江戸東京医史学散歩 その20 (連載191~200)  堀江幸司

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191「新東京・醫學きまぐれ散歩」(1)
 

♪戦後,昭和20年代の『日本醫事新報』誌に連載された「東都掃苔記」(第179 第180)の一覧表を作成するために,バックナンバーを取り寄せて調査していたところ,同時期に「新東京・醫學きまぐれ散歩」という連載記事があることがわかりました。一冊一冊,雑誌にあたっていくなかで気がつきました。

 

♪「新東京・醫學きまぐれ散歩」の連載は,『日本醫事新報』誌の昭和261020日号(第1434号)からはじまります。戦争で焼野原となった東京の医科大学(病院)の復興の様子や復興住宅の状況を,写真を交えて執筆しています。貴重な連載記事と思われ,のちのちのために,これらも一覧表に纏めておく必要を感じました。

 

♪筆者のS.M.氏は,戦後,3年間,病[結核]に倒れるのですが,ストレプトマイシン(抗生物質)のお蔭で病が癒え,リハビリを兼ねて,自宅のあった東大赤門前から,東大構内の散策をはじめます。その散歩の記録が,この「新東京・醫學きまぐれ散歩」のエッセイとなりました。

 

♪本郷通り界隈など,戦後の復興しつつある東京の街並みのなかを歩きながら,自分の体も復調してきていることを実感するS.M.氏。生きることの喜びを,散歩のなかで出会う旧友との会話の中に感じているようです。ざっくばらんな語り口です。ちょっと,毒舌家でもあったようです。交際範囲は広く,木下正中(せいちゅう),木下正一(せいいつ),下瀬謙太郎の自宅も訪問しています。

 

S.M.氏は,連載の第1回となる「東大そぞろある記」の「前口上」(下記参照)のなかで,本郷村の自宅周辺の様子を書いています。その辺り一面は,麦畑と野菜畑が広がり,庭には,菜の花が咲き乱れて,裏には墓地がありました。いまも赤門前の本郷通りをちょっと入った所に,樋口一葉ゆかりの法真寺があります。S.M.氏の住居は,この辺りであったのかもしれません。

 

♪これらの文献をたよりに,60年後の東京を歩き,「江戸東京」のなかに,現在の様子を記録として残せればと思います。

 

(平成2369日 記す)

 

 

参 考

 

「江戸東京」第8本郷・東京大学構内:ベルツ・スクリバの胸像

「江戸東京」9回:続・本郷東京大学構内:ベルツ・スクリバの胸像

「江戸東京」第15:続続・本郷東京大学構内:「相良知安先生記念碑」

(注:現在,「相良知安先生記念碑」は東大構内の別の場所に移されています。このことについては,稿を改めて述べます。)

東京医学校本館遺構

本郷・駒籠髙林寺:緒方洪庵追賁碑と節齋岡先生碑

本郷通りを歩く:日本医科大学附属病院界隈,旧真砂町・菊坂界隈

 

 

 

新東京 醫學きまぐれ散歩

東大そぞろある記(1)

 

 前 口 上

 

 三年越しの病気で寝ているうちに,だんだん復興が進んで,起きて見ると新東京なるものが出来上っていた。思い出すのも不愉快だが,戦争中に赤門前の旧宅を間引疎開というやつに強奪されてから,牛込で焼かれ,静岡へ逃げて二十日目にまたも焼かれて関西の郷里へ落ちて行き,終戦直後に帰って来たものの,まだ東京の焼野原はキナ臭くて,貸間も見つからないので,探しに探した揚句,千葉県佐倉の医史に名高い順天堂の,たぶんその昔,塾生たちが合宿していたものだろうと思われる黒光りの門部屋に巣くっていたが,旧居に十二坪かっきりの制限住宅ができたので帰って来て,ホッとした途端に気がゆるんだのか,倒れこんだのである。

 一時はいよいよおさらばかと思っていたが,アメリカから取り寄したスト・マイが利いたのか段々よくなって,病床から濡縁越しに早春の庭を眺めるようにもなった。そうなると,庭先に一本,梅もほしくなる。というのは,辺り一面が麦畑野菜畑で,裏は墓地という本郷村の一軒家なので,僕の庭にも菜の花が咲いていた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

 それにてつれて,三年越しに会わない,あちらこちらの友人知己が,なつかしく思い浮ぶ。出しぬけに訪ねて行ったら,どんなに驚くだろう。何しろ「曲りなりの復興」が,いきなり目の前に現われるわけだから。そんな童話じみた思いで一杯になって,家の中にあぐらをかいて澄ましてなどいられない気持になる。そこでぶらぶら,せめて近所あるきでもして見たくなった。遠出すると主治医に叱られるおそれがあるから,足馴しだと理屈をつけて,先ず東大からぶらつく事にした。何の目的もあるわけではない。だから何の予定もない。気が向いたら,のっそり研究室や教授室へはいって行くかもしれない。また先生方の家がどうなっているか,見に行きたくなったら行くつもりだ。どうせ消える好奇心ではあるけれど,「復興」の目に映る復興の新東京は,興味があるに違いない。

 

S.M.

 

新東京・醫學きまぐれ散歩 (1) 

[『日本醫事新報』誌より作成。なお,第1444号, 第1447号には連載記事の掲載はありません]

題 名 見出し 登場人物 各号頁[通し頁] 発行年月日
東大そぞろある記(1) 前口上 1434 32[2916]-33[2917]
(以下31頁へ)
昭和26年10月20日
混乱期の思い出
赤門に向って
東大そぞろある記(2) 医学部一号館今昔 橋田邦彦,永井潜,竹内松太郎,田宮猛雄,東龍太郎,林春雄,田村憲造,兒玉桂三,柿内三郎 1435 30[2986]-31[2987] 昭和26年10月27日
池の鯉 小泉八雲,呉建
消えた銅像
東大そぞろある記(3) 附属医院裏 真鍋嘉一郎 1436 33[3065]-34[3066] 昭和26年11月3日
旧病室の通り 佐藤三吉,木下杢太郎,太田正雄
二つ並んだ胸像 ベルツ,スクリバ,入澤達吉,富士川游
二つの象徴 青山胤通
今後の予定
東大初期の思い出話 時計臺と鐵門 芳賀栄次郎,ベルツ,シュルツエ,田口和美,西郷吉義,スクリバ,梅錦之丞,佐々木政吉, 1437 29[3133]-30[3134] 昭和26年11月10日
明治初期の学生 田代義徳,近藤次繁,入澤達吉,池田謙齋,金杉英五郎,肥田音市,長谷川泰
本郷元町・弓町・真砂町 芳賀翁の隠栖 芳賀栄次郎・智政,稲田龍吉,塩田廣重,三浦勤之助,飯島茂,山田弘倫 1438 33[3209]-34[3210]
(以下32頁へ続く)
昭和26年11月17日
三大家の邸宅 青山徹蔵,青山胤通,瀬川昌世,瀬川功,塩田廣重,藤井貞
福士政一,橋爪一男,坂口勇
焼残りの悲哀
済生学舎の跡を訪ねる(1) 初期の長谷川邸 長谷川泰,入澤達吉
細谷省吾
1439 31[3279]-32[3280]
(以下30頁4段目)
昭和26年11月24日
最初の学舎
晩年の居住跡 大野喜伊次
済生学舎の跡を訪ねる(2) 湯島の学舎跡 入澤達吉,吉岡彌生,吉岡博人,山崎之修
長谷川泰・順治郎
1440 33[3353]-34[3354] 昭和26年12月1日
講師と学生 田代善徳,平井政樽,山田永俊,吉岡彌生,綿引朝光,肥田音市,安井洋,野口英世
入澤達吉,池田謙齋
中原徳太郎
夢の跡―銅像 長谷川泰
順天堂醫院と同大學 大學の外観 加瀬恭治 1441 29[3421]-30[3422] 昭和26年12月8日
醫育への復帰 佐藤達次郎,有山登,佐藤進,佐藤泰然,佐藤尚中,佐藤恒二
戦後の佐藤一族 佐藤泰然,佐藤尚中,佐藤進,大瀧潤家,松本本松,松本順,佐藤進,佐藤亨,佐藤淸一郎
東京醫科歯科大學 周囲の光景 1442 33[3497]-34[3498] 昭和26年12月15日
大計画の図面 長尾優
特殊の学風 石原久,島峰徹,金森虎男,河野庸雄,坂本島峰,山極一三,柳金太郎,阿久津三郎,宮本璋,北博正,
島峰博士の胸像 島峰徹
本郷南部とびある記 長谷川・小此木邸跡 長谷川泰,村山達三,齋藤茂吉,小此木信六郎,中原徳太郎,大槻菊男
岡田和一郎,久保猪之吉,久保護躬,神保孝太郎
1443 33[3565]-34[3566] 昭和26年12月22日
元町から湯島二丁目 細谷省吾,加藤恭治,上條秀介
入澤・田所邸跡 入澤達吉,田所喜久馬
近藤博士終焉地 近藤次繁,三浦勤之助,森半兵衛,阿久津勉,
盤瀬邸跡など 盤瀬雄一
森川町の木下邸 木下正中,木下正一
相良知安碑と時計台 假名交りの碑文 相良知安 1445 86[86]-87[87] 昭和27年1月5日
時計台の遺物
學者街の西片町 新舊風景 杉田直樹,山極勝三郎
片山國嘉,榊俶,吾妻勝剛
1446 55[171](前頁4段目へ) 昭和27年1月12日
在住の大家連 名倉英二,石井吉太郎
石川正臣,加藤義夫
坂本恒雄,都築正男
前田武雄,太田正雄
小原辰三,青柳登一
村山達三,平松濤平
横尾安夫,栗山重信
鹽谷卓爾,佐々廉平
富士川邸跡 富士川游
日本醫科大學 敷地の現状 中原徳太郎,塩田廣重 1448 92[360](前頁の2段目へ続く) 昭和27年1月26日
ワン・マンの精力 塩田廣重
復興計畫
根津権現界隈 彌生町辺り 木下正中,隅川宗雄
櫻澤富士雄,西川善方
1449 47[431]-48[432] 昭和27年2月2日
神泉病院跡 濱田玄達,千葉捻次郎,青柳登一,瀧澤竹太郎,磯辺俊三,山根正次
東京府立病院跡 木下正中・正一,岩佐純,
長谷川泰
千駄木町 夏目漱石,尼子富士郎,尼子四郎,島園順次郎,緒方知三郎,佐々木秀一,高橋明,木下秀一郎
觀潮樓跡・曙町・洪庵墓 森鴎外史蹟 森鴎外,森於兎
下瀬謙太郎,田山花袋,島崎藤村,北原白秋,武石弘三郎
1450 38[498](前頁3段目へ続く) 昭和27年2月9日
駒込曙町 小金井良精,森鴎外,緒方規雄,緒方正規,碓居龍太,山崎佐
洪庵先生の墓 緒方洪庵,森林太郎,日下部東作,緒方富雄,大村益次郎,大鳥圭介,橋本左内,長與専斎,福澤諭吉,緒方知三郎,緒方章,緒方準一

(一覧表作成:堀江幸司)


192.「新東京・醫學きまぐれ散歩」(2)
 

 

第191回の続きです。

 

♪本郷台地と駿は,神田川で分断され橋で繋がっています。御茶ノ水橋と聖橋です。神田駿河台周辺には,江戸時代,武家屋敷・旗本屋敷が多くあったのですが,明治中期以降になると,東京帝國大學出身者によって開業された専門醫院が立ち並ぶ病院町となっていました。武士の町が,医者の町となったのです。本郷には,医学校の病院が多かったのに対して,駿河台には私立病院が多くありました。

 

♪眼科(井上眼科病院[井上達也]),耳鼻咽喉科(金杉病院[金杉英五郎]),産婦人科(濱田病院[濱田玄達]),内科(杏雲堂醫院[佐々木東洋]),小児科(瀬川小児科病院[瀬川昌耆])などの病院とともに,医家の邸宅も数多くありました。S.M.氏は,戦後の焼け野原となった病院町の様子や風景を記録しています。

 

♪聖橋からの眺望や,御茶ノ水橋から水道橋に向かって下るサイカチ坂から見た風景を次ぎのように描写しています。

 

 

「お茶の水橋からの四周の眺めは美しい。だが,聖橋の上に立つと一層美しい。前後にニコライ堂と湯島聖堂とを控え,眼下に川筋の上下を眺める風景は東京第一だ。殊に夏の夕方は涼風袖を払うというやつで,納涼地としても第一だろう。」

 

「日本医師会館を出ると横町を隔てて木立も豊かな広い空地をもつ音楽学校の分校からピアノの音が聞えたりする。その前が,フランスの別荘風だとかいう日仏協会。行く手には震災前までサイカチの木が残っていたというサイカチ坂が,水道橋駅に向って下り,右側には家が絶えお茶の水川を隔てて本郷元町の小公園から都立工藝學校,続いて後楽園球場から小石川の台地を展望するという風景が開ける。」(S.M.

 

 


聖橋(絵葉書)


聖橋とニコライ堂(絵葉書)


 

江戸東京医史学散歩・絵葉書アルバム

 

 

♪この駿河台周辺を,昭和60年代に,重いカメラを何台もぶら下げて歩いたことがありました。神田美土代町の東京基督教青年会館のなかにあった「日本医図書館」(関連連載第4回)について調べていたころのことです。もう,25年も前のことになります。ニコライ堂(東京復活大聖堂)の近くに,井上眼科病院の新しいビルが建ったころのことです。紅梅坂や幽霊坂を上ったり下りたりして,写真を撮りました。夏の暑い日のことでした。蝉の鳴き声が聞こえていました。

 

♪そのとき撮った駿河台周辺の写真のネガが,まだ,アルバムのなかで,たくさん眠っています。S.M氏が見た30年後の駿河台附近の病院の姿が写っています。この機会に,デジタル化して,記録に残しておきたいと思います。

 

(平成23630日 記す)

 

 

新東京・醫學きまぐれ散歩」()

[『日本醫事新報』誌より作成]

題 名 見出し 登場人物 各号頁[通し頁] 発行年月日
動坂と駕籠町 駒込病院 宮本叔,入澤達吉,青山胤通,北里柴三郎,緒方規雄,橋本節齋,二木謙三,村山達三,高木逸麿,内山圭梧,後藤新平 1451 39[575]
(以下44頁へ続く)
昭和27年2月16日
駕籠町焼跡 棟方定次,平野啓司,宮川米次,入澤達吉,白木正博,三澤敬義,佐藤三吉
巣鴨病院跡 長谷川泰,榊俶,三宅秀,呉秀三,三宅鑛一,澁澤榮一
栄研の跡 [厚生大臣官房統計調査部]
文京西部一巡り 丸山町の焼跡 折笠晴秀,河北眞太郎,藤巻要之助,大槻菊男[丸山町19番地] 1452 35[647]
(前頁4段目へ続く)
昭和27年2月23日
大塚公園の中 澁澤榮一,岩田達,水野禮司,大坪五郎,新井養老,石原房雄,橋本節齋,橋本龍雄
東大分院 柿内三郎,濱田玄達,池田京水,片倉鶴綾,入澤達吉,宮本叔,鹽田廣重,鹽谷不二雄
二名家の跡を訪ねる 三宅家の跡 三宅鑛一,三浦省軒,三浦謹之助,土屋保,三宅秀,三宅艮斎,佐藤泰然,林洞海,伊東玄朴,三浦義彰,佐藤尚中,佐々木東洋,三宅仁 1453 39[727]
(以下前頁4段目へ続く)
昭和27年3月1日
小池家の跡 小池正直[小日向台町2-26],小池正晁,北里柴三郎,北島多一,瀬川昌耆,瀬川昌世
醫業中心駿河台(1) 高木慎,金杉英五郎,桂秀馬,桂秀三,入澤達吉 1454 42[806]
(40頁へ続く)
昭和27年3月8日
日醫通りの入口 稲田龍吉,三浦謹之助,佐々木隆興,呉建
三樂と日醫 坂本恒雄,宮川米次,田宮猛雄
醫業中心駿河台(2) 日醫副會長を訪う 田宮・武見・榊原 1455 37[877]
(以下36頁4段目へ)
昭和27年3月15日
稲田博士邸 稲田龍吉
呉博士邸 呉建,神保孝太郎
濱田病院 濱田玄達,北里柴三郎,緒方正規,池田謙齋,石黒忠悳,長谷川泰,小畑惟清
醫業中心駿河台(3) 前田眼科跡 三浦謹之助,前田珍男子 1456 39[955]-40[956] 昭和27年3月22日
三浦邸前にて 三浦謹之助,高杉新一郎,青山胤通
佐々木邸の辺り 小松經雄,佐々木興隆,野口雄三郎
延壽堂と山龍堂 三輪信太郎,青山胤通,樫村清徳,石黒忠悳
佐野神経科醫院 佐野彪太,後藤新平,佐野硯,佐野學,田中義一
醫業中心駿河台(4) 金杉病院跡 金杉英五郎,床次竹次郎 1457 27[1043]
(前頁の3段目へ)
昭和27年3月29日
額田と賀古 廣川和一郎,賀古鶴所,森鴎外,賀古桃次,賀古弓絃,額田晉
近藤病院跡 近藤次繁
日本大學病院 額田晉,額田豊,山岡萬太郎,入田善之,永澤滋
杏雲堂と研究所 佐々木隆興,吉田富三,山極勝三郎,佐々木東洋,佐藤進,佐々木政吉,佐々木隆興,佐々廉平,佐々貫之,額田豊,額田晉
醫業中心駿河台(5) 瀬川小児科病院 瀬川昌耆,瀬川昌世,瀬川功,古市公威,小池正晁,北島多一 1458 25[1117]-26[1118] 昭和27年4月5日
井上眼科病院 井上達也,井上誠夫,井上達二,井上達一,井上園子
體協と保健所 東龍太郎,東俊郎,浅野均一,宮島幹之助,小原芳樹
名倉外科病院 名倉重雄,名倉英二
阿久津病院 阿久津三郎,阿久津勉,竹内薫兵,岡崎祇容
同和病院 [東京府醫師會と醫師購買組合]
聖堂から和泉町(1) 湯島聖堂 石黒忠悳,山内容堂,相良知安,岩佐純,大村益次郎,佐藤尚中 1459 28[1196]
(以下前頁)
昭和27年4月12日
途上の道草 神尾友修,中野友禮,中野友彦,中村東作,浅田宗伯,佐々木秀一,佐々木政吉,佐々木隆興,鈴木平十郎
練塀町界隈 佐藤尚中,宮本叔,大瀧潤家,村山達三,宮本愼助,宮本璋,田代義徳,田代信徳,田代基徳,田代十徳,辻善之助
聖堂から和泉町(2) 三井病院跡 [東大・第二醫院] 1460 37[1281]-38[1282] 昭和27年4月19日
舊幕の醫學所 [藤堂屋敷],伊東玄朴
[下谷和泉橋通り],[御徒町一丁目],
英医ウヰリス,木下正中,ベルツ,スクリーバ,青山胤通,佐藤三吉
お玉が池 武藤一郎[神田紺屋町二〇番地],紺屋喜一郎,三田定則,島田筑波
神田の南西部(1) 宮本小児科の跡 宮本仲,宮本叔,関口蕃樹,佐久間象山,島薗順次郎,赤塚秀雄, 1461 28[1372]
(27頁へ続く)
昭和27年4月26日
漱石が痔を切った跡 佐藤恒祐[錦町一丁目一〇]
杉本胃腸病院の跡 杉本東造,長與稱吉,平山金蔵,夏目漱石,宮本叔
神田の南西部(2) 藁科松伯のこと 藁科松伯,弘田長,細井平洲,坪井春浚,樫村淸徳 1462 30[1450]
(以下27頁4段目へ続く)
昭和27年5月3日
神保町附近 佐藤三吉邸跡[神田日活館],朝岡稲太郎,長濱繁,結城素明,及能謙一,長谷川基,
三崎町界隈 佐久間兼信[東京産院],水原漸[産婦人科病院],水原豊(秋櫻子),勝俣稔,血脇守之助,野口英世
東亜醫學校 阿曾沼麿,芳賀榮次郎

(一覧表作成:堀江幸司)




193.「新東京・醫學きまぐれ散歩」(3)
   

S.M.氏が見た戦後の復興風景

 

 

九段界隈

 

電車通りは一面の焼け跡で,復興はしているものの實に哀れな復興ぶりだ。靖國神社の外部の植込も焼けてしまって,参道の銀杏並木や露店がジカに見えるので,何だか空白ができたようで,賑わいを呈していながら,うら寂しい感がある。濠端の方へと辿ると,もう人影もなく,向う岸は青草の土手の上に石垣をめぐらせた江戸城の面影を残し,ひっそりと美しい景観をなしている。

 

僕が一口坂の停留所から市ヶ谷見附までぶらついたのは,四月廿七日の日曜日で,逓信病院の方面を歩いたついでだったが,その後,番町を歩いて見て,昔のブルジョア住宅地帯が如何にサンタンたる有様であるかを初めて知った。それに比べると,一口坂から市ヶ谷見附に至る電車通りは,先ず先ずこの辺りで復興の早い部分だと云えるかも知れぬ。

 

 

麹町・番町界隈

 

番町は戦災で丸焼けになったと云ってよい。どうにか残ったのはコンクリートの大建築ばかりだ。大邸宅は門と塀だけを残して,中に焼土蔵がツッ立っているのもある。空地には雑草が茂って白い花をつけ,牛込台地の新緑がヂカに眺められる所があったり,建築工事にとり掛っている所もある。そうした中に,応急バラック群が屋根のトタンも錆び,板張りの壁に隙間が生じたりして,わびしくうずくまっている。かと思うと,やけにモダンな住宅があったり,工場か寮かといったような木造ペンキ塗の二階家が不愛想にツッ立っていたりする。人影もなくひっそりしているのに,五月幟がふらふらしている。                                           

 

 

 

 日本橋と室町通り(帝都名所)(絵葉書)
[画面右に築地へ移転する前の魚河岸が見えます]

 

 

江戸東京医史学散歩・絵葉書アルバム

隅田川十九橋・地図

 

 

 

築地界隈

 

築地へやって来て,東京劇場を前に眺める橋――萬年橋といったように思うが,橋名を彫んだ銅版が剥ぎとられているので,はっきりわからないのも戦後風景だ。東劇・郵便局と続く一画は焼残りだが,反対側や橋の手前は歌舞伎座方面にかけて一帯の焼け跡だ。が,すっかり復興して元のような繁昌振りを呈している。橋を渡って,河岸にそって東劇の前を過ぎると,堀割が屈折する対岸に新橋演舞場が立っている。堀割はそこで真直ぐに大河に向って下る。一方わかれて濱離宮方面に向い,そこで大河にそそぐ堀割に合流している。

 築地は,縦横に流れる堀割によって處々に面白い景観を作っているが,演舞場と堀割を隔てて相対しているところに築地病院と元の海軍々醫學校があって,河岸の此方は純日本式の花柳街だが,そこばかりは外人居留地といった風景だ。・・・堀割にそった並木道は綺麗で静かで,全体がアンリ・ルウソーの風景畫みたいに落着いている。

 

聖路加旧館裏の並木街に出ると,大河を背にして立ち並んでいる住宅街は,たぶん焼けなかったのだろうと僕は思っているが,或は焼けた所もあるのかなと思われる跡も残っている。・・・とにかく昔は,東に佃島から木場・洲崎を眺め,南方遥かに台場から品川・羽田方面を眺め,前面には東京湾を一望におさめていたものだ。今では前に月島が出来,その沖に晴海町などの埋立地が出来て,大河の一部になり,河風は昔のように涼しかろうが,並木街もまだ荒れたままで,ここに大きな丸太ん棒を積み上げたりしている。それに続いて,東京都築地産院なるものがあって,その先に聖路加國際病院の新館が出来ている。

 

 

濱町・両國橋界隈

 

元の日本橋區は京橋と合併して中央區となっているが,昔から東京の中心として榮えていたので,醫家も昔から名家が多かった。その中でも,濱町から矢の倉にかけて多かったが,殊に聞えた花街であったから気風が派手だった。大正の震災はそうした名家を焼きつくしたが,今とは違って醫家華やかな時代だったので,銀行がどしどし金を貸し,そこで競争的な復興となって豪華な病院がぞくぞくと出来た。何と云っても,いい時代だったなあと懐旧の情にそそられる。ところが今度の戦災で,濱町から矢の倉にかけて一面の焼野原となり,醫家も全滅の形になったが,さてその跡はどうなっているだろう?僕は戦後はじめて足を踏みこんで見たが,震災後の復興と,何て甚だしい差であろう。日本の頂点期は震災後にあったように思われ,今度の復興が,そこまで達するには,どれだけの年月を要するだろうかを考えさせられる。

 

昔,杉田玄白が濱町の辺りに住んでいたことがある。その邸跡は道路になったが,裏庭にあった山伏井戸が公園のどこかに残っているということを聞いていたので,行ってみた。新大橋から両國橋に続く河岸に桟敷の木組が出来つつある。川開きが近いことを思わせる。・・・打ち続く待合の間の空間にも高桟敷が出来つつある。河の中からドンドン花火が打ち上げられ,成金族や特権族で賑わうことだろう。戦前には醫家連中も桟敷の真ん中に陣取って顔を利かしたことだろうが,今では昔の夢になってしまった。対岸には國技館の圓蓋がどっしりと見える。

 

隅田川と両國橋(帝都名所)(絵葉書)

 

両國橋の景観,対岸に國技館を見る(東京名勝)(絵葉書)

 

 

 

「新東京・醫學きまぐれ散歩」(3)

[『日本醫事新報』誌より作成]

 

題 名 見出し 登場人物 各号頁[通し頁] 発行年月日
九段上から飯田町(1) 大村益次郎の像 大村益次郎 1463 37[1533]-38[1534] 昭和27年5月10日
九段坂病院 福岡五郎,佐藤清一郎
警察病院 宮田光雄,坂口康蔵,稲田龍吉,鹽澤総一,朝倉文三,眞鍋嘉一郎
九段上から飯田町(2) 眞鍋邸の跡 眞鍋嘉一郎(小野田セメント飯田橋寮)(飯田町六丁目一九番地)
(弘田長邸跡),夏目漱石
1464 37[1609]-38[1610] 昭和27年5月17日
飯田町一巡 樫村淸徳(飯田町六丁目十七番地),大瀧潤家,鹽田廣重,中原徳太郎,西郷吉義(飯田町四丁目十三番地),井上豊太郎
(三十一番地),井上二郎(富士見町一ノ六)
帰途の道草 岡村龍彦(西小川町一丁目八番地),明々堂(須田泰嶺),佐藤泰然,須田経哲,須田卓爾,須田信濃,折笠晴秀
麹町富士見町 朝倉病院の跡 逓信博物館(朝倉文三泌尿器科病院跡),柳澤保佳惠 1465 37[1693]-38[1694] 昭和27年5月24日
東京逓信病院 林春雄,高橋明,山階宮家
陸軍々醫學校の跡 軍醫学校跡(日本女子學園・嘉悦女學園),林紀,林洞海,松本順,橋本綱常,石黒忠悳,芳賀榮次郎,小池正直,川島慶治,下瀬謙太郎
北島・河本・木下邸 北島多一,北島信厚,淸栖伯爵家,小池正直,山階宮家,河本重次郎,河本純一,三田村篤志郎,木下正一,木下正中,下瀬謙太郎,木下東作,石川正臣,川喜田愛郎,楠隆光
九段上の電車通り 概観した情景 1466 37[1777]-38[1778] 昭和27年5月31日
通りの醫院 馬島僴,永井秀太,永井東一,荒川二郎,大島和海
岡田・榊・室橋 岡田和一郎,岡田淸三郎,阪田泰二,榊順次郎,榊邦彦,榊俶,榊保三郎,緒方正規,岡田和一郎,室橋民衛,福岡五郎,木澤病院,野谷昌臣,岡玄卿
東亜醫學校の事 多川澄,樫村淸徳,生澤くの,森林太郎,片山芳林,賀古鶴所,荻野吟子,高橋瑞子
麹町番町今昔(1) 寂れた風景 1467 33[1857]-34[1858] 昭和27年6月7日
三番町の辺り 高田畊安,五斗欽吾,唐澤光徳,小池重,河内全中,河内全節,弘田長
東郷公園附近 八田善之進,額田豊,岩佐純,相良知安,岩佐新
麹町番町今昔(2) 二番町舊住の醫家 土肥慶蔵,土肥章司,土肥淳一郎,宗文江,加藤照麿,加藤弘之,ロッパ,中濱東一郎,菊池常三郎,芳賀榮次郎,菊池常三郎,猪子吉人,中濱萬次郎 1468 37[1945]
(以下前頁の終りへ続く)
昭和27年6月14日
平河町から三宅坂 柳川華吉,水谷八重子,吉川春次郎,吉川春壽,李王家,閑院宮家,山内保,本間英史
陸軍々醫本部 松本順,林紀,橋本綱常,橋本左内
内幸町から丸の内 胃腸病院前にて 長與稱吉,長與専斎,北里柴三郎,平山金蔵,川島震一,柿沼昊一 1469 35[2027]-36[2028] 昭和27年6月21日
漱石の入院日記 夏目漱石,長與稱吉,平山金蔵,杉本東造
内幸町一ノ三 井上通泰,柳田國男,松岡静雄,松岡映丘,三島通良,深瀬周一,藤浪剛一,藤浪鑑,富士川游,山崎佐,大鳥蘭三郎,石原明
宮島博士遭難地 秦佐八郎,北島多一,宮島幹之助
永樂病院の跡 醫師開業試験附属病院
銀座東西(1) 癌研と保坂 癌研(元の南胃腸病院),南大曹,保坂孝雄,汲泉會 1470 37[2113]-38[2114] 昭和27年6月28日
木村と戸塚 木村順吉,モールス,高木兼寛,戸塚環海
大野と古宇田 古宇田傚太郎,大野豊太(酒竹),石黒忠悳
加藤と菊地 加藤時次郎,久保徳太郎,本田雄五郎,菊地眞一郎
武見太郎(教文館ビル一室)
銀座東西(2) 大日本衛生會の跡 (宗十郎町7番地)長與専斎,北里柴三郎,山根正次,緒方正規,高木友枝,大澤謙二,三宅秀,金杉英五郎,青山胤通,片山國嘉,弘田長,三島通良 1471 38[2198] 昭和27年7月5日
川上と本田 川上元治郎,金杉英五郎,坂口勇,本田雄五郎,岡田和一郎
林と中泉 林春雄,中泉行正,中泉行徳,中泉正徳
高木と醫學講習所 高木兼寛,高木喜寛
築地界隈(1) 海軍々醫學校跡 有栖川宮の銅像 1472 37[2305]-38[2306] 昭和27年7月12日
高杉博士を思う 高杉新一郎,米内海相,高木兼寛,實吉安純,稲田龍吉
林・山田の病院跡 林曄,榎本武揚,高松凌雲,山田鐡蔵,土生玄碩
戸塚氏について 戸塚隆三郎,戸塚靜海,戸塚文海,戸塚文雄
築地界隈(2) トイスラーの遺業 トイスラー,マクドナルド,グワルデン 1473 39[2391]-40[2392] 昭和27年7月19日
中央保健所 奥野徹
聖路加國際病院 橋本寛敏,トイスラー
東京都職員病院 田村光顯
京橋から越前堀 澤弌,遠山椿吉,宮下左右輔,内田緑郎
濱町と矢の倉(1) 長尾と濱町病院 長尾美知,長尾精一,長尾藻城,長尾乾,木下正中,大瀬貴明,大瀬貴光 1474 38[2474] 昭和27年7月26日
中洲病院の跡 大石貞夫,永井荷風,稲田龍吉,小泉親彦,糸川欽也,山村正雄,横山大観
濱町と矢の倉(2) 山村病院の跡 山村正雄,山村久,山村秀夫 1475 38[2558] 昭和27年8月2日
濱町公園 杉田玄白
明治座附近 井上幾八,津田終吉,高峰譲吉,平石貞市,佐藤長祐
河岸のあたり 吉松駿一,岡元俊,矢尾板四郎

(一覧表作成:堀江幸司)


◇◇◇

 

♪今回,「新東京・醫學きまぐれ散歩」の一覧表を作成するために,戦後の『日本醫事新報』の雑誌に一冊一冊あたっていて,また,別の連載記事があることがわかりました。「わが師わが友」という連載記事です。

 

♪まだ,飛び飛びにしか見ていませんが,「わが師わが友」には,単行本の形で伝記が出版されていない医家の貴重な伝記的な記述が多く含まれており,この連載記事も,いずれ一覧表の形で集積しておきたいと思います。長期にわたる連載なので,一覧表づくりは,根気作業となりそうです。

 

♪東京の梅雨は明けましたが,夏の季節は,文献散歩が続きそうです。東日本大震災からの復興を思うとき,散歩にも,目的と目標があった方がよいのかもしれません。

 

(平成23714日 記す)




194木下正中の香港行き:「ペスト研究記念撮影」(明治廿八年)
 

♪「新東京・醫學きまぐれ散歩」の一覧表(連載第191回 第192回 第193回)を作成するために,戦後の『日本醫事新報』誌を,一冊一冊,探索するなかで,「本邦に於けるペスト研究の偉業」(1)(2)(村山達三著)という文献をみつけました。1)2)

 

♪そのなかに,明治28(1895)に撮影された「ペスト研究記念撮影(明治廿八年)」と題した集合写真がありました。

 



ペスト研究記念撮影(明治廿八年)1)
後列左から:岡田義行・木下正中・石神亨・宮本叔
前列左から:高田畊安・北里柴三郎・中川恒次郎・黒井悌次郎・青山胤通

 

 

♪木下正中(せいちゅう)3)(当時醫科大學4年生)(関連連載第173回)が,ペスト(黒死病)の調査・研究のために青山胤通(たねみち)4)5),北里柴三郎6)7)8)に随行して,香港(英領)に渡ったのは,明治27(1894)6月のことですから,記念写真は,帰国後,翌年に撮られたものと思われます。明治28(1895)といえば,陸奥(むつ)宗光(むねみつ)が外務大臣を務めていた時代にあたります。

 

♪明治27(1894)5月末,清国(広東地方)と香港にペストが流行し,船舶の検疫が行われていました。ペストの流行は,外交・軍事上の問題でもありました。(清国及香港ニ於テ流行スル伝染病予防ノ為メ船舶検疫ヲ施行ス

 

♪香港でのペスト患者数を,中川香港領事は,内務省に明治27(1894)527日発の電報で次のように報告しています。

 

[在香港中川領事 一千八百九十四年五月二十七日発]

五月二十一日正午まで患者およそ三百四十名,死亡二百七十一名,爾後二十六日正午まで死亡百十四名,治療中の者七十二名,目下衰況に傾けりと信じらる。

 

♪記念写真には,青山胤通,北里柴三郎のほかに,木下正中(せいちゅう)(のち東京帝國大学醫科大學・産科学婦人科学教室教授),宮本叔9)10)(のち東京駒込病院長),高田畊安(こうあん)11)(のち茅ヶ崎・南湖院長),石神(とおる)12)(海軍軍医・のち大阪濱寺石神研究所[石神医学紀念研究所),黒井(てい)次郎(じろう)(のち海軍大将),中川(つね)次郎(じろう)(香港領事),岡田義行(内務省事務官)の9名が写っていました。

 

♪村山達三の論文には,記念写真の出典についての説明はなく,具体的な撮影場所・日時などは不明です。撮影された明治28(1895)当時の医学雑誌や新聞記事を調査する必要がありそうです。

 

♪前列に,黒井悌次郎,中川恒次郎を挟む形で,青山胤通,北里柴三郎が和服姿で着席しています。黒井悌次郎は軍服姿です。スタジオ撮影のようにも見えます。

 

♪記念写真に納まっている9名のうち,香港に派遣されたのは,青山胤通,北里柴三郎,宮本叔,木下正中,石神亨,岡田義行の6名でした。

 

 

♪「黒死病調査トシテ中央衛生會委員派遣ノ件」と題する公文書が国立公文書館に残っており,デジタルアーカイブスになっていました。

 

♪この公文書は,内務大臣臨時代理司法大臣の芳川(よしかわ)顯正(あきまさ)から内閣総理大臣の伊藤博文宛に出されたもので,ペスト調査のための香港派遣は,内務省の中央衛生會委員であった北里柴三郎(内務技師醫學博士)と青山胤通(醫學教授醫學博士)の2名であったことがわかります。

 

♪内務省(伝染病研究所)からは,北里柴三郎(病原菌追及)を,文部省(大學)からは,青山胤通(病理・臨床)を派遣したともいえそうです。公文書の最後の部分に,青山胤通の嘱託派遣について,文部大臣に了解を得ているとの記述があります。あくまでも,香港への派遣は,内務省の所管であったことがわかります。

 

醫科大學教授醫學博士青山胤通派遣嘱託之儀ハ文部大臣ヘ協議済ナリ

 

♪ドイツ留学から帰国した北里柴三郎が大日本私立衛生會の委嘱により同會設立の伝染病研究所所長となっていたのは,明治25(1892)1130日,香港行きの2年前のことでした。

 

 

♪安西安周(医史学者)は,「東都掃苔記」の連載記事13)で「木下家の墓」を取り上げるとき,木下正一(せいいつ)(正中の長男)を訪ねて,木下正中の日記のなかに,香港行きの記述をみつけています。

 

明治27528

青山氏香港行ノ事ヲ聞キ随行を許サルルヤヲ問フ,自費ナラ可ナラントノ答ヲ聞ク 直チニ京都ニ書状ヲ発ス

 



木下正中の日記の一部(明治27年5月28日)13)

 

♪息子・正中(せいちゅう)からの香港行きについて書状を,父・(ひろむ)は,どのような気持ちで読んだのでしょうか。後年(ひろむ)が記した「木下(ひろむ)翁懐旧談14)15)のなかに,その思いの一端が記されていました。

 

正中香港行に際し(あたか)も卒業の期に達したれば程なく一医学士の資格を得るものなり。殊に遠航をもなす身なれば余の身体自覚に煩ふ所なきも不知(しらず)不識(しらず)の中に内臓の疾病あるや図るべからず。一応診察を這げ置くは汝の業務上将た孝養上の本意なるべしとて診察せしめたるに思ひきや心臓に疾患あらんとは即大動脈口(だいどうみゃくこう)僧房弁(そうぼうべん)に噪鳴を聴取するとて正中の驚愕痛心一方ならざりしも自覚に今何の苦悩なき以上は急に障害を起すに至らざるべし。此病を認めたる以上は十分攝養を探るべし。躊躇せず旅装を整ふべしとて其行を奨めました。航路は横濱より(かい)(らん)[とも解くこと]するとならば見送の為め東上の次でを以て「ベルツ」教師に診ひ大動脈口硬變の診断を受け猶軽症なれば善く攝生をなせ急變はあるべからずと懇癒せられ其意を諒して帰西せり。

 

(ひろむ)正中の香港きにあたって,健康診断を受けさせていました。その結果,大動脈口および僧房弁に心雑音があることわかります。とくに日常生活に障害はないことがわかりましたが,念のためベルツにも診てもらっています。

 

♪ベルツの診断は,「大動脈弁口硬變」。軽症とのことで,旅装を整え,香港に向かわせることになるのです。正中のペスト調査に対する真摯な思い,なにより父の子に対する慈しみの心,そして,患者さんに対する慈愛の精神が,正中の香港行きを実現させたのではないでしょうか。

 

 

♪新橋停車場,横濱港からの出発の様子を新聞は,次のように報じています。

 

北里,青山両博士が香港へ出発[明治2766日 時事]

黒死病調査のため,香港へ派遣の命を受けたる内務技師北里柴三郎,医科大学教授青山胤通の二氏は,随行四名とともに,昨日午前八時五十分新橋発の汽車にて出発したり。同停車場まで二氏に行を見送りたるものは,長與宮中顧問官,三浦東京府知事,帝国大学の博士,学士,芝区衛生會員等を始めとして,朝野の人士無慮三百名。二氏の一行は横浜に赴き,同港を昨午後三時に出帆する仏国郵船に乗り込むはずにて,同船は神戸へちょっと立ち寄るのみにて,香港へ直行するものなりという。

 

♪一行は,612日に香港着。14日から英医ラウソン(Lowson, James Alfred [1866-1935])らと協力して,調査・研究に取り掛かることになるのですが,その1週間後の620日午後,日本では,地震(明治東京地震)が起こりました。そのときの模様をベルツは日記のなかで次のよう記しています16)

 

六月二十二日(東京)[日付は原文のママ]

午後二時半強震。もう一揺れ揺れたら東京の過半は崩壊した事であらう。・・・余が家は幸にして何事も無かった。木材の骨組を有する日本家屋と和洋折衷の家屋とは損害最も軽微なることが明かにされた。これは家屋構造に対する一教訓であろう。

 

 

 



ペスト流行当時・香港市街焼払いの惨状(出典:「青山胤通」)4)

 

♪香港で,調査・研究にあたっていた青山胤通と石神亨がペストに感染して死線を彷徨するという事態が発生します。628日の夜,香港ホテルで開催された晩餐會の席上で青山胤通は体調を崩します。木下正中と宮本叔は,その前から,なんとなく,青山の体調の変化に気づいていました。

 

♪青山胤通は,その時のことを次のように,記しています2)

 

解剖を終り予は午後二時半頃頗る著明に食事の美ならざるに気付きたり。食後階段を登る際或る腕の運動に際して左腋窩に於いて軽度の疼痛を覚えたれば,・・・食事は味なく衰弱疲労を覚え屡々帰宿せんと思惟せりき。

 

♪正中の明治27(1894)628日と29日の日記には,次のように記されています。医学生が教授を診ている緊迫した様子が伝わってきます13)

 

明治27628

青山博士本日午後来左腋窩ニ疼痛腺腫ヲ覚エ,尋テ夜少シク発熱ス。キニーネ1.0頓服

 

明治27629

青山博士解熱セズ

 

♪青山胤通の伝記4)のなかにも,ペスト研究・発病時の木下正中の活躍が描かれています。

 

・さて先生が作業を進めるに当って第一の困難は言語の点で,初め日本人の通弁を傭ふたが,伝染を恐れて逃げ出してしまうた。幸ひ男の看護人で英語と支那語の解るものがあったから,先生の質問を木下氏が聴き,それを看護人に話し,更に看護者に伝へるといふ方法を取った。

 

・先生はラウソン氏の勧めを容れ,二十九日の夕刻汽艇に乗って同氏所有の病院船ハイジア号に移ることとなり,同船に石神氏も希望に依って同船に入院した。病院船では宮本,木下両氏が同室して代る代る先生と石神氏を看護し,其の傍ら材料及びプロトコールの整理や報告書等の仕事もしなければならぬので,夜もおちおち眠れぬ程忙しかった。

 

・病院の物置部屋と小使室を臨時解剖室に使用し,一間半四方位の板の間に屍體を横たへ,其の傍らに棺を置き,先生がタタキに立って解剖するのを上の板の間から宮本氏若くは木下氏が踞んで助手を勤め,そして何方か一人は日誌を書くのであった。

 

♪青山胤通,石神亨がペストに罹患したことは,日本国内でも,大きく取り上げられる事態となります。

 

青山博士,石神助手がペストに感染,重態[明治2773日 時事]

黒死病取調べのため先般北里博士と共に香港に赴きたる医学博士青山胤通氏並びに海軍大軍医研究所助手石神亨氏は,黒死病に罹りたる旨,一昨日,北里博士より内務省へ電報ありしよし。

 

青山博士,危篤状態に[明治2778日]

北里博士より昨七日午前八時二十二分香港発にて,高田衛生局長に達したる電報は,左のごとし。

青山,昨夜より心臓の働きはなはだ悪し。一昨六日午後発の電報は,二人とも快方に赴くとあり。かつ北里博士は,日を期して帰朝の途に上るとまで決心するほどなれば,快復の見込み充分なりしものと見えたるに,わずか一夜の中に容体一変したるこそ,誠に歎わしき次第なれ。しかし治療,看護ともに怠りなければ,快方に赴くその望みなきにあらざるへし。

 

♪大學(東京醫學會,國家醫學會,學士會)からは高田畊安11)を,伝染病研究所からは高木友枝17)を,急遽,現地に向わせることになります。

 

♪高田畊安と石神亨が知り合ったのは,このときのことで,病院船ハイジア内のことでした。

 

♪高田畊安は,京都府醫學校を明治17年に卒業(第1回生)し,その後,さらに東京大学医学部に進んだ人物です11)18)。香港のペスト流行に際して『黒死病論』(高田耕安編述 医海時報社,明治27年7月6日発行)を著しています。

 

注)畊安と耕安:「こうあん」名前の漢字表記:戸籍上は,「畊安」ですが,「畊」には,新字体の「耕」をあてることもあり,本人自身も「耕安」の文字を使うことがあったそうです11)

 

♪高田畊安は,重症の脚気を患ったとき,同志社に新島襄(にいじまじょう)を訪ねて,同志社教会に通い,明治15(1882)7月にラーネッド牧師より洗礼を受けています。

 

♪東京に出た高田畊安は,下谷教会伝道師・東京YMCA幹事であった木村熊二(西片町10番地)が明治21年(1888513日に組織した「大学基督教青年会」に参加しています。この会員には,のちに各方面に活躍した人々が多く,木下正中,下瀬謙太郎,藤浪鑑の名前もみえます19)

 

♪石神亨(熊本医学校出身)もクリスチャンになった人で京都の佐伯理一郎(熊本医学校出身・同志社病院長・京都看病婦学校長)と親交がありました12)

 

♪高田畊安の実父は,増山守正(丹波・綾部藩の典医)20)で,維新後,畊安が学んだ京都府医学校の事務取扱を務め,その後,上京して帝室博物館歴史部勤務となった人物です。漢文の基督教解説書『天道溯原』を畊安に勧めたといわれています11)

 

♪高田畊安は,明治25(1892),勝海舟の孫・疋田輝子と結婚し,ペスト騒動が起こった明治27(1894)12月には,海老名(えびな)弾正(だんじょう)(熊本洋学校出身)が関係した本郷教会の婦人部の要請により,看護法学習会を開催しています11)

 

♪高木友枝17)は,伝染病研究所に勤務したのち,台湾総督府医院長兼台湾総督府医学校長となった人物です。

 

 

♪木下正中は,卒業試験を控えていた関係で,研究標本の一部を携えて,香港を単身で出発,長崎経由で,無事に東京に戻りました。卒業試験に合格後,正中は,スクリバの弟子になりました3)4)

 

♪軽症であった石神亨は,発病後,3週間を経ると意識も快復して痛みも減じます。帰国後,京都に佐伯理一郎を訪ねて,木下正中への感謝の気持ちを次のように述べています21)

 

石神氏は帰朝の後具さに当時の模様を私に話して曰く,あの時()しも木下さんが居なかったら,看護は皆英語の人而已(のみ)なりし故,我々の不自由は実に言語に(つく)されませんでした。

 

 

♪佐伯理一郎と正中の父・木下(ひろむ)とは半井澄紹介で親交を持ち杉田家や木下家の屋敷跡がある若狭小濵へも避暑に行っていたそうです21)

 

 

♪青山胤通も,腺腫の切開を27か所も行い,神経衰弱になるなど,重態だったのですが,九死に一生を得て,無事に快復。病後の衰弱をおして821日香港を出発,831日に帰国しています。帰国後は,佐藤三吉(外科)の助手(久保郁蔵)をつれて,箱根塔ノ澤に2週間静養しています。

 

青山博士も全治,帰国[明治2791日 東京日日]

医科大学教授正六位勳四等賜旭日小綬章医学博士青山胤通氏は,昨日を以って香港黒死病戦地より凱旋したり。

 

 

♪木下正中の同期に北島多一(のち北里研究所長・慶應義塾大学医学部長)がいます。北島は,木下が亡くなったとき,その追悼記事のなかで,香港行きについて触れています。同級生の北島の木下への思いが伝わってきます22)

 

君は卒業の前年,青山先生が北里先生と共に香港のペスト研究に行かるゝを聞くや,奮然随行を志願し許されて同行したが,青山先生の罹病となり其の報告の為に早く帰られた。然し此の研究に学生として参加する如き一寸驚くべき行動も,学生も其位の元気がなくてはいかぬと,吾々は大いに敬意を表したので

あった。

 

 

♪北里柴三郎と北島多一の伝染病研究所が内務省から文部省に移管されたのは,記念写真が撮られた明治28(1895)から19年後の大正3(1914)のことです。(勅令 第二百二十一号)北里柴三郎は,北里研究所を創設し,青山胤通が第2代所長となった伝染病研究所は,のちに東京大学医科学研究所へと形を変えていくことになります。

 

♪木下正中の長男・正一(せいいつ)の長女・恵子の夫は,内田清二郎(東大伝研教授・予研部長)です。さらに,正中の六女・弘子(ひろこ)(関連連載第175回)の夫となる川喜田愛郎(よしお)23)が,東京帝国大学を卒業して,長與又郎が所長(第4代)を務める「東京帝国大学附属伝染病研究所」に入ったのは,昭和7(1932)のことでした。

 

♪川喜田愛郎は,昭和24(1949)12月には,千葉大学へ移り,細菌学教室を主宰して,のちに千葉大学学長(第5代)を務めました。正中の伝染病への思いは,娘婿たちに引き継がれていくことになります。

 

 

♪一枚の写真は,後世のわれわれに,いろいろなことを,語りかけてくれます。香港でともにペスト菌と戦った医家達は,その後,それぞれの道を,それぞれの信念を持って歩み,医療・研究に携わることになります。

 

 

(敬称は省略させていただきました。)

(平成23828日 記す)

 

 

参考文献

 

 

1)  村山達三著. 本邦に於けるペスト研究の偉業(1). 日本醫事新報 第1369号 PP.32[1928]-34[1930] 昭和25722発行

 

2)  村山達三著. 本邦に於けるペスト研究の偉業(2). 日本醫事新報 第1370号 PP.31[1995]-34[1998] 昭和25729発行

 

3)  木下實著:「木下正中」(私家版・電子版)

 

4)  「青山胤通」鵜崎熊吉著. 青山内科同窓会,昭和5年発行(非売品)

 

5)   わが師わが友(1):青山胤通先生(稲田龍吉著).  日本醫事新報 第1242号 pp.22[22]-23[23]. 昭和2311.

 

6)  「北里柴三郎伝」宮島幹之助編輯. 北里研究所,昭和7年発行(非売品)

 

7)  「北里柴三郎と緒方正規 日本近代医学の黎明期」野村 茂著. 熊本日日新聞社,平成15.

 

8)  わが師わが友(2):北里柴三郎博士(中山壽彦著).  日本醫事新報 第1243号 pp.14[66]-15[67]. 昭和23121.

 

9)  わが師わが友(14):宮本叔先生(村山達三著). 日本醫事新報 第1256号 p.13[545]. 昭和23522.

 

10)東都掃苔記(61):宮本 叔博士の墓. 日本醫事新報 第1643号,p.48.(昭和301022日)

 

11)「南湖院 高田畊安と湘南のサナトリウム」(茅ヶ崎市史ブックレット 第5集)茅ヶ崎市史編集委員会編. 大島英夫著. 茅ヶ崎市発行,平成22年(3刷).[入手先:茅ヶ崎市史ブックレット

 

12)「故石神亨紀念誌」石神研究所同窓會発行編輯. 大正101215日発行.

 

13)東都掃苔記(77):木下家の墓. 日本醫事新報 第1659号 p.60. 昭和31211日発行.

 

14)木下(ひろむ)翁懐旧談. 京都醫事衛生誌 第163号 pp.28-30. (明治4010月発行)

 

15)木下(ひろむ)翁懐旧談. 京都醫事衛生誌 第164号 pp.32-35. (明治4011月発行)

 

16)「ベルツの『日記』」濱邊正彦譯. 岩波書店刊,昭和14.

 

17)わが師わが友(58):高木友枝さんの思出(荒井 恵著). 日本醫事新報 第1301号 p.19[615]. 昭和2442.

 

18)「京都府立醫科大學八十年史」京都府立醫科大學創立八十周年記念事業委員會編輯. 昭和3081日発行.

 

19)「日本YMCA史」奈良常五郎著. 日本YMACA同盟,1959.

 

20)東都掃苔記(69):増山守正翁の墓. 日本醫事新報 第1651号 p.66. 昭和301217日発行.

 

21)木下正中君を悼む. 佐伯理一郎著. 産婦人科の世界 3(3):17-19, 1952(昭和273月)

 

22)木下正中博士の想い出(その一)北島多一著. 日本醫事新報 第1446号 pp.63[179]-64[180]. 昭和27112日発行.

 

23)-153-:川喜*愛郎氏. 日本醫事新報 第1342, p.72[148].(昭和25年1月14日)(*川喜の「多」の字は「」の誤記。川喜田が正しい)

 


195.「わが師わが友」(1)
 

 

♪戦後発行の『日本醫事新報』誌に連載された「東都掃苔記」(第179回 第180回)と「新東京・醫學きまぐれ散歩」(第191回 第192回 第193回)に続いて,「わが師わが友」の連載記事の一覧表づくりをはじめました。

 

♪「わが師わが友」の第1回は,昭和23(1948)11日(第1242号)の「青山胤通先生」(稲田龍吉著)からはじまっていました。第2回は,「北里柴三郎博士」(中山壽彦著)を取り上げています。連載の冒頭に,明治から大正にかけて活躍した国立と私立の医科大学の中心人物を取り上げた形になっています。青山胤通と北里柴三郎は,明治27年(18946月,香港で発生したペスト調査のために共に,内務省から派遣された仲でもありました。(第194回

 

♪この連載記事は,長期にわたるのですが,とりあえず第1回から第50回までの連載記事を一覧表に纏めてみました。帝國醫科大學時代の蒼々たる教授たちが取り上げられ,その執筆陣も著名な方ばかりです。第10回の小金井良精の項では,紹介記事を西成甫が書いています。

 

♪取り上げる人物の肖像写真が,本文中に挿入されていますので,その点でも,貴重な連載記事となっています。青山胤通の肖像写真は,伝記『青山胤通』1)の口絵で使われているものと同様の写真が使われています。


青山胤通1)



わが師わが友 (1)
[『日本醫事新報』誌より作成]
注1)第1254号,第1287号には連載記事なし

No. 題名 執筆者 号注1) 各号頁[通し頁] 発行年月日
1 青山胤通先生 稲田龍吉 1242 22[22]-23[23] 昭和23年1月1日
2 北里柴三郎博士 中山壽彦 1243 14[66]-15[67] 昭和23年1月21日
3 長與又郎先生 田宮猛雄 1244 15[107] 昭和23年2月1日
4 呉建先生の思ひ出 冲中重雄 1245 14[146]-15[147] 昭和23年2月11日
5 森島先生のことども 阿部勝馬 1246 21[193] 昭和23年2月21日
6 平井毓太郎先生 竹内薫兵 1247 12[225] 昭和23年3月1日
7 若き日の野口英世博士 石塚三郎 1248 18[262]-19[263] 昭和23年3月11日
8 意志と情熱の學者 布施現之助先生 内田三千太郎 1249 25[309]-27[311] 昭和23年3月21日
9 北川正惇先生の追憶 田村 一 1250 13[345] 昭和23年4月1日
10 小金井先生を偲ぶ 西 成甫 1251 14[378]-15[379] 昭和23年4月11日
11 恩師秦佐八郎先生 小林六造 1252 16[420]-17[421] 昭和23年4月21日
12 呉秀三先生 杉田直樹 1253 17[461] 昭和23年5月1日
13 石川日出鶴丸先生を語る 浦本政三郎 1255 13[521]-14[522] 昭和23年5月15日
14 宮本叔先生 村山達三 1256 13[545] 昭和23年5月22日
15 横手千代之助先生 古瀬安俊 1257 15[579] 昭和23年5月29日
16 太田正雄博士の思い出 梅室痩庵 1258 13[609] 昭和23年6月5日
17 恩師島薗順次郎先生を憶ふ 柳金太郎 1259 15[643] 昭和23年6月12日
18 川村麟也先生 伊藤辰治 1260 15[675] 昭和23年6月19日
19 金杉英五郎先生 石川光昭 1261 11[703] 昭和23年6月26日
20 南 大曹先生 桑野佐源太 1262 15[739] 昭和23年7月3日
21 茂木蔵之助先生の憶い出 島田信勝 1263 13[769]-14[770] 昭和23年7月10日
22 高木兼寛先生を語る 小田部荘三郎 1264 15[803] 昭和23年7月17日
23 中原和郎君 矢追秀武 1265 13[833], 17[837] 頁の下段へ続く 昭和23年7月24日
24 岡田清三郎先生 青山進午 1266 13[865] 昭和23年7月31日
25 土肥慶蔵先生を語る 高橋 明 1267 13[897]-14[898] 昭和23年8月7日
26 恩師大澤謙二先生 永井 潜 1268 19[935] 昭和23年8月14日
27 ドクター・トイスラー 橋本寛敏 1269 11[967]-12[968] 昭和23年8月21日
28 恩師瀬尾貞信博士 中山恒明 1270 13[1001]-14[1002] 昭和23年8月28日
29 心の父 富士川游先生 佐藤美實 1271 29[1049]-30[1050] 昭和23年9月4日
30 河北眞太郎君 小島三郎 1272 13[1073] 昭和23年9月11日
31 河本重次郎先生 庄司義治 1273 13[1105] 昭和23年9月18日
32 田代義徳先生 名倉重雄 1274 11[1135] 昭和23年9月25日
33 木村徳衛先生を憶う 荒井恒雄 1275 13[1169]-14[1170] 昭和23年10月2日
34 恩師スクリバ先生 芳賀榮次郎 1276 12[1200]-13[1201] 昭和23年10月9日
35 中村文平先生 守山安夫 1277 19[1239] 昭和23年10月16日
36 岡嶋敬治先生 平澤 興 1278 13[1273] 昭和23年10月23日
37 太田原豊一先生 六反田藤吉 1279 21[1313] 昭和23年10月30日
38 小口忠太先生 中島 實 1280 29[1361] 昭和23年11月6日
39 猪子止戈之助先生の事ども 鳥潟隆三 1281 13[1385]-14[1386] 昭和23年11月13日
40 三宅 秀先生 佐藤物外[恒二] 1282 17[1421] 昭和23年11月20日
41 足立文太郎先生 清野謙次 1283 17[1461] 昭和23年11月27日
42 桂田富士郎先生 戸田 享 1284 17[1501] 昭和23年12月4日
43 森鴎外先生 山田弘倫 1285 25[1549] 昭和23年12月11日
44 水尾源太郎先生 中村文平 1286 13[1577] 昭和23年12月18日
45 私の見た荒木寅三郎先生 古武彌四郎 1288 39[39] 昭和24年1月1日
46 弘田 長先生 栗山重信 1289 11[79] 昭和24年1月8日
47 入澤先生千古不易の教 西川義方 1290 23[115]-24[116] 昭和24年1月15日
48 大瀧潤家君を偲ぶ 二木謙三 1291 17[149] 昭和24年1月22日
49 菅 之芳先生 若山茂雄 1292 19[191] 昭和24年1月29日
50 伊藤準三先生の事ども 鳥潟隆三 1293 21[233]-22[234] 昭和24年2月5日

参考文献

1)  『青山胤通』(青山内科同窓會 昭和五年)

(平成2394日 記す)



196.「大東京の十六大橋」と「東京大十六橋」の絵葉書でつくるGoogleマイマップ:「隅田川十九橋」
   
より大きな地図で 絵葉書で見る隅田川十九橋 を表示

Googleの地図にはマイマップというサービスがあって,自分用の地図を作成することができます。地図上に,目印を置いて場所を示し,説明文を入れることができます。さらに,ウェブ上に作成してある自分用のアルバム「江戸東京医史学散歩」(絵葉書・写真アルバム)の写真に直接,リンクを張ることもできます。

 

♪これらの機能を使って,「江戸東京」の第115回(隅田川の橋)と第185回(隅田川六大橋の絵葉書と橋名板)で調べた情報と隅田川に架かる橋の絵葉書をGoogle地図上に展開させてみたいと思うようになりました。

 

♪いままでGooglePicasaアルバム「江戸東京医史学散歩登録した隅田川の橋の絵葉書は,古書店(アンティーク絵葉書専門店・ポケットブックス)(まこと書房)で一枚毎に販売しているものを購入したものでした。

 

♪購入するにあたっては,できるだけ資料性の高いものをと思い,橋のアングルのほかに,背景に写っている建物や看板などの情報を重視して選び,入手していました。記録写真としての観点から絵葉書を選んでいたことになります。

 

♪永代橋,清洲橋,両國橋など隅田川に架かる絵葉書は,いろいろなアングルで撮影されたものがあり,撮影時期もさまざまです。

 

♪絵葉書を選んでいる過程で戦前に発行された「昭和東京の偉観大十六橋」(東京大十六橋)というシリーズの絵葉書があることに気づきました。

 

♪この「昭和東京の偉観大十六橋」の絵葉書には,橋の全長,幅員,工費の情報が説明として書かれています。貴重な情報です。是非,完全な形で揃えたいと思っていました。

 

♪「昭和東京の偉観大十六橋」の絵葉書を求めて,神保町界隈の古書店を探し回りました。千住大橋や相生橋などのほしい絵葉書が,なかなか,みつかりません。

 

♪「昭和東京の偉観大十六橋」のなかの千住大橋と相生橋の絵葉書は,土木図書館デジタルアーカイブ(戦前土木絵葉書ライブラリー)にも載っていないようです。

 

♪「日本の古本屋」のサイトで調べたところ,「大東京の十六橋」(高級淡色版・拾六枚壱組)[大東京の十六大橋]という絵葉書があることがわかりました。入手したところ,「昭和東京の偉観大十六橋」の絵葉書とは,十六橋の内容が異なり,同じ橋でも,アングルが違っていました。

 

厩橋(大東京の十六大橋)

 

厩橋(東京大十六橋)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

絵葉書「大東京の十六橋」(大東京の十六大橋)の袋

 

 

絵葉書・大東京の十六橋

「大東京の十六大橋」(ゴシック体は,隅田川に架かる橋)

 

 

1)千住大橋

 

2)言問橋

 

3)吾妻橋

 

4)駒形橋     

 

5)厩橋

 

6)蔵前橋     

 

7)両國橋     

 

8)新大橋     

 

9)清洲橋     

 

10)永代橋    

 

11)江戸橋    

 

12)聖橋      

 

13)竹橋      

 

14)常盤橋    

 

15)数寄屋橋  

 

16)日本橋    


 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

♪「昭和東京の偉観大十六橋」の絵葉書は,13枚でセットになっている絵葉書がアテネ堂古書店(福井県北野下町3-10)にありました。問い合わせてみると,いままで,バラで入手していた絵葉書とは,ほとんどダブりがなく,相生橋の絵葉書も入っていることが,わかりました。これも,早速,入手の手配をしました。

 

 

 

絵葉書・昭和東京の偉観大十六橋              

「東京大十六橋」(ゴシック体は,隅田川に架かる橋)

[全長(Length) 幅員(Width) 工費(Cost)

 

1)千住大橋[未入手]

 

 

2)言問橋237.7m 22m 2,383,000円]

 

3)駒形橋149.1m 22m 1,900,000円]

 

4)厩橋152m 22m 1,138,000円]

 

5)蔵前橋173.2m 22m 1,751,000円]

 

6)両國橋180m 22m 未記載]

 

7)新大橋193.5m 16.5m 860,000円]

 

8)清洲橋186.6m 22m 3,213,000円]

 

9)永代橋185.2m 22m 2,924,000円]

 

10)相生橋192m 22m 1,507,000円]

 

11)江戸橋[63.4m 44m 852,000円]

 

12)聖橋[92.5m 22m 778,000円]

 

13)三吉橋[82.8m 11m 209,000円]

 

14)芝浦臨港線ハネアゲ橋[30m 重量8萬貫 160,000円]

 

15)数寄屋橋[39.5m 36m 342,000円]

 

16)日本橋[50m 27m 550,000円]

 

 

 

♪これで,「昭和東京の偉観大十六橋」の絵葉書は,「千住大橋」だけが,未入手となりました。図書館員だったころ,雑誌を製本するのに,未着などで欠号になっている雑誌のバックナンバーを本郷の柴善書店で探したことなどを思い出しています。

 

 

◇●▽■

 

「東京大十六橋」と「大東京の十六大橋」の絵葉書を使って,Googleマップ「隅田川十九橋」の作成を開始しました。地図上に目印をつけるなど,作業は順調に進んでいます。いろいろなデータを組み合わせるため,集中力が必要となります。定年後の作業として,Googleのマイマップの作成は,わたしには,ぴったりのサービスのようです。

 

♪「隅田川十九橋」を開いてみてください。隅田川の橋に目印をつけたGoogle地図が現れます。左側の橋の一覧表から,「厩橋」のボタンを押すと,地図上の隅田川に架かる「厩橋」の場所に子画面が開きます。

 

♪説明文のなかに,「絵葉書1(大東京の十六大橋)→,絵葉書2(東京大十六橋)→」というリンクボタンを作ってみました。クリックすると,「厩橋」の絵葉書が表示されます。

 

♪もちろん,サムネールの画像をクリックしても,アルバムの画像にリンクします。「大きな画像」とは,Googleのストリートビューのことです。Googleでは,吾妻橋より下流では,隅田川にボートを浮かべて,風景を撮影しています。川から見た橋の全景をみることができます。

 

♪今後は,絵葉書のほかに,いまの橋の状態を撮影して追加するなど,充実した「隅田川十九橋」のコンテンツにしてゆきたいと思っています。関係するような戦前の古い写真をお持ちの方のご協力をお願いできればと思います。

 

 

♪「東京大十六橋」では,隅田川の橋のほかに,「芝浦臨港線ハネアゲ橋」や「三吉橋」などの珍しい形の橋も取り上げています。

芝浦臨港線ハネアゲ橋(絵葉書・東京大十六橋)