藤原定家:超新星と陰陽道

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目次
1. はじめに  / 2. 定家の生涯  / 
3. 斉藤国治著『定家「明月記」の天文記録』の紹介  / 
4. 客星出現  / 5.かに星雲の記録  / 6. 安倍泰俊について
7. 超新星と陰陽道  / 8. 月と和歌  / 9. 定家の遺産  / おまけ. 冷泉家の七夕



1. はじめに

 太陽より8倍以上の重い星は最後に超新星爆発をおこし、その一生を華々しく終えます。 現在、かに星雲(M1)として知られる星雲はそのような爆発の残骸で、違った年に撮影した写真を比べると今も膨張しているのが分かります。 その超新星の記録が中国、そして日本の藤原定家の日記『明月記』などに残っていて、爆発の起きた年が1054年と特定されています。 一方、現在の膨張する早さから逆算すると爆発したのが1130±20年と推定されていて、この差はガスの膨張が加速しているためと考えられています。 ちなみにメシエは彗星を観測中に、かに星雲と彗星を混同したために星雲・星団のカタログ作りを思い立ったそうです。

 ところで、定家が生れたのは1162年ですから、超新星が出現してから100年以上も後のことになります。 実はこの超新星は定家が実際に見たわけではなかったのです。 藤原定家といえば『新古今和歌集』の撰者の一人で、百人一首を編んだ和歌の第一人者です。 そんな彼がどうして超新星の記録を残したのか、彼と陰陽道のつながりを中心にお話しします。

NASAのフォト・ギャラリーより、地上の望遠鏡で撮ったかに星雲の合成カラー画像(左)と、ハップル望遠鏡で撮った中心部(右、単色像)。 中心少し上に2個並んでいる星のうち、左側の星がパルサー。 かに星雲までの距離は約7000光年で、大きさは約10光年。 Courtesy of Jeff Hester, Paul Scowen, and NASA

2. 定家の生涯

 定家は藤原俊成の子として1162年に生まれ、19才の時から『明月記』の記述がはじまります。 当時の日記は今と違って、儀式の詳細を書きとめ子孫に伝えるためのものでした。 定家が生きたのは、源平の争いから鎌倉幕府の成立、承久の乱と激動の時代でした。 青年期までは裕福でしたが、歌人として活躍し『新古今和歌集』の撰者をしたころは、官位の昇進もなく経済的にも苦しかったようです。 晩年になってやっと官位も上がり余裕のある生活を送れました。 そして『小倉百人一首』を選んだりして余生を過ごし、80才でその生涯を閉じます。

 定家の別荘のあった嵯峨野の厭離庵付近から小倉山を望む。 右の建物は、慈眼堂(じげんどう;別名、中院観音)で、定家の持念仏とされる木造千手観音を本尊としています。

3. 斉藤国治著『定家「明月記」の天文記録』の紹介

 この本には『明月記』中の天文記録143例をあげて、検算できるものはパソコンを使って検証しています。143例の内訳は

1. 日・月食 :33例
2. 月・惑星の食犯:27例
3. 客星・彗星:13例
4. 初月・終月(2日月は見えなかった。3日月が見えた。など):48例
5. その他(金星昼見・流星・赤気(オーロラ)・白虹・老人星・奇星など):22例
で、1.は主に暦から、2.と3.は主に司天官(陰陽寮の関係者を定家はこう呼んでいることが多い)から情報を得ていて、4.は自分で見た結果を書きとめたようです。 日食の的中率は40%、月食では70%程度で、日食の場合は月の視差を考えないといけないので、月食の予報より難しかったのです。 実際に食が起きなくても、暦に書いてあれば、そのまま食があったと書き記しています。 月や惑星の食や犯(接近)は、予報はできず実際の観測によっていたので、かえって検算の結果とよく合っています。

4. 客星出現

 かに星雲のもととなった超新星の記録は定家69才の時、寛喜二年(1230年)に出現した客星の所に出てきます。 客星とは、普段見慣れない星のことで、超新星、新星、それから彗星も含みます。 この年の客星は彗星でした。 以下、その時の経過を『定家「明月記」の天文記録』をもとに簡単にまとめます。

 客星の記述が初めて出てくるのは十一月一日(以下、日付は全て旧暦)のことで、十一月四日には定家自身この星を見て、「この星朧々として光薄し。その勢い小にあらず。」と記しています。 続いて「去る二日、泰俊朝臣示送す。」として彼からの報告が書かれていますが、その中に「当時のごとくば、客星の条不審なし(今のような時世では客星が出現しでも不思議ではない)」とあるのは、この年と次の年にかけて起きた記録的な飢饉のことを指すと思われます。

 十一月五日には、「備州来たり、客星の事上下殊に驚き恐るる由、粗々これを語る。」の後に、客星の先例として5例挙げられていますが、このなかにはかに星雲のもととなった超新星はふくまれていません。 これらの客星が出現した年の出来事を調べた結果、1例だけは皇子誕生のみで何事もなかった、つまり残りの4例はやはり不吉なことが起こった、とあります。

 十一月八日の末尾に客星出現例として、かに星雲の記録を含めて8例が挙げてあります。 この中には、1006年のおおかみ座の超新星と、1181年のカシオペア座の超新星も含まれていて、これらは現在電波源やエックス線源と同定されています。 この日の記述については、次節で詳しく紹介します。

5. かに星雲の記録

 2002年冬に京都文化博物館で「冷泉家展」が開かれ、『明月記』も全巻公開されました。 客星記録の部分も広げられていて、実見する機会に恵まれました。 興味深いことに、客星出現例のある十一月八日条では、一日の記述中に3種類の書体が使われていました。 以下の引用(オリジナルの漢文を読み下したもの)のフォントと文字の大きさの違いは、オリジナルでの違いを表しています。

八日乙未、霜凝(こ)り、天晴る。北山雪白し。客星の事、不審により泰俊朝臣に問う。返事かくのごとし。暁夕東西の条、驚きて余りあり。
客星、一昨日の夜前全く現じ候い了(おわ)んぬ。 出現以後、去る二日、陰雲不見に候う。… 暁夕東西に出現し候うの条、もっての外に候う。
客星出現例

後冷泉院・天喜二年(1054年)四月[五月]中旬以後の丑の時、客星觜(し)・参(しん)の度に出づ。 東方に見(あら)わる。 天関星に孛 (はい)す。 大きさ歳星の如し。

(この後、再び最初の書体に戻る)
 このかに星雲の記録中、丑の時は午前2時ごろ、觜と参は28宿中の星宿名でいずれもオリオン座にあって、客星がこれらの星宿と同じ赤経に出た、天関星はおうし座のゼータ星、歳星(木星)のように輝いた、ということです。 また、四月中旬には超新星は太陽に近い位置にあって見えないはずなので五月と訂正する必要があるそうです(天喜二年五月中旬は、ユリウス暦で6月19−28日に相当します)。 又、歳差(地球の首振り運動)のため、太陽と星座の位置関係は、当時と現在の同じ日では異なっています)。

 又、「觜・参の度」の「度」は、他の記録に「彗星、尾(び:さそり座のしっぽ)の度、貫索(かんさく:かんむり座)に近く見わる」などとあるように、28宿の星座で赤経をおおまかに表わすのに使われたようです。 1054年の超新星の記事の場合、觜(オリオンの頭)と参(三ツ星)の赤経はほとんど変わらないので2つを併記したと思われます。

 右の画像は大阪府枚方市の久修園院(くしゅうおんいん)で保存されている、江戸時代の銅製の天球儀です(画像をクリックすると、拡大画像がご覧になれます)。 画像の中央上に「天関」(実際には、「関」の旧字)の字が見えます。 その左はヒアデス、右は現在のふたご座、下はオリオン座(三つ星は星の鋲が欠けています)です。 天球儀に引かれている経線に相当する線は、28宿のそれぞれの範囲を示していて、それらが西洋の黄道十二宮と違って等分されていないこと、觜宿の範囲が極端に狭い(ほとんど二重線になっている)ことが分かります。

 この十一月八日条の書体の違いについて博物館に問い合わせた所、学芸員の土橋誠さんから丁寧な回答を頂きました。 それによると、この部分は陰陽寮から届いた書状を日記の紙継ぎの部分で挟み込んでいる、つまり、ここは定家が書いたものではなく、陰陽寮の官人が書いたと見られる、とのことでした。 個人的には十一月八日の2番目の書体は安倍泰俊が書いて、3番目の書体は陰陽寮の同僚が書いたのではないかと想像していますが、土橋さんはそこまで踏み込んではいません。
 また、日記の部分と陰陽寮の書状は違和感無くおさまっていましたが、当時の紙のサイズは紙漉きの道具の大きさによって規制され、手紙(書状・消息)は懐紙というサイズがよく使われていた、そして、『明月記』もそのような懐紙を使って貼り継いでいた、とのことです。
 これまでは専門家でも現物を見る機会がほとんどなかったらしく、定家の超新星の記録を紹介した文章でも、定家が自分で書き写したことになっていましたが、これで、定家が記録を残した経緯が、また少し明らかになったと思います。

6. 安倍泰俊について

 過去の客星の情報は、日記に明記されているように安倍泰俊から得たものでしたが、彼と定家とはどのような関係だったのでしょうか?
 『明月記人名辞典』で調べると、安倍泰俊は陰陽寮に属する漏刻博士で、嘉禄元(1225)年(定家64才)から寛喜3年(1231年、定家70才)にかけて、『明月記』に10回以上登場することが分かりました。 養父の安倍泰忠も、建仁3年(1203年、定家42才)から寛喜3年(1231年、定家70才)に亡くなるまで同じくらい出てきて、定家に何度か天変を知らせています。
 泰俊が登場する所をまとめると次のようになります。

 このように定家と泰俊はひんぱんにやりとりがあり、その多くが陰陽道にかかわることでした。 マンガや小説で活躍する陰陽師と違って、実際の陰陽師はこのような活動をしていたようです。

7. 超新星と陰陽道

 陰陽道は、中国の陰陽・五行説にもとづいて陰陽と五行(木火土金水)の循環によって森羅万象の変化を説明し、予測する体系です。 そこに、政治が乱れると天変として警告を受けるという考えが加わり、天文とのつながりが生れます。 当時の日本では、陰陽寮が陰陽道に関することをつかさどり、人々は陰陽寮が発行する暦に従って、物忌み(外出をひかえる)や方違え(不吉とされる方角へは行かない)をしていました。 また陰陽寮に属する天文博士たちが天変がないかどうか観測していました。 そして天変が起きると大赦を行ったり、神社や寺でお祈りが捧げられたりしていました。 このように陰陽道は人々の生活を支配していたのです。

 『明月記』にも「客星の事、上下(の人々)殊に驚き恐るる」「甚だ不吉」「今日十三社奉幣(客星御祈り)」などとあり、貴族ばかりでなく広い層の人が天変に注目し、また恐れていたことがわかります。 又、過去の客星出現の年を調べても、何事も無かったのは1例だけだった、とあります(前出4.の十一月五日条)。 陰陽遼では天変が起きると、報告書(天文勘文)を朝廷に出すことになっていて、そこには色々な本に書いてある占いの文章とともに、過去の前例も書かれていました。 そのため、陰陽寮では彗星や客星の出現リストが作られ、興味を持った貴族にも配られていたようです(詳しくは、『明月記』と『一代要記』または、彗星リストと客星リストを参照)。

 定家のような貴族は暦を見るほかに、泰俊のような陰陽道の専門家とつきあっていて色々なアドバイスを受けていました。 貴族と陰陽師との個人的なつながりは、定家に限らず当時はよくあったことで、たとえば藤原道長は、安倍晴明・賀茂光栄・安倍吉平(晴明の子)を個人的に用いていることが、日記の記述から分かっています。 貴族は陰陽道のアドバイスを受け、陰陽師は経済的な援助(米などの現物支給や荘園の管理職など)を受ける、という関係にあったのです。

8. 月と和歌

 以上のように星については天変として恐れることが多かったのに対し、月は非常に愛したようで『明月記』にも「東に月昇る」「月晴明」などとひんぱんに出てきます。 斉藤国治氏の集計によると月の記述は『明月記』中に500回以上出てきて、旧暦の日付(ほぼ月令に相当する)では15日が最も多く、3日が続いています。

定家の和歌にも月は多く登場し、星もわずかながら詠まれています。これは他の歌人にも共通することで、百人一首にも月の歌が12首含まれています。 ここでは、定家の月と星の和歌3首を紹介します。

なにとなく心ぞとまる山の端にことし見初むる三日月のかげ

おおぞらは梅のにほひにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月
(大空は梅の芳香でかすんで、といってもそのために曇りきってもしまわない春の夜の月よ)

風のうへに星の光は冴えながらわざとも降らぬ霰をぞ聞く
(風の吹く空の上に星の光は冴えていながら、時々思い出したように降る霰(あられ)の音を聞く)

9. 定家の遺産

 『明月記』は応仁の乱などの戦乱時にも子孫によって守られ、現在の冷泉家に伝わり、2000年に国宝に指定されました。
 現在の冷泉家邸宅は、寛政二(1790)年に建てられた現存する最古の公家住宅で、重要文化財に指定されています。 普段は公開されていませんが、2005年秋に特別公開されましたので、行って写真を撮ってきました。

『明月記』は今でも、敷地内の蔵(右写真)で保存されている、とのことでした。

 定家が超新星の記録を残したのは、現代の天文学的な興味を持っていたわけではなく、陰陽道にもとづいて天変を恐れていたためでした。 そして、普段からつきあいのあった陰陽寮の安部泰俊から、客星の出現例を入手して、過去に客星が出現したときに、どんな悪いことが起きたのか知ろうとしたのでした。 しかし、動機はどうあれ、日本が世界に誇る超新星の記録を定家が残し、それを定家の子孫が現在まで伝えて来たことに変わりはないのです。

おまけ. 冷泉家の七夕

 冷泉家では旧暦の七月七日に乞巧奠(きっこうでん)が行われます。 芸事が「巧」みになるように星に「乞」い願い、供え物をして祭る(「奠」)という意味です。 朝廷が中国から取り入れた儀式で、後に貴族の間に広まったものです。  その日の夕方、「星の座」に星への手向けの品が置かれ、雅楽が演奏されます。次の「披講(ひこう)の座」では和歌が詠唱されます。 そして「流れの座」になると、天の川に見立てた白い布が敷かれ、その両側に織姫と彦星になった男女が向かい合って座り、即興で和歌を詠み交わします。  この乞巧奠が変化して、今私たちが親しんでいる七夕になったのです。

*                 *

付録: かに星雲のもととなった1054年の超新星の日本での記録は、『明月記』の他にもう一つ、『一代要記』がありますが、両者の関係については『明月記』と『一代要記』または、彗星リストと客星リストに書きました。

主要参考文献

今川文雄『訓読明月記』
今川文雄『明月記人名辞典』
齋藤国治『定家「明月記」の天文記録』
堀田善衛 『定家明月記私抄(正・続)』
Nugent, R. L. ``New Measurements of the Expansion of the Crab Nebula'' 1998, PASP, 110, 831

この項は 京都天文めぐり第6回会合で発表したものに加筆したものです。

2000年5月8日 バージョン1.0
2002年3月31日 バージョン2.0
2007年4月2日 バージョン3.0
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『明月記』と『一代要記』または、彗星リストと客星リスト

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