け方の卯の時刻(午前6時)には、最も東の位置に移動するので同じように地面に目印をします。 この2つの目印を中央で折半すると、真北と真南の方角が決まります(青い矢印)。
能田忠亮氏の計算によると、このように冬至の日に両端が観測できる配置になるのは周のはじめ、紀元前11、12世紀ころになりますが、薮内清氏は誤差を考えるとかなり後代にもなりうると考えています。 また、後世になると、現在の北極星である小熊座アルファ星を用いたそうです。 一般には、一晩で両端を測ることは出来ないので、数ヵ月から半年を隔てて2回観測する必要があります。
しかし、文字通りにこの方法を実行しようとするとかなり苦しそうですが、同じ原理で次のようなやり方も考えられます。 まず杭(図の■)をうち、そこから南に下がったところで、三脚から重りをつけた糸をたらします(左側の図は上空から見たところ。北が上で、周極星、杭、三脚が並んでいる)。 杭と三脚の距離が基準線の長さとなるのである程度長め(100mくらい?)にとります。 そして、周極星(*)と杭が糸に重なって垂直に見える位置に三脚を置きます(この時、周極星と杭と三脚は一直線上に来ている。 右側の図は、三脚の南に座った人が、北を見ているところ。 緑色の糸の上に、杭と周極星が見える)。 北極星が移動するにつれて三脚を移動させ、一番端に行ったところに目印をします。 数ヵ月後に、もう一方の端が観測できるようになったら、同様にしてその端に目印をします。 杭から2つの目印に直線を引き、その2等分線をとると、それが真の南北になります (左側の図の青い矢印)。 (三脚を移動する方向は厳密に東西である必要はありません)
ドーナーという人が、北極星を使った方法を実際にやってみて(具体的なやり方は分かりません)、±3分以内の精度で方位を決められた、ということなので、平安京でもこのような使われた可能性があると思われますが、精度については実際にやってみないと分かりません。
3. その他の文献 これまで『周髀算経』を紹介してきましたが、中国での方位決定に関する記述は、他にも『周礼(しゅらい)』の「考工記(こうこうき)」にあります。 『周礼』は周の国の制度を書き記したものですが、「考工記」は元は別の書で、『周礼』の一篇が欠けていたため、それを補うかたちで『周礼』に入れられたものです。 「考工記」は工人の職務を記したもので、春秋時代(紀元前8世紀〜紀元前5世紀)の様子を伝えているとされます。 そこには、方位決定法について「昼間には太陽による影をしらべ、夜間には極星について考える」などとあります。
また、中国最古の詩集『詩経』の「定之方中(ていしほうちゅう)」という詩には、
定(てい)の方(まさ)に中(ちゅう)するとき 楚宮(そきゅう)を作于(つく)る 之(これ)を揆(はか)るに日(ひ)を以(もって)てし 楚室(そしつ)を作于(つく)る (ペガサスの四辺形が正に南中しようとするこの時節、楚丘の地に宮(みやい)を作る。日の出と日の入りで方角をはかり、楚丘の宮を作る。;明治書院『新釈漢文体系』;参考文献 4)より) とあります(楚は長江流域の国です)。 定(ペガサス)が南中するのは陰暦十月ごろで農閑期に工事が行われたことを示す、という説もありますが、天上の星の四角形と、地上の宮の四角形が対応していると考えることも出来るでしょう。
平安京とは直接関係ありませんが、英語では太陽の影を測る棒のことをノーモンgnomonといいます。 これはギリシア語で「知るもの」「差し示すもの」という意味で、「知る」knowや、グノーシス派Gnostic(知識という意味;世界は無知な造物主によって造られたとされ、この宇宙から逃れることを目指す)と同じ語源です(英語では、先頭のgやkは発音しません)。
ノーモンは古代バビロニアから使われており、ヘロドトスの『歴史』にも、「ギリシア人は日時計(ポロス)、指時針(グノーモーン)、また1日の十二分法をバビロン人から学んでいる」とあります(参考文献 5)。 古代ローマの建築家ウィトルウィウスの『建築書』(参考文献 6)にも、インディアン・サークル法と同じ方位決定法が描かれているので、太陽を使った方位決定法はユーラシア大陸の東西で知られていたことになります。
4. まとめ 古代の都の方位は上の2つのどちらかの方法で決められたと考えられますが、果たしてどちらか、というのが問題です。 精度を考えると周極星を使った方が有利だと思われますが、精度については実際に観測してみないと分かりません。 平安京などの23分のズレがこうした方法で出るかというと、周極星を使う方法なら系統的なズレは出ないはずです。 インディアン・サークル法では、春分・秋分の頃は最大7分のズレが出るので、測量は春分の日に行う、と決めていたとすると系統的なズレが出ますが、それでも7分ですので、都の方位のズレでは説明できません。 (ピラミッドの方位決定法で提案されているような方法については、そのページで触れます)
もし、23分のズレが天文による測量で発生しないなら、平城京の基準線を地上の測量で延長して平安京までもってきた、という可能性も考えられるでしょう。 奈良盆地内の藤原京と平城京の距離が約20km、平城京から平安京までが約30kmですから不可能な距離ではありません。 もちろん途中に山があるなど、精度の点でどうかという問題があります。 この辺りになると天文屋の範囲外になりますが、こうした可能性も考えつつ、想像を膨らませながら進めていこうと思っています。
おまけ:太陽が投じるノーモンの影の軌跡は、春分・秋分の日には直線、それ以外の日には双曲線になります
参考文献 1.西村昌能 「都の南北線、東西線の決定方法」 第7回京都天文めぐりレジュメ (2000)
2.長岡京条坊復元のための平均計算 内田賢二 長岡京跡発掘調査研究所ニュース31号 (1984)
3.橋本敬造訳「周髀算経」(薮内清責任編集 『中国天文学・数学集』 朝日出版社 1980に所収)
4.石川忠久 『詩経』明治書院・新釈漢文体系 (1997-2000)
5.ヘロドロス 松平千秋訳『歴史』 岩波文庫 (1971)
6.森田慶一訳注 『ウィトルーウィウス建築書』 東海大学出版会 (1979)
これは京都天文めぐりの会合で発表したものに大幅に加筆したものです。
2000年12月13日 バージョン1.0
2002年8月11日 バージョン1.1
2003年3月15日 バージョン2.0
2008年6月9日 バージョン2.1
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平安京プロジェクト・ダイジェスト 平安京の東西南北はどうやってきめたのだろう(現在地)
太陽を使った方法を実際にやってみました(その1)
太陽を使った方法を実際にやってみました(その2)
ピラミッドの東西南北はどうやって決めたのだろう