Q1 少年時代(航空機乗員養成所)と太平洋戦争

はじめに                                 坂本清助

昭和十四年三月に福岡市立春吉尋常小学校を卒業した。この時代、小学校より中等学校へ
進学する児童は都市部でも二割程度で、全国平均では一割程度であった。その他の児童は尋
常高等小学校へ進んだ。
  十四年四月に
福岡市立福岡男子尋常高等小学校に入学、十六年三月に卒業した。四月二
十八日、逓信省航空局米子航空機乗員養成所に入所し、中等学校教育を受ける機会を与えら
れた。
   十六年十二月八日に太平洋戦争が勃発、十九年三月末、新潟航空機乗員養成所整備学科
へ転属、二十年八月十五日、日本は連合国に無条件降伏、 九月に新潟航空機乗員養成所を
卒業した。幼稚園、小学校、中学、高等学校、大學と順調に進んだ人と比較すると変わった
人生の出発点であつた。

第一話 尋常小学校時代                      

昭和二年三月七日、私は福岡市住吉桜町で生まれた。父は坂本平助、母はインの三男で八
兄弟の五番目である。父は二千年前の金印 [漢委(かんの)(なの)国王(こくおう)]が出土した志賀島の漁師で、
母は
福岡市野間の農家の出身であり、志賀島から桜町に転居し、魚屋を営んだ。私の五歳ぐ
らいの記憶では、料理屋兼仕出屋を母が経営し、父は魚の仕入をしていた。屋号が[志賀屋]、
使用人は五人ほどであった。届けが遅れたため、戸籍上は三月十七日となっていることがあ
とで解った。
   八年、福岡市立春吉尋常小学校に入学した。入学時、学校道具に「シカヤセイスケ」と書
いて、担任の先生から注意された。近所の人々が「シカヤのセイスケ」と呼んでいたので、
そう書いたわけである。三月生まれの早生れであることが、 一年生の成績でも差が生じ週に
一度は休むというように、今で言う虚弱体質児であった。当時の一学級五十人中、成績は四
十番目ぐらいであった。
  
二年生から成績が上がったが五年生まで通信簿はすべて“乙”であり、あひるの様な乙が
行列していた。いわゆる平均中の平均で、勉強はまったくしない訳ではなかったが、ひと以
上はやらなかった。そんなふうだから父は勉強よりも体を心配し、勉強をしていたら叱られ
た。放課後はカバンを放り出して遊びに出かけて、夕方まで帰らないという具合、家が忙し
いので子供にかまっていられない生活。遊びと言えばチャンバラ、石合戦、ルンペン小屋づ
くり、夏になると付近の那珂川へ水泳にでかける日課であった。
 
 五年生のとき父がある人の保証人となり、家を売ってしまうという事件が発生、バラック
を建て食堂を経営する始末。隣が青果市場であったため客はあったが、そのころが貧乏のド
ン底にあった。学校で関西旅行があっても遠慮して参加しなかった淋しい記憶がある。
  
六年生の夏休みと冬休みは福岡郵便局でアルバイトをした。自転車で郵便ポストより郵便
物を集収する仕事であった。背が低く自転車のペダルには足が届かず横乗り、前に荷物積ん
で走っていた。今でもこんな姿の子供をみると当時が目に浮かんでくる。
  
学校の成績はクラスでは十五番目ぐらいになっていた。このぐらいだと中学進学の話もあ
り、補習授業をしてくれたが、進学の目的はなかったが参加して勉強の努力はした。中学は
ても予想もできない環境で、近所の友達ともども高等小学校へ当然のように進んだ。

第二話 高等小学校時代  

十四年四月、福岡市立福岡男子尋常高等小学校に入学した。学校は福岡市の中心部の天神
町付近で家からは歩いて約四十分の距離にあった。学校は一学年で十六学級あって、二年生
を合わせるとなんと二千人のマンモス学校であった。 この学校は躾が厳しく冬足袋を履か
せないことで有名であった。当時総理大臣になった広田弘毅が卒業したとかで学校で講演を
聞かされた記憶がある。
  教科には工業と商業があって、私は商業科へ進み、簿記などを習ったが、殆ど理解はしていなか
った。英語は二年間習った。先生は榎本と呼ばれていたが、偶然十年後、西南学院専門学校英文
科でこの人と机を並べ授業をうけたのには吃驚した。当時の高等小学校は二年間が修業年限、卒
業が十四歳で殆ど就職。工場の徒弟工員、銀行の給仕などがまあよい仕事といわれていた。この
頃、成績は五十人中の十三番目ぐらい、家計を助けるため学校の近くの福岡電報局で授業のあと
五時から九時まで働いた。主に電報局内の電信文のメッセンジャボーイであった。
  十五年八月、陸軍航空隊整備訓練所の試験を受けたが、視力が○・九であったため不合格とな
った。このため毎夜、星空を眺めて近視を治すよう心がけた。これは航空機に憧がれていたわけで
なく、単純に卒業後の確実な就職口として考えた。子供心にも健気(ケナゲ)であった。
  その九月、父は親戚の石村宅で倒れ、戸板で運ばれて帰ってきたが、二日後の二十八日に亡く
なった。死因は脳溢血であった。倒れるその朝、父からはじめて小遣いとして拾銭ニッケル貨をもら
ったこと、珍しく鳩が家の庭に舞降りてきたので、変な予感がしたことを鮮明に覚えている。亡くなっ
た父はこの紀元二千六百年を意義ある年としてながく待ち望んでいたが、何故かこの年に他界して
しまった。
  その年の十月、逓信省航空局航空機乗員養成所本科生の募集広告を見る機会があって、試験
をうけてみることにした。

  

 
 翌年三月に卒業する者は約千名であったが受験したのはたつた二名であった。これはまだ
新しい学校ということもあり、余り知られていなかったのではないか。受験資格は大正十五
年四月以降出生の日本国籍の者、尋常小学校卒業以上の学歴とあった。一学年は五年間の教
育で卒業後、二等航空機操縦士の資格と甲種工業学校卒業と同等の資格が与えられる。
   高等小学校卒業の見込のあるものは、本科三学年への中途入学の資格があると聞いたが、
合格公算の高い一学年を受験することにした。下の写真と文章は入所願書添付したものと試験
問題である。

  

第三話 航空機乗員養成所への志願の動機  

私は早く社会にでるという思いはなく、まずメシを食える環境を重視した。学友は三年
を、私は一年を受験した。あの時二月、福岡市で約五十名が受験、一時試験に合格したの
は十五名と聞く。二次試験が身体検査と適性検査で、陸軍病院で行われた。後で解ったこ
とは、福岡から入所したのは私一人で、なんと五十人に一人の難関を突破した偉大な結果
となっていた。この時、視力が落ちていた目は、一・○に回復していた。六ヶ月前に視力
が正常であったならば、入隊して当時のこと、恐らく戦死したということもあり、“禍福
はあざなえる縄の如し”で、目が運命を左右していたといえる。
   あの頃、住んでいた桜町、晴心廊という遊郭で毎月、子供会を催してくれていてその
会に参加していた私のところへ、母が笑顔で合格の電報をもってきてくれた。「ゴウカク
ス、イサイフミ コウクウキョク」という電文、今でも目に焼き付いていて私の人生で一
番嬉しかったのがこの合格通知であった。
   その頃、近所にスチュワーデスが三人住んでいた。当時はエア・ガールと呼ばれていて、雁ノ
巣国際空港に近いため、航空には関心があった。 飛行機の操縦士は大変危険な職業で、長男
は操縦士には志願させなかった。 「飛行機乗に娘はやれぬ。今日の花嫁、明日は後家」と唄わ
れ、親が勧めて航空機乗員養成所に応募した者はいない。
   私の場合はパイロットという職業よりも国費で中学校の教育 を受けられることに、志願の動機
があった。太平洋戦争の勃発以前のことで年齢が十四歳の年はもゆかぬ少年が国の為に志願
することは考えられない。戦争がはじまり入隊した人々とは考えを異にしていた。 ひとりの少年
に中学校教育を与えなら、民間航空乗員としての訓練を行う。この航空機乗員養成所の入所は、
とても叶えられなかった中学進学のチャンスを叶えさせて貰った訳である。
   この時こそ私にとっては二度とない人生出発の転機であった。五年間、学費、衣服、食事代、
活費、小使等一切、国が面倒をみるために親には一切、経済的な負担がかからない学
校への“驚き”の出発であった。卒業後は国が指定する職場で二年間、就職することが義
務づけられていた。一学年に入所した三期生の仲間は小学校六年が大半で、その殆どの
少年の夢は民間航空のパイロットであった。

第四話  航空局米子航空機乗員養成所入所  

昭和十六年四月二十五日、博多駅より夜行列車で母に付き添われて、鳥取県米子へ旅
立った。途中、出雲大社に参拝。将来を誓い、翌日の夕方、米子に到着。旅館に一泊して
翌朝迎えのバスで米子乗員養成所に入った。制服、制帽、作業衣、軍靴などが支給され、
翌日の入所式に威儀を正して臨んだ。何処かの民間の寄宿舎を想像していたが明らかに陸
軍の兵舎そのもの、しかし航空局は軍とははっきり異なる官庁であることを告げられてい
た。一年生が六十名、三年生が同数でであった。飛行場は日本海に面した周囲が約四キロ
平方、すぐ隣は皆生温泉、遥かに大山が眺める素晴らしい環境であった。

   

所長は斉藤国三郎陸軍航空兵少佐で、正に陸軍の飛行学校 そのもの、 記録では米子は
仙台と共に昭和十三年に開所、すでに操縦生と称して第八期生が六か月前から訓練を始め、
一週間前に第九期生が入所していた。生徒総数は約二百五十名、職員数は約二百名の規模
であった。
   生徒の起居していたところは内務班とよばれ、陸軍とまったく同じの制服、制帽、運動
服、剣道具、靴下、洗濯具などの官給品が整然と並べられていて、私物は許可の必要があ
った。
   当時、本科生一人を養成するのに約三万円といわれたが、今の貨幣価値にするとなんと
二億円。生徒一人の小使に五円が支給されていた。酒保でアンパンを購入すると一個五銭
で、現代価値に換算すると、月額約四万円が自由になったことになる。
   食事は一日米飯五合五勺、これは帝国陸軍の基準。(その頃の民間の配給が丙(最高)
で三合三勺だから大変なもの)六時半起床。直ちに寝具を整頓し運動場へ駆け足、整列し
て点呼を受ける。
  体操ののち日直教官の訓示。解散、掃除、洗面そして七時半に食堂へ朝食をとって教室
へ、九時より授業開始、五十分授業で十分休憩。
  正午 より昼食のあと、三時間授業で四時ごろ終了。 放課後は体操、剣道など・夕食は
六時だから、殆ど休みはなし。
 七時から入浴、九時の点呼まで自習時間、軍人勅諭の暗唱など目一杯。消灯は十時で自
主での勉強をする時間がなく、期末試験の準備には二ヶ月前より開始。

   記憶をたどり授業科目を羅列すると修身、国語、漢文、書道、英語、数学(代数・幾何)
物理、化学、電気、用器図、音楽、通信、地理、歴史、気象、剣道、教練、体育、 基礎技
術教育は基本工術にはじまり、木工、板金、塗装、研磨、鋳造、体育の中でスキーがあり、
三年生からは滑空訓練が始められた。
   さてこれは教練の内なのか、非常呼集と称 して突然深夜起こされて夜間訓練がしばしば
行われたが、一般校に比べて通学は無いとはいえ、甲種工業学校に加えこの航空機乗員教
育なるものは、今振り返っても過酷、しかし高度なものだった。

第五話 米子航空機乗員養成所三年間のメモ

十六年(一年生) 四月二十八日  本科三期生として入所。
五月二十七日  官幣大社名和神社へ行軍。

 

六月  飛行機の搭乗体験として、一年生全員が六人乗りの気象観測機に搭乗、約十分間、
米子を飛行した。夏季休暇で各生徒が実家へ帰るため、お土産話に飛行機に搭乗させる
という思いやりの企画であった。

七月        境港海岸にて海水浴を行う。

十二月八日  太平洋戦争が勃発した。真珠湾攻撃のニュースをラジオで聞いた。
十七年(二年生) 二月    三朝行軍(トラック乗り継ぎ)
七月           水泳訓練 皆生海岸で実施された。

 

十八年三年生  七月    野外教練(清水寺行軍)

滑空訓練開始、教官は塚谷三彦氏。

十二月     休暇で家に帰る。バラックの建物から木造の新居へ。福岡に空襲の危険が迫
り新築する人が少なく、費用安価、母の決断、この度胸が幸いして、近所の戦災にも、わ
が家は戦後まで健在だった。父の死後、“母は気強く” 不動産商売でがん張ってくれた。

十九年(四年生) 二月 京都航空機乗員養成所で操縦士としての適性検査が行われた。小学
校五年の修学旅行で行くことができなかた京都、奈良、伊勢神宮へ旅行することができた。

十九年二月  京都での適性検査は操縦と整備との進路をわけるところであるが、私は二年
の時、すでに近視になっていたため、操縦士になれず、整備課程にまわされることを覚悟
していた。

 

このとき適性検査を受けたものは五十七名、二十名が新潟へ転属することとなった。

 

十六年四月より十九年三月までの三年間、休暇は夏冬八回あり、福岡に帰省していた。
夜行で十二時間、学割で片道一円五十銭程度、毎月貯金して備えていた。手当は一年生
の時が四円、二年生の時が五円となった。映画館の入場は軍人割引で三十銭。当時の記
録で助教の月給は六十円、市役所の職員が三十円とある。

 

 

第六話  新潟航空機乗員養成所整備学科への転属 

 十九年三月、米子より新潟に転属した。新潟の街は雪どけで水が溜り、軍靴に水が浸水。と
かく暗くなりがちな気持に新潟の水は冷たかった。 整備に廻りなんとなく気落ち した同期の仲
間が熊本、岡山、印旛、仙台から集まった。私は近視のためはじめから断念していた私とは違
い、それぞれ心構えに真剣味が感じられた。
  新潟では新たに航空機体学、発動機学、燃料学、輸送学、整備実習が加わった。  五年の
国語や高等数学の学科、武道、体操、教練などに続き、福岡者には経験のないスキーは、体
育の教科でも訓練が盛んで戸惑いが多かった。 

  

 この時代は石炭が不足し、暖房もなく、夜自習室で毛布を足に巻きつけて、勉強するほ
どであった。しかし、整備へ進んだ者どもは新しい道に熱心に取り組んでいた。
   操縦に廻った同期は、米子に転属集結、中級滑空訓練が始まっていたが、戦争の激化
とともに燃料が逼迫し、初期に飛行訓練が不可能となってしまった。突如、松戸高等航空
機乗員養成所へ、二十年四月に転属の発表が行われ、操縦から整備訓練教育に変わる事態
となった。三期生で戦後、航空関係で働いた人は数すくないが一、二期生の中には、飛行
機の仕事を続けられた方々も数多いと聞く、しかし同じ教育でも少々の違いで三期の仲間
は、まったく戦死や殉職もなく終戦を迎えた。それに加え、八月には養成所の閉鎖、予定
より早く、戦後の混乱期に社会に飛び出すこととなった。
   このたった七か月ではあるが、このときの運はその後の人生に大きな役割を果たしたと
考えられる。勿論、人それぞれ個人差があってなんとも言えないが、我々同期の仲間は
“幸運の時代”であったと考えるべきであろう。

第七話  陸軍明野航空基地への出張と終戦

二十年三月には沖縄に米軍が上陸し、本土決戦が濃厚になっていった。この時、整備訓
練中の新潟三期は陸軍の要請で三重県明野陸軍航空隊に派遣されることなった。伊勢二見
ヶ浦の夫婦岩を背景とした五月二十七日の写真を持っているが、これから終戦までの八十
日が私の戦時中の学徒動員にあたるわけである。

 

 宿舎は畑に架設された三角兵舎であった。 整備課程の実務教育として、最新鋭戦闘機
の整備を行う機会を与えられた。それは“三式戦飛燕”で液冷エンジンであった。液冷発
動機(九五式川崎)訓練が大きく評価されたと思われる。整備機体は飛行場の周辺のチェル
ターに迷彩ネットで覆い伐採した樹々で隠蔽し上空か ら敵機に発見されないようにし、
約二十機のエンジン改装が使命であった。
  この整備生活は短い期間であったが、国内では一番危険な場所にいたことになる。機銃
掃射も受けたが、皆元気に休みには近くの伊勢神宮などへ外出していた。
  八月十五日、終戦を迎えた。何故かこの日は一日が凄く長く感じられた。翌日、明野駅
から列車で名古屋、松本経由で延々と蒸気機関車にひかれて新潟へ帰った。すでに養成所
の中はかなり混乱していて、果たして帰郷できるかが心配された。
  それぞれ帰途の身支度を整え、私は護身用のための木剣一振りと夏、冬の制服、作業衣、冬
の外套、靴、水筒、飯盒、雑嚢等を携行。帰省に際して六十円の金が支給された。八月十九日、
新潟から名古屋経由で博多駅に到着したのが二十日であったと記憶している。
 
 十九年の新築の家は幸いにも戦災からまぬかれ、その家に帰り、 “母の決断”がしみ
じみと嬉しかった。さてわが家に落ち着いた“私”は今何をなすべきか・・・こうして私
の戦後が始まったわけである。この年、米子出身の諸先輩が数多く特攻志願して沖縄の空
に散ったことを知ったときは、すでに二十有余年がたっていた。

終り

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