7月号
「藤原定家は超新星を見たか?」

1.はじめに

 太陽より8倍以上の重い星は最後に超新星爆発をおこし、その一生を華々しく終えます。現在かに星雲(M1)として知られる星雲はそのような爆発の残骸で、年を隔てて撮った写真を比べると今も膨張しているのが分かります。その超新星の記録が中国、そして日本の藤原定家の日記『明月記』に残っていて、それがきっかけとなって爆発の起きた年が1054年と分かりました。しかし、定家が生まれたのは1162年ですから、超新星の出現より100年以上も後のことです。実はこの超新星は、定家が実際に見たわけではなかったのです。定家といえば『新古今和歌集』の選者の一人で、『小倉百人一首』を編んだ和歌の第一人者です。そんな彼がどうして超新星の記録を残したのか、彼と陰陽道のつながりを中心にお話しします。


NASAのフォト・ギャラリーより、地上の望遠鏡で撮ったかに星雲の合成カラー画像(左)と、ハップル望遠鏡で撮った中心部(右、単色像)。中心少し上に2個横に並んでいる星のうち、左側の星がパルサー。かに星雲までの距離は約7000光年で、大きさは約10光年。
by Jeff Hester, Paul Scowen, and NASA

2. 客星の記録

 その記録は定家69才の時、寛喜2(かんぎ;1230)年11月(以下、日付は全て旧暦です)に出現した客星の所に出てきます。客星とは、普段見慣れない星のことで、超新星、新星、それから彗星も含みます。この年の客星は彗星でした。11月4日には定家自身この星を見て、「この星朧々として光薄し。その勢い小にあらず。」と記しています。  11月8日には、「客星の事、不審により泰俊朝臣(やすとしあそん)に問う。返事かくのごとし。」とあり、この日の末尾に挙げられた過去の客星出現例8例の中にかに星雲のもととなった超新星があります (ここに出てくる泰俊については次の章で紹介します) 。

後冷泉院・天喜2 (1054)年4月[5月]中旬以後の丑の時、客星觜(し)・参(しん)の度に出づ。東方に見わる。天関星に孛(はい)す。大きさ歳星の如し。
 丑の時は午前2時頃、觜と参は中国の星宿(星座)の名前で、それぞれ現在のオリオン座の頭と三ツ星にあたります。天関星はおうし座のゼータ星のことで、歳星(木星)のように輝いた、ということです。また、4月中旬には超新星は太陽に隠れて見えないはずなので5月中旬と訂正する必要があるそうです。これらの情報は、陰陽寮で過去の記録を調べ、その結果を安倍泰俊(あべやすとし)が定家に知らせたものだと思われます。

3. 安倍泰俊について

 安倍泰俊は陰陽寮に属する漏刻博士で、『明月記』に10回以上登場します。泰俊は客星などの天変を知らせる他に、定家のために「鬼気祭(ききさい)」や「泰山府君祭(たいざんふくんさい)」、「土公祭(どこうさい)」といった怪しげな陰陽道の祭りをとりおこなっています。更に、方違えのアドバイス(不吉とされる方角へは行かないように)や新築中の家の棟上げの日時を決めたり、はてはネズミが定家の家の畳を食い破ったことについても占っています。マンガや小説と違って、実際の陰陽師はこのような活動をしていたようです。  陰陽道は当時の人々の生活を支配していました。そして、日食をはじめとする天変も、不吉なもの、政治の失敗を示すもの、という風に陰陽道によって解釈されたのです。『明月記』にも「客星の事、上下(の人々)殊に驚き恐るる」や「甚(はなは)だ不吉」などと書かれています。  定家は、泰俊のような陰陽道の専門家とのつながりの中で、天変の知らせを受けたり、過去の客星の出現例を入手していました。ですから、定家が超新星の記録を残したといっても、現代の天文学的な興味を持っていたわけではなかったのです。

4. 冷泉家の七夕

 『明月記』は応仁の乱などの戦乱時にも子孫によって守られ、現在の冷泉家に伝わり、2000年に国宝に指定されました。その冷泉家では旧暦の七月七日に乞巧奠(きっこうでん)が行われます。芸事が巧みになるように星に乞い願い、供え物をして祭る(奠)という意味です。この日、「星の座」が作られ星への手向けの品が置かれます。そして天の川に見立てた白い布が敷かれ、その両側に織姫と彦星になった男女が向かい合って座り、和歌を詠み交わします。この乞巧奠の行事が変化して、今私たちが親しんでいる七夕になったのです。


定家の別荘のあった嵯峨野の厭離庵付近から小倉山を望む

(臼井 正:京大宇宙物理学教室)

Copyright 2000 大阪市立科学館
All Rights Reserved



目次