水を意識してください

         
庄川上流の流れ

 
人間をはじめ地球上の生き物は、水と太陽が無ければ生きてゆけません。
 家の柱がこの太さに育つまで、いったい何リットルの水を吸い上げた事でしょう。
  
 今まで私は何リットルの水を飲んで命をつないで来たことでしょう。

 水は雨となって天から降ってきます。雨は集まり水となって川を下り、海に出てます。
 海は天に通じて再び神のいる天に昇り、大地を潤し生き物を育んでくれます。

 水はそのものが神様でもあります。那智大権現は滝が御神体であり、諏訪大社も水に大きく関わっている神様です。
 
 蛇口をひねれば何処でも”水”が出る今日ですが、昭和30年代までは今とはかなり様子が違っていました。
 古来より、人類の文化は水の傍でしか発展していません。チグリス、ユーフラティス川のメソポタミ文明やナイル川のエジプト文明、揚子江沿いのシナントロプスペキネンシスと命名された原始人もいました。

 雪や氷にもなり、霧や蒸気にも変化する不思議な水を汚さないようにしましょう。


  
   
南砺の山々と 庄川の水

                    
誠意と創意の庭
  
 
川の名前の由来


庄川はかつて雄神川(おがみがわ)とも呼ばれていました。これは上流にある雄神神社が由来だと言われています。また、この辺りが古くは「雄神の庄」と呼ばれていたため“雄神の庄の川”が縮まって、現在の庄川になったと言われています。
 大伴家持は
 雄神川(をかみがは)(くれなゐ)にほふ少女(をとめ)らし葦附(あしつき)採ると瀬に立たすらし
 雄神川の川面に紅の色が映っていて美しい、乙女たちが葦付を採ろうと瀬に立っているらしい。
 と万葉集に残しています。

            

 富山湾に流れ込む”庄川”は、砺波平野と射水平野を潤す恵みの川ですが、340年前の加賀藩と100年前の明治後半の大工事で現在の川が完成し、昭和15年の工事により、今日の様相があります。。
 

  

   下流の平野部で大きな恩恵を受けて生活しながらも、源流がどこか知らない人は意外に多い。
 日本列島の地図がおおよそ頭に入っているから、岐阜県の山々だろう・・・・程度が大半である。
            
             
南砺市と砺波市の境にある閑乗寺高原から。
             散居村の右側を流れるのが「庄川」、南砺市の山々を守る植樹祭の日。


 本州では普通、山々の雪解け水などを集めながら次第に流れを作って川となる。地形によっては太平洋側と日本海側を尾根を堺に、はっきり区別される場合もあるが、列島と直角方向に流れ落ち、どこかで日本海側と太平洋側に分水する場合も多い。
            

 庄川と長良川も同じ水源の水が運命の別れを繰り返している。、国道156号線沿いにある分水嶺も、東海北陸道が全線開通すれば人々の目に触れる事が極端に減るだろう。

            

                 
               蛭ヶ野高原の国道156号線沿いにある分水嶺公園
 庄川の源流

1.庄川は、岐阜県高山市南西部、旧荘川村の山中峠(1375m)の湿原を水源とする。
 
2.庄川水系の幹川は旧荘川村で合流する一色川で、飛騨高地の鷲ヶ岳(1672m)と烏帽子岳    (1625m)の間の谷を水源とする。

3.また水源のひとつ岐阜県郡上市高鷲町蛭ヶ野、ひるがの高原の湿原が分水嶺になっており   、ここで分かれるもう一方は長良川となって太平洋まで繋がっている。

 記述されたものにはこれ等3つの水源があり、どれもが庄川の水源になっているが、2番の烏帽子岳を源流とする説が通っている。
つまりどの源流も合流した時点での水量、距離などが大差なく断定的な言い方ができないのめんがあるようだが、僅かに烏帽子岳ラインが長いように見受けられます。



中央の鷲ヶ岳と烏帽子岳の間に川の図があります。また烏帽子岳と右上の山中峠の間にも川に表示があり、また蛭ヶ野高原からも川が発生しています。
蛭ヶ野高原は分水嶺であって、源流とは書いてありません。

  
  
ロックフィルダムでその名も高い御母衣ダム。上流から水量の少ないダム湖(左の平らな部分がダムの上部)

右の写真は更に10kmほど上流の岩瀬橋付近から下流を望む。水量の少なさが判る。
3〜5mの積雪を予想して水位調整のうえ冬季に備えたが、意外な暖冬で無いに等しい積雪。
夏の水不足が心配です。一時的な豪雨では清流は保てません、また地下水の枯渇も大いに懸念されます。

  

 古代には、谷口から西流して現在の小矢部市附近で小矢部川に合流していた。往古より庄川は氾濫を繰り返し、庄川扇状地の西から東へと何度もその流れを変えてきた。庄川というのは雄神の庄あたりの呼び名で、下流では野尻川、中村川、千保川、中田川など、それぞれの名で呼ばれていた。

 
後に、谷口から北流するようになり、高岡の市街地を通る現在の千保川が最も水量が多い本流となった。現在の庄川の流れは、分流の一つの中田川であった。承応3年(1654年)、瑞龍寺の寺地を千保川が削ったのを受けて、前田利常加賀藩主が千保川の水を中田川へ移すことを命じたが、 庄川左岸地域の住民の反対によってすぐには実施されなかった。寛文10年(1670年)、前田綱紀によって庄川扇状地扇頂部の弁才天前で千保川などの各分流を中田川へ一本化する大工事が行われ、44年後の正徳4年(1714年)に完成した。これにより、庄川は河口附近まで別の流路となり、現高岡市吉久で合流するようになった。

1900年(明治33年)から1912年(大正元年)にかけて、現在の射水市川口から直接富山湾へ流れるように工事が行われ、小矢部川と流路が完全に分けられた。小矢部川支流の地および高岡市吉久の貯木場が昔の庄川の名残である。
  
  

 富山県内の川は3000M級の立山連峰や白山山系から一気に日本海に下る。
 川ではなく”滝だ”と言った外国人河川技師の言葉が有名な急流が揃っている。
  
      
(表紙)

     
 南砺の山々を守る植樹祭2007/4/29眼下の砺波平野は庄川の恵みで成り立っている。
                  
      砺波平野と射水平野の大部分は庄川と小矢部川の扇状地として形成されました。
      海岸線から50kmもある平野は日本でも多くありません。
      今は洪水も干ばつも無い砺波平野は奥深い南砺の山々と二つの川のお陰です。