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筆者が星のコインをいくつか集め始めたのは、星のしるしについて調べていたのが、きっかけです。 特にギリシア・ローマ時代は、天文学史の本を見ても天動説などの宇宙観が書いてあるだけで、当時の星がどのようなシンボルだったかは分かりませんでした。 しかしある時、コインに色々なタイプの星が刻まれていることに気づいて、資料用として集め始めたわけです。 ギリシア・ローマ時代のコインはデザインが非常に多様で、しかも皇帝の肖像や歴史的な事件も描かれているので、コイン全般、更にはコインを生んだ歴史的な背景にも興味が広がっていきました。
このページでは、星が描かれたギリシア・ローマ時代のコインを中心にして、コインとその時代を紹介していきます。1.ギリシア
西洋でコインが発明されたのは、紀元前7世紀の小アジアの国リディア(現在のトルコ西部)でした。 最初は金や銀の地金を決められた重さに分割しただけでしたが、次第に刻印が打たれて形も一定になり、コインの体裁を整えていきました。 やがて、それがギリシアに伝わり、アテネやコリントなどの主要都市から、マイナーな都市までがコインを作るようになります。 当時の主要通貨は銀貨でしたが、スパルタだけは贅沢禁止ということで金銀銅貨は発行されず、鉄銭のみでした。
右のコインは、小アジアのカリア地方(現在のトルコ南西部)のキンディアというギリシア人都市で発行された、紀元前500年ころの4オボル銀貨(12mm, 2.1g)です。 当時はペルシア戦争の最中で、カリア地方もイオニア(現在のトルコ西部の海岸地方)の反乱に乗じてペルシアと戦いましたが、ダレイオスの軍勢に敗れてしまいました。 表には海の怪物ケトス(くじら座)が、裏には星のような模様が刻まれていますが、本当に星を表したものかどうかは分かりません。
左のコインは、小アジアのギリシア人都市ガンブリオンで紀元前350年ころに作られた銅貨(10mm, 1.4g)です。 ペルシア戦争に勝利したギリシアでしたが、小アジアのギリシア都市はペルシアの支配下に戻ってしまっていました。 コインの表にはアポロ、裏には中心の円から少し離れて16本(数えずらいですが)の光芒がある星が刻まれています(光芒が12本のタイプもあります)。 16本の光芒の内、8本は中心の円のすぐ外から発し、残りの8本はその間に挟まれて、もう少し外側から発する小さめの光芒になっています。
ちなみに、日本や中国のコインは中空の鋳型に溶けた金属を流し込んで(鋳造:ちゅうぞう)作られましたが、西洋では、平らな金属の板を模様の彫ってある型ではさんで、それをハンマーで叩いて作る方法(打刻)が主流でした。 そこで、ハンマーの叩き方が弱いと模様があまり浮き出なかったり、狙いどころが悪いと、このコインの裏のように模様がずれて刻まれたりしました。
16本の光芒をもつ星は、アレクサンダー大王の父フィリッポス二世のものとされる墓から発見された純金の納骨器にもあり(Vergina Goldene Larnax 参照)、やはり光芒の長さはコインと同様に長いものと短いものが交互に描かれています。
このシンボルは星か太陽かで議論が分かれていますが、「ヴェルギナの太陽」(ヴェルギナは出土した村)と通称されていて、ユーロが導入されるまでのギリシアの100ドラクマ硬貨にも登場していました(左画像;コインの裏は、アレクサンドロス大王の肖像、29.5mm, 10g)。
ギリシア人は地中海の各地に植民地を作っていきましたが、その中でも特に栄えたのがシチリア島のシラクサです。 右は紀元前395年ころのドラクマ銅貨(平均28mm, 29g)です。 当時、シラクサを支配していたのは、僭主(非合法な手段で独裁者になった人)ディオニュシオス1世で、彼を教化しようと哲学者プラトンも訪れました。 表(左側)は女神アテナの横顔で、裏は2匹のイルカ、そして中央に星らしきシンボルがあります。 しかし、よく見ると星の光芒の先端をつなぐように線が走っていて、このような線は他の星のシンボルには見られないので、これは星ではなくヒトデのようです。 コインの形が円ではなく2方向で尖っているのは、ここから鋳型に青銅を流し込んで定型の塊を作ったためです(ただし、模様はやはり打刻です)。
最初に紹介したキンディアのコインと、このコインは同じ大きさの画像にしてありますが、実際にはキンディアのコインの直径は12mmで(1円玉の直径20mm)かなり小さいのに対して、こちらのコインは大きさが28mm、厚みも5mmくらいあります。 当時は、コインの価値≒地金の価値だったので、特に青銅の場合は価値を高めようとすると重くなります。 ドラクマは古代ギリシアの通貨単位で、現代ギリシアでもユーロ導入以前まで使われていました。
2.ヘレニズム
ギリシア本土では、ペロポネソス戦争でアテネとスパルタが戦った後も、都市間の戦争が続いていましたが、その間に国力をつけてきたのが、北方のマケドニアでした。 フィリッポス2世の時にギリシアの連合軍を破り、その息子のアレクサンドロス大王はペルシア帝国を滅ぼしました。 しかし、アレクサンドロス大王は33歳でその生涯を終え、その領土は彼の武将たちによって争われることになります。
右のコインは、アレクサンドロス大王のドラクマ銀貨(ただし、彼の死後に発行されたもの。17mm, 4.3g)で、表には獅子(ライオン)の頭皮をかぶっているヘラクレスが、裏には右手にワシを左手に王笏(おうしゃく)を持つゼウスが描かれています。 その右には、ΑΛΕΞΑΝΔΡΟΥ(ALEXANDROU)と名前が刻まれています。
マケドニアは、ギリシア本土の人からはバルバロイ(ギリシア人以外の野蛮人)と思われていましたが、マケドニア王家はヘラクレスの子孫だと称して、ギリシア人の一員であることを認めさせようとしたのでした。
大王の死後、武将プトレマイオスはエジプトを支配しましたが、武将セレウコスが支配したシリアとは、たびたび領土を争っていました。 プトレマイオス3世もシリアに遠征して勝利しましたが、そのとき本国を守っていた王妃ベレニケ2世のエピソードは、かみのけ座に結びついています。 左のコインは、紀元前2世紀のフェニキアの都市マラトス(現在のレバノン)のコイン(21mm)で、表にはベレニケ2世とされる女性の肖像、裏には都市の守護神マラトスが刻まれています。
一方、マケドニアは、アレクサンドロス大王の武将だったアンチゴノスの子孫が支配するようになりました。 その最後の王がペルセウスで、右のコイン(18mm, 4.8g)では表に英雄ペルセウス、裏にはゼウスの象徴であるワシが、これもゼウスの武器である雷撃の上に乗っていて、更にその下には6本の光芒をもつ星が描かれています。
ペルセウスは、ピュドナの戦い(紀元前168年)でローマに破れ、マケドニアはローマの属州になってしまいました。 この戦いの前夜、月食が見られ、王の消滅の前兆とされました。
3.紀元前のローマ
伝説によると、ローマは紀元前753にロムルスによって建国されました。 ロムルスはレムスと双子で生まれ、狼によって育てられたといいます。 左のコインは、それよりはるか後、コンスタンティヌス大帝が4世紀初頭にコンスタンチノープルに遷都したときに発行された記念銅貨(19mm, 2.4g)です。 表にはローマの守護神・女神ローマ、裏には狼の乳を飲む双子が刻まれ、その上には2つの星が8本線で刻まれています。
ローマは紀元前500年頃に王政から共和政に移行した後も長い間、目立つような存在ではありませんでした。 しかし、紀元前3世紀中ごろにイタリア半島を統一した後、カルタゴとの死闘(ポエニ戦争)を勝ち抜いたイタリアは、紀元前2世紀には大国に成長しました。 しかし、それと同時に社会内部での格差が広がり、貴族と市民の対立による内部抗争が激化していきます。
左の紀元前109-108年のデナリウス銀貨(20mm, 3.9g)は、そんな時代に作られたもので、表に光芒を放つ太陽神ソル、裏には2頭立ての馬車に乗る月の女神ルナと、三日月、4つの星が描かれ、ファンタジックなデザインになっています。
Marshall Faintichは、このコインが紀元前109年6月17日の月と金星、火星、木星の会合を記念したものだ、という説を立てています(Planets and Stars参照)。 しかし、この時代のローマは、まだ占星術は盛んではありませんでしたし、星々は月の女神と馬車以外の空白を埋めただけのようにも見えます。
紀元前1世紀には、ローマは地中海世界を支配下に収めましたが、最後まで抵抗したのがポントス(黒海南岸、現在のトルコ北部)の王ミトリダテス6世でした。 彼は、スラやポンペイウスといったローマの指導者を相手に、約30年間戦いましたが、最後は自殺に追い込まれました。
右のコインは、このミトリダテス6世の支配下にあったアミソスという都市のコイン(24mm, 7.5g)で、表にはアイギス(盾に打ち付けられた怪物メドゥーサの頭)、裏にはシュロの枝(勝利のしるし)を持った勝利の女神ニケ(英語読みはナイキ)が描かれています。
彼の息子のファルナケス2世もローマに反抗しますが、カエサルの迅速な進軍の前に敗れます。 このとき、カエサルがローマに送った報告が、有名な「来た、見た、勝った」で、ラテン語でも“Veni, vidi, vici”と韻をふんでいます。 余談ですが昔、関西ローカルの電気店のCMで、「来た、見た、買(こ)うた、の喜多商店」というフレーズがありました(喜多商店のホームページでは、「来た、見た、買った」になっています)。
都市国家だった頃には有効だった政治体制も、大国となったローマにとっては不向きなことが明らかになってきました。 紀元前49年、ルビコン川を渡ったユリウス・カエサル Julius Caesar は独裁官となり、1年が365日、4年に1度うるう年を入れるユリウス暦も導入しました。 しかし、カエサルは共和政を守りたいブルータスらによって暗殺されてしまいます。
突然、彗星が出現したのは、その直後のことでした。 後継者のオクタヴィアヌス(アウグストゥス)は、それをカエサルが神となって、その魂が天に昇っていく印だと考えました。 オクタヴィアヌスはカエサルの親戚(姪の息子)でしたが、カエサルの養子になっていました。 そこで、自分は神の息子に当たると主張することで、後継者争いのライバルであるマルクス・アントニウス(マーク・アントニー)に対して優位に立とうとしたのでした。
マルクス・アントニウスとクレオパトラをエジプトで破り、尊厳者を意味するアウグストゥスの称号を受けたオクタヴィアヌスは、紀元前17年ころに別の彗星(または流星;中国の記録では、この年には彗星は出現していない)が現われたときに、カエサルの魂が戻ってきたことを記念して、デナリウス銀貨(20mm, 3.8g)を作らせました(右図)。
デナリウス銀貨は、紀元前200年頃から3世紀始めまでのローマの基本通貨で、この時代の労働者の日給がほぼ1デナリウスでした。 直径が20mm、重さは3.5〜4gくらいですので、100円硬貨(22.6mm, 4.8g)より一回り小さいくらいです。 現在イスラム諸国で使われている通貨単位のディナールは、このローマのデナリウスが語源です。このコインが発行された年にはアウグストゥスは46歳になっていましたが、コインの表に描かれた肖像は、イメージ戦略として若々しいままです。 裏には8本の光芒を放つ星が刻まれて、その一本には彗星の尾を示す房々がつけられています。 彗星と共に「神君ユリウス」を意味する銘文(D)IVVS IVLIVS(当時のアルファベットには"J"と"U"が無かったので、IVLIVSはJULIUSと読める)も刻まれています。 もともとローマには人間を神格化する思想はありませんでしたが、アウグストゥスもカエサルにならって死後に神格化され、以後、善政を布いた皇帝は死後に神とされるようになります。 英語で7月はジュライ July、8月はオーガスト Augastですが、これはカエサルと初代皇帝アウグストゥスにちなんでいます。
4.やもめの献金
ローマで、アウグストゥスがローマ帝国の基礎を築いていたとき、ローマ帝国の属州ユダヤで、一人の男が生まれました。 この男・ナザレのイエスは、ユダヤ教の元では無視され差別されていた、貧しい人や虐げられている人々に手を差し伸べ、この世の終わりが近いことを説き、洗礼をすすめていました。
『新約聖書』「マルコによる福音書」には、イエスがエルサレムの神殿にいた時のこととして、次のような話があります(12:42-44、「ルカによる福音書」21:2-4にも同じ話が見えます)。
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ていると、大勢の金持ちがたくさん入れていました。ところが、一人の貧しいやもめ(寡婦:夫を亡くした妻)が来て、レプトン銅貨2枚を入れました。 イエスは、弟子たちを呼び寄せて、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。みなは有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(新共同訳を一部改変)
やもめが献金した銅貨の種類について聖書はこれ以上は伝えていませんが、アレクサンドロス・ヤンナイオス(在位:紀元前103年−73年)の銅貨が、それに当たると考えられています。 ハスモン朝の王だった彼が作らせたレプトン銅貨は、彼の死後も長い間流通し続けましたが、このレプトン銅貨の額面は低く、パン一斤が200レプトンしたといいますから、今の一円程度の価値しかなかったのでしょう。 そこで、やもめが献金した銅貨としてふさわしいと考えられているのです。 ![]()
一枚一枚の作りは荒く、形は円形からはずれ、模様も読み取りにくいものが多いですが(上図、平均14mm,1.1g)、表には錨が(左の1枚)、そして裏には輪の中に8本の光芒を持った星が刻まれています(右の2枚)。 ただし、これは星ではなく車輪を表しているとする説もあります。 しかし、車輪にしてはスポークと中心の車軸が接続していないこと、これまで見てきたようなローマの星と同じ形をしていることから、星の可能性が強いと思われます。 イエスも説教だけして生きていたわけではなく、日常生活ではこのようなコインを握り締めて細々した買い物をしていたのでしょうか。
5.帝政ローマ
カエサルとアウグストゥスの血統は紀元68年にネロが自殺に追い込まれたことで絶えますが、その後の5賢帝の時代(96〜180年)までは、パクス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれ、国境地帯の小競り合いを除けば戦争も無く、経済的にも文化的にも繁栄を続けた黄金時代でした。
右のコインは、5賢帝の1人ハドリアヌスの銀貨(20mm, 3.0g)で、表に皇帝の肖像、裏に星と三日月が刻まれています。 星は7本線で描かれていますが、星の線の本数は普通、6本や8本など偶数で、このように奇数なのは非常に珍しいです。 また、銘文の“COS III”(3度の執政官Consul 就任)との位置関係から、三日月は星の真下の位置にデザインされていたようです。
ハドリアヌスは帝国内の属州(といっても、それぞれが現在の国ぐらいの広さがあった)を精力的に視察した一方、美少年のアンティノウスを愛する一面もありました(わし座参照)。
五賢帝の最後、マルクス・アウレリウス帝の長男コンモドゥスは、父の死後に皇帝になりましたが、コロッセウムで剣闘士のまねばかりしている悪帝だったので、暗殺されてしまいます(映画グラディエーターの敵役のモデルにもなりました)。
暗殺後の混乱を収拾したのが、軍人皇帝セプティミウス・セウェルスです。 彼はまだ帝位に着く前に一人目の妻を失っていましたが、後妻を選ぶときには占星術に頼り、ある女性のホロスコープが皇帝に就く印だと知って、その女性と結婚したといいます。 彼女の実家はシリアのエメサにある太陽神エラガバルスに仕える神官の家系でした。
彼女のお陰か、セプティミウス・セウェルスは配下の軍団に推されてローマ皇帝となり、セウェルス朝を開きましたが、彼のデナリウス銀貨では(右図、18mm, 2.2g)、三日月の上に6本線の星が7個描かれています。
大浴場建設で有名なカラカラは、セプティミウス・セウェルスの長男で、始めは弟のゲタと共同統治していましたが、すぐにゲタを暗殺し、一説によるとゲタの関係者2000人を粛清したといいます。 カラカラは遠征の途中で、用を足しに護衛兵から離れた所を暗殺されました。 カラカラの銅貨(19mm,3.1g)の裏にも、三日月と5個(分かりにくいですが)の星が描かれています。
その後、帝位に就いた「戴冠せるアナーキスト(シュルレアリスムの詩人アントナン・アルトーによる命名)」エラガバルスは、セプティミウス・セウェルスの妻の実家で育った太陽神の神官でした。 その御神体は隕石とされる黒い石で、エラガバルス帝とともにシリアからローマに運ばれました。 少年皇帝エラガバルスは、処女が義務付けられていたウェスタ神殿の巫女と結婚したばかりでなく、女装して奴隷の男と交わることまでしました(コインは星とは関係ありません。裏は幸運の女神フォルトゥナです、20mm)。
さすがにエラガバルスの治世は4年で終わりましたが、セウェルス朝は次に即位したセウェルス・アレクサンデルで絶えてしまいます。 この時代は、まだ外敵に対しては優位に立っていましたが、帝国内部では軍の発言力が強まっていった時代でした。6.軍人皇帝時代
セウェルス朝の後は、50年の間に26人の皇帝が立つという軍人皇帝時代に入ります。 軍人皇帝の一人ガリエヌスは、父のヴァレリアヌス帝がペルシアの捕虜になった後から単独統治をはじめましたが、ゲルマン民族の侵入に加えて、帝国の東西で独立勢力が自立し、ローマ帝国は崩壊の危機にありました。 ここに挙げたガリエヌスのコインは星とは関係ありませんが、裏にレイヨウ(左から2番目)、グリフィン(想像上の動物;同3番目)、パンサー(同4枚目、右の2枚は裏のみ表示しています)が描かれた、動物園シリーズの中の3枚です(平均 20mm, 2.6g)。 これらのコインは銀貨ということになっていましたが、極度の財政難で銀の含有量は5%程度まで下落していました。
彼が統治した頃に生きていたとされるのが、聖ヴァレンチヌス(ヴァレンタイン)です。聖ヴァレンチヌスは結婚が禁止されていた兵士を内緒で結婚させたために殉教し、聖人になったとされますが、実際には兵士の結婚はこの時代には認められていましたし、殉教したのが2月14日というのも中世に作られた伝説に過ぎません。
7.後期ローマ帝国
この危機を克服したディオクレティアヌス帝はキリスト教徒への大迫害を行いましたが、その次のコンスタンティヌス大帝は一転してキリスト教を公認します(313年のミラノ勅令)。 そのきっかけになったとされるのが、キリスト教公認の前年のミルウィウス橋の戦いです。 ブリテン島(イギリス)に遠征中に死んだ父の跡を継ぐ形で、皇帝に名乗りを上げたコンスタンティヌスでしたが、ローマではマクセンティウスが皇帝に立っていました。 両者はローマ近郊のミルウィウス橋で決戦を行いましたが、この時にコンスタンティヌス軍は、空にキリストの印を見て勝利を得たと伝えられています。
右図は、敗れたマクセンティウスが生前に発行したフォリス銅貨(24mm, 6.9g)です。 この頃には銀が枯渇していたので、発行されたのは金貨と銅貨がほとんどでした。 フォリス銅貨は銅貨の中でも一番大きく、だいたい500円硬貨と同じくらいです。
コインの裏には、馬を引くディオスクロイ(双子)のヘルメットの上に、珍しい+型の星が輝いています。 ディオスクロイは、ふたご座になったカストルとポルックスの兄弟ですが、古代のコインにも度々登場します。 ローマがまだ小さな都市国家だった紀元前500年ころ、彼らが加勢に加わったことでローマ軍が勝利したという伝説も残っています。 しかし、マクセンティウスには、ディオスクロイの加護はありませんでした。
コンスタンティヌス大帝は30年に渡って独裁皇帝として君臨し、帝国の再編成に努めました。 そして、ローマからコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に遷都し、3.紀元前のローマの最初で紹介した記念コインを発行しました。
また、右のコイン(19mm, 2.9g)では、表に皇帝の肖像、裏には星の下にキャンプゲート(campgate;国境付近に建てられた監視塔を表したとされる)が描かれています。 この時代の皇帝の肖像は首が太く、頑丈な姿で描かれていて、人々が皇帝に求めたものが分かります。
コンスタンティヌス大帝の死後、彼の子孫が何人か皇位を継ぎましたが、その一人コンスタンティウス二世は大帝の三男でした。 彼は外敵の侵入が多発しているにもかかわらず、政治は宦官に任せ、近親者や政府高官を粛清した暗愚の皇帝とされます。
彼の銅貨(15mm, 2.8g)の裏には、地球に乗るフェニックスと、その右横に8本線の星があります。
その後、ゲルマン民族の大移動が始まり、ローマ帝国は東西に分裂し(395年)、西ローマ帝国は476年に滅びますが、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は1453年まで生き延びることになります。
* * ここまで見てきたように、ギリシア・ローマのコインの星は、中心の小円から少し離れた所から光芒が放たれるタイプと、交差する何本かの線で表わされるタイプの2通りあります。 前者の光芒の本数は、16本(ギリシアのガンブリオンのコイン:1章)、8本(アウグストゥスの彗星:3章:など)の他に、10本や6本の場合もありました。 後者の線の本数は6本と8本線が主ですが、稀に4本線もあります(この章のマクセンティウスのコイン)。 後者のタイプの方が本数が少なめなのは、前者が大きく描かれるのに対して、このタイプはスペースが小さいときに採用されたためでしょう。
光線の本数が7本と奇数になっているコインも稀にありますが(ハドリアヌスのコイン:5章)、ほとんどが偶数で、これは他の地域や時代と同様の傾向です。8.パルティアとササン朝ペルシア
ローマ帝国の東方での長年のライバルとなったのが、パルティアとササン朝ペルシアです。 ローマとの間で何度も戦争になりましたが両者とも決定打は無く、結局、国境線はほとんど動かないままでした。
パルティア王国は、イラン系遊牧民がセレウコス朝シリア(アレクサンドロス大王の配下の武将セレウコスが建てた国)から自立した国(前248頃〜後226)です。 右に挙げたコインはフラアテス4世 (在位38? - 2 B.C)のドラクマ銀貨(19mm, 3.7g)で、ひげを生やした王の左上に三日月と星が刻まれています。 彼はローマのマルクス・アントニウス(マーク・アントニー)との戦いに勝ちましたが、その後アウグストゥスとは和睦しています。 父親と兄弟を殺して王位についたフラアテス4世は、妻と息子に殺されました(パルチアでは、よくあることですが)。 他の王のコインでは月や星が無かったり、月と星の位置関係が違っていたりします。
このパルティア王国を滅ぼしたのがイラン人の国ササン朝ペルシア(226〜651)です。 ササン朝ペルシアは西はローマ帝国、東は中国と交流し、日本の正倉院にも白瑠璃椀や漆胡瓶などササン朝からの伝来品が収められています。
上のドラクマ銀貨(31mm, 4.2g)はホスロー2世(在位590-628)のもので、彼はササン朝の最盛期を迎えたホスロー1世(在位531-579)の孫に当たります。 ホスロー2世はビザンティン帝国からシリアとエジプトを奪いましたが、ビザンティン帝国皇帝ヘラクリウスに逆襲されてしまいました。 しかし、ササン朝の真の敵は、この頃から急速に勢力を拡大し始めたイスラム教徒で、ホスロー2世の死の23年後に滅亡してしまいました。 ![]()
ホスロー2世のコインには、丸い枠の四方に三日月と星の組み合わせがあり、円の中の王の肖像の上方にも三日月や星が見えます。 裏には、ゾロアスター教の火の祭壇の両側に二人の祭司がいますが、祭司は三日月型の頭飾りをつけ、その頭上にも月と星が輝いています。 これらのコインの星も、ローマと同様に6本線と8本線で描かれています。
上の2つのドラクマ銀貨は重さはそれほど変わりませんが、ササン朝のコインの方がはるかに大きく、その分薄っぺらになっています。 ドラクマは古代ギリシアの通貨単位でしたが、アレクサンダー大王の東征後、東方に広がり、パルチアやササン朝ペルシアで使われ、現在のモロッコなどの通貨単位ディルハムの語源にもなっています。
9.中世スコットランド
日本でのイギリスという呼び名の元になったイングランドは、ブリテン島(イギリス本島)の南部を占めるにすぎず、北半分はスコットランドになっています。 ローマ帝国がブリテン島の南半分を支配したのに対して、北半分はその勢力外にあったことが、両者の起源です。 スコットランドは長年イングランドに苦しめられていましたが、13世紀のスコットランド王アレクサンダー3世(在位1249-1286)は、イングランドと対等に渡り合い、攻めてきたノルウェー王ハーコン4世を撃退した名君として知られています。
彼のペニー銀貨(右図、19mm, 1.3g)には中心に○のある☆が刻まれています(右図)。 しかし、当時は☆が星のシンボルとして使われるのは稀だったこと、紋章では☆は馬の拍車とされたことから、コインの☆も拍車を表していると思われます(星のしるし5章も参照)。
アレクサンダー3世が急死した時には、世継ぎに先立たれていたので、スコットランドは再び混乱とイングランドへの服従の時代に逆戻りしてしまいました。
リンクここで紹介したコインは数も少なく、全般的な収集を目的としているわけでもないので、コイン全般については以下のページをご覧ください。
コインの散歩道:古今東西のコインについてのコラム集
古代ローマ:皇帝別のコインやローマコインの豆知識など
主要参考文献
クリス・スカー 青柳正規監修 『ローマ皇帝歴代誌』 創元社
長谷川岳男・樋脇博敏 『古代ローマを知る事典』 東京堂出版
2006年イデス・オブ・マーチ バージョン1.0 イデス・オブ・マーチ The Ides of March は3月15日のことで、カエサルが暗殺された日です(もちろん、ユリウス暦で)。 ローマの暦はユリウス暦以前は太陽太陰暦で、イデスは満月の日のことです。 イデスは、ユリウス暦になってからも日にちの呼び方として残っていました。
2007年5月9日 バージョン1.2
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