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ここでは、『更級日記』にみえる人魂が、実は流星ではないかという話をします。
まずは、『更級日記』の紹介から。 「あづま路の道のはてよりも、なお奥つ方に生い出でたる人」で始まるこの作品は、国司の娘として生れた菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ、1008−1059−年)の、回想の手記です。 関東で育ったあと13才で上京し、源氏物語を読みふけり、33才という当時としては遅い結婚、出産をします。 問題の人魂は、作者が50才の時、夫が国司として信濃へ赴任するところで、出てきます(作者は京都に残ります)。見送りに行った家人(けにん)たちが帰ってきて、「たいそうごりっぱにお下りでした」などと言って、「この明け方に、非常に大きな人魂が空に現れ、京の方へ飛んでいきました(この暁に大きなる人だまのたちて、京ざまへなむ来ぬる)」と報告したが、私は、供の者の誰かの人魂だろうと思っていた。 およそ、不吉な前ぶれなどとは思ってもみなかった。 (犬養廉訳)しかし、その後、夫は任期半ばで京都に戻り、その翌年に亡くなってしまいます。 人魂の注としては、僕が見た範囲では全て「人の魂が抜け出して飛ぶ火の玉。人の死の前兆として忌まれた」などとなっていますが、これは実は流星ではないかと考えています。辞書で人魂を引くと、「流星の俗称」という意味もあります。例えば、『更級日記』の時代に近い延長八年(930年)の記録に
流星、艮(うしとら、東北)より差し渡る。俗に人魂というなり。『扶桑略記』
というものがあり、この時代に流星を人魂といったことが分かります。次に、人魂の飛ぶ高さについてです。 民俗学での人魂の目撃例では、人魂はあまり高いところを飛ばず、屋根の上に飛んでいった、とか、あぜ道に沿って飛んでいったという表現になります。 古典では、人魂が「北壷呉竹のあたり(北の庭の竹が生えているところ)」に飛んだ(『明月記』)、といった表現がこれにあたります。 一方、『更級日記』の「京ざまへなむ来ぬる(京都の方へ飛んでいった)」という書き方は、もっと高いところを飛んだ感じがします。
流星が飛んだときの表現としては、方角(東より西へ)や星座名(七星より出づ)が多いですが、中には地名を使って、
三笠山に大なる光物(ひかりもの、流星のこと)あり。『玉葉』流星、紀伊山方に出で福原(今の神戸の地名)東北山に入る。『百練抄』
という例もあります。このように、『更級日記』の時代に流星を人魂といった例があること、「京ざまへなむ来ぬる。」という表現は流星のほうがふさわしいことから、『更級日記』の人魂は流星である可能性が高いのではないか、と考えています。
流星を人の死に結び付ける考えは、日本以外にも多くあります (凶兆としての流星参照)。 しかし、外国の伝承では人間と星が対応関係にあって人の死とともに落ちる、つまり人と流星は別のものと考えているのに対し、日本では流星は人間の魂そのものであると思われていたようです。
主要参考文献 犬養廉 ほか校注『和泉式部日記 紫式部日記 更級日記』 小学館
『古事類苑』
『広文庫』
この項は 京都天文めぐり第4回会合で発表したものに加筆・訂正を加えたものです。